幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧そのほかランダム新規登録戻る 0356915
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
ほら空が高いよ/ごめんねと あしたいえるかいわし雲  08月30日 ()
sdfs
夏の終わりはさみしい。
今年は海を見なかった。
おことわりしておくが、この日記は異常に長い。
本来は数回にわけるべきだろう。
しかしめんどくさいので
この間、書き溜めたものを整理しつつ一気にアッブする。
内容はラボに関係あることも多いが
ほぼ関係ないこともある。
なんとなく推測して、おもしろそうなところだけ読んでほしい。

タイトル写真は東京青山の国連大学。
子どもの城のとなり、ようするに246号線の青山学院大学のむかい。
先週、ここで2日間にわたって開催されたESD地球市民会議に
技術サポートで参加した。
cadc
wefwf
会場はかつての国連事務総長の名を冠した
ウ・タント国際会議場ほか。
ESD、すなわち持続可能な開発にむけた教育は、
それ自体言語矛盾ではあるけれど、
また、企業、自治体、NPOなどステークホルダー(利害関係者)
ごとのズレや一致しにくい状況はあるけれど、
いろいろ学ぶことはあった。
ちがうべ! と叫びたくなることもあったが、
さまざまに実践をしている
NPOやNGOからの報告はさすがにリアル。
なかでも西淀川の公害訴訟から生まれた
「あおぞら財団」の話はショックだった。
なぜなら日本人の根っこにくすぶる差別感情を
改めて考えさせてくれたから。
afe
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
長月。
今年も残り三分の一だ。
作品は”MOMOTARO”に題材をとめたもの。
いわずとしれた日本昔話の代表のエース、10番である。
描いてくれたのは戸梶璃音(小2/郡山市・山崎P)さん。
お名前は推測で申しわけないが「りおん」か「るね」と読むのだろうか。

絵はきわて力強くていねいだが
男性か女性かはさすがにわからない。
ていねいだから女性とはかぎらないし
男の子だからパワフルときめつけることもできない。
どちらか無理にきめろというなら男子に100ドル。
理由としてはすみずみまで力が落ちない精神的持久力か。
と、えらそうにいっていたら
「りおん」さんで、
元気な少女であることが判明。
ああ恥ずかし。

とにかく圧倒される作品である。
夏バテぎみで弛緩した魂をゆさぶりおこしてくれる。
フォルムも色彩も構図のバランスも描き込みのしつこさも
ただおそれいるばかりだ。
小学二年生7歳の作品だぞ。

自由闊達、天衣無縫。
それでいてゆるぎない造形のたしかさがある。
桃太郎の手の長さや家来の動物たちのフォルムが
一見、ふしぎに感じられるかもしれないが
「正確に描こう」などという邪念がまったくないから
かえって、ものすごいスピード感と
鬼が島へむかう迫力になった。
なかでも桃太郎の目力と
髪の毛の爆発がすばらしいぜ。
家来たちのかなりあぶない目つきもイカす。

全体に元気よく描かれているのはだれにもわかるが
ラフなようでいて、
じつは肝腎のところはていねいな仕事をしている。
さらに細部をよく見ると、かなり細かい筆が入っていて
キャラクターはもちろん、川の水面や草原、背景の山まで
まったく隙がない。

だからこそ、中心である桃太郎が
まるで3Dのように立体的になり
奥行きのある作品となって
より一層、力強さが増した。

色彩も同系の濃淡を緻密につかいながらも
スカッと抜けた、鮮やかさできもちがいい。
gererg
「桃太郎」の物語は、戦時中に利用されたことがある。
日の丸の鉢巻に鎧を身につけた完全武装で
鬼が島にむかう少年は
「鬼畜米英」にたちむかう報国の年少勇者としてかっこうのモデルだった。

そんな不幸な過去をぶっとばすかのように
この作品の題材となったラボ・ライブラリーでは
絵本を担当した本多豊國先生が
やんちゃで元気な
本来のワイルドボーイ的な桃太郎の本質部分を
見事によみがえらせてくれた。

