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「ライオンと魔女と大きなたんす」のひとつの読み方&私の思うこと


~10月27日安藤聡先生講演会のまとめと感想~


《はじめに》
 これは、10月27日に行われた、大妻女子大学教授の安藤聡先生講演会の私なりのまとめです。英文学(ファンタジー)を専門にされている先生の講演会は、非常に興味深く示唆に富んだものでした。そして何より、先生の『ナルニア国物語』への“愛”を強く感じました。
 今回の講演会は、『「ライオンと魔女」のひとつの読み方 ~作者ルイスの「言わずにいられないこと」』というタイトルで行われました。このタイトルの中には、文学作品の読み方というのはひとつの正解があるわけではなく、読む人それぞれの中にそれぞれの正解がある、という先生の想いがこめられています。ですのでこのまとめも、講演会を聴いて私が感じたひとつの切り口、という風にとらえていただければと思います。


《ナルニア国物語執筆の契機》
 ルイスのナルニア執筆にはいくつかの契機があったといわれています。それらについて、以下に記してみます。
・ 雪の森を傘と買い物の包みをもって歩くフォーン:このイメージは、ルイスが16歳くらいの頃からずっと心にあったイメージだそうです。このイメージから、ナルニアは出発しました。
・ 自分の読みたい文学がなかった:ルイス自身が読みたいと思う文学がなかったので、自分で書いたのだそうです。ルイスは、どんどん工業化が進み、伝統的なものが次々に軽視され衰退し、便利だが想像力を奪うイギリスに懸念(批判)を示していました。そんなルイスにとって、自分がまさに読みたい文学とは、「古い時代を舞台にしたファンタジー」でした。
・ 母が存命時代の幸せな思い出:幼い頃に感銘を受けたベルファーストの風景や、母が存命の頃に訪れたダンルース城が、ナルニア世界の舞台に影響を及ぼしています。特にダンルース城は、ケア・パラヴェルの城のモチーフになったといわれています。
・ 同時代学校教育へアンチテーゼ:近代化が進む時代の中で、教育について言いたいことはたくさんあったようです。そこで物語には教授が登場し、子どもたちに示唆を与え、そして物語は「このごろの学校では、いったいなにを教えているんじゃ」と締めくくられることになるわけです。ちなみにこの教授のモデルは、学校になじめなかったルイスが個人教育を受けた、ルイスの父の恩師でもあるW. T. Kirkpatrickであり、教育に対して言いたかったこととは「論理思考」だったといわれています。
・ 「このたんすの中に入っていくと、どこにいけるの?」:1939年にルイスの家に、戦火を避けるために疎開児童がやってきます。その子が、ルイスにこう聞いたそうです。まさに、ナルニアの入口ですね。


ダンルース城
ダンルース城


《ルイスの考える、児童文学とは?》
 ルイスは、児童文学には3つの書き方があるといっています。それは……。
   1)子どもの好きそうなことを書く。
   2)実在する子どもに向けて書く
   3)自分が言わずにはおれないことを表現するために一番良い方法として書く
 1の書き方は、ルイスはだめな書き方だと言っています。2の手法で書かれているお話は、『ふしぎの国のアリス』などがそうですね。そしてナルニアは、3の手法で書かれています。
 ですのでルイスは次のようなことも言っています。
「子どもにしか読まれない児童文学は、悪い文学である」
 そんなポリシーを持つルイスによって書かれた『ライオンと魔女と大きなたんす』は、まさに大人も子どもも全年代的に楽しめる物語なのです。


