幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧そのほかランダム新規登録戻る 0356773
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
胸騒ぎの水無月、物語を楽しむことができる幸せ、絵を描ける幸せを手放すな。 06月01日 (月)
gege
先週の午後、学園に練馬区役所の地域文化なんと課から2名やってきて
大講堂や学内を案内した。
濯川添いに東門の露場(ろじょう)にきたら生徒がいる。
ここはかつてぼくら気象部員が毎日観測をした聖地である。
1978年からはロボット化されアメダス観測所となり、
それも2年前に石神井公園北川に移転した。
東京練馬の気温は、ここから発信されていたのだ。

近づいてみるとヤギの親子がのんびりしている。
声をかけると、搾乳してます! と元気なこたえ。
さらに聞くと。加熱して飲みますとのこと。
露場は草いっぱいでヤギのストレス解消になるらしい。
きみたちは? ときくとヤギ研究会ですと、またまた元気なこたえ。
でも、まだ部には認めてもらえないんですとさみしそう。
がんばれ露場のなかまよ!
しかし中間試験の真っ最中にいい度胸だ。
nni
三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。
水無月である。
めずらしくフライイングせずに当月初日のアップだ。
※威張ることでもないが。

絵はアメリカの絵本作家、バージニア・リー・バートン
(Virginia Lee Burton)が28歳で描いた作品
”CHOO CHOO, the story of a little engine who ran away”
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』に題材をもとめたものだ。

描いたのは下山実桜さん(5歳/世田谷区・岡村P)。
ありがとう!
ピンクを基調にした楽しい配色は実桜さんのオリジナルだ。
原画はご承知のとおり黒一色だから当然である。

ただ、これは推測だが、絵本の表と浦の「見返し」に
バートンは、ちゅうちゅうの路線全体をカラーで描いているので
その色合いにインスパイアされのかもしれない。
だとすれば、これもまたすごいことだ。

とにかくこの物語が大好きで、そして「ちうゅうちゅう」が大好きで、
そのエネルギーだけで描ききっているのがすがすがしい。
自由闊達、まったくとらわていない。

元気よく、毎日ひたむきに走るちゅうちゅうに
「がんばれ、おうえんしているよ」という実桜さんのきもちが
ストレートに伝わってくる。
まわりの花も街も、風景もちゅうちゅうをチアアップしている。

主人公のちゅうちゅうは、意外に小さく中央に描かれているが
ちょっと見には軽く描いたようだが、じつは表情があるし、
ものすごく心がこもっているのが感じられる。
オカルトっぽいかもしれないが、
ことばに「言霊」があると日本人は信じてきたように
絵にも「ことば」と同じような力がある。
すなわち心をこめて描いた絵にも魂の力は宿るのだと思う。
「絵霊」(えだま)とでもいうのだろうか。

とにかく人間の心からしぼりだされた表現は
ことばでも絵画でも音楽でも、
命をもちそれ自身で語りだすのだと思う。
bnn;
しかし、原作の絵本を知らない人には、なんの絵かわからないだろう。また、知っていてもあまりの自由さに首ひねるかもしれない。このぶっとび方についていけないかもしれない。

これだけとらわれずに、しかもこれだけの大きさの絵を
まったく余白をまこさず全画面を彩色し、
さらに細部を描き込むのは
なみたいていのことではない。
実桜さんの5歳いう年齢からすれば、
ものすごい体力と精神力だ。
だから絵霊がいてもおかしくはない。

なんどもいうが、この画用紙長さは実桜さんの肩幅よりきっと広い。
だからとても巨大な紙に見えているはずなのだ。
かつて画家のかみや・しん先生(『まほうの馬 シフカ・ブールカ』『エメリヤンと太鼓』『十五少年漂流記』などの絵を担当)が
「絵を描くということは、楽しみでもあるけれど魂のトレーニングのようなものでもある」とおっしゃったず、実桜さんにとってこの画用紙に描くことし
まさに筋トレに近いハードさだと思う。

もうひとつ、これはライブラリーを聴いていないと
わからないのだが
実桜さんの絵はじつに音楽的だ。
実桜さんは絶対、繰り返しライブラリーを聴いていて、
堀井勝美さんによるあのでだしの
さわやかなリコーダーのメロディが
完全に身体にはいりこんでいるのだろう。
※あのリコーダーはまったくふつうのソプラノリコーダーで
小学校でつかっているものと同じ構造の「ちょっといい木製」。
演奏家がいいとあんな澄んだ音色になるのよね。

