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三澤制作所のラボ・カレンダー2月をめくる。 AND OVER THE TOP OF THE MILKY WAY 02月01日 (木)
2月になった。
もっとも寒い時期だが
春隣でもある。
如月の由来は、「着更着」からだと
という説がある。
例によって諸説の一つにすぎないが
説得力があるほどに
このところずっと寒い。
byt
今月の絵は、アメリカの絵本の巨人、
もっともNY TIMESによれば
Author of Splendid Nightmaresだそうだが、
(これは彼が83歳で他界したときの見出し。
だけど続けて絵本作家とはいわず
「子どもの本の偉大なArtist」と
表現しているところに
NY TIMESのセンダックへの
高い評価がうかがいしれる)

モーリス・センダックの
IN THE NIGHT KITCHEN
『まよなかのだいどころ』に
題材をもとめて制作された
ラボ・ライブラリーに
強烈にinspireというか
電撃をうけた作品だ。

描いてくれたのは
酒徳航佑くん(小1/東京都・西田千尋P)。

いやあ、やってくれるわ。
1月につづいて攻めてるなあ
ラボ・カレンダー!
nice guts and super senseだ。

めくった瞬間、主人公ミッキーの
寝室にすいこまれただけでなく
ノータイムでニューヨークの
夜空にもっていかれた。

IN THE NIGHT KITCHENを
テーマにした「カレンダーのえ」は
2015年の12月以来だが、

このあざやかなスーパーフルムーント
それを横切る流星を見ると、
今回もぼくのすきな曲
クリストファー・クロスの
「ニューヨークシティ・セレナーデ」
のサビを思い出した。
When you get caught between
the Moon and New York City 
きみがニューヨークシティと
月のあいだでつかまったら
The best that you can do is fall in love.
きみができるのは恋に落ちること
(クリストファー・クロスは
visualは小太りおじさんで
この絵本のパン屋さんだが、
声はびっくりのhigh-keyでmellow)

告白すると、ぼくはフライイングはしないように
しているが、1月末はスケジュールが
タイトなので、
30日の夜に、どんな感じかなと
ちら見した。
で、これはまずい! とすぐにめくって
それから毎日ながめて、
そして今日やっと書いている。

これはみなさんもそうだと思うが、
主人公ミッキーもTrio de パン屋 Amigosも
人物はなにも描かれていない。
ただ魅力的で蠱惑的なNYのmidnightが
広がるだけだ。

航佑くん自身もこの物語に
取り込まれていて、
「どこのなにを描いた」という
感覚ではなく、
IN THE NIGHT KITCHENの世界を
描いたのだと思う。

しかし、3日間ながめて、
あえて絵本のどこをベースに
しているかといえば
ミッキーが高く舞い上がった
見開き一枚絵の一つ前のページ、
対応する文でいえば
AND OVER THE TOP OF
THE MILKY WAY
IN THE NIGHT KITCHEN
のベージだと推測する。
しかし、そんなことはどうでもいい。

violetやpurpleの濃淡ある
夜空の美しさ、
されを彩る星屑たちとネオンライトの
collaboration。
いやいや美しさというと月並み過ぎる。
透明感と奥行きもあって
べたっとしたぬり絵にはなっていない。

そしてなんといっても
左上半分に大きく描かれた満月の
さやけさと
その上方をかすめ飛ぶ流星のスピード感!
こり流れ星は、きっとこのカレンダーから
真夜中には画面から飛び出して
夜空で星たちと遊んでから
夜明け前にしれっと絵に戻っているはずだ。
ウソじゃないぜ。

航佑くんは、夜空と月と流星以外は
思いきって省略しているが
列車だけは残した。
それは男子のお約束ではあるが、
原作絵本にはないステキな色を
しかも車両ごとに変えたことで
この絵にアクセントがつき、
奥行きもさらにひろがって
月の対象物ともなっている。
だから月がより美しくなった。

鉄橋の左端に売る建造物に書かれた文字は
解読はできなかったが
K t i Cは読める。
Kitchenと綴りたかったのか、
絵本に出てくるChampionなどを
まねたのかは不明。
本人がデザインとして描いたがのか
タイトルを意図したのかが知りたい。
大きなことではないが、
航佑くんの中での意味あいはどうなのだろう。
ytt
センダックはブルックリンの生まれで、
その作品には、彼の本質である
あたたかくするどい
子どもへのまなざしとは別に
都会的な華やかさと洗練、
その裏の孤独があらわれる。
それに近い感性も航佑くんの
絵から感じるのだが……。

