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二番目の角を右に曲がって、それから朝までまっすぐ! 11月01日 ()
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
"Second to the right," said Peter, "and then straight on till morning."
「二つ目の角を右にがって、それから朝までまっすぐ!」 fbdfbd
霜月になった。今年も残り60日。
えーつ、とかいってもダメなのだ。泣いてもわめいてもムダである。
だから毎日いっしょうけんめいだらだらと生きるのだ。

その11月の絵は、ご存じ『ビーター・パン』”Peter Pan”
サー・ジェームス・マシュー・バリSir James Matthew Barrieの
名作ファンタジーに題材をもとめたラボ・ライブラリーからだ。
描いてくれたのは山・彩央依さん(5歳/高知市・宮地P)。
この2か月、高学年のラボっ子の作品が続いたのでホッとする。
誤解なきようにいうが、
高学年の子どもの絵がつまらないというわけではない。
3歳~5歳の子どもが描く絵は、まったくとらわれがなく自由で
ある意味気ままで(自由って法的、社会的、倫理的に考えると、
「何をしてもいいことではない」とか「他人の自由を侵さない」
などといろいろ制約がつくが、
本来の意味は何でもアリ、
気まま勝手ということだと思う。
だから、人間は本質的には自由にはなれない。
理性とか文化とか理性なんかをくっつけている限りね。
でも、それとったら人間じゃなくなるから、
人間存在と自由はdouble bindかも)、
うまく描こうなんていう下心もない。
それができるのがこの年代だ。
ピカソは、晩年、まさに5歳児が描くような
デッサンや陶器に描いた作品を多数残した。
もちろんピカソだから、線はとても美しく、
自由ながらゆるぎない造形の確かさがある。
でも、ちょっと見には幼児の作品だ。
それらの作品についてピカソはこういっている。
「やっと、このように自由に描けるようになった。70年かかった」
山・さんの作品をそうやって眺めると
きちんと描かれているけれどとらわれがない。
で、ここからがだいじなのだが、とらわれていないのというのは
なにも感じていないことでも、なにも考えていないということでもない。
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この場面は左からピーター、ウェンディ、ジョン、マイケル、
そしてティンカー・ベルであろう。
ビーターは緑色の衣装を着ているが、これはディズニーの影響である。
ディズニー作品については、
みなさんもいろいろとご意見があると思うが
ここはそれを展開する場ではないのでまたにしよう。
バリの原作でピーターのコステュームは
「筋だらけになった枯れ葉と木からにじみ出る汁でできた服」
ということになっているため、まあ枯れ葉色に近い茶色だ。
それが緑色として強く印象づけられたのは
ディズニーによるカラーアニメイション映画からだ。
ディズニーは例の遊園地やミッキーマウスに象徴されるように
都会的でありながら自然や冒険の意識があり、
ファンタジーへの願望も強い。
だからビーター・パンはうってつけのテーマだというのはわかる。

ディズニーにはまた、
能登路雅子先生が『ディズニーランドという聖地』(岩波新書)
で指摘されているように
「安全な冒険」がコンセプトにある。
ジャングル・クルーズなどはその典型だし、
考えてみればネズミもまた家に現れたら
ゴキブリと同様に大騒ぎになる存在だ。
かつてはペストを媒介したり、
ハメルンで児童大量失踪事件の元凶だったりした。
台所にネズミが出ても「きゃー、ミッキーよ」といって
写メを撮ったりしないだろう。
ミッキーマウスは、美しいネズミというこれまたdouble bindだ。

話を戻してディズニーアニメによって
ピーターのイメージが定着したことはまぎれもない。
それ以降、多くの絵本や舞台、イラストなどに登場する
メディア上のビーターはほとんど緑である。
グリーンマンかと突っ込みたい。
だから、その意味ではディズニー以降は原作無視といえる。
確かにカラーアニメの主人公の衣装が枯葉色では映えないけどね。

