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2006/10/23の日記 |
10月23日 (月) |
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半田Tから送られてきました。ぜひ、ラボっ子と保護者の方に読んでいただきたく、引用させていただきました。
「言葉を教えることは人を育てること」
*明石康(元国連事務次長・現在群馬県立女子大学外国語教育研究所長、立命館大学大学院および東洋英和女子学院大額大学院客員教授、日本紛争予防センター会長などを兼任)
★自分の国の英語で堂々と仕事を★
国際社会の最前線で話されている英語というのは、堂々とそれぞれのお国なまりの英語で仕事を進め、意見を交換しあっています。国際社会におけるコミュニケーションの手段としての英語は、許容度が高く柔軟で、もはや特定の国の言語であることから離れた、現代の「エスペラント語」のような存在なのです。
★ペラペラ話すことが英語の真髄ではない★
「ネイティブ・スピーカー並みの発音ができるようになること」に固執しすぎることには違和感を覚えます。口からペラペラと英語が出てくることが、英語の真髄では決してなく、評価されるのは語学力そのものではなく、その人自身の考えであり人間性であり、見識や教養なのです。
★言葉を学ぶ過程は人間の成長そのもの★
言葉とは、人間としての土台と中身があってこそ生きるものです。やみくもに子どもを英語漬けにするような早期英語教育熱は、本末転倒ではないでしょうか。
言葉というものは「ネイティブ・スピーカーに任せておけば覚える」というような、そんな表面的なものではありません。言葉を覚えていく過程は、人間形成の過程そのものであり、言葉とはすなわち、人間そのものなのです。人間教育と切り離した言語教育などありえません。
コミュニケーション能力を育てることは、「英語をペラペラ話す」ことではありません。相手の意思を受け止めて理解し、自分の気持ちを相手に伝える力を学ぶこと、つまり、「人との関わり方」を学ぶということです。
★「英語が話せる」すなわち「国際人」ではない★
個人という立場から、日本の外に目を向けること、外から日本を振り返ること、世界の中での自国の位置づけを意識することが、ますます重要になっています。「国際人」という言葉だけが独り歩きしているように思いますが、強いていえば、自分の国や自分自身について、内側からも外側からも客観的に見る目を持ち行動できる人が国際人と呼ばれるのではないでしょうか。
一人ひとりの子どもが、その関心のありかや素質に基づいて、伸び伸びと力を伸ばしていけるような英語教育を目指すべきだと思います。
今、小学校の英語教育導入に関心が高まっていますが、英語教育も国際理解教育もつまるところは、「全人教育」ですから、一貫した教育展望のもとに進める必要があります。
世論に流されて安易に導入するような形になれば、現場は混乱するばかりでしょう。
★英会話重視の落とし穴★
★一番大事なのは人まねではなく自分自身の頭できちんと考えること★
日本人は英会話が弱いと言われています。その原因を英語力の欠如と、考えがちですが、問題があるのは、むしろバックグラウンドのほうではないかと思います。
日本の教育現場や社会風土の中では、多くの日本人は母語におていすら、公の場で率直に意見を戦わせる経験をあまり積まずに成長します。まずは、自分の頭できちんと考え、借り物ではない自分自身の「中身」を持つことが必要です。
「コミュニケーション能力」の土台となるのは、自分の考える力や論理的な分析力、そして、言葉を使って人と向かい合い、理解し合おうとする態度であることを忘れてはなりません。
★言語の豊かさを楽しむ感受性を★
言語の多様性とは、すなわち豊かさです。様々な言葉の豊かさを楽しむ感受性を忘れずにいたいものです。
英語ができれば国際派、それもアメリカ英語至上主義といった考えからは、そろそろ脱却すべきでしょう。
欧米先進国だけが世界ではありません。アジアに暮らす私たちは、アジア諸国の文化や言葉にも、もっと敬意と関心を払うべきです。
英語を教える上でも、教師が非英語圏に目を向けることができないようでは、真の教育とは言えません。日本と各国・各地域の間に何本もの線を引くと、それがやがて面になります。その中で、自国や他国、また世界全体について重層的に見つめ、日本が果たすべき役割は何か、私たちはどう生きていくべきかを考える姿勢が、語学教育の根底になくてはならないと思います。
子どもの英語教育に携わる先生方は、自らが言葉を大切にすること、そして広い視野と世界観を養う努力を忘れずに、未来を生きる子どもたちの言葉と心をしっかりと育てていってほしいと思います。
参考:アルク出版「こどもに英語を教えたい」インタヴュー記事より抜粋
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