幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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おさむの日記
おさむの日記 [全8件] 1件~8件 表示
2016/01/05の日記 01月05日 (火)
ひろば@ラボからの連動テスト
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2005/10/03の日記 10月03日 (月)
久しぶりに書き込んで見ました。いろいろ文章は書いているのですが、なかなかまとまったものとなると…。半年に一度の更新ですが、ご容赦の程を。
お時間があれば、見てください。

ラボっ子はドリームタイムに生きる
九州総局  山田 紀

 皆さんがこのライブラリーにもたれている印象はどんなものなのでしょうか。私が初めてこのライブラリーに出会ったのは中学3年生。受験の合間を縫ってパーティを続けているときでした。最初の印象は「なんてみょうちくりんなライブラリーなのだろう?」でした。極端なキャラクター造形、繰り返されることばあそび、強調される現代と過去の話。とっつきにくい物語という感想を持ちました。
 
それから時は流れて。

もともとよいイメージを持っていなかったライブラリーに再び出会う機会を積極的に持つこともせず、このテープ(当時はラボ・テープでした)は棚の奥でほこりをかぶっていました。それはそれは厚く降り積もって・・・。

あらためてこの物語に向かいなおしたのは、大学生になってからでした。しかも、自分自身で聞いたのではなく、地区の高校生たちが発表するテーマに選び、取り組んでいるのを見てのことです。

物語のテーマ性、考えられた構成、分かりそうでわからない「ドリームタイム」ということばの正体。いろいろ考えをめぐらせてみたものです。
物語のそこここに、物語の本質を語るような重要なことばが出てきます。とくに、3幕ではナレーターが、ドリームタイムそのものについて語っています。
それなのに。
わからない。
「すべての一日」「生きるために精一杯の一日」「過去と未来が、何の矛盾もなく、現在に溶けこむ」・・・説明はされている。だが、決定的なことばは語られない・・・

坂さんのレポートにあるように、この物語は一見親切です。各幕それぞれ位置づけが分かり易いし、極端にデフォルメされた発想や言動が、その場その場のテーマをくっきりと浮かび上がらせてくれます。
それぞれの幕の話はここで繰り返す必要もないと思いますが、ここでぶつかるのが4幕です。多くのラボっ子が頭を抱えてしまったのではないでしょうか。私もそうです。

この物語は数多くの相対する考え方が登場します。歴史観、文明観、征服者と被征服者。1~3幕は、きれいに流れていくのです。現在力のあるものが作り上げた歴史、優れていると思わされている科学文明、相容れないものを排除し、征服する人間。それらを「当たり前のもの」と信じ込んでいる交換学生たちは、現代文明の産物であるバスの車軸が折れてしまったことにより(当然、誰も直せません)、鉄の子宮から新たに生まれてきます。洋子が一番最後にバスを出るのは、子供と大人の差ですよね。
心音のようにクラッピングスティックを打ちながら、彼らはドリームタイムに生き始める。そこは、過去も未来も現在もが矛盾なく溶け合うところ。いわゆるタイムスケールでとらえることのできない、時制の違う世界。

ここで、「ドリームタイム」がファンタジックな雰囲気を持ってしまうことがままあるようです。ですが、そうではない。洋子たちがドリームタイムに生きられたように、我々にもつながっていなければならないはずです。我々の現代に、矛盾なく溶け込んでいなければならないわけです。

4幕では、コアラ・エリマキトカゲ・(クカバラ)・カンガルーの4つのストーリーが語られます。いいえ、語るのではありません。交換学生たちによって再現されます。
なんであんなストーリーなんでしょう。動物たちのドリームタイム・・・。

コアラがはじめて木の上で暮らし、コアラたり得たとき。エリマキトカゲが初めて首を(えりまきのように)ふくらませ、エリマキトカゲたり得たとき。カンガルーが我が子を袋に入れ、飛び跳ねてカンガルーたり得たとき・・・。
それはもっとも純粋にコアラがコアラであるとき。エリマキトカゲが純粋にエリマキトカゲであるとき。カンガルーがカンガルーであるとき。
そして、それらコアラ、エリマキトカゲ、カンガルーとしての誕生の瞬間は、一匹一匹の固体の誕生にすべてつながっていくのです。
ドリームタイムは、誕生以前に闇の中で、母親の肌をへだてて外界の物音を聴いている時に、もうはじまっている。

