幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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葉月、命かがやく海へ…国境をこえて 08月01日 (金)
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三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
なんとまあ八月葉月である。夏活動まっただなかである。
フェイスブックには毎日のように
キャンプや 国際交流の現地写真がアップされる。
それを眺めつつ、無事と成功を祈りながら、
やはり「そこにいない自分」を
いまだに引きずっていることにおどろく。
虎の縞は洗っても落ちないし、
パンダは温泉に入ってもシロクマくんにはなれないのだ。

というのも、おそらくはこの夏という季節に!
自分自身の成長があったという思い込みが激しいからだと思う。
キャンプや国際交流でラボっ子たち は大きく育つ。
心の筋トレみたいな季節だ。
「男子三日会わざれば刮目してみよ」ということばがあるが、
キャンプなどはまさにその通りである。

ろくに朝ご飯も食べなかった子が
いきなり山盛り3杯のおかわりをするようになったり、
いつもは部屋のすみで目立たなかったあいつが、
なぜかどまんなかでキャンプソングをリードしだす
なんて魔法みたいなことが短い期間でおきる。
まあロミオとジュリエットの物語も真夏の4日間だかんね。

しかし、そうした子どもたちにむきあう
シニアメイトやコーチたちも
じつは子どもたちの成長ベクトルをもらって
さらに大きく成長する。
準備で入村してきたときには
都会の日常をあちこちにぶらさげて
「おまえだいじょうぶか」といったシニアメイトが、
子どもたちを送り出して退村するときには、
つかれきってはいるが、折れそうな少年少女から
凛々しく輝く青年の顔になっている。

で、そうした彼らとむきあうぼくたちスタッフが
結局はいちばん成長させてもらったのではないかと
今も信じている。そりゃそうだ。
数百名のキャンパーの成長ベクトル、
そしてそれによって増幅されたシニアとコーチのベクトルを
まともに浴びているわけだからね。

夏はやっぱり特別な季節なのだ。
ふりかえれば30年近くキャンプか国際交流か
ライブラリー制作のスタジオにいたので、
今こうして夏休みで人のいない学校に
毎日でているのはどうも変な感じである。

ぼくは、キャンプでも国際交流でも制作でも
「自分がいちばん成長する」といいきかせて仕事をしてきた。
キャンプの大統領でも村長でも引率責任者でも団長でも、
制作の現場責任者でも
そこにかかるプレッシャーとストレスは
マゾ的快感になってしまうのではないかというほどのきびしいものだ。
人の命と未来、多くの費用と思いのつまった作品に対する責任はすさまじい。
だからこそ「この仕事で成長するのだ」と
自己暗示に近いうめきをかかえて夏を過ごしていた。

「子どもたちのために」というのは簡単であり、口あたりもいい。
だが、会社のためにとか、 なんとかのために
というのやちり、ひねくれもののぼくは
基本的にうさんくさいと思っている。
「自分の満足と成長ために」がんばるのだ。ただその まなざしと心ばえのまんなかに子どもたちがいるのだと思う。
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さて、やっとカレンダーの話である。
今月の絵は出た!
大塚勇三・文 丸木俊・絵の名作絵本『うみのがくたい』に
題材をもとめたものだ。
描いたのは原口真帆さん(小6/川崎市・若槻P)。
いやあ、めくった瞬間、どたどたの仕事場が一瞬に海になった。
そのうちにほんとうに夕焼けになり嵐になるのではないかと
心配になったくらいだ。

ひさしぶりに高学年の子の作品だ。
さすがである。かなり力をつかっていると思うが、へんな力みがない。
バランス、構図、タッチ、色づかい。
それぞれほめねばなるまい。
さらにすごいのは、どこも手を抜いていない。
あたりまえのようだが、絵でも文章でも、
すみずみまで緊張感を持続させるのはたいへんなことなのだ。
体操競技でいえばつま先までそろって、
ひねりをいれながら着地もきめるというやつだ。
どこかでさぼっていないかとあら捜しをしたがむだだった。
まったく隙がないし、すみずみまでしつこく描き込んでいる。
しつこくというと悪い表現にきこえるが、
このしつこさはすばらしい。ほんとうに絵が好きなんだろうなあ。

クジラやイルカやサメやほかの魚たち、
そして水夫たちや楽器、それぞれのバランスはだれがみてもわかるが、
やっぱりきもちがいい。そしてこの色彩である。
この物語のひとつの肝である「音楽」を
真帆さんは色彩で描きだしてしまった。
はっきりいって、この物語はカレンダーでは
過去に名作がいっぱいでているので
入選するのはなかなかたいへんなモティーフである。