《現実と非現実のきわだった共存》
 ルイスは、ファンタジーにおいて大切なことは、「現実と非現実が鋭く向かい合うこと」であると述べています(“The homely and the unhomely met in sharp juxtaposition”)。つまり、「現実と非現実のきわだった共存」です。「ライオンと魔女と大きなたんす」は、まさにそれを体現している作品です。
 例えば、ルイスがナルニアを執筆する契機のひとつとなった、「雪の森を傘と買い物の包みをもって歩くフォーン」のイメージ。まさにこのイメージそのものが、現実と非現実を織り交ぜたものになっています。
 このイメージで、非現実的なイメージは何かというと、言うまでもなく想像上の動物であるフォーンですね。そしてさらに、べとべとした冬を迎えるイギリスでは、雪が降り積もった冬というのも非現実的なイメージなのです。
 反対に現実的なものは、傘だったり、クリスマスの買い物みたいな包み紙だったりです。さらに言えば、手に巻きつけている尻尾というのも、現実的ですね。「神話や伝説上の動物であるフォーンが、尻尾に雪がついてぬれるなんて小さいこと気にするなよ~」妙なおかしさがあると思います。
 もっと言えば、フォーンが抱えた買い物の包み紙は、今の時代で言えばレジ袋です。
 つまりルーシーが見たフォーンを現代風に言えば、「雪の中、傘をさして買い物のレジ袋をぶら下げたフォーンが、尻尾が雪につかないように気にしいしい歩いている」という姿になります。何だか妙な感覚がありますよね。
「現実と非現実のきわだった共存」はそういった、ふしぎな感覚を心に呼び起こします。
 そしてナルニアの世界は、そういった感覚で作られています。つまり、ナルニア世界はイギリスとは違いますと断っておきながら、その世界の風景や風習はまさに古きよきイギリスに他ならないのです。
 つまり、イギリスならぬイギリス的世界(現実的世界)で繰り広げられる、ことばをしゃべる動物や神話上の生き物たち(非現実世界)がおりなす物語。これこそが、「ライオンと魔女と大きなたんす」の世界なのです。


ライオンと魔女とおきなたんす表紙


《白い魔女はなぜ悪なのか?》
 白い魔女はそこまで悪くないじゃないか? と、いう意見もあるそうです。そして面白いことに、そういう意見をもたれている方に「好きな季節は?」と聞くと、たいてい「冬」と答えるそうです。そうです、冬が好きな人にとって、世界を冬に閉じ込める白い魔女はそこまで悪ではないのでしょう。
 ところが、イギリスの冬を考えると、どうでしょうか? イギリス人に好きな季節を聞いて、冬と答える人はまずいないのではないかと、安藤先生はおっしゃっていました。
 イギリスの冬がどれだけいやな季節であるか。日本でイメージしてはいけません。日本より高緯度にあるイギリスの冬は、長く寒いのです。空はじめじめした雲におおわれ、太陽は3ヶ月くらい顔を出さないこともある。たまに雪が降っても、すぐに雨に変わって地面はぐちゃぐちゃになる。そんな季節が、冬。そしてそれが、半年くらい続くのです……。
 そんな冬の唯一の楽しみは、クリスマス!!
 しかし白い魔女は世界を一年中冬に閉じ込め、そしてクリスマスを永久に奪っている。なんと悲惨なことでしょう。白い魔女はどれだけナルニアの住民に、いやなことをしていることか!! これは「悪」です。
 他にも安藤先生は、白い魔女の悪は「傲慢」だとおっしゃっていました。ナルニアを独占し、住民が困難になるような世界を強要する傲慢。ルイスにとって、悪とは傲慢のことなのかもしれません。
 ルイスが批判している伝統の軽視と、工業化による自然への侵食。これこそルイスにとっては、人間の傲慢のなせる業だったのでしょう。傲慢こそ、人間と白い魔女とに共通する、「悪」なのです。