これまた誤解なきように書くのだが(いやあ神経使うわ)、
山・さんの絵を批判しているのではない。
ご承知のようにラボの絵本は高松次郎先生によるスピード感と静謐さと
奔放さと誠実と、勇気と幼さなどが入りまじったコラージュである。
ピーターの映像的イメージを固定させず、
音声言語から生まれる子どもたちの想像に委ねたのだ。
それは当時からあるラボの見識だ。

でも、ビーターはあまりにも人口に膾炙していて、
そのイメージも長く浸透している。
したがってそれらの情報は意識しなくても幼い子どもの心に入ってくる。
その意味ではディズニーの影響はこわいのだが、
またまた誤解なきように書くが(いやはや難しい汗汗)、
ここでいいたいのは
山・さんは、5歳なりにそれらの情報をきちんと整理して
表現しているのがすばらしいということだ。
自由だけどちゃんと情報処理しているのだね。
逆にいえば、山・さんが中学生くらいになっても
絵を描きつづけているとしたら
まったく独自のピーターを描くのではないだろうか。

さても、もう少し絵をみていこう。
これまでにも書いたことだが、
ラボ・カレンダーの絵の応募規定サイズは
5歳の子どもの肩はばより大きい。
これだけでかなりの脅威である。
学齢前の子ども、いや小学生でも、なかなかこの大きさの絵は描かない。
1年に一度くらいは、でっかい絵にぶっ倒れるくらいのパワーで
取り組もうというのがカレンダーの絵の目的でもある。
だから、山・さんにとっては、この作品のように最後まで、
しかも隙間なく描き切るのは、
かなりの体力と気力が必要だったはずだ。
ただ絵が好きなだけだけではそうはいかない。
やはりこの物語への思い入れとか、
なにかモティヴェイションがあったと思う。

この絵でなんといっても驚かされるのは、
大きな面積を最後まで描ききっただけでなく、
背景の描き込みの複雑さだ。
薄い緑の中間色の最下層からイエロー、
さらにまた薄い緑の中間色の層がある。
この中間色はじつにおしゃれな現代色だ。
また、そのなかにピンクのドットが細かく打たれているのもすごい。
この点を集中して描くだけでも5歳にはたいへんな作業だ。
この色の層には選考委員は全員うなったと思う。

もちろん、幼い子がこうした不透明水彩を使う場合、
筆洗やバレットの加減で偶然に生まれる色が多々ある。
しかし、偶然でも奇跡でも、出現した色に心が反応して
おもしろい! かっこいい! と感じるセンスがなければ
こんなに集中して描きつづけることはできない。
そして最上層はきもちよく抜けたライトブルー。
いやあすばらしい。

人物は5歳なりの描き方だが、
ピーターとウェンディのさわやかな笑顔は
新しいことにたちむかう人に勇気をあたえてくれる。
対してジョンとマイケルのやや不安そうな表情がリアルだ。
さらに右はしのティンクのいたずらっぽい顔もにくい。
Tinkerは、ナーサリーライムにもでてくる
鍋や釜を修繕する「鋳掛や」
(定住せずに道具を持って行商する鋳掛やは実在した)だが、
口語では「いたずらっ子」「困ったちゃん」の意もある。

空には星や月や太陽や雲と思われるものが
とっても楽しく描かれている。
もう山・さんは、描きたいもの、イメージにあるものを
出し惜しみせずに総動員して描いたのだろう。
さらに彼女は、5歳までに経験した人生すべても総動員したと思う。
この点がいちばんのポイントで
ぼくが最もmentionしたいところだ。

ラボ活動、テーマ活動も含めて
すべからく表現活動、表現教育プログラムにおいて、
そのときの人生を総動員しなければ、
その意味と喜びは半減するといっていい。
そうでなければ、それは「やらされている」に過ぎず
主体的活動にはなっていない。
だからこそ、人生を総動員してお互いをさらすがゆえに
テーマ活動で培われた人間関係、絆、reunionは
強固なものになるのだ。
その総動員を山・さんは衒いも計算もなく
のびのびと行なっている。
出し惜しみないからこそ、ピーターも緑なのだろう。

