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月日は旅人のように通り過ぎていくけれど、今年も物語だったのだ! 11月30日 (水)
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三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる。

師走の声をきくようになると
芭蕉の「奥の細道」の冒頭
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」
を思い出す。
月日は百代(はくたい・永遠の意)の過客(かかく・旅人)であり
来ては去っていく年も旅人のように帰らない。

実はこれにはオリジナルがあって
唐の大詩人、李白の春夜桃李園に宴するの序という詩の一節

夫れ天地は萬物の逆旅にして
光陰は百代の過客なり
からの引用である。
(逆旅・げきりょは宿屋のこと)
芭蕉の李白へのhommageオマージュ、
あるいはtributeトリビュートだともいえる。

この詩をざっくり訳すと

天地はあらゆるものを迎える旅の宿で
時の流れは永遠の旅人さ。
人生ははかなく夢のように過ぎ去る。
楽しいことは続かない。
だから昔の人は火を灯して夜中まで遊んだのさ。
このやわらかな春の日に、
桃が香る園に集まり、兄弟そろって楽しい宴。

弟たちは才能あるやつばかりで、
おいらはなかなか叶わない。
花咲く樹の下に座り、
羽飾りの杯を交わし
月に酔っぱらうなら、
かっこいい作品を作らなきゃ。
もしできないなら
罰として酒三杯を一気飲みだい。

芭蕉はこの天才の
時の流れには勝てぬと知りつつ立ち向かう
詩人の自負に満ちた詩に
おそらくは生きては帰らない終活の旅だちに向かう
自分自身を重ねていたのだろうか。
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前置きが長くなったが、
いよいよ今年最後のカレンダーの絵だ。

ウクライナの昔話「THE MITTEN  てぶくろ」に
題材を求めた作品。
描いてくれたのは正木祐太朗くん(小6/戸田市・町田P)だ。
一年の終わりを締めくくる大トリの絵にふさわしい力作だ。

場面はいうまでもなく、
すでにフルハウスの「てぶくろ」に
「のっそりぐま」が真打登場! とばかりにやってきたところ。

昔話の一つの特徴である「くり返し」は
ロシア系昔話にも数多く見られる。
読み手は、しだいに大きくなる訪問客に
「もうムリ〜!」とドキドキ最高潮になるところだ。

森は深く、寒く、雪はただふりつもる。
普通なら、
「入れろー、グオーつ」
「あかんで、ムリや堪忍して」
「なんやとー、ガオーッ」
となるところだが、
迎える「はやあしウサギ」や「きばもちいのしし」タヂは
実にとぼけて「はいれば」的雰囲気だ。
また、くまもくまで、
ご近所のおじさん的穏やかさで覗き込んでい、
こちらも表情がほとんどない。

正木くんがどの程度意図して
こう描いたのかはわからないが、
年齢から推察するときっと考えがあってのことだと思う。
小6男子の正木佑太朗くんが、
この作品を選んだ理由をぜひ知りたい。

そうしたらハッと思ったのだが、
彼はこの夏の新刊『夏の夜の夢』の
蟹江杏さんの絵にインスパイアされたのではないか。
ぼくの考えすぎかもしれないが……。
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原作絵本のラチョフは、
徹底した観察とデッサンで動物たちののフォルムや動きを
柔らかで緻密な線で表
現したことで知られる。
さらに動物の生き物としての特徴をキープしながら
愛情を込めて擬人化している。

この物語を題材にしたカレンダー応募作品は多いが、
どうしても原画に寄せた、
厳しくいえば「真似しようとした」絵が多い。

だが、祐太朗くんは物語のエッセンスをたいせつにしながら
まったく独自の世界を描き出している。
その個性は絵のなかにいろいろと見えるのだが、
なんといっても表情を抑制した動物たちだ。
偶然かもしれないが、やはり意図がきっとあると思う。
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表情を抑制したことで
みるがわにさまざまなストーリィを想像させ、
新しい物語がいくつも生まれる。
『夏の夜の夢』にインスパイアなどと
穿った想像ををしたのはそんな理由からだ。

しかし、表情は抑制していても
「はやあし」「きばもち」「はいいろ」「のっそり」などの
動物たちの個性はきっちりと描かれている。
「個性を排除しない」「可能なかぎり受け入れる」
という今も物語が発する共生への
普遍的なメッセージだ。

