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霜月のももたろろうーー 「本歌取りと静機」 11月04日 ()
霜月。
嘘だと思いたくなるような大雨と
胸が潰れるような事件の連続に
大気も社会も冷え込んでいるが、
この絵に出会った瞬間、
いきなり横っ面を張り倒された。
dg f
「立ち止まってんじゃねえ!」と
でっかい声が壁から飛び出してきた。

今月の絵は、いうまでもなく、
日本の昔話に題材を求めた
ラボ・ライブラリー
"MOMOTARO
The Boy Born from a Peach"
『ももたろう』に
インスパイアされた作品だ。

描いてくれたのは水野永遠
(高3/下高井郡山ノ内町・山田P)くん。
「くん」と書いてしまったが、
「えいと」と読むのだろうと
推測したからだ。
「とわ」とも読めるが、その場合は女性だろうか。

とにかくうれしいのは、
高3という時期にラボ・カレンダーの活動に
参加してくれたことだ。
高校生最後の夏という貴重な時間を
かなり使って
これだけの力作を描きあげたことに
敬意を表したい。

これまで高校生の応募作品が
なかったわけではないし
(それでも高3はきわめて稀)
何年かに一度入選作が出ている。
その多くは、デッサン、彩色、
丁寧さなどでは年代に
ふさわしい力のある作品だ。
「幼い時から、
ずっと絵が好きで描いてきた」
のがよくわかる作品が多い。

だが、どうしても高校生年代になると
「原画の見事なそっくり」であったり
逆に「頭で物語を解釈して説明した絵」
になりがちだ。

原画そっくりは、
「これだけの描画力があるのなら、
もっと『君自身の絵が見たい』」
となるし、
説明的な絵は、幼い子の無心で
ひたすら物語に入り込んだ
作品と比べると、
(ラボ・カレンダーの絵は
コンテストではないのだけれど)
パワーとハートを揺さぶる波動の点で
ものたりない。

要するに、高校生年代であるなら、
その時点までの全人生を
総動員して、
自分のなかにあるものすべてで
物語にむきあい、
オーバーにいえば、
ぎりぎり命がけの、
描き終えてたおれるくらいの
全力の絵が見たいと思う。

それはテーマ活動とおなじ。
ラボ・カレンダーの絵の「活動」も
ラボ教育プログラムなのだから、
できあがった作品の
しあがりよりも、
その絵を描く道筋で
テーマにした物語と
どのような言語体験、表現体験を
したのかが重要だ。

などと書いてくると、
この作品をけなしているようだが、
それは大きな誤解。

永遠さん(ジェンダーがわからないので
無難な「さん」を使用)の
作品への力の入りれ方は
すばらしいし、すさまじい。
一見、ていねいに輪郭をとり、
ていねいに彩色した
「きれいなイラスト」のように
思えるが、
この3日間ながめていると、
この絵のディテール、
彩色、バランスから
いろいろなものが見えてきた。

ももたろうをはじめとする
キャラクターたちは
本多豊國先生の絵本を参考には
しているが、
真似や模写ではまっなく、
フォルムもタッチも色彩も
完全に自分自身のものにしている。
見事な「本歌取り」といって
いいだろう。
模倣からはじまり、
新しいものを生み出す、
テーマ活動と共通するものがある。

揺るぎない造形の確かさや
隣家線の太さの使い分け、
バランスよさなどさ、
永遠さんの技術はすばらしい。
are
同年齢の若者で
これくらいのテクニックや
描画力のある者は多い。
しかしテーマ活動という
ライヴな体験を通して
まさに「生み出された」作品を描く
という挑戦をする者は少ない。

永遠さんが、絵を描くことが
とにかく好きなことはまちがいない。
『ひとつしかない地球』『はだかのダルシン』
の絵を担当された永山裕子先生は、
尋ねられたとき、
「幼いときから絵を描くのが好きで
そのままずっと描いていたら
こうなっちゃいました」
と軽やかに答えられていたのを思い出した。
こうした絵を描き続ける人の魂の底には
動機ではなく動かない「静機のようなものが
あるような気がしてならない。

さても、まず大拍手を贈らねばならないのは、
物語をギュッと一枚の画面にしぼ込んだ画面構成だ。
おそらく『ももたろう』の話を知らない外国の方にも
およそのストーリィを想像させることが可能だろう。
ながれてきた桃、
オニたちにとびかかるももたろう。
宝物を持っての凱旋。
そしておじいさんとおばあさん。
画面のフチこちに細かく描き込まれた
物語の場面を探すのも楽しい。

主要な登場キャラクターを
みごとなバランスで配置しているが、
主役である「ももたろう」をどまんなかではなく、
やや左にずらし、さらに家来の動物たちを
逆方向に向けたことで、
この作品の成功はほぼ約束されたと思う。
この主役キャラ双方向配置が世界をぐっと広くした。