《ファンタジーが求められる時代》
「ライオンと魔女と大きなたんす」は、英米ファンタジー第3の黄金期の作品であるといわれています。出版された1950年代とは第二次世界大戦の終結まもないころで、社会的に動揺していた時期でもありました。同じ時代に、トールキンの『指輪物語』など優れたファンタジーが生み出されています。
 ちなみに、第1の黄金期とは1860年代であり、『ふしぎの国のアリス』が出版された時代です。と同時に、この時代はダーウィンの『進化論』が出版され、世界観の大転換を迎えた時期でした。
 そして第2の黄金期は1900年代であり、この時代はバリの『ピーター・パン』などが出版されました。そして同時に時代はヴィクトリア朝が終焉を向かえ、社会制度が混乱した時期でもありました。
 安藤先生は、ファンタジー流行の背景には未来への不安が潜んでいる、という説を唱えています。まさに不安な時代こそ、そこを乗り切る力として、想像力をたくましくするファンタジーを人は求めているのかもしれません。
 また第3の黄金期の時期は、イギリスでテレビが普及していった時期とも重なります。ルイスが批判した伝統の軽視や急速な工業化、ひいては大量生産大量消費の時代、人はその利便性と引き換えに想像力を失っているのかもしれません。想像力とは、生きるために必要な力の内の最も根源的な部分を占める力です。そしてますます増進する利便性の中に生きる私たちは、ルイスの時代以上に想像力を失っている時代を生きているのかもしれません。そしてだからこそ、人は想像力を必要とするファンタジーをより求める時代になっているのかもしれません。『ハリー・ポッター』をはじめとして、現代ほどファンタジー作品が濫立している時代もないのですから。
 この時代に「ライオンと魔女と大きなたんす」の世界に触れ合うことは、とても重要で意味のあることかもしれません。


《現実と非現実の共存がなぜ求められるのか(私が思う理屈のお話)》
 ルイスが求めた「現実と非現実が鋭く向かい合うこと」「現実と非現実のきわだった共存」、これらのかもし出す奇妙な感覚をなぜ人は求めるのか、ということについて自分なりに思うことを記したいと思います。ちょっと、理屈っぽいお話です。
『マクベス』という作品をご存知でしょうか?
 マクベスの物語は、物語の中の悲現実世界から飛び出してきた三人の魔女たちの予言から始まります。魔女たちは鍋をかき回しながら「きれいはきたない きたないはきれい」と呪文を唱えます。
 どうでしょう、ここで魔女の語る正反対の要素の並列。「きれい=きたない」の構図。この構図は、人が眠っている間に見る夢の構図と非常によく似ています。
 フロイトは現実では実現し得ない出来事を補完するものとして、夢を位置づけています。そして、現実には充足し得ないことを夢の中で充足させるために、夢はかなりアクロバティックなことをします。例えば、「大きい」と「小さい」などといった正反対のことを同じ意味で語ったり、時間を逆流させたり。
「きれいときたない」「大きいと小さい」などといった真逆のものを同じものとして語る夢の構造、この構造の中に「現実と非現実の共存」は入るのではないのかと、私は思うのです。

 どうしてそのような(夢の)文法が存在し、わたしたちは夜ごとその(夢の)文法で叙された世界を生きるのか? それは「わたしたちはどうして物語を読んで倦まないのか?」という問いとおそらく同根のものである。
 わたしはこの問いに対して、ひとつしか答えを思いつくことができない。
 それは、「夢の文法」で叙された世界から、それとは違う文法で叙された世界へのシフトを日ごと繰り返すことによって、人間はそのつど人間として再生するという仮説である。人間性とは、そのつど新たにおのれを人間として構築することができる能力のことであるという仮説である。

(「死と身体」内田樹著 医学書院 より)


 つまりルイスの語る「現実と非現実の共生した世界=ライオンと魔女の世界」は、苦しい現実世界を補完しうるアクロバティックで大切な心の安定剤として、そして新しく現実と向かい合うために蓄えるエネルギーとして存在しているのでしょう。
 だからこそ、想像力を奪う世の中に囲まれている今の時代の中で、「現実と非現実が共生する」ライオンと魔女と大きなたんすのようなファンタジーは、かすれてゆく自己を再生させて復活させるために強く求められるものでしょうし、どうしても必要なものなのでしょう。
 そしてわたしたちはファンタジーを通じて、不安な時代を乗り越えるパワーをもらっているのかもしれません。
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