動物たちは自らの個性を変えようとはしない。
それがなくなったら自分ではなくなってしまうからだ。
だからこそ、つぎつぎとやってくる動物の個性も
多少の抵抗はしても受け入れていく。

個性的であることが生きにくい時代、
グローバルという美名の画一化時代への
警鐘のように思えてならない。
その意味で、年末大トリにふさわしい、
翌年への期待を込めた作品だと書いたのだ。

さらに絵を観よう。
色合いもぼくは大好きだ。
てぶくろのライトレモンイエローが
スコット抜けていてかっこいい。
動物たちの色もみんな透明感がある。
のっそりぐまのブラウンと
かなりハイブランドっぽいアウターのビリジアンが
極めておしゃれである。
服地のパターンとくびもとのリボンもすてき。
こんなオーバー売ってないかな。

このオーバーが特徴的だが、
手袋も動物も皆平面的に描かれている。
これはビリービンというロシアのアーティストの手法だ。
この人は画家であるとともに優れたアートデイレクターでもあり
ストラビンスキーの舞台美術なども担当したが、
立体的に描きながら、例えば横を向いている王様の服を
わざと平に、しかも精密なパターンで描くという技を用いている。
ビリービン、もしくはびりびんで絵本が刊行されているので
興味のある方は
https://ja.wikipedia.org/wiki/

でみておくれ。


この平面的な感じも個性だが、
背景の雪景色は単調にならぬよう
複雑なタッチと色変化で塗り分けて奥行きを出している。
やはり只者ではないな、正木くん。
そして降りしきる雪も奥から最前面まで描かれ、
くまのオーバーの手前にもちゃんと降っている。

そうそうディテールでいえば、
てぶくろのファーの部分の質感もいいね。
この黄色いてぶくろ欲しいな。

今年も1年間、ラボ・カレンダーの絵で楽しんできた。
もう30年以上前に、
「子どもの描画を激励しよう」という
シンプルな意図でスタートしたこの企画が
今も続いていることに嬉しく思う。

これほど長い間、
こども絵を大きく用いてくつくるカレンダーを
刊行している例はあまりない。

だからぼくはすこしでも長く
この活動がつづくことを祈念して
「感動した点」を書き続けている。
それは決して評価や批評ではないということを
改めて宣言して、
来年も一人でも読者がいるなら、
いやいなくても勉強のために
この「感想」をつづけたいと思う。

李白は酒仙詩人ともいわれたが、
舟遊びで酒に酔い、
水に映った月を取ろうとして落命したという。

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伊豆高原、やわらかな光の空間で
寂しくない秋は久しぶりなのだ
蟹江杏『夏の夜の夢』原画展におじゃま