それは歴史や文明観、そのような「後付け」の思想に左右されない、すべての人間が等しく体験してきた時間。人間が、最も人間らしくありえた世界。そこで初めて目にする自然の景色は、私たちの中に等しく驚きをもたらしたのではないでしょうか。

そうした純粋に、生きることだけで精一杯の我々に戻るには、邪魔なものがいっぱいあります。1~3幕で捨てていくものですね。ここで物語がめでたく4幕に収斂されていきます。


最後に、ラボっ子としての思い込み。

ライブラリーを聴いても分かるとおり、パルバース氏はとてもラボのことを良く理解されておられます。国際交流プログラムが、物語の大きな背景ですものね。
そう考えて、最後のレッスンの幕を見てみましょう。交換留学生たちのやっていること・・・テーマ活動そのものに思えてきませんか? たくさんのラボっ子が、たくさんの同じ役をやり、同じ人生を共有し、再現し理解していく・・・。
パルバース氏は、「テーマ活動こそドリームタイムに生きる手段なのだよ」と、優しくラボっ子たちにメッセージを送ってくれているように思いませんか?

ほら、テーマ活動がやりたくなってきた。どこからかクラッピング・スティックがなっているのが聞こえてきましたよ・・・。
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一生忘れられない結団式です 18 03月20日 ()
本日は福岡で九州支部の国際交流のつどいでした。大きなイベントなのでかなり緊張していましたが…。ほぼオンタイムに始まり、順調に講師の方の講話までスムーズに進んでいたのですが、10時53分、福岡を震度6弱の激しい地震が襲いました。
 地震が始まる前に「ごおおおっ」という地鳴りが聞こえ、舞台袖で進行をしていた私は一瞬、会場の何かの装置の効果なのかと思いました。「この音を止めてください!」と言いに行こうとしたその時…今まで経験したことのない激しい揺れを感じました。揺れ、と認識するよりも「?」が頭の中に渦を巻く感じです。
 一瞬の思考停止。その後、緊急事態だと気がついたのですが、続いて停電、「地震だ!!」「逃げろ!!」という叫び声。天井からパラパラと落ちてくる細かい破片などに、ラボっ子達はパニックになりかけている子もいました。出口に駆け寄ろうとする子達もいましたが、そこで頑張ってくれていたのが大学生達でした。各自が「座って!落ち着いて!」と声を出し、指示を出して会場から子ども達を外に出す時にも冷静に動いてくれました。
 その後、近くの公園に移動しましたが、そこにはご近所の方々も避難して来ていました。でも、そこでもさすがラボっ子、整然と地区ごとに集合・移動し、とんでもないアクシデントにもかかわらずスムーズに避難できました。
 交通機関は全く麻痺、会場の安全も確保できないので残念ながら集いを中止することにしましたが、その後のラボっ子達の行動には感心しました。
 帰る交通手段が確保できるまで公園で待機してもらい、我々は各所の確認でてんてこ舞いだったのですが、集いで激励テーマ活動を発表する予定だった小山パーティと松本パーティが、「みんなを元気付けたい」と、屋外での発表を申し出てくれました。それをみんなに伝えると、湧き上がるようなあたたかい拍手が…。
 あちこち走り回っていたので全部は見れませんでしたが、とても元気に(寒かったはずなのに!)すばらしい発表をしてくれました。何よりも、アクシデントに負けるもんか! という子ども達のたくましさとエネルギーが心に染みる発表でした。
 その後、講演中に中断してしまったローラ・キャスタライン・ナカジマさんがウクレレで伴奏をつけ、みんなでSomewher over the rainbowを合唱しました。トラメガで音を拾って、決していい環境ではなかったにもかかわらず、思わず笑みがこぼれるようなあたたかい合唱となりました。