その思いをきっちりうけためたこの戸梶さん。
絵を描くことはもちろん大好きだと思うが
この物語にどっぷりはいりこんでいることもまちがいない。

最近話題になったポスターに
鬼の子どもが泣きべそをかいていて
「ぼくのお父さんは桃太郎というやつに殺されました」
というコビーがついているものがある。

立場と視点を変えて考えることの意味をうったえたものだが
たしかに物語だけ裏返すと
桃太郎と家来たちは、
正当な報復攻撃のようではあるが
あきらかに無謀なテロを鬼が島にしかけ
鬼たちを全滅させてしてしまう。
そうしたことからその暴力性がとりざたされる物語でもある。

有名な文部省唱歌の歌詞も後半を略する場合があったり
福沢諭吉も鬼の宝をうばい
お祖父さんやおばあさんにあげたのは
私利的行為でよろしくないといったことを書いている。

さらには最近では「桃太郎」という呼称には
ジェンター・バイアスがかかっているという声もあり
それはいささか考えすぎな気もするが
シンプルななかにさまざまな思考を喚起する話ではある。

ただ、口承文芸研究の第一人者、小澤俊夫先生
(小沢征爾氏の兄で小沢健一の父)によれば
鬼が島攻撃についてもその描写はきわめて大雑把で
具体性がない。
どのように扉をあけさせたとか、
攻撃の詳細がない。
だからリアルな残虐性がないということだ。

また芥川や子規、白秋など多くの作家が
桃太郎を題材にした作品を書いている。

だから桃太郎は日本人の心の奥のほうに
なにかを語りかけるなんともふしぎなパワーがあるといえる。
そのことを最初に考えたのは柳田國男だ。
昔話のなかに日本の信仰のかたちを見ようとしたことは有名だが
桃から生まれた(別のかたちもあったようだが)小さな男の子
という異常出生と成長に着目し
桃、川、異界などのキイワードから
日本神話、さらには古代ローマの神話にまで論考をひろげた
柳田の研究は、後の多くの人類学、神話学における
桃太郎研究の先達となった。

さらに鬼について書けば…。
これはとっても長くなるのでやめておこう。

ともあれ、こむずかし話はぶっとばし
この迫力に満ちた桃太郎に毎朝元気づけられて
秋のはじめを大股で歩こうではないか。

夏のおわりを嘆いてぼやぼやしてると
「おい、寝てんじゃねえぞ!」
と彼にどやされる。

※シニアメイトと少年と力学
ewfew
武蔵学園に勤めにでるようになって4か月が過ぎた。
基本的には月~金の850から1720まで
大講堂1階の事務室か書庫か展示室にいる。
1928年に建てられたそれ自体が文化財的建造物は
なかなかいこごちがいいが
宮澤喜一氏などの歴代の超大先輩の
オーラがいまものこっている気がして
なにやらおそろしくもある。

一昨日、その学園記念室に
シンガポールのラッフルズ高校の生徒が30名くらい訪問された。
引率の教員も3名。
きけば同校は国際交流に積極的で
校長どうしがなにかの会で知り合った際に、
教育談義で意気投合し、是非交流をとなったそうだ。

今回は他のプログラムで来日しているので
2時から5時の3時間だけの訪問である。
しかし興味深いというか、いたく感心したのは、
今日のプログラム、武蔵学園ツアーと交流会は、
段取りから実行まで全て両校の生徒どうしで行ない、
学校は報告だけきいて口も手も出していないことだ。

様子を見にきた武蔵校長の梶取くん(同期)にきくと、
彼も今日の午後くるということしか知らず、
基本的に生徒を信頼してまかせているというではないか。
そう、キャンプのシニアメイトもそうだけど、
少年はまかせればやるんだよね。