スーパービュー踊り子3号の展望車は
日曜にしてはずいぶんと静かだった。
窓の外ではべた凪の相模灘が
きらきら光りながら流れ、
はるか沖では初島が無限遠で
ゆれながら結像している。
伊豆半島をひたすらゴー。
ぼくは基本的にoccult的なこと
いわゆるspiritualなことは信じていない。
自分自身がはっきりそれとわかる
体験をしたことがないからだ。
でも自分が信じていないことと否定することは違う。
HellenismとHebraism、
ギリシア文化とキリスト教を両親とする
自然科学の方法論だけでこの世界が
説明しきれないことも認めることができる。
ニコルさんに案内されて「アファンの森」に
足を踏み入れたとき、
きちんと整備された道なのに
森のもつ霊気、日本的にいうなら
「もの」のパワーに圧倒されて
ニコルさんのそばを離れられなかった。
また、ぼくは毎日、17時20分に
建てられてから88年経過した
大講堂にひとりで鍵をかけるが、
何かに見つめられている気が
ずっとしている。
それらは脳内現象として
説明できるのかもしれないが、
見えないものに心を反応させることは
creativeに生きるためにはたいせつだと思う。
11月13日はそのことを再確認できた。
ブライアン・ワイルドスミス絵本美術館は、
以前からその存在を知ってはいたが、
訪ねるのははじめてだ。
今夏に刊行されたラボ・ライブラリー
Midsummer Night's Dream『夏の夜の夢』の
蟹江杏さんによる絵本の原画展を観覧し、
杏さんとこの作品の監修、ディレクションされた
気鋭の英文学者河合祥一郎氏とのtalk sessionを
拝聴する機会を得た。
遡ればこの春、
ラボ・ライブラリーがシェイクスピアを
とりあげるときき、
そのパンフレットを観たとき、
「キターっ!」と大人気なく心で叫んでしまった。
この絵を描いた人に会ってみたいと思ったら、
運よく古い知り合いのイラストレーター
高尾斉氏が蟹江さんと知己であることから
高尾氏の人の良さにつけこみ
紹介してもらい、
表参道のかわいいギャラリーで拝眉したが、
時間が押していたぼくのために
わざわざスケジュールをくりあげて
駆けつけてくださったのには感激した。
このかろやなフットワークと
反比例するような目力の強さは
なんだろうと思った。
その後、二度ほどグループ展や
初のdrawingによる個展などに
厚かましく押しかけたが、
そのなかで、蟹江さんが
東日本大震災の被災地で
ぬくもりのある文庫をたちあげて
理事長をされていることを知り、
さらに驚かされた。
ぼくも30年近い制作の仕事のなかで
幸せなことに多くのアーティストと
出会い
その度にゆるぎない個性に圧倒されてきたが、
蟹江さんのありよう、佇まいは
ぼくの経験値をさわやかにひっくり返した。
彼女が
技術のみならず、
まさに作家としての心のおきどころまで
師として仰いだ絵本作家である
ブライアン・ワイルドスミス氏との絆は
蟹江さん自身も語っているし、
多くの方が感銘を受けてFB上でも表現されているので、
ほくがわけ知りに書くことはしない。
ただtalk sessionの最後に
美術館長の野村道子先生がおっしゃられたように、
杏さんも語られたように
蟹江さんにsuccessorのバトンを渡して
8月の光のなかに帰天されたワイルドスミス氏が、
秋のやわらかになった陽射しに
ふりそそいでいたことを感じとったのは
ぼくだけではないだろう。
冒頭に書いたように、
ぼくはoccultは信じないが
見えないものを感じる力を
たいせつにしたいと思う。
展覧会場での作家による語り、
いわゆるギャラリートークには
これまで相当数参加している。
基本的にはこうした企画は
作家やギャラリーのサービス、
あるいはプロモーションの一環だから、
その内容の良し悪しを比較するのは意味がない。
だけれども、ぼくの個人的感想としていえば、
楽しさや学び、心の震え、余韻、
などを総合すると
僭越を承知でいうとベストスリーに入る。
ぼくは絵画でも版画でも音楽でも
アーティストに「ことば」で語らせるのは
少なくとも強要することではないと思っている。
なぜなら作品がすべてであり、
ことばで説明するなら文学になるからだ。
さらに、
極端にいえば人格とか社会性も
作品とは関係ないというのが
芸術の本質だと考えている。
芸術は極端にいえば反社会的側面もある。
それは犯罪という意味ではなく、
社会の通念とか固定した価値を
否定したり飛び越えたり、逆転することで
芸術は進んできたからだ。
ぼくは美術は大好きだが、
あくまでも素人だから、
芸術家の芸の部分を楽しめばいいと
少なくとも制作から離れた今は思っている。
なので、
術の部分をあっさり素直にいわれると
とまどうなどとsessionの後、
蟹江さんに余計なことをいってしまった。
それは半分本音でもあるが、
妙に斜めに構えて
ミステリアスなのが作家性だと振る舞うのは
まったく蟹江さんらしくないから、
あのことばは撤回。
蟹江さんがこの絵本の絵にいかに
思いをこめたのかは、
抑制したことばから
あふれるようにとどいてきた。
それは
先ほど余韻と書いたが、