 とんでもない集いとなってしまって残念でしたが、逆に、こうした状況に追い込まれて出てくるラボっ子たちの(私自身も、事務局スタッフも、でした)底力を感じさせてくれた、貴重な場となりました。みなの活躍のおかげで、あれだけの大地震にもかかわらず、何と700名弱、一人のけが人も出ませんでした。
 こういう状況を目の当たりにしてしまうと、改めてラボの持つものすごい教育力を感じずにおられません。「災い転じて福と成す」、ラボっ子達に拍手!!
 
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2005/03/07の日記 4 03月07日 (月)
 …やばいです。前回の日記の更新からほぼ1年、しかも前回には「ちょくちょく更新して」なんて書いてあります。

 九州に来て1年が過ぎ、とても実のある時間を過ごしてきたように思っておりますが、その時間の流れと仕事に押されて更新をサボってしまいました。申し訳ございません。

さて、私の日記のメインテーマはテーマ活動ということで…。もうちょっと徒然を書きつくればもう少し更新しやすいのでしょうか? 今回は根強い人気のこの話です。

ピーター・パン~繰り返される「永遠」の物語

 ディズニーのアニメーションで余りにも有名なピーター・パン。このお話の原作を、童話だと思っている方が多いのではないでしょうか。しかし、原作といえるものは実はバリが作った演劇の台本なのです。残念ながら私も台本形式のものは見たことがありませんが…。実は、この台本の最後に非常に気になる、重要な一言が書かれていたというのです。それは、
「この舞台の幕が下りたら、二度と幕をあげないで下さい。もしそうしたら、ピーターの顔をしたフックが登場してしまいますから」
…細かいニュアンスは、違っているかもしれません。私も以前に聞いた話ですし、直接この目で確かめた訳でもありませんので、残念ながら真偽のほどは分かりません。しかし、もしこれが本当なら、バリの捉えた時間というものは確実にピーターの上にも影響を及ぼすということにもなります。
 このことを裏付けると思われることがひとつ。ラボ・ライブラリーはバリの舞台台本を童話に書き直した「ピーター・パンとウェンディ」がベースになっています(最も最近は映画の影響もあって『ピーター・パン』というタイトルで文庫化されていたりしますが)。そして、それとは別のピーター・パンの物語があります。時間的には「ピーターパンとウェンディ」よりも前、ピーターが始めてロスト・ボーイズとなった頃のエピソードです。その物語は「ケンジントン公園のピーター・パン」。この二つの物語を比べてみると、ピーターは明らかに成長している感じを受けるのです。「ケンジントン~」の頃のピーターは、幼く、しょっちゅう泣き出してしまうような感じの男の子です。少年というより幼児といったほうがいい雰囲気をもっていますが、皆さんご存知のピーターは違いますよね。これは何を意味しているのでしょうか。最後にまたこのことについて考えてみたいと思います。