かつて少年は青年になる過程で、
それぞれの地域社会のなかで役割があった。
しかし戦後の経済成長、都市化、核家族化のなかで
少年少女は幼児からも高齢者からも断切させられ、
地域社会のなかでの役割も消滅していった。
生徒、未成年者として括られ、
活動領域も学校となかば強制される部活動、さらには塾に限定されていった。
すなわち社会の力学にタッチすることができなくなった。
そしてある日、突然に成人、おとなだといわれる。

ぼくは行政によって一律に行われる成人式は否定したい。
それよりも、段階をおって自立にむかって歩むための
体験を重ねる機会、プログラムを数多く用意するべきだ。
身体と同様に魂の成長にも個人差、個性があるのだから。

世界各地の先住民の多くはイニシエーション、
通過儀礼を段階的に持っていて、
それに日常のなかで年齢に応じた狩猟や採集、
あるいは農耕のスキルや祭事のマナーなどのOJTがある。

それは集団の持続に不可欠な世代交代を
順調に行うための知恵にほかならない。
社会の力学や上下の世代から切り離された少年少女は、
その生命エネルギーの出口を求めて時として逸脱する。
そうした若さによる逸脱はいつの時代にも存在した。
しかし現代ではその逸脱が、
とりかえしのつかない、
しかも救済性のない残虐で悲惨なかたちで終焉したりする。

ラッフルズ高校の訪問のホストリーダーをしていたのは高1の生徒だった。
当たり前のことだが、事前の連絡も共通言語は英語だけ。
また20名の武蔵の生徒はすべて希望者で中1も入っていた。
記念室で展示物の説明を求められたが、
あえて日本語でリーダーたちに伝え彼らが通訳するかたちにした。

なかなかやるじゃないか若い衆。
やはり成長したいと自ら思っている若者たちと
向き合うのが性にあっているな。
ラッフルズ高校はシンガポール建設者の
ラッフルズの名をいただく名門校(ホテルもあるね)らしい。ラ
ッフルズはイギリスの植民地づくりにがんばった人だけど、
世界最大の花を発見しその名を残している。そう、ラフレシア。

※『銀のしずく』そして『不死身の九人兄弟』
このところ長袖ででかけている。
そして昼間の雨が美しい。
wqqdd
金田一京助のアイヌ語研究に
大きく貢献し19歳で夭折した知里幸恵の

梟の神の自ら歌った謡
Kamuycikap Kamuy Yayeyukar
「銀の滴降る降るまわりに」
“Sirokanipe Ranran Piskan”
を思い出す。
冒頭を少しだけ引用する。

「銀の滴降る降るまわりに
金の滴降る降るまわりに」
という歌を私は歌いながら
“Sirokanipe ranran piskan
konkanipe ranran piskan,”
arian rekpo ci=ki kane

流れに沿って下ってから
人間の村の上を通りながら
下を眺めると
pet esoro sap=as ayne,
aynu kotan enkasike ci=kus kor
sicorpok un inkar=as ko

昔の貧者が今の富者になっていて
昔の富者が今の貧者に
なっている様だ。
teeta wenkur tane nispa ne,
teeta nispa tane wenkur ne kotom siran.

アイヌ語に文字はない。
ではあるが
文字がないことが文化が低いという、
とんでもない勘違いをしているやつがどうもいるらしい。
そいつのオツムのほうがやばい。

そもそも地域や民族固有の文化に
高低の価値をつけること自体が無意味である。
箸とフォークはどっちがえらいといっているようなものだ。

むしろ文字をもたない言語のもつ力強さ、
詩的感動力、創造性に、
わしら散文的日常をおくっている都市生活者は
深く頭をたれねばならない。

1991年の12月、とんでもなく寒い北京にいた。
中国語版の『はだかの王様』『ありときりぎりす』
『幸福な王子』『ブレーメンの音楽隊』録音のためである。
その橋渡しをしてくださったのは
ラボとの交流がある月壇中学卒業生の母親である平さんだった。

