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2018ラボ・カレンダー1月の絵。 「永遠に生きるつもりで学べ 今日、命が終わるつもりで生きよ」 01月10日 (水)
2018ラボ・カレンダー1月の絵。
「永遠に生きるつもりで学べ
今日、命が終わるつもりで生きよ」
jojo
三澤制作所のラボ・カレンダー2018登場。
年末31日までは表紙を楽しんでいたが
報告したとおり27日から風邪をひき
1日の朝にフラフラになりつつ
雑煮を作ってから気合いでめくった。
それから一昨日まで、遠目で眺め
昨日の朝、やっと手元に置いて
じっくりと拝見した。

◎年初にあたりあらためて
「ラボ・カレンダーの絵」を
書くぞ宣言

2018の年頭を飾る物語は
ご存じ『はらぺこあおむし』。
アメリカの絵本作家エリック・カールによる
THE VERY HUNGRY CATERPILLARに
題材を求めたSK28収録の
ラボ・ライブラリー作品に
思いを寄せた絵だ。

描いてくれたのは濱砂俊介くん
(小1/愛知県・井村恵P)。

例によって前置きが長くなるが
年のはじめにあたり、
大事な思いを少しばかり書くので
お付き合いいただきたい。

ラボ・カレンダーの1月の絵は、
新年のラボの中間の壁を飾るだけに
選考の際にはかなりの激論になる。
しかし、だからといって、
1月の絵の必要十分条件がある
わけではない。
基本はどの月の絵も同じで
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「どれだけ物語を愛しているか」
また「季節感」などの
カレンダーならではの要素
なんかをベースに
絵が醸し出す「想像力」「執着心」
「やさしさ」などの
とぢらかといえばinvisibleなfactorsを
どれだけ選考委員たちがくみ取るか
といった関係なのだ、

だから、いつも書くが
「ラボ・カレンダーの絵」は
コンテストではなく
あくまでも子どもたちの
描画活動を激励するという
教育プログラムであるわけで、
それは選考するおとなたちが、
どれほど前述したような
子どもの感性や
表現力をその絵から
感じ取れるかという
「おとなの感性応用問題」であり、

さらにいえば、
テーマ活動発表と同様に
ラボ・カレンダーの絵を観るすべての
ラボっ子、ご父母、テューターが
毎月の絵から「なにを感じ、
なにを学び取るか」が提案されているのだ。

1枚の絵から
「この子は物語のなにを感じたのだろろう」
「物語とどんな睦みあい方をしたのだろう」
「どうしてこんなにもこの物語を愛し、
そして物語に愛されているのだろう」
そんなことに思いを巡らしてほしいのだ。
fvvf
なぜなら、しつこくいうが、
ラボ・カレンダーの絵の活動は
教育プログラムだからだ。
さらにしつこく書くが
テーマ活動の発表を観ることもまた
教育プログラムであるように
ラボ・カレンダーの絵を観ることも
まちがいなく重要な教育活動だ。

ぼくはこの数年、
ラボ・カレンダーの絵を「観想」を
毎月書き続けてきたが、
それはけして「批評」でも「評価」でもなく、
ぼく自身が「この絵からなにを
感じ取り、学んだか」を自分のために
整理しているにすぎない。
だから、多分絵の専門家からみたら
「なにを的はずれなことを」
書いているのかもしれない。
ただ、なんとなくおもしれえじゃないかと
いってくださる奇特な方がいるので
だらだらと続けているし、
逆にかけなくなったら、
自分の能力と感性
が枯渇するときだと思う。

それともうひとつの
揺るぎない確信(妄信)は
現役の職員時代、
多くの素晴らしいアーティストの
作品に触れるとともに
毎年3000枚以上の子どもたちの絵を
25年間、総計10万枚を超える点数、
見続けてきたことの幸せも
いまの自分の血肉になっているということ。


勢いついでに
さらにさらにいえば、
ラボ・ライブラリーそのものが
子どもたちへのメッセージであるとともに
ラボ・カレンダーの絵も
社会へ、時代へのメッセージでもある。

なぜなら、物語を聴きこみ
再表現するラボっ子は、
その時代の気分や空気を
おとなよりもvividに伝える力を
自然に持っているからだ。
大げさにいえば(けして大げさではないが)、
「時代精神」「危機感」「希望」など゛
が子どもたちの絵には含まれている。