 さて、前置きはこのくらいでライブラリーそのものを考えてみましょう。これほど完成度の高いライブラリーは珍しいのではないでしょうか。江守徹の叙情にあふれる素晴らしい語りが物語を支え、個性の強いキャラクターがところせましと暴れまわり、長い年月を経ても未だに新鮮な音楽がストーリーを盛り上げていきます。そして、取り上げたラボっ子たちの心に深く残ってゆく、まさに名作ですね。
この物語は、母性愛がひとつのテーマになっているのは間違いのないようです。でも、それはあくまで観念的なもので、個性を伴う力強いものではありません。ミスター・ダーリングは無理解でむしろ母性のやさしさを引き立たせるような存在ですし、ミセス・ダーリングは子どもを心配するやさしいお母さんですがあくまでミセス・ダーリング個人というよりも普遍的なおかあさん像としての存在です。しかしこの存在の普遍化は劇中に何度も現れる「おかあさん」という観念と結びつき、絶対不変の母性のイメージを確立させています。個人のお母さんでなく、世界中の子どもが漠然とイメージする(もしくは大人も)お母さん像です。さらに、ウェンディのキャラクターがこのイメージに影響して(二人は親子であるという事実から漠然と同じような母親になるのではないか、という予測が成り立つ)、「おかあさん」を動かしがたい愛情の結晶のような存在に昇華させています。これがこのライブラリーを通じて背景に流れる一つのテーマであることには疑いがありません。「おかあさん」の愛情がない「ない・ない・ないの国」に、「おかあさん」が入ってくることでおこる物語、としてまとめられるかもしれません。お母さんの愛情とない・ない・ないの国は相容れません。ない・ない・ないの国はお母さんの愛情がないからこそ成立しているのですから。ロスト・ボーイズは「お母さんがよそ見をしている間に乳母車から落ちた男の赤ん坊」ですし、海賊達はお母さんの存在を知りません。インディアンのタイガー・リリーは女性ですが、しかしこのインディアン社会は強い戦士が尊ばれるところ。おかあさんイメージとはかけはなれています。そういった意味では、インディアンたちも「おかあさん」を知りません。そんな中に擬似的なお母さんとして登場したウェンディに、ロスト・ボーイズは永年暮らしたない・ない・ないの国とピーターとの冒険の日々を捨ててまでついて行ってしまいます。
 
 もうひとつ、テーマの軸としてあげられるのが「時間」です。最も象徴的に表されるのが、フックとワニの関係でしょう。ワニは時間そのものである時計を飲み込んでいます。しかも、フックの体の一部を既に食べてしまっています。既に「時間」というものが、フックの体を蝕んでいるのです。フックに残された時間は後わずかであることを、本人は本能的に知っています。そして、その時計の針を止めることはできないということも。それゆえにフックはワニを極度に恐れるのです。その針がとまる=フックの残された時間が終わることはそのまま自分の死であるということを知っているからです。ですから、最後にフックがワニ=時間に飲み込まれていくのも必然といえるでしょう。その引き金を引いたのがピーターの”I’m youth & joy!…”のセリフなのも納得です。一方で、ピーターには有り余る時間があります。何せ、ピーターは年をとらないのですから。歯も生え変わりませんしね。そうそう、ピーターがひどく物忘れが激しいことを覚えていますか?これも、ピーターが年を取らないひとつの大事なファクターです。物事を覚え、経験を重ねて蓄積していくことはそのまま時間の経過の証明となってしまいますから…。 

 ところが。

そんなピーターがおそらくかなり以前になるであろう物事を実に鮮明に覚えています。それは、彼がネバーランドに来てから、自分のうちに飛んで帰っていったときのこと。

そう、この物語に登場する絶対的な母性愛の塊の「おかあさん」とは異質な存在、ピーター自身のお母さんに会いに行ったときのことです。
彼女はピーターのために窓を開けておいてはくれませんでした。少なくとも、ピーターはそう受け止めました。

この時からピーターは大人になることを放棄します。おかあさんの愛情とは無縁の世界で生きることを選択するのです。それこそがネバーランドであり、お母さんの愛情がありえない世界です。
しかし、それはピーターが時間の呪縛から解放される決定的な要因とはなりえません。むしろ、ピーター自身が自分の過去を語ることで、ピーターの上にも時間の経過が確実にあり、やはり彼も時間の呪縛にしっかりととらわれていることを自ら証明してしまっているのです。

ここで、最初にあげたバリの台本にあったという謎のことばをもう一度考えてみたいのです。このことばを加えて、ピーターの時間の経過を考えるとすると、ある仮説が浮かんできます。それは、「この物語はキャストを変えて繰り返されているのではないか」ということ。つまり、ピーターがいつかフックになり、新しいピーターが誕生していくのではないかということです。
 もし。ピーターのように母親の愛情を放棄した子供が大人になっていったら、それはフックのようなこどもっぽい大人にならないでしょうか。
 もし。母親の愛情に触れずに育ったロストボーイズは、海賊達のようにならないでしょうか。
 もし…。