彼女は北京放送(ラジオ)日本語部のアナウンサーで、
もちろん日本語はぼくよりうまい。
北京放送日本語部に国際電話すると「
はい、北京放送日本語部です」という見事な滑舌とアクセントの応答におどろく。
平さんにきくと、当時20名ほどいる同部のアナウンサーで
訪日した経験をもつものは2名ほどだというのでまたびっくり。

吹き込みに参加してくれたのは「北京放送テレビ劇団」の人気俳優のみなさん。
忙しいスケジュールを割いて、
まる2日間5名が予定を組んでくれた。
リーダーの女性は李林さんといって
中国でも大人気となったドラマ「おしん」の
中国語版でおとなになったおしんの吹き替えを担当した大女優である。

録音の数週間前に中国語の台本を送った。
すると「今出でいる英語と日本語版のライブラリーも送ってほしい」
というリクエストが出演者サイドからきた。
「英語は少しだけわかる。
日本語はほとんどわからないけれど音で
演出のニュアンスをつかんでおきたい。
また、歌も数曲あるので中国語が
メロディにのるようにリハーサルしておきたい」という理由だった。

成田発の北京行きChina Airの最終便で北京にはいった。
第三回ラボ・中国交流で訪れて以来だ。

録音は翌日朝から始まった。
当時はまだアナログのオープンリール10インチテープを
38m/secでまわす。
だからTDKの録音テープだけでスーツケースをひとつつくった。
中国にもテープはあったが当時のクオリティはわからないので
持参したほうがいいと中国側から助言があった。

朝一は俳優でも歌手でも声はでにくい。
基本録音は午後か夕方からだ。しかし彼らはだいじょうぶという。

たしかにばっちり声はてでいるし、
なによりおどろいたのは、
ぼくらは集合時刻の30分以上前にスタジオ入りしたのだが、
李林さん以下出演者たちは、
それよりもさらに早く来ていて
ぎりぎりまで日本から送った英日版のライブラリーを聴いていたことだ。

もちろん実力はある人たちだから心配はしていなかったが
ライブラリーから各キャラクターの感情を見事につかみとっていた。

スタジオは廊下の天井が旧ソビエト型でやたらと高い(底冷えする)以外は、
まったく普通の録音スタジオである。
マシンがほとんどアメリカ製なのがおもしろい。
どうもニクソン外交の後にどっとセールスしたらしい。

台本はもちろん中国語。
録音演出をするぼくは中国語と日本語の台本をもった。
横に通訳とチェッカーとして平さんについてもらい、
読みちがえやアクセントなどもチェックしてもらった。
また彼女は前述したように日本語は完璧なので
日本語のニュアンスとのずれについても
気になった場合はぼくに伝えてもらうようにした。

はじめはたしか『ブレーメンの音楽隊』である。
テストをしてオーケーなら本番。
当時の日本でならエンジニアに
「本番です。まわしてください」※ここで録音スタート。
で「『はだかの王様』日本語版シーン1 テイクワン」
とクレジットをいれてから
(※後で編集するときわからなくならないように。
これはデジタルでハードディスクの今でも入れることが多い。
自動で番号付けも可能だが、
なかにはシーン1の二行目三行目だけテイクスリー
とかいうのもでてくるので、
やはり声でクレジットはいれておいたほうが無難)

キューランプを押すとブースのなかで
それを見た俳優が語りはじめるという段取りだ。

はじめのうちはいちいち平さんに訳してもらっていたが
「まわしてください」が「走(ツォ)」だとわかると、
すぐに連発するようになった。

2編録音したところで昼食である。
通常はいわゆるスタジオ弁当であるが、
さすが食は中国にあり。北京放送の職員食堂に案内された。
めったに入れないところである。

けして華美なつくりではないが整っていてちゃんと円卓がある。
それで簡単なコース料理がでた。
みんなガンガン食べている。やはりこのエネルギーなのだな。

みるとエンジニアの責任者の録音課長の女性がいない。
きくと、彼女はまだスタジオでチェックと次の準備をしているという。
※後できくと集中がとぎれるし満腹すると
聴こえ方がかわるので本番中は水しか飲まないといっていた。
うーむこれもまたプロである。