まるでアップライトのピアノによる
硬質で透明な演奏のように
あの部屋を満たし、
最後はサステインが長くゆっくりと
減衰していきながら心を満たした。
さらに河合祥一郎氏が
『夏の夜の夢』について
全面展開を敢えてなさらずに
蟹江さんの絵がこの場の主役であることを
明確にするようにフォローされていたのも美しかった。
そして、
氏のおだやかなお声のトーンも
アンサンブルをよりさわやかにした要因だろう。
以前も書いたが河合氏はたまさか
ほくと同じ高校の8期後の
同窓生(後輩というのはおこがましいので)で、
今、ぼくが取り組んでいる
「百年史」へのご協力をお願いすべく
名刺交換とごあいさつだけはしておきたいという
下心があった。
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これまでも氏の演劇公演のご案内をうけていたのだが、
不届きにもスケジュールを調整できず、
ラボのスタッフに頼んで
昼食後の貴重なおくつろぎの時間に
お話することができた。
ぶしつけな乱入にもおだやかに話をきいてくださり、
作品についての無知まるだしの質問にも
ていねいにこたえていただいた。
拝眉のおわりに
「先生と出会ったことは
ラボにとって大変な幸せですが、
先生にとってラボとの出会いが
良きことでありますように」
との申しあげると、
河合氏は急にフランクな笑顔になり、
「いやあ、なんでもっと早く
出会えなかったかと
スタッフの方と話していたんです」
とおっしゃられた。
とてもうれしかった。
ぼくがほめられたわけではないが
ラボでの34年が報われた気がした。
ラボ・ライブラリーは
大変手間のかかったある意味で贅沢な作品だ。
二言語を対応させた音声、絵画、音楽による
物語作品は教材という範疇をこえている。
それを子どもたちが再表現し
その過程で言語体験やコミニュケーション体験を
積み重ねていく教育プログラムは
formal educationの時間枠のなかでは
成しがたいものだと思う。
それは学校組織にいる現在、
より鮮明に感じている。
これまで様々な分野の研究者、
アーティストの方がたに
その意図、ベクトル(量のみのスカラーではなく)を
ご理解いただいて、またご興味を持っていただいて
ラボ・ライブラリー及び
ラボ教育プログラムにご支援とご協力を
いただいてきた。
蟹江さんも今回の作品が
転機になる気がするとおっしゃられたが、
ラボとの出会いが良きことであったようだ。
蟹江さんはラボのみならず
世界に多くのファンをおもちである。
そのひとりひとりに真摯に向き合おうとする
姿勢はたいへんなはずだが
すがすがしい。
蟹江さん自身も語られているが、
ものすごい集中力と努力を作品制作にそそぎながら、
その苦労感、内部に吹く風を
外に出さないから、
誤解や羨みをうけることもあっただろう。
そのなかで自分であり続けることは
なかなかできることではない。
しかも自分らしさを守るために
美しく装うのではなく、
画材をとびちらせても
しゃにむにつくることで
自分であり続けるところが
蟹江さんのすごさだと再確認した。
さらに、
現在のスタイルを完成と思わず
新しい世界をつくりだそうとする心根は
勇気のいることである。
満足しない、あきらめない能力こそが
才能なのだ。
12月に特別授業で来春卒業する高3生に
話をするのだが、
この自分であり続けるために
自分を変えていく努力、
満足しない、あきらめの悪い生き方について
語ろうと思っている。
自らしさをたいせつにすることは、
他者のその人らしさをたいせつにすることに
ほかならない。
蟹江さんの人への真摯な関わり方の
根源なのだろう。
「挿絵ではなく一枚の作品として描いた」
のくだりには思わずうなずいた。
「恋愛ってめんどくさいですよね」
といたずらっぽくウインクしながら同意をもとめられたが、
しんどい真剣な恋愛をしていなければ
でないことばだと思う。
人物の表情を抑制する描き方も
興味深く、書きたいことはたくさんあるが、
それぞれに受けとめればいいし、
可能性はいろいろあると思う。
聞き手はほとんどがラボの関係者で、
しかも多くの方がラボ・テューターだった。
テューターは聞き手としてはすばらしいので
語り手はやりやすかったと思う。
これはまちがいない。
そしてテューターは制作のスタッフと同じ
研究の段階から作り手でもあるから
その意味では作家のストレートな心情に
直接ふれられたことはありがたいことだと思う。
最後に、町田館長先生に御礼を申しあげたい。
蟹江さんに紹介していただいて
親しくお話する時間をいただいた。
そして運営にあたったラボのスタッフ、
マネージャーの岡本さん
大きな笑顔で迎えてくれた中野さんはじめ
お手伝いの皆さんに
Special thanks!
こんにちは♪
京都のタクシードライバーさん (2016年12月22日 00時03分)

夏の夜の夢…素敵なんだろうな~、見たかったです、

秋の伊豆高原はいいですね、儚げな女性が似合いそうだわ♪
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