ライブラリーにおいて絵は空間的である。
他方、音楽は時間的だ。
そしてテキストは自在である。
だからテキストの暴走というと大げさだが、
ラボ・ライブラリーのような音声物語作品においては
音楽がテキストの暴走を抑え、時間をコントロールしている。
これはテーマ活動を体験したものなら実感できることだ。

たとえば物語のかわりめなどに7秒程度で流れる短い音楽は
「ブリッジ」といわれるが、
「一夜あけて」「しばらくして」などの
時間経過につかわれる。
仮に「ふたりはそのまま木下でぐっすり眠りました」
なんていうナレーションがあり
それを受けて流れる数秒の音楽は、
それからの時間経過を伝えるものになる。
だからいちいちテキストでいわなくても、
ブリッジの後にいきなり「さあ、今日はもりのむこうにいこう」などのセリフではじめることができるから、
説明的な語りがいらなくなるのだ。

それ以外にも音楽がコントロールしている
物語の時間はいっぱいある。
というより、物語の時間はテキストではなく
音楽が支配しているのだ。

この絵を描きながら実桜さんの身体のなかには
ちゅうちゅうの音楽とともに
物語の時間が流れいる。
色彩も自由すぎるかたちも、
あの音楽のリズムにのっている。
そして、きもちはどんどん物語の先に進んでいる。
描きながら実桜さんはなんどもこの物語を往復している。
だから、この場面がどのシーンかという問いは
この絵についてはあまり意味がないと思う。
いろいろと想像することは可能だが、
おそらく複合しているのではないだろうか。

そしてこの文を描きながら気づいたのだが、
ちゅうちゅうの物語のもつ疾走感、スピード感も
絵のタッチにでている。
うーむ、これまたたいへんなことだ。
xkxk
原作者のバートンはこの絵本を長男のアーリスのために
彼が5歳のときに描いた。1937年のことである。
それからもう78年がたつが
まったく古い感じがしない。
いつ見てもおしゃれでかっこいい。

バートンは野菜を育てたり羊を飼育して暮らした。
素朴で自然との調和を愛したバートンは
文明による自然破壊に対して懐疑や
新しいものにとびつき、古きものを使い捨てる
消費文化に対して警鐘を鳴らし続けた。
『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』『はたらきもののじょせつしゃ けいてぃー』『ちいさいおうち』などには
そうしたバートンの思いがあふれている。
そして集大成ともいえる『せいめいのれきし』は
ぜひもっていたい一冊だ。

バートンは、そうした強い精神をもちながら
子どもの心によりそい、子どものもつ自由をもとめる心、
成長がもたらす失敗と、それを通して知る周囲への感謝などの
子どもが身体を通して共感をもつことができる
ちゅうちゅうのようなキャラクターを描いた。

バートンは1968年、肺がんのため58歳の若さで他界する。
ないものねだりではあるが、もう少し作品を見たかった。

ラボの『ちゅうちゅう』の日本語は大山のぶ代さん。
英語はジェリー・ソーレスさんだ。
対照的な声質のマッチングがふしぎな魅力だ。

大山さんが認知症を患いながらも
お仕事への意欲を失っていないという
ニュースを先日読んだ。
プロフェッショナルは仕事をして
はじめて生きている実感がもてるのだと
頭がさがった。
次は残念ながらまた訃報である。
oojo
名優がまたひとり帰天した。
文学座の今福将雄さんが94歳で去る27日に亡くなられたとさきほど知った。
映画「日本のいちばん長い日」での畑俊六元帥
(戦後A級戦犯になるが死刑を免れる)役や
1968年の岡本喜八監督作品「吶喊」
(ATG作品でモノクロ、寺田豊主演で大谷直子のデビュー作。
ぼくは新宿明治通りのアートシアターに見に行った。中三だった)
が印象にのこる。

しかし、なんといっても今福さんといえば、
ぼくにとっては1990年のラボ・ライブラリー
『なよたけのかぐやひめ』の竹取りの翁「さぬきの造(みやつこ)」の役である。
ちょうどライブラリーがアナログの0.5インチテテープからCDに変更するときで、
ラボ最初のデジタル録音、しかもセリフもステレオだった。