だが、驚くべきことにアシスタントの若い兄ちゃんが
大女優のとなりでだれよりも必死に食べているではないか
「お前、ボスがはたらいてるのにいいのかよ」と呆然としてしまった。

スタジオのお兄ちゃんは、
録音のトップに名前がでるようなエンジニアめざして
それこそくるくると動きまわり、
チーフのミキサーを助けてすべてに気を配り、
機械の準備から操作をこなし、
もしマイクに不具合があれば飛んでいってなおし、
みんなかず休憩しているときでも次の準備やこれまでの録音の確認など
だれよりもはたらく。

それによって技術や緊急時の対応、
アーティストととの接し方などを身につけていく。

でも、この目の前で昼飯をぱくついている兄ちゃんの仕事は、
なんとテープの録音ボタンを押すこととストップするだけ。
後の操作や調整などはすべせて録音課長がゃっていた。
したがって、演者と打ち合わせをしている間などは
彼はとっても暇なのでなんと新聞を読んでいる。
ありえねー。
天安門事件から2年後、1991年の話である。

共産党独裁でありながら事実上の市場経済につきすすみ、
個人財産の所有が認められていくなかで、
都市と地方、もてるものともたざるものの格差が広がるという
大きな可能性と矛盾のなかで、
出口のない若もの焦燥と無力感を見たのだろうか。

それでも長い昼食が終わり、
3編目の『幸福な王子』を終わると冬の日はすっかり暮れていた
おそらく19時近かったろう。

スタジオと俳優は48時間の契約である。
しかし、さすがに声も限界のはずだ。
どんなにきたえていても朝からこれだけやれば声もへたるし、
表現する力も低下する。
技術でカバーしても声に疲労感がにじんだら使い物にならない。
ぼくは、「辛苦了 お疲れ様でした。
残りの『ありときりぎりす』は
明日の11時くらいらゆっくりやりましょう」と伝えた。

するとリーダーの李林さんから提案があった。
「今日はとても楽しく仕事ができている。
みんなも気分がいい。
時間はまだ7時だから後3時間から4時間は録音できる。
この調子をくずしたくないから続けて録音したい。
そうすれば、われわれもあなたがたも明日は自由な時間がとれる」
「いや、きもちはわかるけど
ぼくの経験上はすでにオーバーワークだ。
契約をもちだして恐縮だが、
これはだいじな作品だからていねいに録音したい。
明日、別に録音させてほしい」
「では、これならどうだろう。
われわれの自由な意思として
またお願いとしてとにかく録音してみてほしい。
それで、どうしても気に入らない、
あるいは部分的に録音しなおしたいということがあれば、
明日もまた録音するということでどうだろうか」

たしかに彼らが「のっている」のはわかった。
「わかった。そこまでおっしゃるならやってみましょう。
でもくりかえしますが、これは日本と中国の子どもたちにおくる
友情のあかしの物語です。
単なる教材ではなく作品です。
それはあなたがたもプロの役者だからおわかりでしょう。
声に疲労感がでたりしたら、
その場ですべてNG。明日の朝からとりなおしますが、いいですか。
いっさい妥協はできません」
「もちろん。了解です」
そういいきった李林さんの目は
ふしぎなくらい静かに落ち着いていたが、とても力強さむを感じた。

夜11時、結果は脱帽である。
李林さんはトランポリーナをじつにわかわかしくすてきに
そしてナレーターをあざやかに語り終えた。

終了後、夜はふけていたが
みな名残おしく感想をいいあった。うれしいかったのは
「子どもむきということではなく、
子どもに届けるのだからこそ高い質のものを」
という思いを共有できたこと(例の兄ちゃん以外は)。
ちなみに例の兄ちゃんは延長戦がきまったときめまいがしたらしい。

そんななかでわかったのは、
彼ら北京放送テレビ劇団のメンバーはみな幼いときから
歌や演劇のみならず、京劇や民謡、
はては少林寺など伝統的芸能や武術をかなりしっかりと学んでいた。