細かく見ると雉の延ばした羽根先と
ももたろうのお腹の戦端にそれぞれ垂直線をたて、
その距離の中間点はほぼ
「黄金比」で画面を分割する。

永遠さんはそこまで計算はしていないだろうが、
そ明日パニランスの自然な美しさを
持っているのは、
幼いときから遺命めな絵を見て、
さしていっぱい描き続けてきたからだと思う。

そして左上方におじいさんとおばあさんを
ももたろたちをやさしく見下ろすように
「断ち切り」で配置したのもすごい。
この祖父母と下にある桃があるおかげで
オニたちがいる右側との
重さのバランスが取れている。

さらにニクいのはももたろうと
おじいさんとおばあさんの間の空間に
何も描き込まずに淡いイエローでの
背景だけにしたこと。
これで息苦しさがなくなり、
かつ安堵感や平和といったイメージを
膨らませてくれる。

瀬田貞二先生は
『さんびきのやぎのがらがらどん』について
マーシャ・ブラウンが
コバルトで勇気と挑戦、茶色で脅威や恐怖、
そして黄色で平和とやすらぎを
音楽のように使ってイメトいわれたが、
このイエローはそれに通じる気がする。
とにかく、この空間とイエローは
なかなかではない、
永遠さんくらいの力だったら、
何か描き込んでもおかしくないからだ。

輪郭線しおそらくマーカーの細字と中字を
使い分けていると思うが、
この使い分けて変化が出たし
「塗り絵」的な印象がなくなった。
線は力強く迷いがない。
さらに、ももたろうの髪の毛や
桃が流れる川などの線は
ガッと力が入っていて流れがある。

黒の輪郭線をこれだけ用いると
どうしてもアニメ的な平面感が強くなりがちだが、
これまで述べたような線の太さの変化、
タッチの強弱などの全体的な緩急で
むしろ躍動感と奥行きが出ている。

手前の桃のある川と服にある故郷の遠い山、
鬼が島の岩山も奥行きには一役買っている。

彩色も抜けた感じの中間色、
しかも現代的な色も使って、
民話の世界を描き出している点は脱帽だ。
ももたろうの羽織やイヌの色などは
極めてオシャレで
現代的かつauthenticでかっこいい、

そして同色系の濃淡を随所に用いているのも
見逃せない。
故郷の山、ももたろうの髪の毛、羽織、
川の水の一連の紫青系の変化は大好物。
髪の毛の色は「アニメ世代らしいな」と
当初は思ったが、
それは浅はかな考えだったようだ。
(だけど、すぐれたアニメを物心つく前から
観ていた世代ではあるよな)

これは誰が観てもすぐに気づくことだが、
単純に一色で塗った部分はほとんどにい。
別色か同系色の色違いで模様や凹凸を表現している。

鬼が島の山肌や故郷の山々あたりは
さっと一色で終わらせてもいいところを
かなり書き込んでいる。
特に夕焼けにも朱色と黄色を使っているのは泣かせる。

また、鮮やかな黄色をももたろうのベルトに
差し色として持ってきたのもいいテイストだ。

キャラクターの表情もいい。
ももたろうはの意思のみなぎる
前をきりっと見つめた眼差しは、
力みも衒いもなく、清々しい力強さがある。
そうだ。
うなだれて、気難しそうな、
この国の未来を憂いているようなフレは簡単だ。
前を向け! とももたろうは教えている。

家来たちも鬼たちも
感情が描がかれている。
特に家来たちにはももたろうの心映えが
彼らにも伝わっている。

おじいさんとおばあさんの表情の違いも
なかなか考えさせてくれる。
おどろき、喜び、安堵、賞賛……。
皆さんは何を読み取るだろうか。

これほどまでに「描き尽くした」
永遠さんと『ももたろう』の関係、
活動のありようはどうだったのだろうか。
興味は尽きない。
これからどんな道に進まれるのかは
穂から何いが、
願わくば、今後も絵を描きつづけて欲しい。

「古事記が戦時中に天皇利用者たちにより
戦時中、国家神道のテクストとして扱われた
があったように、
「桃太郎」の話も
鬼たちを米英に当てはめて
戦意高揚の材料に利用された過去がある。
そのため、「古事記」も「桃太郎」も
学校教育の現場から遠ざけられた
時期もあった。

今思うと笑い話のようだが、
決して笑えない。

しかし、うかうかしていると鬼はどこにでも現れる。
それはともすれば権力者であり、それに追従する者であり、
暴力者であり、支配者であり、
国家という組織であったりもする。
そして、ぼくたち自身のなかにも
人を妬んだり、羨んだり、憎んだりしたとき、
しかもそれが正義という仮面をかぶって
鬼はいつても現れのだということを
ももたろうは警告しているのかもしれない。
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