幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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ラボ・カレンダー2月の絵 浮遊感、透明感、未来感、幻視感 02月07日 (火)
生まれてはじめてinfluenzaに罹患し
ちょうど1週間籠城をした。
その間、ほとんど寝ていたが
くだらないcolumnや食事についての投稿は
Facebookにしていた。
どれも寝転がりながら、iPhoneかiPadで
書き込んだもの。

じつはカレンダーの絵の感想も、
そうやって書こうかとも考えた。
ラボ・カレンダーは寝室のテレビの斜め上にも
掛けているから可能といえば可能だ。

しかしそれでは、身体も心も削って
全力で作品を書いたラボっ子に失礼というもの。
ちゃんと明るい午前の自然光で
しっかりと色々な角度や距離から拝見して
イスに座って背筋を伸ばして書かねばと思い直した。
これまでそうしてきたから、
インフルごときの理由で「やっつけ」はまずかろう。
いやあ自らハードルを上げているな。
ether
作品は、昨年夏に刊行されたラボ・ライブラリー
A Midsummer Night"s Dream
『夏の夜の夢』に題材を求めたもの。
描いてくれたのは
小林花帆さん(小1/耶麻郡猪苗代町・野澤P)だ。

毎年、3000枚以上全国から送られてくる
「ラボ・カレンダーの絵」で
もっとも応募点数が多いのは
「最新刊の物語」に題材を求めたものだ。
これはほぼまちがいない。

したがって新刊の物語に関する絵は、
点数が多いから力作も多くなり、
結果として激戦になる。
で、一応ルールというか内規があって、
「原則、同一物語からの入選は1点までだが、
新刊については最大2点まで可」
「同一パーティの入選も原則1点までだが
作品によっては最大2点の入選まで可」
となっていた。
現在は、わからないが基本は作品主義で、
支部バランスなどの組織力学はあまり考慮しない
点は変わっていないと思う。
※あまりに入選作が一支部に偏ることは避けるが、
不思議なものだが結果的には分散する。

一次選考で残った180〜300枚を
大きくABCの3グループに分けるが
選考委員の一人でもAといったら、
その作品はAグルーブに入れる。
この方式だと最初のほうに観た絵と
終わりの方で観た絵では、基準が変わっているし
鮮度や疲労度もある。

絵を選考委員に見せるときは、
作品名と作者の年齢のみを発表し、
質問があれば性別はいうが、
作者名、パーティ名はもちろん、
支部や地域も告げない。
極めて透明かつ公正だ。

そこでCグルーブの作品を逆の順にまた観ていき、
選考委員が一人でもBといったらBにあげる。
いきなりAにジャンプする場合もある。
続いてBも同様に見返していく。
作品は何度も観ることで発見がある。
音楽でも一度聞いただけではピンとこなくても。
次第に好きなっていくことはよく経験する。

そうやって絞られたAグループを
テーマ別、季節別に仕分けてから
各月を飾る入選作12点と次点となる佳作を
選んでゆく。
ここからがじつは血なまぐさいといったらオーバーだが、
たいへんなたたかいである。
選考委員にも好みがあるし、
というか絵は基本的に好みの世界だから
当然なのだが、全員一致で「○月はこれ!」と
一瞬で決まる場合もあるが、
1枚の作品で30分以上の議論になったりもする。

昔、『太陽の子パエトン』のおぼまこと先生が
ゲスト選考委員でいらしたときなど、
先生はたいそう気に入られた1点をだきしめてしまい。
「ぼくはぜったいこれ! だれがなんといってもこれ!」
とみんなが賛成するまで手放さなかったこともある。

今回はゲスト選考委員に
この物語の絵を担当された蟹江杏先生が参加されたと
カレンダーの表紙に書かれているが。
どんなお気持ちで選ばれたのだろうか。
(じづは12月に国分寺のサロンでお目にかかったときに
感想をお聞きしたのだが、そのときは「とても楽しかったですし、
いっぱい私の作品をテーマにしてくれて嬉しかったです」と
だけおっしゃられていた)

子どもたちの絵はエネルギーに満ちているから
気合いを入れて観ないと魂も体力も吸い取られる。
マジに体重が落ちる。
1986年の秋から2008年まで、
毎年の3000枚以上の子どもたちの絵を観てきたが、
振り返ればカレンダーいがいの作品も含めて
10万枚近い子どもたちの描画作品を観たことになる。
それはえがたい経験だったと思う。

ともあれ、ラボ・カレンダーの絵の選考は
ラボ・ライブラリー作りにも負けない緻密さと
こだわりで行なっているのだ。
子どもの全力に応えるのはおとなの全力しかない。

さて長い前置きだったが、ここから本論だ。
タイトルに浮遊感、透明感、未来感、幻視感などと
カッコつけて書いたけど、
確かにそういう魅力はいっぱいなんだけど、
最初に感じたのは
「ラボっ子の描く絵はも、なんでこんなにやさしいんだろう」
という素朴な感情だ。
hyjhjet
でも、この点はずっと思ってきたことでもある。
「やさしい」とというのは単に色合いとか
タッチとかいうことではない。
強い色や暗い色の作品もあるし、
激しいたタッチの絵もある。
でも、ラボっ子の絵はやさしい。
それもひ弱な皮相的なやさしさではなく、
強さに裏打ちされたやさしさなのだ。