やはりきたえかたのスケールがすさまじいし、
伝統から学ぶものの基礎力を思いしらされた。

わかれ際、李さんは
「明日はオフになったから家で次のドラマの台本を読みます。
リテイクする部分があったらいつでも電話してね」
「いい仕事だったわ。またなにかしたいわね」
といってから軽く手をふって
すらりとした長身を猫のようにしなやかにひるがえして
北京の夜のなかにきえた。

その二日後、李林さんや関係者をまねいて
ささやかな打ち上げを日本食レストランで行なった。
その席に参加した北京放送日本語部長の李順然氏と親しく話すことができた。
氏は日本生れで30歳まで赤坂でくらしていたとのことでほぼ日本人のようである。

彼に、次のライブラリーでは「アジアの物語」をつくることがきまっている。
韓国、インド、モンゴルのおはなしは概ねきまっているのだが、
中国の物語をなににしようかと検討している。
『西遊記』はすでにリリースしているのだが……、
という話をした。

すると氏は
「それなら、雲南省を中心とした文字をもたない先住民の
伝承話が想像性にとんでいるし、なんといってもおもしろいですよ。
文字がないがゆえに詩的ですし、
自然とともにな生きてきているから自由奔放です。
中国の文学や伝承話もおもしろいけれど
基本的には文字の国の物語です。
どうしても長いし漢字は概念をひっばってくるから
ラボさんのような音声作品ならやはり先住民のお話がびったりですよ」

これが『不死身の九人きょうだい』のヒントになったことはいうまでもない。

話は知里幸恵にもどる。
幸恵は1903年に登別のアイヌ(アイヌは人間という意味なので
アイヌ人という表記は同語反復になる。
ここではアイヌ文化をテーマにするので便宜上アイヌとする)家庭に生まれた。
deqd
祖母はユーカラクル、アイヌの口承叙事詩カムイユカラの謡い手。
カムイユカラは文字のないアイヌにとって、
価値観・道徳観・伝統文化を継承するためものであり、
幸恵はこれを身近に聴いて育った。

当時は明治政府の政策、旧土人保護法があり、
保護といいつつ、アイヌの土地没収、漁業・狩猟禁止、
日本風氏名への強制改名、アイヌの習慣風習禁止
日本語使用の義務により、
アイヌは明治時代以前の平和で穏やかなくらしから、
いろいろな意味での危機に追い込まれていた。

※日本の恥ずべき法律(いまではほぼ廃止になっているが)は数々ある。
治安維持法、旧土人保護法、国家総動員法、らい予防法、特定秘密保護法

だいたい保護とか維持とか予防といったdeffenciveな名称の法律は
国家権力の刃をかくすオブラート。

幸恵は小学校では日本語の学ぶまじめな生徒だったが、
日本人(軍人・開拓民)の アイヌ差別に悩んでいた。
幸恵が15歳のとき、金田一京助が彼女の家を訪ねる。
絶滅危機のアイヌの伝統文化を記録するためだ。

幸恵は金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、
カムイユカラ研究への熱意を理解するとともに
それまで刷り込まれていた「アイヌ(旧土人)は劣った賎しい民族である
という劣等感を
金田一のことば「アイヌ文化は偉大で誇りに思うべき」で払拭し
アイヌとしての誇りに目覚めた。