ラボ・ライブラリーにとりあげられている
物語は、古典作品や神話伝説、
創作童話などの多岐にわたるが、
それらに共通するのは、
人間および人間文化の普遍的本質が
内包されていること、
のみならず、それらの本質は
母語と外国語の音声、
そして音楽と絵という
立体的に描かれてる。

だから、ラボの子どもたちは
時代の尖端を生きながら、
歴史が築いていきた価値と
それを自由に再表現する
diversity、多様性を同時に
取り込んでいるのだと思う。
それらはカレンダーの絵で見れば
空間や色、バランスなどの
新しい感覚である。

◎排他的な空気への警鐘

しかし、時代の空気は
いいことばかりではない。
社会の不条理や歪みもまた
子どもたちを直撃する。

ぼくが今もっとも危惧するのは、
アベノミクスという不可解なtermに
象徴されるように、
「経済的価値」
「経済効果」の追及に
社会が偏るとき、それが生み出す
influenceは子どもたち、
高齢者、そして社会的に弱い者を
容赦なく襲い、それが「希望」を奪うことだ。

とくに経済的価値の追及は
基本的には
競争原理に基づいており、
そこには損得という零を基準にした
単一線上での争いがあり、
「思いやり」「寛容」を受け入れない
傾向を強く生み出す。
そして損得という二元論的価値判断は
その損得の要因を
自分の外側に求め、
そのことが異質なものに対する
排他的傾向を生み出していることだ。

そのきびしい時代の気分
という意味では
俊介くんの絵からは、
これまでにない
「静かな叫びと警鐘」を感じさせてくれる。
しかし、けして絶望しない
強さと希望もまた伝わってくる。

俊介くんの「あおむし」は
かなり痩せていて、
見るかにはらぺこである。
しかしその眼には
「とにかく前に」というpureな
意思がみなぎっている。
それはいい意味での貪欲さであり、
単なる食欲を超えた
精神の飢餓が求める学びへの渇望だ。

そして右側に描かれた
巨大な太陽のimpactには
誰しもが圧倒され、そして考えこむ。
諸姉兄にはこの太陽はどう見えるだろうか。
じつはぼくには毎日違って感じられる。
困惑しているようにも見える。
激しく描かれているflareは
味代と社会の汗のようにも思える。
しかし今朝などは、
ニコニコとあおむしやぼくたちに
元気のよいあいさつをしているように
感じられた。

これはぼくの全くの想豫というか
当てずっぽうなのだが、
俊介くんは、いわゆる
「ヒマさえあれば絵を描いている少年」
ではないような気がする。
(違ってたらごめん)
だからといって、この作品が
おとなに指示されて描かれたものではなく、
極めて主体的に表現されたものであることは
ぼくにもわかる。
じっと見ていると
それはわかってくるのだが、
あおむしにしろ、太陽にしろ、
背景の空にしろ、大地にしろ、
そして浮かんでいる「たべもの」にしろ、
その彩色や描き込みが
ちょっと見には単純なようだが、
じつはじつはかなり力強く、
いい意味でしつこく、
かなりの粘着力でなされてるのだ
(風邪をひいて寝転がって見たときと
手に取ったときは、
この絵の風景はまったく変わった)。

もう少し具体的に書くと
背景や食べ物のgradationの微妙な
変化もなかなかのセンスなのだが、
食べ物のひとつひとつのforme、
そしてあおむしが食べ抜いた穴の
touchが、すっと描いているようで
じつはかなりこだわっている。
結構「ごてっ」と描いている。
食べ物それぞれの大きさの変化、
色の選択も個性的だ。

そして何より立ち切りにした
太陽の大胆な描き方、
黄色いflareのtouchは、
この絵のアクセルといってもいい。
また、空の濃淡も、
けして「ペタッとした」ぬり絵ではない。

さらに(今回はこのことばだらけ)!
全体に大胆で闊達に描きながら
あおむしの描き込みの繊細さがすごい。

俊介くんは(これも想像だが)
この絵を小1で描いたわけだが、
たぶん身長はそう大きいほうではないだろう。
だとすると、ラボ・カレンダーの
応募サイズの画用紙は
彼の肩幅よりはるかに大きいと思う。
それをこれだけがっちりと描き込み、
余白を残さずに仕上げるには
相当な体力と精神力が必要だ。