そのような捉え方を嫌う方も多いでしょうし、夢を壊されたような気分になる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ピーター(こども)はフック(おとな)がいるからこそピーターとして輝けるのです。もちろん、ひとつの物語の捉え方として、聞き流していただいて結構。永年テーマ活動をやってきて、ちょっとひねたフックになった私が、本質的にはピーターなのだという自己弁護なのかもしれません。そして、その気持ちはそのままバリにも、他の多くの大人たちにも当てはまるのかもしれませんね。
ラボっ子たちがロスト・ボーイズをやり、ピーターをやり、やがてフックになり…なんていう姿を見てきて、そんな気持ちが強くなります。みなさんはいかがですか?
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過去に書いたもののアップ② 03月26日 (金)
 少々手抜き気味ではありますが、ちょくちょく更新していることでご勘弁を…。今回はかいだんこぞうです。

都会の隙間に生まれるもの~The stair-goblin boy~

◎突然現れる異形の生き物
 かいだんこぞう。ラボライブラリーの中でもビジュアルイメージが強い話です。あの大砲の砲弾のような、見ようによってはかわいらしくも気味が悪くもある、インパクトの強いあのイラストをいかに超越するか、そこにこのライブラリーを取り組めるかどうかの分かれ目があると思います。
 このライブラリーの大きな特徴に、タケちゃん以外の人間がほとんど登場しないということがあります。じつは、タケちゃん以外の人間のセリフは、『5ねんあとには、きゅうこうでんしゃがとおるのだそうな』『このへんもかわりますねえ』という、おじいちゃんとお父さんの会話のみ。後は全て、タケちゃんの独白か、かいだんこぞうとのやり取りで進んでいきます。
 そもそも、かいだんこぞうって何でしょうか。自分自身では、「かげぼうしのおとうと」であり、「こどもの足音を食べる」といっていますが、何でたけちゃんの目の前に現れたかは一言も語られません。きっと理由があるはずなんですけどね?
 
◎ 舞台は階段
かいだんこぞうというくらいですから、舞台は階段です。昔の公団住宅の、暗くて無機質、かつちょっと薄気味悪い階段を想像してください。この階段、ライブラリーの中ではどんな紹介をされているかというと…「タケちゃんがトントンっと登ると」「バンバン」と音がし、「エッヘンというと」「オオウン」という空間なのです。ここはまさに異空間。あるものを別のものに変化させる特殊な空間なのです。では、なぜかいだんこぞうがでてきたのか? バンバンという音が、もともとはタケちゃんの足音であり、オオウンと言う声がタケちゃんのエッヘンだったりするのと同じように、何かが階段の中で変化してかいだんこぞうが生まれてきた、と考えました。その何かって、だから何なのさ!?

◎ タケちゃんってどんな子?
かいだんこぞうが登場する前の場面って、どんな場面だったか覚えてますか? 実は、あの衝撃的なナレーター、「タケちゃんには、まだ友達がありません。」というくだりなのです。引っ越してきたばかりでみんなに相手にされず、いつも一人ぼっちで遊ぶしかないタケちゃん像がさりげなく語られるのです。その直後、かいだんこぞうが登場します。でもなぜ? かいだんこぞうが登場するそのすぐ前にこんなナレーターが入っているのでしょうか。きっと、タケちゃんは寂しいのです。そして、その寂しさを埋めるようにかいだんこぞうが登場するのです。先ほどから話題にしていた、かいだんこぞうの元となる「何か」…。それは、タケちゃんの「友達がいなくてさみしいなあ」という気持ちが、階段という異空間で変化して生まれてきたのがかいだんこぞうなのではないでしょうか。つまりは、かいだんこぞうはタケちゃんの内面から生み出されたものではないでしょうか。

