幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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☆「はなのすきなうし」は1936年に発表され、世界中で愛読されているお話ですが、なんとマンロー・リーフが親友のロバート・ローソンのために、
“ある雨の日曜日の午後、40分で書き上げてしまったお話だそうです。
「はなのすきなうし」の絵を描いているロバート・ローソンが「They were Strong and Good」でコールデコット賞を受賞した時の挨拶(『ホーン・ブック』1941年7・8月号に掲載)を紹介されているページを見つけたので、ちょっと長いですけどそのまま掲載します。

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   【子どもにはすべてを・・・ロバート・ローソン】

〈チルドレンズ・イラストレーター〉という言葉があるが、私は自分のことを〈子どものためのイラストレーター〉とは考えていない。この言葉には、子どもに対していささか恩着せがましく思えるものがある。もし区別が必要なら、もっぱら大人のために仕事をするイラストレーターのことは、〈アダルト・イラストレーター〉と呼ぶべきだろう。

 絵でも、文でも、それが明らかに子ども向けに見えたり、聞こえたりしたら、それは子どもたちにトーク・ダウンすることである。そうした調子を下げた語りかけには、子どもは激しく反発する。
 何代にもわたって子どもたちに愛されてきたイラストレーターの仕事に、私は限られた趣味やかぎられた理解に迎合するような兆候を、ちょっとでも見たことがない。

 私自身、子どもは趣味においても、理解においても、大人よりずっと限られていないと思っている。というのは、子どもたちは、何を好むべき方か、どう思うべきかとかいった、ばかげた又聞きの考えなどに、制限されてはいないからである。

 私は何年も、いわゆる大人のために仕事をしてきた。子どものためにいろんな仕事をしたのは、ほんのこの数年のことだが、子どものための仕事のほうがちょっとむずかしくて、ずっと楽しく、お金の点では報われることは少ないが、自尊心では得るところが大きいことを別とすれば、両者の間にはなんの相違もない。

 私は、子どもたちの明解な理想の要求するレベルに高まろうとするほうが、大人たちのもやもやした要求に答えるよりも、ずっと満足のいく達成であることを、いつも知ってきた。まじめな考えの人たちの中には、ある絵やちょっとした文について、私にこういうことがよくある。

「あれは十歳の子どもにわからないでしょうよ。」と。『はなのすきなうし』の絵をかいていたときにも、そのスケッチと文にざっと目を通して、私の叔母はこういったものだった。「これにはなんの意味も見られないわ。どうしてこんなものに時間をむだにしているのか、私にはわからないわ。

 花のにおいをかぐ牛なんて、意味をなすものではなく、ナンセンスなおもしろさを想定したものであることを、本気でなく説明しようとしたが、叔母はいっこうに関心を示さないで、最後にこういった。「私は気まぐれじゃないものね。」もしみなさんが私の叔母のエンマをご存知なら、それがどんなに控えめな言い方であるか、おわかりになるだろう。

 もし、人々が自分の子どものころを振り返って、十歳の頭を満たしたもろもろの考えや興奮や、好奇心やあこがれの驚くべき集積を思い起こすなら、子どもに何を与えるべきか、何を与えるべきでないか、などといったことは、とても言えたものではないだろう。
 絵のどんな小さな細部が、またストーリーの中のどんな些細な一節が、ある子どもの心に大きな閃光を放つ火花になるか、それは誰にもわからないことである。

 私は自分の書いた本や絵について、子どもたちに最大のスリルを与えるものが、実にさまざまであることを知って驚かされる。何一つあてにすることはできないし、何一つ計画づくで考えることはできない。ある絵のすみっこのちょっとした細部や、特別の言葉や言い回しが、ある子どものために窓を開き、いつまでも消えないあるものをちらりとのぞかせるのである。

 私は三歳か四歳の時に、母に連れられてフランスへいった。そのときの記憶はぜんぜん何も残っていないが、ただひとつ、いまもはっきり思い起こすのは、ナポレオンの墓の内部である。あごを押し付けた手すりの冷たささえ感じることができる。

 どうしてなのだろう?

 子どもの生活の学識ある設計者は、三歳の子どもをナポレオンの墓へ連れていかせたりはしないだろう。フランス語を教えるか、フランスの童謡でも教えてやったほうが、ずっとましだし、彼らもそうした。けれども、それらは風と共に消えてしまい、ナポレオンの墓だけがありありと残っている。

 どうしてそんなことが?私にはわからないし、誰にもわからないだろう。しかし、これだけはわかる。私が子どものために描く絵や文には、“年齢層”とか“計画読書”とかいったことにはいっさいおかまいなしに、押し込めるだけのあらゆる細部や考えを詰め込む決心であることは。

 私は子どもたちに、自分の知っていることや思いつくことのすべてを与え、その中から子どもたちに自由に選択させたいと願っている。
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