贔屓目かもしれない。
だが、毎年3000枚以上のなかから選ばれてくる作品は、
力強さ、言語では説明しきれないパワー持っていることは
まちがいないし、
そのバワーがやさしさの源泉のひとつであることも確かだろう。
さらに、ラボっ子が睦み合ってきた、
愛し愛されてきた「物語」の持つ陶冶力が、
ラボっ子の魂を研磨し、鍛造し、
熟成させていることもその背景にあるはずだ。

そしてあたらためて見返すと
オベロンもパック? も
なぜに! というほどにやさしい。

しかし毎回のように書くが、
花帆さんの年齢で、この大きさの画面を
隙間なく、しかもこれほど細かく彩色するのは
尋常なことではない。
描き終わって
夏の夜の微熱どころか、
大熱を出したのではないかとしんぱいになってしまう。

しかし、そんな疲労感や「ここはラクしよう」という
手抜き感は皆無であるのに驚く。
しかも木の葉もherbも
すべてが柔らかく緩やかに浮遊している。

そして透明感が気持ち良い。
これだけ複雑に色を変えて
濁らずにスカッと抜けた色合いになっているのは
毎回ていねいに筆を洗い、
柄までしっかり拭いているはずだ。
(そうたくさんの筆は使用していないだろう。
8号と10号の丸筆くらいだと思うが、
本人に聞いてみたい)

さらにこれだ細かい描き込みなのに
タッチは自然で線に迷いがない。
自由闊達で天衣無縫な自在さがある。
それでみごとなパランスと造形の確かさもある。
恐れ入ってしまう。
蟹江先生もおそらき「あらま」とびっくりし、
そして手を叩いて大喜びされたと思う。

さて、未来感という感想に
「なに?」と思われた方も少なからずいるだろう。
A Midsummer Night's Dream、
がシェイクスピアによって書かれたのは
1595年 - 96年といわれ、
Romeo and Julietとほぼ同時期の作品だ。
シェイクスピアはいうまでもなく古典、
クラシックであり、
ギリシア悲劇とともに人類の言語遺産といっていい。

しかし遺産だから、クラシックだから
「古い」わけではなく「昔のこと」でもない。
時や地域を超えて人間の普遍的な本質を
描破するという意味において、
古典は常に新しい、今のこととして向き合える。
逆にいえば、古典はすべからく
当時のニューウェーブである。

ミケランジェロしかりベードーベンしかり。

そして古典はときを超えて不滅である。
おそらく200年後に聴いてもベートーベンは魂を打ち
ミケランジェロはぼくたちをその前からくぎづけにし、
シェイクスビアは繰り返し上演され、
新しい演出がいくつも生まれているだろう。

花帆さんの作品はそうした古典の本質を感じ取り
「物語を説明する」というつまらなさを放棄して、
「夏の夜の夢」の発するメッセージに素直にリアクションし、
さらに未来への希望、強いていえば
「諍いなき世界」への思いを描きこんだように見えるのだ。
考えすぎかもしれない。
でも妖精の王と稀代のトリックスターの顔からは
現在の世界の危うさへの警鐘も響いてくる。

最後に幻視感というのも聞きなれないことばだろう。
visionaryは「幻想の」「幻想的な」という意の
形容詞であるが
「幻視者」「空想家」という名詞でもある。
夏至、あるいは夏至前のアテネの森でのできごとを
(Midsummerの解釈は多々あるがそれは河合先生に
お任せしよう)
花帆さんはリアルに視ることができるvisionaryのような
感性に満ちているのではないだろうか。
「視えないものをみる力」、想像力にすぐれている
ということだけでは、
花帆さんの年齢で、これほどの絵が描ける説明にはならない。

イェーツというアイルランドの大詩人は
「人は心に深い傷を負うとvisionaryになる。
しかし、ケルトのように生まれた時からvisionary
である人びともいる」といっている。
もちろん花帆さんは魔女でも妖精でもないが
人並みはずれて強い空想力と
その世界に遊べる力を持っていることは確かだと思う。

それはおそらく絵本を描いた蟹江先生も同じで、
そのvisionary同士が引き合って、
この作品が飛び出た気がしてならない。
作家の作品を魂ごと受け取る子どもは多い。
j uyjtujt
一冊の絵本は怖るべき才能をよび起こしたのかもしれない。

ドリックスターといえばプロメテウスも
トリックスターだ。
人類に火を与えながら、死を避けられないmortal
な生き物にし、さらにパンドーラを送り込ませられる。

さてトランブというトリックスターを
このオベロンはどう見ているのだろうか。
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