幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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●『わだつみのいろこのみや』命・交流・自然へ畏敬
 この原稿の構想を練り始めた時期に、ちょうど、高学年のラボのメンバーで取り組んでいたのが『わだつみのいろこのみや』であった。『古事記』を扱った子ども向け絵本や児童書では、たいていが、『海幸彦・山幸彦』と題名がつけられている。この題材については、『雲よ』4号の中で、松本輝夫氏『「物語としての」日本神話に賭けた雁と子どもたちへの祈り』の論文でも書かれているので、ここでは、内容に関しては割愛させていただく。
もちろん、取り組んでいる子ども達は、谷川雁さんという人物ももはや知ることもなく、ましてや、このテーマにまつわる様々な資料を読んで、何を言わんとしているのやら、などど、先生やら師が答えを持っていて、それに近づくために取り組んでいるという意識はさらさらない。それが、ラボ・パーティが蓄積してきたテーマ活動のDNA、少なくとも私の中と私のラボ・パーティに蓄積されたDNAなのだ。しかしながら、そう、しかしながら、驚かされるのは、小学生5年生から中学生~高校生が、このテーマに取り組んでいくうちに、松本氏の『わだつみのいろこのみや』の論考に、ぴたっ、ぴたっと当てはまっていくのである。あくまでも自然に、必然のごとく。
たとえば、ホデリ(海幸彦)が弟のホオリ(山幸彦)に自分たちの母親の事について、語る場面で、

父神は妹をえらばれた。
妻にするなら、岩よりも花のほうがいいと、だれでもおもうだろう。
でも、そのせいで私たちはあまり長生きしないことになったのだそうだ

それに関して、色々な意見が飛び出す。古代史が好きな男子中学生が、
「この時代の神様から、限りある命の人間であり、天皇家の先祖として国を治めていく歴史が始まるんだよね~天孫降臨神話だっけ。」
なんて、どこかで得た知識を振りまくと、他の子が、「そういう政治的な趣じゃないでしょう。誰が優れた支配者とか支配者でなかったとか、そういう感じには、この二人は登場していないと思う。他の本では、結構、いがみ合い、どちらが支配者として優秀だったか、という終わり方しているけど、このラボのは、そこまで、二人は憎み合っていない。」
「うん、むしろ、二人は仲がいい感じ。でも、『限りある命だから』、という言葉は、この物語のキーワードになっていると思う。」
「考え方が違うことを、互いに伝え合い、その事がこの物語の柱として続いていく感じ。お兄ちゃんのホデリは『いや、いつまでもつづかないいのちなら、ひとつのことをしたがいい』って言うと、弟は一旦受け止めるのに、よくよく考えた後、『いのちにかぎりがあるから、いろいろなことをしてみたいのですよ。』と自分の考えを一生懸命に伝えている。」
こういう話し合いからイメージを重ね、表現を積み重ねて創っていくのである。ふたりが話している場面のくだりは、こうである。

ホデリのゆびさすほうに、くだける波とそれにも負けないくらい白い砂浜があります。
ふたりのいるところは、葉っぱ一まい一まいみがきたてたような林です。
ところどころにまっかなつばきが、うごかない火花になっています。

「くだける白い波ってこんな感じかな~(動きながら)やってみると(表す)と同じ波長で、ずっとずっと止まることなく波は打ち寄せては返して、、、まるで、ホデリの考えていることみたいだね。同じ間隔で、同じことを繰り返す。波って、朝でも夜でも、止まらない。ずっと、波やるのって結構、しんどい!」
「椿の花って、咲いたまま、ぽとって落ちるんだよね。おばあちゃんが、きれいだけど、縁起が悪い気がして好きじゃない、って、言ってた。だから、始めから咲いてなくて、蕾みたいに、小さくなっていて、ふわーって体全体で、順々に咲いていくってやると、ちょうど短い命って感じで、波と対照的な感じになる」
「そうだね。ふたりが話している背景として、対照的に美しく、ずうと、続いている風景として表したいね。」
「遠くの方に、頑丈な火山があるともっといい。」

こんな具合に子ども達は、核心につかず離れず、遠巻きにだんだんと近づいていく。こんなやりとりを聞きながら、ひそかに私は、松本氏が言及した一行を思い出した。

天孫降臨神話の主人公に重点はおかず政治神話的要素は脱色して、あくまでも「物語として」芸術化して再話していくのが雁流なのだ。

そうかと思えば、ピタッと当てはまらず、自由に柔軟に自分たちのイメージを作り上げていくのも、子どもならでは、である。松本氏が指摘している「ホオリ」という人物象について、
「ややわがままで、世間知らずで意地っ張りな感じも強いキャラである若者」「一種の蛭子紳であり、夷三郎(エベスさん)となって帰ってきたのだと考えることができます。」
とあるが、彼らのイメージは若干違うようである。穏やかで素直で、弱気ではあるが、順応性があり、新しいことを受け入れる好奇心もあり、ちょっとした機転もきく。だからこそ、シオツチノオジが作ってくれた卵型の乗り物にも躊躇なく乗り、抵抗なく異国へ行き、そこでも楽しんでしまう。という、どちらかというと新しいタイプのヒーロー像なのである。
「スサノオ」の荒ぶる男、荒む男、母の愛に飢え、罪を背負った男として比較していることもあるだろう。(1年半前に取り組んだテーマなので、たびたび、引き合いに出る)いかにも「冒険にいくぞう!」と勇んで出かけたわけでもないし、すべてが、肩に力が入らず、自然体で異なるものを受け入れ、いつしか周りの人をも自分に吸い寄せていく、その柔らかさ、しなやかさこそが、ホオリの愛すべき天賦なのではないか、という話し合いになった。

