幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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カレンダー宣言 未来を信じる力の証明 01月01日 (木)
ラボ・カレンダー2015をめくる。
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正直にいうと2015年は
カレンダーの絵について感想を書くのは
もうやめようと思っていた。
理由はいくつかある。
ひとつは、もう十分だろうという潮時感。
それとこちらのほうがたいせつなのだが、
のんびりと子どもの絵の話をしている時代ではないのではということ。
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20世紀はほとんどが戦争による大量死の時代であった。
21世紀こそは、きっと平和でおだやかであることを
少なくとも紛争の数や規模は縮小の方向にむかうと期待された。

しかし、残念なことに
ぼくたちはいまだに血と汗の巡る地球の岸辺に立ち尽くし
ともすれぱその惨状に目をつむり
ともすれぱその叫喚に耳をふさいでしまう自らの無力と脆弱さに
打ちのめされ続けている。

そうした痛みを感じとるどころか
自らの名前を経済政策の名称に使用するという
世界が後ずさるほど野暮な宰相は
この国をかつてきた道ににひきもどそうとしている。
しかもそれは、
あたかも国民の総意のように幻視させられている。

この間の「特定秘密保護法」「集団的自衛権行使の閣議決定」
さらに大義なき総選挙と続くアペミノタウロスの暴走は
5年前に受けた大手術後の苦痛の数十倍ものダメージだった。

なにか。新しいことを学ぼうとか
新いことに出会おうという意思がきわめて薄弱なってしまった。
そんななかで、とてもラボっ子の絵に
きちんとむきあうことはできないと思ったのだ。

12月の絵をアップしたときには、ほぼやめる決意をしていて
あとは、ごくわずかな定期読者に対し
いつどのように表類するか、
はたまた卑怯な恋愛のように
いつまでも1月の絵をアップしないで
スルーして自然消滅をねらうかと
そんなことばかり考えていた。
po:;op
だが、先日、ラボの事務所によった夕方
カレンダーが3本とどいたとき
どこからか声がした。
それはずいぶんと恐ろしい声だった。
「なんだよ、それだけかよ。
おまえは絵のことをか書かないかわりに
なにかできるというのかよ。
かっこつけてんじゃねえよ。
おまえはこれからででくるかもしれない
ずこい絵をみないつもりかよ。
なんか楽しようとしているだけじゃね」


その声はおそらく、子どもたちの絵にこめられた
魂たちの恫喝だったのかもしれない。

テーマ活動がそうであるよえに
子どもたちの描画活動にも
時代は反映する。
そしてどんなにきびしい状況のなかでも
子どもは表現しようとし、前にむかって歩こうとする。

いや表現しようとする子どもこそが前を見る。
前を見ることができるから表現できる。
表現する意思は前進の意思だ。

戦火のもとでも子どもたちは絵を描き
歌を歌い本を読む。

未来を信じる能力は子どたちに
わけへだてなくあたえられている。

それを証明するために絵の感想を書いてきたのではなかったか。

子どもたちが物語に深く入り込み
そこで積み重ねた言語体験がぁって
はじめてラボ・カレンダーの絵の活動は成立する。

そこにこめられた子どもたちの思いを
汲み取ろうとする努力を放棄してしまったら
それは人の痛みを感じとる力をなくすことょりも
さらに切なく恥ずかしいたことだ。

少なくともここでやめてしまえば
楽になるどどころか
自分をゆるすみとができないだろう。

なんて、かっこつけてるのもがらじゃない。
先日、宣言したように今年も
好き勝手な応援をしていきたいと思う。
aegh
で、新年最初の絵は“Rum Pum Pum”だ。
描いてくれたのは近藤愛里さん(小5/長野市・吉澤P)だ。
ひさびさに小学校高学年の作品が年頭を飾った。

いわば正統派。原画をよく見て、しかも愛里さんなりの
色彩変化やタッチをだしている。

さすがに11歳くらいだから、仕事がていねいである。

※話はそれるが、学齢でものわいうのはなるべくさけたい。
学齢は後ともの変質とは無関係といっていい。
「あなたはもう中1でしょ」といった後の命令形
「まだ中1だから」といった後の否定命令形
どっちやねん! である。

フォルムや構図、色調は基本的に原作のそれを踏襲している。
模写といったしまえばそれまでだが、
彼女くらいの年齢であれば
原画をよく見て描く活動はけして単なる模倣ではない。