収録は主に当時の日本コロムビアと
杉並にあったグリーンバードというスタジオでおこなわれたが、
ステレオでしかも話者の距離感や位置関係にこだわったため、
スタジオがかわるとマイクのセッティングあわせが当時はたいへんだった。

『なよたけのかぐやひめ』は、いうまでもなく
『竹取物語』に題材をもとめている。
天才、紫式部をして『源氏物語』「絵合わせ」の巻で、
『竹取物語』こそ「物語の出で来はじめの祖(おや)」、
物語のルーツだといわしめている古典中の古典だ。

作者は諸説あって特定されてはいないが、
おそらく「和名抄」を書いた源順(みなもとのしたがう)ではないかと思う。
海外の情報にくわしく、宮中の事情にも通じて
(かぐやひめにふられる男たちは皆、天皇の子どもとか、
右大臣以上のセレブであり、しかもモデルがほぼ特定できる。
さらにラストは天皇自らががくやひめに告る)、
また宮中になんらかの恨みかネガティヴな感情を抱いている者、
家族を失っている悲しみを知っている者……。
そんなデータから推理してくと源順の名にたどりつくのだ。

『竹取物語』のタイトルはラボのように「かぐやひめ」ではない。
あくまで竹取の翁が主人公だ。
非農民、竹を取り、竹でものをつくり、
それを商って活計(たつき)の道としていた翁は、
地域社会のなかでは下位に属し、
一般の団欒には近づけない存在だったはずだ。
ハメルンの笛吹き男や説教節の歌い手、
琵琶法師といった特殊技能者の悲哀のなかで翁は歳を重ねていったのだろう。

それが「かぐやひめ」という異常出生のオカルティックビューティを得ることで、
いちやく有名人となり、ひめへのオファーが殺到して
翁はマネージメントに取り組む。
その甲斐あって、ついにはセレブたちまでおしよせるが、
ラストはすべての記憶をなくし(羽衣をまとうのはその意)月に帰ってしまい、
翁はまたもにと戻るという、
アルジャーノンもまっさおの翁のジェットコースター人生、
すなわち翁のミステリーなのだ。

翁も媼も人のよい貧しい老人のようだが、
なかなかのやり手で、かぐやひめとの心理戦もおもしろい。
翁と媼が、なんとか帝に嫁がせたいと、
「おまえを竹のなかでみつけて大事に育ててきたが、
老い先短いわたしたちのささやかな願いをきいてくれまいか」と、
まずノーといえない状況をつくり
「育てていただいた恩義をわすれることはありません」と、
かぐやひめに大筋オーケーをいわせてから本題をもちだすあたりは、
かなりのしたたかさ。

しかし、かぐやひめも当時としては、まったく考えられない自立して
覚醒した精神のもちぬしだから、一筋縄ではいかない。
かぐやひめは月にかえるときに「不死の薬」を帝と老夫婦に託す。
しかし翁たちは、子をうしなった悲痛を
自らの不死でうめることはできぬとうけとらない。
帝もまた、遠くの高い山にもっていって燃やせと指示する。
それが不死の山すなわち富士山の名前のおこりだと、
物語は告げて終わる。
しかし、これはなんちゃってであり、
富士山の語源でもなんでもない。
そのことは当時の読者も、後の読者の紫式部も十分わかっていった。
ただ、こんな蛇足のようなつけたし的なepisodeが、
物語に救いをもたらし後味が濁らないようにしている。
物語の技術としてはすごい。
このあたりも式部はちゃんと評価している。

また、冒頭のほうでかぐやひめを一目見ようと
夜な夜な屋敷の周囲を這い回る男たちがあらわれ、
「夜這いのもの」と読んだとあり、
これが「夜這い」の語源だよといっているのもなんちゃってである。
夜這いの古諺は「呼び合い」であり、
一方的攻撃ではなかった。
これも読者たちは「うそ」と知りつつおもしろがったのだろう。

さて、今福さんに話をもどす。
『なよたけのかぐやひめ』の冒頭で、翁が竹の林に行き、
「よい竹育てよ。まっすぐな竹育てよ」と、
自らの命の糧である竹に思いをこめるセリフがある。
このライブラリーをお持ちの方は、ぜひ追悼のおきもちで聴いてほしい。
今福さんは「よい竹育てよ」目の前の近くにある竹にむかって語りかけ、
「まっすぐな竹育てよ」は、竹林全体によびかけている。
声だけで空間の広がりを演じ分けているのだ。
謹んで今福将雄さんのご冥福を祈念する。