そう思うと冒頭のディズニー論など
どうでもいいような気もする。
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ここから先は想像で、山・さんがどういう順番で
この作品を仕上げたかにもよるのだが、
中間色の薄緑とピンクのドットのあたりから
とっても楽しくなってどんどんいきおいがましたのだろう。
しかし、それにしてもこの集中を生んだ『ピーター・パン』と
山・さんの関係を知りたいものだ。

蛇足だが、山・さんが描いている星は五芒星だ。
幼いときにおぼえるとなんども描きたくなる一筆書き。
この星は古くから世界で魔除けをはじめとする
オカルティックな意味をもった記号だった。
日本でも陰陽道に登場し、
内接する正五角形を五行の5つの元素のシンボルとした
安倍晴明も紋に用いている。

最古の記録ではメソポタミアでシュメール人たちが用いているし
古代エジプトで五芒星は子宮をあらわしていた。

さらに五芒星にはいくつかの黄金比
が含まれている。
1と1+ルート5の2分の1の比率。およそ5対8。

水平の線分の長さと、その線分の左端から斜め右に降りる線分の
五角形の先端までの長さや
二等辺三角形の一辺の長さと正五角形の一辺も長さの比がそうだ。
こうした一筆書きや黄金比などの幾何学的特性もつ力が、
古来から呪術的な感性をよびおこしてきたのだろう。
だから、ぼくらもこの五芒星の描き方を知ると
やたらと描いたし、山・さんもその力と無縁ではあるまい。

さても、この絵は物語のどの場面だろうか。
ダーリング家からとびだした直後のロンドンの夜とも思えるし、
ネバーランドに到着したところ(たぶんこっちかな)とも思える。
それらのすべてかも知れない!
ただはっきりしてあるのは、山・さんの作品を
おとなの小さな頭で評価しようというのが
そもそも傲慢のきわみであり、
この絵からなにを学ぶかがむしろおとなが問われている。
だから、ぼくなりに学んだことをいつも書いているのだ。
けして評価ではない。

『はなのすきなうし』のマンロー・リーフがいうように
Rise up to children's eye.
すなわち子どもにおりていくのではなく
子どもの目線まで、ぼくらは必死に上がらねばならない。
これは多くの幼稚園や小学校の先生に伝えたい。

今回もまたラボっ子の絵からたくさん勉強することができた。
62歳のぼくがこれだけ学べるのだから
若い人たちはなおさらだ。

そのついでに書くが、
こと絵は場面がどうこうというより、
ピーターやウェンディたちが自己紹介しているように思える。
自己紹介は自己表現のはじめの一歩であり、
人間の情緒のユニット、単元ともいえる
幼い子にとってはたいせつなものだ。
ラボ・ライブラリーにも自己紹介はいっぱいでてくる。
「じぷた」の歌や「ブレーメン」の歌など は典型だろう。
この絵もすてきな自己紹介だね。
それで、
この絵から浮かんだ原作のことばがあるが、
それはタイトルにもあげた
"Second to the right," said Peter, "and then straight on till morning."
「二つ目の角を右にがって、それから朝までまっすぐ!」
朝が遠くなりつつある今だから
とっても励まされるよ。

さて、
「全世界のまだおとなになっていないみなさん」とか
「すぐそこだ。だが、恐ろしく遠い」とか
『ピーター・パン』はけっこう理屈っぽい物語でもあるのは
ご存じのとおりだ。
だがそうしたセリフが魅力でもある。
また、母親ってなんだというセリフや
ネバーランドのロストボーイズという名称や設定は
かなり考えさせる。
※棄民はこの物語のひとつのテーマだが、それは後日。
また、ほんとの悪人がでてこないのもおもしろい。
フック船長は敵役だが、マナーのある紳士で
スタイリッシュである。
だからピーターパン総選挙をすれば神7どころか、
センターを争う。
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最後にバリのことばをすべての
疲れた人たちにおくる。

“The secret of happiness is not in doing what one likes,
but in liking what one does”
「幸せの秘訣は、やりたいことをするのではなく、
やらなければならないことを好きになることである」
※写真はバリとバリのメモ
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