その後、幸恵はカムイユカラをアイヌ語から
日本語に翻訳する作業を東京の金田一宅で続ける。

幸恵は心臓病を患い、安静を告げられていたが
作業を続け『アイヌ神謡集』は1922年9月に完成する。
だがその日の夜、心臓発作のため死去した。19歳。

『アイヌ神謡集』は翌年、柳田國男編による『炉辺叢書』の一冊として出版される。
そして幸恵の弟である真志帆は。学者となりアイヌとして最初の北大教授となった。

幸恵の故郷登別には「知里幸恵 銀のしずく記念館」がある。
http://www9.plala.or.jp/shirokanipe/

なお登別はアイヌ語のnupur-pet 濃い色の・河の意だ。

せっかくいい話なのに銀のことをアイヌ語で
shirokanipeというが、
この音には日本語のしろがねのバイアスがかかっているきがしてならない。

※俳句ingのこと 『ポアンホワンけのくもたち』
fdv
蟲とむとのちがいをしらべようと
『堤中納言物語』をさがしに大学図書館にまで散歩した。
大講堂からき5分ほどだ。
朝からの雨はあがっていつのまにか陽射しがもどってきている。
また蒸し暑いのは
かなわんと呻いたが
いきなり乾いた風に頬をなでられてたちどまった。
まるで年上の麗人に子どもあつかいされたような
気恥ずかしさと妙なときめきがあった。

人間のさまざな諍いも、祈りも喜びも悲しみも
いっさい気にかけることなく
季節はゆうぜんとめぐっている。
3号館むかいの大きな百日紅がかなり毒々しい花をつけている。
幹にふれるとツルツルで猿が滑落するというネーミングに納得した。

その百日紅の上の空がいつのまにか高い。
この風と空のせいで花の過激さも中和されている。

たぶん高積雲altocumulusだろう。
高さは2000mから7000mmくらいにできる。
いわゆる「ひつじ雲」はこの高積雲だ。
「いわし雲」や「うろこ雲」と混同されるが
ひつじ雲=高積雲は、いわし雲よりも
固まりが大きく底部が灰色になる。
知らない人はなんのこっちゃだが
『ポアンホワンけのくもたち』の雲の家族はこの高積雲である。

じゃあ、いわし雲やうろこ雲はなんだといえば
巻積雲 cirrocumulusである。
一時は絹積雲と書かれたが
現在ではまた巻積雲にもどっている。

いわし雲が家波と競うように
夕映えの地平までつづくようになれば
もはや秋、といっていいだろう。

でもこの雲は不連続線、すなわち前線の上部にできることが多いので
この雲がでたら3日以内に天気は
下り坂になる。観天望気のことわざにある
「いわし雲は雨」の根拠である。

いまも続いているかはわからないが
「ことばの宇宙」に「Let's Go! 俳句ing」というコーナーがあった。
※いまもあるのかな。

これは1986年に「ことばの宇宙」の編集責任者
(といっても部員なし)になったとき、
船長や宇宙人などのキャラなどといっしょに
ぼくがひねくりだしたものだ。

俳句というシェイプアップされたことばで
あざやかなイメージを切り出す、
あるいはてらしだす作業に
こどもたちにも挑んでもらいたかった。

だから五七五無視の自由律あり、季語なし季重ねもオーケーの
早い話がなんでもありのノーロープ、デスマッチ。
ただし、お題、テーマのことばをつかったものは
ばしばし落選にした。
で、やってみるととってもおねしろく。
だんだん投稿も増えてきて
とんでもなくおもしろいものがでてきた。

やはりこどもの感性、言語センスはおもしろい。
三年くらいたったとき、
優秀作品(ぼくが独断できめた)をあつめて
「殿堂」のページをつくり紹介したくらいである。

以下に記憶にある殿堂入り作品を紹介しておく
残念ながら、作者は当時の「ことばの宇宙」を見ないとわからない。
「」内はお題

ひとり旅 駅でばあちゃんまっていた
「夏休み」

おどろいた ぼくしんぐ選手 空にいた
「雲」

ふとんはね 夜になるまでひとりだよ
「留守番」

春風を まつ妹のランドセル
「一年生」

かあさんは 写真で見てもきれいだよ
「母」
※これはどきっとした。

北陸の たなかりゅうへい ゆきおとこ
「雪」

ありがでてくる 土
「土」
※これもすごい。

いつも題を考えてから
宇宙人と船長の見本をつくるのだが
それにたいへん苦しんだ。
句作はにがてだからである。

いまも唯一きにいっているのは
「ともだち」という題のときのもの

ごめんねと あしたいえるか いわし雲
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.