そのバワーを生みださせた
この物語と俊介くんの関係、
彼と物語の睦みあいを知りたいものだ。

ただ、たしかに思うのは
時代の空気、
なんとなく息苦しい、
異質な物を認めない風潮に対する
俊介くんなりの警鐘と抵抗が
伝わってくること。
そして、そこからの飛翔は
困難な道ではあるが
けして絶望の旅ではなく、
「行動する者は希望を持て」と
呼びかけてくる彼の勇気だ。

あおむしは今朝もぼくに語りかけた。
「ぼくはぼくらしくある。
だからきみもきみらしくあれ」
「個性を認め合うことだけが、
異なるものをはいじょしないことだけだけが
ぼくたちが蝶になる道なんだ」

◎エリック・カール氏と
『はらぺこあおむし』
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以前にも書いたが『はらぺこあおむし』は
毎年のたくさんの絵が送られてくる
大人気テーマのひとつだ。
この作品が発刊された年のカレンダーの絵では
選考会の部屋じゅうが「あおむしだらけ」
になってしまったほどだ。

原作の持つ明るく鮮やかな色使い、
円の連続で構成された親しみやすいフォルムは、
確かに「描いてみてくなる」要素満点だ。
でも本質はそれだけではなく、
ティッシュのようなやわらかい紙を基調にした
コラージュ風の画風など、
一見素朴でわかりやすいが
極めてテクニカルで奥行きのある絵が
子どもたちを捉えて離さない
(エリック・カール自身もその技法を
公開しているが、単純なドローイングに
見えて質感のある作品は彼の魅力の一つ)。

さらに、この絵本のもつ
「子どもの生理によりそう」感覚も
子どもたちに愛される理由でもある。
成長に欠かせない食欲という野生の力、
また「食べすぎでお腹が痛くなる」という
幼いときに必ずといっていいほど
体験する失敗は、まさに子どもの生理と心裡に
直結している。

センダックは「子どもの不安や苛立ちに」
寄り添ったが、
カールは子どもの原始的な欲望や生理に
暖かく寄り添っていると思う。

この絵本が出とき、
いわゆる「絵本評論家」たちや
絵本好きグループからは
かなりディスられた。
「絵本ではなく玩具
(穴が空いてたりするから)」とか
「ストーリィがない」とか
「甘いお菓子のようで身体にも
心にも悪い」などといった具合だ。
それらは、当然カール氏
の耳にも入ったが、
彼は気にすることなく作風を変えなかった。

絵本はヒットし、ピジネス的にも成功すると
さらに批判は出たという。
このライブラリーが刊行されたとき、
たまたまカール氏が来日し、
ラボの事務所にも立ち寄り、
子どもたちのインタヴューに応じて
くださったが、
そのとき彼は
「玩具とか駄菓子とか評されることは
全然気にしていない。
絵本に穴が空いていると何が問題なのか
わたしにはわからない。
ただわたしは子どもたちに可能な限り
アーティスティックにものを手渡したいと
願っており、それがたまたまた
こういう本のかたちになっているに過ぎない。
だから、絵本というせまい箱に入れられ
なくてもわたしは気にならない」

またカール氏は
「今の子どもたちは本を読まないという。
でも大昔、夕食後、洞穴の入口で
ぼんやり満月を見ていて母親から
『月ばかりてないの』といわれた子は多い。
そして、時代が進み、たき火を
ずっと見ている子がいた。
さらに『テレビばかり見て』という時代があり、
今はPCのゲームだ。
だけど、人間の文化、芸術は滅びたかね。
その後も今もこれからも
子どもたちはなにか夢中になりながら
おとなになり、やがてみんなが夢中に
なるものを創作していく。
月も焚き火もテレビもPCも
大した違いはない。
ぼくもそうしたものを
できる限りアーティスティックに作りたい」

風邪をひいた年明けは、
もういいかなと思ったけど、
今年も1年、「ラボ・カレンダーの絵」は
半ば意地で、半ば洒落で半ば本気で
続けようとしておもいます。

マハトマ・カンジーはいいました。
「永遠に生きるつもりで学べ。
今日、命が終わるつもりで生きよ」
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