陸にすむもの、海にすむもの、
それぞれにきまったさだめがあります。

と海の王がホオリに語り、大きな宝石をふたつ取り出し、渡す場面の表現を創る過程で、
「海の世界と陸の世界が、ホオリが訪ねてきたことで、ゆるやかに交わり、互いの世界が交じりあった感じにしたい。」
「はじめのホデリとホオリの関係のように、それは、対立ではなく、共存って感じなのでは?」
「互いの違いを大切にし、受け入れ、そしてまた別々に存在しあうって感じを出したい。」
「『スサノオとヤマタノオロチ』のやっつけるって関係ではなくて、すべてが流れ、滑るように集まり、一旦交じり合い、そして離れていくイメージ。」
ということで、陸側は、陸の上の方を吹く風をイメージし、海側は、緩やかな海流をイメージし、両側からそれらが交じり合い、そして、また離れていくという表現になった。(表現を言葉にすることは本当に至難の業なのですが、、、)
実際に自分たちが国際交流を体験してきた子ども達だからこそ、実体験からこんな『異文化交流』についてのイメージを分かちあえるのかと思う。
「シオフル玉で大水を起こした時も、ホオリは淡々とした顔でいればいい。すました顔で、玉をとりかえた、って言うでしょう。」
「これでもか!なんて、お兄さんを懲らしめるような表情はしないからこそ、最後には二人で笑い転げることができんじゃあないのかな。」
ただ、この場面になると、深刻な問題が起きた。

 ホデリは、いまじぶんがおぼれかかったときのようすをくりかえしました。
狂ったようにあちらこちらを走りまわり、
ひざをあげてはね、
腰のあたりでりょうてをひらひらさせ、
胸にてのひらをあて、
あたまの上でばんざいをする、、、、
そのおかしさに、ふたりともわらいころげました。

折しも、大震災と大津波の映像が毎日のように放映され、子ども達の目に焼き付いてしまっていた時であった。いくら高学年の子ども達とは言え、字ずらを追ってのアクションとしての表現はできるが、心をこめてとても笑えないというのだ。(自分の思いがないと、体だけの表現はできない、という体質がラボっ子である。)ましてや、笑い転げるなんて、、、とても無理。
「二人で笑い転げることに、なんの意味があったのだろう?」
「この踊りは『隼人舞・ハヤトマイ』とよばれ、後の世まで伝わった、ことの意味は?」
という真剣な話し合いになった。
「祭り」については、『スサノオ』に取り組んだ時に、『霜月祭』で散々、表現を創る際に、何を表したいのか、という視点で掘り下げた。
「でも、『笑い転げる』踊りやお祭りなんて、、、」

「笑ってごまかして、降参!許して!って、ことだけではないよね~?」
「受け入れなければいけない運命であったら、笑ってしまえって、こと?」
「『一緒に笑う』ことが大切で、ホオリがホデリの溺れる様子を見て笑ったら意味が違うよね。」
「自分の中にある正しいと思っていたことが、訂正せざる得ないような悔しい時は、相手に屈しちゃえ、ってこと?」
「自然の猛威の前に立ちはだかったら、笑い転げるしかないってこと?」
「屈する相手とは、「自然」ってことじゃあないの?いつもは恵みをもたらしてくれる海が、今回の津波でも、人間の知恵や技術で、到底かなわないものであることを知らされて、人間はその中で生かされているし、時に命をも奪われてしまう厳しいものである。それを忘れないように『舞う』のかな?」
こんな話し合いを重ねながら、子ども達は真剣に笑い転げることができるようになっていった。嘘っこなしで笑い転げるには、その前の踊りを真剣にやろう!手を抜くな!という掛け声の元、体の大きい中高生が思いっきり飛び跳ね、動き回り、汗だくだくで、ぜいぜいしながら「溺れ踊り」を続け、そして最後に笑い転げるのである。その姿は、口先だけではない体中からほとばしる自然への畏敬の念であり、今回の震災で命を失った方たちへの全身で表わした心からのレクイエムとなっていったように見えた。「笑い転げて舞う」ことは「浄化」させていくことなのか。

こんな疑問や発見を重ねながら、雁さんがいたら、訊いてみたいことがたくさんある、と何年も思っていたが、あながち、最近はそうでもない心境である。子ども達とその「真理なるもの」を探っていく過程が楽しいのである。
「答えは、僕のすべてを賭けた『物語』の中にあるのだから、全身全霊で楽しめ、味わえ、考えろ。」
と声がするようである。四〇年近くかけても、群青色の深みの源を探り当てることは容易ではない。そんな容易に手に入れようとしたら、『そらいろのたね』のきつねさんの如く、熱いお日様にぶつかって、目を回してのびてしまうことだろう。
しかしながら、ラボ・テューターとして、子ども達を通して、雁さんの、群青色の残像に再会できる瞬間を繋ぎ合わせていくことはできる。そして、何よりも確かなことは、谷川雁の物語が自分の細胞の一つ一つに浸み込み、成長と共に、精神構造の骨格となり、私の人格の一部となっていることである。もしも、雁さんに出会っていなかったら、などと仮定の話としては、もはや考えられないほど長く深く丈夫な軸を成してしまっているのである。同じことが、集う子ども達にも起こっている。そう、「雁マジック」が効いて、湧き上がる雲の如くちぎれたり、形を変えたり、増大したり、色を変えたりしながら、こども達、一人一人の精神構造のしなやかな軸となっていくのである。
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