書道でいえば臨書にあたるといってもいいだろう。
臨書とは王羲之や欧陽詢などの漢字をマスターした人の作品を手本として
正確に書き写すことだ。
臨書は書の基本中の基本であり
止め、ハネなどの最低八つの筆法がきちんとできていなければならず
さらに筆の運びから姿勢、呼吸まで
原作者のそれに近づけなければ
完璧な臨書はできない。

だから完全な臨書は不可能といっていい。

だか、書家はさまざまな書体をまず古典の臨書から学び
それをくりかえすことで自らの書体ほを完成させていく。

例によって想像だが、愛里さんはゆそらく
絵を描くのが大好きで得意なのだろう。
そして、この物語も大好きなのだろう。

だからこそ、しっかりと原作絵本をながめ
ディテールもよく見て
バランスも色彩も愛里さんなりのきみちよさで
原作に近づいていったのだと確信する。

ラボ・カレンダーの絵で
「原画そっくりまるうつし」は
なかなか入選はしない。
ぼくが携わった22年間のなかにも
すごいテクニックとデッサン力の絵は
特に年齢の高い子の作品で毎年数点見られた。

でも、そっくり、うまい! だけなのだ。
こ れだけ描けますというShow off。すなわち見せびらかし
がすけてみえたりすると、
もうそうした作品ではラボ家庭の壁を1か月飾ることはできない。
また、その力があるなら自分の絵を描けよということでもある。

だから、この絵が1月の絵として目にとびこかんできたとき
「おーつ」と思ったのだ。

だからじっくり見た。
で、さっき書いたように、愛里さんのきもちが見えてきた。
仕事がていねいといったが、たしかに色に濁りがないので
筆を複数本しようしているだめうし、またよく洗っている。

また細い輪郭をさきに書いていて、それほ見るだけでも
デッサン力はたいしたもものだと思う。

こういう流れだと得てしてその輪郭内を「ていねいに塗り絵」
することになってしまいがちなのだが
愛里さんには、この物語のラン・バン・パンというリズムか
しみこんでいて、
そのスピード感やクロドリの決意の強さをそこなわないように
輪郭にあまりとらわれず、かろやかなタッチをで描いている。

しかも色彩には微妙な濃淡をほつけていて
ともみすれば平坦な色彩の原作絵本よりもおもしろい。
その点では「臨書」であり「本歌取り」でもあるといっていい。
なお、左上にタイトル文字をいれているのも
ふつうは失敗してしまうのだが
この作品では隠し絵みたいになっていて
とてもおもしろい。


全体に描きなれている感は満載なのだが
されがちっとも見せびらかしになっていないのは
やはり愛里さんのこの物語への思いなのだろう。

彼女と『ラン・パン・パン』の関係をぜひきいてみたい。
きっと吉沢さんが書き込んでくれるだろう。
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じつは『ラン・パン・バン』は
SK23のアジアの昔話を制作したとき
インドの物語として最後まで候補に残った作品だった。

結果としては『ヒマラヤの笛』が収録されたが
物語のおもしろさ、テーマ活動の展開を考えると
『ラン・パン・バン』は魅力的な作品だった。

ただ、権力者との戦いという点で
『不死身の九人きょうだい』とテーマ的にかぶること
また、『ヒマラヤの笛』『おどりトラ』『不死身の九人きょうだい』
『スーボの白い馬』はいずれも『ラン・パン・バン』
と同様に 再話作品ではあるが
原点が北インド、韓国、雲南イ族、モンゴルと比較的
エスニックなルーツがはっきりしており
その文化的歴史的背景が明確に伝わってくるという点で
ロシア、ギリシアと続いてきた地域シリーズのラストとしての
アジアの昔話のパッケージとして
インド代表は『ヒマラヤの笛』になった。

また、『ヒマラヤの笛』はラーマチャンドランというインド人アーティストを
福音館書店の松井直先生が5年がかりでくどいた労作であり
先生からぜひラボでというご支援もあった。

エスニックなしばりがなかったら『ラン・パン・バン』が
はいっていたかもしれない。
その後、ラボの新刊にとりあげられるときき
なにかほっとしている。

ク冒頭に書いたように
ますますハードな時
代がこようとしている。

とくに経済最優先で社会が動くとき
その矛盾としわよせのは
子どもたちゆ、高齢者、障がいをもつ人びとを直撃する。

そのなかで、子どもたち一人ひとりと
あらためて決意と慈しみを両手に
そして物語をハートに携えて
クロドリのごとく前進していきたい。
ラボの社会的責任、使命はきわめて大きい。

さあいこう
ラン・パン・パン!
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