◎補完し合う関係性
 タケちゃんが対人関係がうまくいっていないことは、ナレーターではっきり語られています。でも、かいだんこぞうとタケちゃんは非常にしっくり会話しています。タケちゃんが話し掛けるのは、このライブラリーを通じてかいだんこぞうだけです。お父さんやおじいちゃんにさえ、手紙でしか語りませんし直接会話することがありません。ではなぜ、かいだんこぞうにだけはタケちゃんは饒舌なのでしょうか。タケちゃんにとって、かいだんこぞうはコミュニケーションをとりやすい要素がたくさんあります。一つは大きさ。30センチという小さなものなので、タケちゃんが優位に立てるのです。それから、表情がないということ。おそらくうまく自己表現ができないタケちゃんにとって、表情の全くないかいだんこぞうは気味悪くもあるが、気楽でもあるのではないでしょうか。手も足もない、最低限コミュニケーションするのに必要なだけの口が一つついている存在。それから、もっとも大きな点、タケちゃんはかいだんこぞうを養っているということ。タケちゃんの足音がなければかいだんこぞうは生きていけないという構図は、タケちゃんに絶対的なイニシアチブをもたらします。たとえば、子供の足音はきっと、タケちゃん以外にも聞こえるはずですよね。しかし、タケちゃんが田舎に行っている間、かいだんこぞうは何も食べていない様子で、すっかり弱っていました。これは、とりもなおさずかいだんこぞうとタケちゃんとが、お互いにしか通じない関係であることを表しているようです。かいだんこぞうはタケちゃんに足音を食べさせてもらい、タケちゃんはかいだんこぞうとの関わりで友達代わりの役目を受け持ってもらっている、補完し合う関係性が構築されているのです。

◎救済する行為、終わらない物語
 このライブラリーは、劇的なドラマはあまり起きません。かといって、淡々と日常生活が続くわけでもありません。ちいさな変化が、一定のトーンで語り継がれていくのです。その中で最も大きな出来事が、かいだんこぞうの変化です。タケちゃんが田舎に行っている間に、色が薄くなり弱り果てるかいだんこぞう。ここは、物語的にはタケちゃんとかいだんこぞうの決別のチャンスでした。しかし、タケちゃんはかいだんこぞうを救う選択をします。自らのインナースペースの象徴であるかいだんこぞうと、決別することができません。しかし、子供ってそういうものではないでしょうか? 自分自身の聖域を持ちながら、少しずつ外の世界に目を向けていく。タケちゃんもそうです。一気に、劇的に大人に成長はしません。しかし、最後のセリフに注目。「今度、先生に聞いてみようと思います」…。繰り返しますが、タケちゃんは30分の話の中で、ただの一度も他人に声をかけません。そのタケちゃんが最後に見せた変化。小さな小さな一歩ですが、最後に確実に一歩を踏み出していることでこのライブラリーはさわやかな感じを残します。

◎一人ひとりのかいだんこぞう
 このライブラリーの魅力は、かいだんこぞうそのものであるといえます。この、黒くて小さいものをどう捉えるか。個人の自由な想像力にそれはゆだねられています。面白いことに、自分の分身のように肯定的に捉える子と、妖怪や幽霊のように否定的に捉える子とがいるようです。みんなでぜひ、このことを話してみてください。また、あの黒い砲弾のようなかいだんこぞうから、いかにイメージを飛躍させられるかも、面白いポイントですね。絵をかいてみるといいのではないかと思います。
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過去に書いたもののアップ① 03月24日 (水)
日記の更新をやってみようと思います。とりあえずいままでに書いてみた文章を載せてみようかな、と思っています。こういうフリーに覗ける場で発表するのはこわい部分もありますが…。覗いてくれた方、おひまでしたらご覧ください。