竹は世界一成長が早い植物だ。だが、名優はゆっくりとしか育たない。

ここから先はラボ関係の話はちょっとしかでてきません。念のため。 
kdeq
ガラス乾板によみがえる青春の岐路

この写真は長らく学園の生物学教室に保管されていたガラス乾板を、
3年ほどまえに元校長の福田泰二博士がご自宅の暗室で現像されたものだ。
撮影された年月日や時刻は特定されていないが、
おそらくは1936年(昭和11年)か翌年の春であろうと思われる。
旧制武蔵高等学校第11期(文)生の集合写真であることは判明している。
彼らは1939年(昭和14年)に卒業しており、
当時の同類の写真から尋常科から高等科に進学したときの撮影と推測されるのだ。

写真の中央から向かってやや右の前列、
ノートを左脇にかかえて微笑む小柄で童顔の少年がおわかりだろうか。
少年は3年後、東京帝大法学部にすすみ、
大蔵官僚、大蔵大臣、内閣官房長官などを経て第78代内閣総理大臣となった
宮沢喜一氏である。
いたずらっぽい笑顔は、いかにも利発そうたが、
実際、宮沢氏は成績抜群で、
とくに幼いときから学んでいた英語は、
すでに会話はもちろん原書も読みこなす力があった。
卒業時には首席との記録がのこっている。
当時は寮でくらす生徒が多かったが、
宮沢氏は集団生活がいやで、
大森の実家から90分かけて江古田まで通学していたと回想録で述べている。

だが、これから書くのは宮沢氏のことではない。
宮沢氏と同様に成績優秀で、
かつ人格者として同級生や後輩から慕われた相浦忠雄(あいうら・ただお)氏の話だ。
後年、宮沢氏をして「彼が生きていたら、どちらが総理になったかわからない」
といわしめた人物である。
写真の前列左から3人め、右足を階段のふちにかけ、
膝の上に右手を置いている少年が相浦氏。
精悍で意思の強そうな、豪放磊落な性格であることが写真からも伝わってくる。
兄貴分ということばが似合いそうだ。
相浦氏は卒業時、成績では宮沢氏にわずかに届かぬ次席だったが、
そのリーダーシップのみごとさから特別に表彰をうけたという。

相浦氏もまた東京帝大に進学するが、
日中戦争はすでに始まっており、
軍部が力を増した日本は、
太平洋戦争という外交上最悪のオプションを
「防衛・大東亜共栄」などの大義名分のもとで選択する日が近づいていた。

武蔵で、宮沢、相浦らの1年後輩に近藤道生(こんどう・みちたか)氏がいる。
国税庁長官(第一銀行に関与)から博報堂社長となり、博報堂の売り上げを前年比170億円以上におしあげて博報堂中興の祖といわれた傑物だ。

ーその近藤氏が日経の「私の履歴書」で相浦氏についてふれている。それによると、昭和16年12月8日、下宿に友人がかけこんできて真珠湾攻撃を大々的に伝える号外を見せた。「勝った、勝った!」とさけぶ友人に近藤氏は「困ったことになるかもしれん」といいのこして外にでる。近藤氏はすでにアメリカ、イギリスとの開戦は無謀という認識をもっていたが、同時の時勢はそれを口にだすことは許さなかったという。
そのまま徒歩で10分ほどの帝大図書館に着くと、そこで相浦忠雄氏と会う、相浦先輩は近藤氏を図書館の屋上に誘い、眼下に東京の家並をながめながら、突然「君、これが全部焼け野原になんだよ」といった。
 この開戦が無理であると考えていた近藤氏も、これには仰天して「そのまえに軍部はなんとかするでしょう」といいかえすと、相浦氏は「いや必ずそうなる」
といいきった。その横顔は口元がひきしまっている。

それから10日後、近藤氏は箱根の旅館での夕食によばれる。
近藤氏の実家は小田原の医院なので
食後は実家に泊まればいいとかるいきもちででかけた。
夕食会のホストは、近衛文磨元首相だった。
戦争に消極的でアメリカとの外交交渉で開戦をさけようとしていた近衛は、
結局、軍部の力にまけて10月なかばに退陣し、
陸軍大臣だった東条英機が兼任するかたちで総理になった。
この東条内閣誕生から、軍部も世論も開戦にむかって加速していった。