さらに年齢からいってこのくらいバランスをとって
描けている作品はきっとほかにもあるだろう。
だが、このリズムとメロディがあふれるような色づかいと
彩色の仕方はきわめて魅力的だ。
しかも動きがある。水夫たちも、さかなたちも踊りだしそうである。
そして、この絵は美しく、やさしく、しかしどこかさみしい。
それは、この物語のもつ海にきえた命への鎮魂という
メッセージを真帆さんなりに受けとめ、
さらにこの殺伐とした方向にむかおうとする
日本と世界への思いを
「叫ぶように」描き込んだのだろう。
だから、やさしい絵なのだ。
だが、一方ではげしい絵なのだ。
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昔、高島海の学校というのがあった。
その島の漁師がいった。
「海はこわいところだ。多くの命が帰ってこない。
でも、命の生れるところだ。
命がかがやくところだ。
だからおいらは海にでるんだよ」
このことばをきいたのは1981年。
その20年後の2001年、ぼくは『十五少年漂流記』という物語に紡いだ。
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さて、上はおっさんが4名食事をしている
おもしろくもない写真である。
しかし、ぼく以外の三名は大変な人たちである。
左から奥田晴樹博士、専門は近世日本史。
金沢大学で長く教授をされていたが現在は立正大学教授。
そのとなりは佐藤信博士。
専門は日本古代史で東京大学大学院教授。
おそらくこのなかでは一番多忙。
PCのメールにはなかなか返事をくれないが
携帯メールかLINEではすぐ返してくる。
この博士の妹は日本の女子プロテニスプレイヤーの草分け
佐藤直子選手。
で、えらそうなぼくの奥にいるのが植村泰佳武蔵学園理事。
電子商取引組合の役員もしていてやはり多忙。
この人の父上は物理学者の故植村泰忠東京大学教授、武蔵学園長。
さらに祖父は植村甲午郎元経団連会長。
なんていうカタカギにビビるぼくではないが
歴史にはほとんど素人のぼくに
教育史の仕事をするのなら
歴史のいろはのイくらいはご進講申しあげようと
食事勉強会を開いてくれたのだ。
なんで、そんな人たちがといえば簡単で
全員高校の同級生であるのだ。
ありがたや。

歴史には歴と史がある。
歴とはまさに事実の積み重ねだが
歴として生きても史となり得なかった多くの人びと
つまりぼくのようなきわめて一般人たちの
思いや祈りや喜びや叫びに
最大のリスペクトを持って思いをはせる
そんな志がなければ歴史を学ぶ意味はない。
うーん。
ほくは日本の教育史を
大正末期に生まれた旧制七年制高等学校とその時代、
そして戦中の学校、
さらに戦後の学制改革を
きわめて個性的な一私学の窓からとらえかえし
日本のリベラルアーツの流れと行方を記述しながら
未来にむけた提案をしたいという野望をもちはじめた。

ラボもまもなく50周年を迎える。
その祝い方を云々する立場にはもはやないが、
50年という月日に歴と史を積み重ねてきた
ラボっ子、テューター、事務局員、そしてサポーターたち
さらにさらに物語たちを
包み隠さず記述し、
ラボ教育活動の本質とはなんだったのかを
しっかりととらえかえすことが
これからの50年の礎になるはずだ。
もちろん解明できない部分も多々あるだろう。
たが、それもラボ教育活動の特徴である。
ラボ50年史はありきたりな年表や組織史ではなく
多くのすばらしい歴と史が歌う
内容で誇れるものになるはずだ。
なんて偉そうな話を先月、本部でしてきた。
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ぼくが仕事をしている学園記念室は
大講堂の一階にある。
この大講堂は大隈講堂や日比谷公会堂を設計した
早稲田の建築家佐藤功一氏が1928年に造ったものだ。
それ自体文化財的価値があるが
なかにはいるとシンプルで舞台周りには
横に時計があるだけで校訓や校旗もない。
国旗もない。
というより式典で国旗が掲揚されたり国歌が斉唱されたりということが
現在はもちろん、創立直後の一時期を除いてほとんど記録にない。
当時の校長や教頭、一木喜徳郎や山川健次郎、
山本良吉らは、
それほどいわゆるリベラルな教育者ではなかったのにだ。
山川健次郎は日本最初の物理学者であり
合理的発想ができた人だが、
会津白虎隊の生き残りであり古武士の魂の持ち主だった。
また山本良吉は西田幾多郎、鈴木大拙と旧四高で暴れまわった
教育哲学者、道徳者で、厳しい訓育的教頭であった。
しかし、彼らは官立ではない私学という独立した教育空間に
国家を代表する旗や歌は馴染まないと考えていたようだ。
戦時中も『御真影』を掲げなかったのもおもしろい。

教育の本質に自主、独立、自由があることを
確信していた者たちは
少数ではあったが日本各地にいた
その人たちがもう少し数としてメジャーであったら
日本が進んだ道は違っていたかもしれない。

愛国心を養う教育が提唱されて10年以上たつ。
また自民党が示している憲法改悪案には
家庭を愛し、地域を愛し、国家を愛することが
国民の義務として記されている。
家庭を愛する延長で国を愛するという
反対しにくい論法で組み立てたずるいやり方だ
しかし、なぜその家庭愛から始まる愛の延長と拡大が
国境を越えて世界へ人類全体に広がらないのか。
ここがこの草案の弱点であり知性と品性のなさである。
愛国より愛人類、愛世界だろうが。
そもそも日本という歴史的にも地理的にも
限定することが難しい地域を
世界にむきあってたかだか100年そこそこの国家という枠にはめこみ
それを愛しなさいという限定愛が無茶なのだ。
右とか左とかいう問題ではない。

第一、民主主義においては
国家は国をまとめるものがないと混乱するので
やむなく仕事を国民が与えた装置のようなものだ。
その装置は仕事として法律をつくることができるが
暴走してはまずいので憲法が押さえ込む。
これが立憲主義というやつである。
それを内閣が解釈をかえてはだめなのよ。
歴史素人の元ラボ屋のオヤジでも
そのくらいはわかる。
愛国心。いやあ胡散臭いことばだ。

人や自然や物語と出会い
輝きながら魂を陶冶する夏が好きだ!
夏活動の無事と成功を祈念してやまない。
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