 ものがたりのいできはじめのおや~なよたけのかぐやひめを貫く親心

なよたけのかぐやひめは、日本最古の物語といわれているのは周知の事実である。が、「枕草子」や「源氏物語」のように明確な作者がわかっていない。物語のスケールでは決して引けを取らず、むしろそれらを凌駕しているというのに、である。これはちょっと不思議な事だ。物語はライブラリーを聞いていただくとして、じつはこの物語、現実に実在した人物が登場するといわれている。5人の求婚者がそれだ。いずれも当時宮中において華やかに活躍した権力者であるといわれているが、この物語の中では散々にこき下ろされる。それは、一種の復讐のようにも感じられる。このことから、想像の翼を広げて作者像を探ってみよう。
この物語は明らかに朝廷に対しての批判が含まれている。そのことから、時の朝廷によって不遇の境遇に落とされた人間が作者ではないかと推測できる。具体的には、富士の山の描写などから京を追われて東国に流された人物ではないか。つまり、歴史の表舞台から抹殺された人物ではないか。作者不詳なのも、そう考えると納得がいく。さらに想像をたくましくするならば、この物語の根底に流れている「親子の情」を考え合わせると、娘との別離とを経験した人物が書いたことをうかがわせる。おそらく、それは死別だったのではないか。最後のシーンの例えようのない悲しさ、かぐやひめが月(=再びあえない世界)に帰っていくことを考えると、あながちうがった見方ではないのではないように思われる。では、なぜ娘は死んでしまったのか。おそらくは、帝が絡んでいるのではないか。この物語のなかで、おきなは、ひめと帝とを天秤に掛けて最終的に自分の娘を選ぶ。現実世界ではありえない選択であるといえるだろう。帝のお召しは絶対、それにそむいて娘を守ろうとするのだから…。ここには親としての願望が込められている。現実の娘は帝の不況を買って命を落とした。だが、物語のかぐやひめは帝の誘いも断り、誰の誘いも断りおきなとうばの下にいることを望む。これはかぐやひめの望みでありながら、おきなののぞみでもある。作者は完全におきなに自己を投影しているのではないか。
悲しいかな、かぐやひめは人間ではない。天人である。この点におきなの悲劇を感じる。おきながもし、自分の娘を亡くしてしまったのなら、同じ人間としてのかぐやひめを描くことはできなかったのではないか。人間である自分の娘は死んだ。でも、もし…。そんな悲しい気持ちと願いが伝わってくるようだ。
ちなみに、かぐやひめは月の世界で罪を犯した罪人であるといわれている。これもまた、上記の推測を裏付けているように思われる。
どうでしょうか?限られた紙面の中で、ことば足らずで申し訳ございません。物語のストーリーから、この物語がどのような気持ちで書かれたか、を探ってみました。ただ、今までの物語に新しい視点を持ってみること、物語に対する探究心を持ちつづけることが常に新鮮な取り組みを持続させるコツですよね。
また、このライブラリーは5・7調の言葉遣いが特徴的。また、言葉遊びも非常に優れています。作中に登場する和歌を例に取り、英語との対訳を見てみると日本語表現のすばらしさがわかります。実際に歌を読んでみるのも面白いですね。また、絵本にも大きな仕掛けがあるんですよ!だまし絵のように、たくさんのモチーフがえががれていることに気がつくと、俄然面白くなります。例えば絵空事の冒険譚を話す倉持の御子のページ。想像上の風景は、実は全て鏡のようなものの中に描かれていて、倉持の御子はその鏡の外側に立っているのです。この絵はさりげなく、倉持の御子の話が空想であるということを語っているのですね!他にもいっぱいありますよ。ぜひ探してみてください。
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九州は広いです!! 03月19日 (金)
 ここしばらく、担当地区に連続で出かけてきました。九州の広さを感じます! 朝10時くらいに現地につきたければ日が上る前に起きねばなりません。それでも、わたしの担当地区はまだ日帰りができるので幸せな方かな? でも、現地に出ることはやはり楽しいですね。地域性や、その地区のお母さん方と話をすることで漠然としたものが少しずつ固まっていくような気がします。
 子どもとかみさんを東京に残し、プチ独身生活もはやいもので3ヶ月。ようやく、最近は東京の我が家という感覚から九州の我が家という感覚になってきました。