その日、近衛に箱根の旅館によばれていたのは、
近藤氏の他には作家の山本有三(『路傍の石』)と
元内務大臣の安井英二だった。近藤氏は当時は一介の法科の帝大生だが、
それが招かれたのは、近衛文磨の次男を囲む勉強会に
皆出席していたためだろうと近藤氏は後に語っている。
また、その勉強会をよびかけたのは山本有三だった。

近衛文麿は「ハワイで軍艦をいくつも沈めたと、
軍も国民も舞い上がってはいるがいかにもまずい。
軍はわたしにアメリカと交渉させまいとするし、
アメリカも最後になって挑発的だった」と静かに語りながら、
アメリカ・イギリスとの戦争をなんとか避けたいとした努力が
無になった苦渋をにじませた。

もうひとり、山本五十六もまた、
ハワイにせまる連合艦隊をひきかえさせるべく昭和天皇の「聖断」を得ようと
ぎりぎりまで奔走したが、
それも軍部と側近たちによってインターセプトされ、天皇の耳には届かなかった。

近藤氏は大学に戻るが、法科でありながら法律に興味がもてなくなったという。
軍部の圧力、そして悪名高い「国家総動員法」(いやな予感がするぜ)の下で、
憲法もそのほかの法律も機能していなかったからだ。
ようするにこのころの日本は法治国家の呈をなしていなかった。

東京が焼け野原になる」と開戦の日に予言した相浦氏は、
東京帝大を卒業後商工省に入省、
すぐに海軍短期現役主計中尉となり志願して前線に出ていった。
1944年、昭和19年9月、相浦氏は主計大尉となりシンガポールにいた。
そこには戦艦武蔵の庶務主任だった土田國保氏
(後の警視総監で過激派が自宅に送った
爆弾により夫人が即死した事件はあまりに有名)が
日本への転属のため帰国の船をまっていた。
帝大の先輩にあたる相浦氏をたずねた土田氏にむかって、
相浦氏は平然とこういったという。

「来年の今ごろは東京には米兵があふれているだろう。
ぼくと君がのるこの雲鷹(うんよう=商船を改造した空母)は、
おとり艦としてきっと撃沈される。
志願してこの艦に乗ったぼくは艦と運命をともにするが、
君は内地に生きてかえってわが国の行く末を見まもってくれ」

はたして9月16日深夜、雲鷹は台湾沖でアメリカの潜水艦の魚雷を2発うける。
しだいに傾きゆく船内で、相浦氏は土田氏に自分用の救命胴衣をさしだし
「これをもっておれ、おれは泳げるから」といった。
土田氏は「自分も泳げます」といって胴衣を壁にかけ退艦し、
6時間の漂流の後に救助される。

相浦氏は、つぎに泳げずにふるえている若い水兵に
「ほれっ」といって胴衣を投げわたす。
それはまるで、鉛筆をわすれてこまっている同級生に
気軽にさしだすような感じだったという。

日付がかわり艦はいよいよ沈没しはじめる。
相浦氏は、館長とともにブリッジにいたが、
そのときのようすを庶務係として
相浦氏のもとで任務にあたっていた関徳男氏が海軍関係の本に書いている。
館長は船の傾斜角度を幾度か相浦氏にたずねたが、
相浦氏は逐一、「45度です!」などと報告していたという。

関氏によると最後の報告は「65度!」で、
これはもう立っていられない角度である。
のとき、おだやかだった相浦氏がすさまじい形相と声で関氏にむかって叫んだ。
「関! 出ろ!」


その一声で関は海へとびこみ奇跡的に帰還する。
関氏が最後に見た相浦氏は海図を背に軍刀を杖にして直立不動をたもっていたという。
相浦忠雄氏は24歳10か月だった。

ガラス乾板にうつる相浦氏と宮沢氏にそんな激烈な未来がまつとは、
本人たちもまだしらない青春の日。

戦争の不条理をだれよりも冷静に認識しながら、
志願して死地に赴いた相浦氏。その思いはなんだったのが、
これほどの人物の真意はなんだったのか。彼がのこした文章が遺稿集としてあるので、
その心情をこれから分析していきたいと思っている。
ときには一枚の写真が歴史を動かし、自由と平和への力になると信じて。
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.