 九州というひとつの大きな島は、非常に独特な文化が色濃く残っている気がします。どこにいっても興味のあるものが目に付きます。時間がなくて、なかなか見て廻れませんが、家族でゆっくり見にいきたいと思っています。
 本当は、テーマ活動についてと、パーティ立ち上げに関わっているテューターのMSの様子などを書こうと思ったのですが、ちょっと夜遅くなりました。こんな時間に事務局に残っていては健康に良くないので、日を改めまして書くことにします。
 明日は九州の大学生の「おっしょいとんこつ広場」。実は、まだ九州に来てテーマ活動の発表を見ていません。実に楽しみです!!
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いよいよ始動かな? 1 03月08日 (月)
開設以来全くほったらかしにしていたところ、いろんな人が覗いてくれたことが判明。反省しました。ということで、チョコチョコとできる範囲で更新していきます。今日は、先日終了した清水祭のざしきぼっこについて…。
 プログラムの中でも触れましたが、厳しい展開の一年でした。九州に転勤というのがとどめだったのですが。息の根を止められました。ただ、元々進みが遅かったのも事実。原因は一つ、ざしきぼっこが捉えきれなかったからです。あれこれと話し合いました。しかし、とくに3話をめぐって話は無間地獄に。ざしきぼっこ=病気の少年から生まれてきたものだとか、ヒューマニズムに流されすぎる嫌いがどうしてもなじめなかったのですが、えてしてみんなの話の方向はそうしたところに流れ勝ち。それは、人間の倫理や規範で物事を考えていく以上避けられない方向です。そして怖いことに、そうした倫理観や道徳観に基づいた意見は説得力をもつのです。しかし、最終的に僕たちは(誤解があるといけないので僕は)そうした考え方を放棄する方向を選択しました。確かに、宮沢賢治という一人の童話作家は終生を法華経の世界の現実的な実現を夢想したかもしれません。賢治の創作の根本的なモチベーションは、そうした道徳的な部分にあったのかもしれません。でも、やはりそれだけではないですよね?
 賢治の作品の中で僕が大きく惹かれる部分は、その空間の捉え方にあります。鉱物を収集し、化学実験にも傾倒した賢治の空間の捕らえ方は実に量感があります。無の空間の中に賢治は光の粒子やさまざまな色のついた微粒子を感じ、表現します。その感じが独特の「密度のある透明感」に繋がり、絶対的な賢治世界を形作るのです。ざしきぼっこの話も、例外ではありません。この物語の中に流れている量的な空間を捉え、それを感じずにただいわゆる「テーマ論」に終始してしまうととたんに賢治世界は破綻してしまう脆さを秘めています。一話の明るい透明感と音の存在感、2話の邪気のない明るさと子ども達の背中からにじみ出るような「ちょっとした」怖さ、3話の重苦しい感じと透き通った悲しさ、切なさ、4話の「夢か現か」の世界の空気。最後の清浄さ。そして、その中に斯くとして存在するざしきぼっこは、それはそれで理由をつけたくなかったのです。例えば、森の木々の中に獣たちがいるように、夕暮れの中でからすが過ぎ行くように。まるで風景に溶け込むように存在するこれらの動物に、存在の理由をつけたらどうなりますかね。例えば、からすは死に行く運命の暗示だとか。そうした場合には何よりも確立されたストーリーが必要です。その補完の為に、暗喩が必要になるのです。
 ざしきぼっこの話はそうしたストーリーはありません。一つ一つ、ぽろりポロリとイーハトヴォを切り取ったような風景画の集積のような印象を受けます。その風景を、なるべく壊さないように…。表現しようとしたつもりです。テーマ至上主義も、時にはこじつけや不完全燃焼に陥ります。そうした時は,どこか物語を壊してしまっているのだと思います。そもそも、全ての物語を解析しきれると思うのは大いなる勘違いであり、傲慢でもあります。物語を受け取り、まずは感じ、その後「再構築」することが大事なのだと思います。自戒しなければいけないのが経験を積むことによりひとつのパターン的に物語を捉え、テーマを与えることによって自己満足に陥りやすくなるということ。今回のざしきぼっこに取り組んで、そんな思いが芽生えました。純粋さは大切ですよね。物語を楽しむことを忘れないようにしてゆきたいと思います。
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