とてつもない邪推かもしれないが
航佑くんは
ふだんそんなに絵を描かないのではないか。
逆にいうと、少なくとも絵ばかり
描いている少年ではない気がする。
違っていたらごめんなさいだが。

ただ、絵を描かない=絵がきらい、
ということではない。
ものすごいimpactを受けたとき、
いきなりすごい絵を描くことって
小1ぐらいだとよくある。

私事で恐縮だが、
長男は絵を描くことはほとんどなく、
ぼくも強制はしなかったし、
描くときは「絵はなんでもあり」と
伝えていた。
それが小1の冬、学童保育で
読売ランドのスケートリンクに行き、
それは人生初スケート
(ぼくはスキーはするがスケートは
しないのでスケートは連れていった
ことがない)
だったが、とてもおもしろかったらしく、
鷺沼小学校の図工の時間に
そのときの絵を描いた。
それは中央に片脚をあげて滑っている
友だちを大きく描き、
その後方や周囲に他の学童保育の
仲間たちを数名描いてるものだ。
ふだん絵は描かない子なので
人物のproportionとか
(顔が大きくて手足が細い!)
フォルムは本なのだが、
何より子どもたちのスケートを楽しむ
開放された表情や躍動感が伝わってきた。
結局、その絵は学校から代表で
宮前区にいき区民館に展示され、
さらに区代表の数点の一つになって
川崎市役所でも展示された。
それ以後、彼が絵を描くようになった
ということでもない。

現代の6歳男子の日常から
描画がなくなるのは残念ながら
現在の学校教育や
iT環境、遊び方からすれば
ごく自然なのかもしれない。

しかし航佑くんが
紗が絵がきらいで、
またこの物語があまり好きでなく、
つきあいで描いたとしたら、
ここまで全面を描ききることは不可能だし
これほど星はきらめかないし
月やよぞらにぼくが
恋することもない。
そんな力を持った作品になることはない。

列車か走る鉄橋というか橋梁や
文字、そして月の一部や流星の一部は
クレパスで描かれ、
その上から不透明水彩で彩色されているが、
このカレンダーの規定サイズで
行うとのは、絵をほ毎日描くような子にとっても
相当な体力と気力がいる作業だ。

センダックあるいはこの物語が
航佑くんにのりうつり、
なにか超自然的な力に
このラボ・ライブラリー
との出会いで導かれて
「ものにとりつかれたように」
航佑くんは夢中で
描きあげたのではないか。
その背景にある
彼と物語の関係、
ラボ活動を知りたいものだ。
これらは推測だから
ハズレだったら笑いもの。。

「ものにとりつかれた」の
「もの」は
「ものがたり」のものであり、
「もののけ」のものであり
「ものさみしい」のものである。
かつて中国から鬼という字を
学んだとき、
日本人はこれに
「かみ」とか「もの」
の音をつけた。
超自然の不可視の力を
「もの」とか「かみ」とよんだのだ。

だから、「ものがたり」は、
そうしたふしぎな力が
語り手にのりうつって
語らせているわけで、
それゆえに聴き手は
遠くにつれさられてしまう。
だから
物語の力が航佑くんに
筆を走らせたのだとしか
説明しようのないものを
ぼくはこの絵から感じる。
それは2015年の12月の絵でも感じた。
この絵を見て、
なんか人間いないじゃんなんていう
寝言はとてもいえないのだ。

センダックは
子どもの心はおとなが
思うようなシンプルなものではなく、
怒りとか恐怖、ジェラシーとか
あきれるほどたいくつな時間の長さといった
シヴィアな感情が
どろどろしていることを絵本で表現した
最初の作家だと思う。
さらに子ども身体の感覚、
皮膚の触感や、臭い、味覚などの
リアルな生理を通過していない
きれいごとのファンタジー作品を
吹きとばした作家でもある。

『まよなかのだいどころ』も、
まさに身体感覚が要だ。
夜中のキッチンの
作業の触感は
子どもたちには
泥遊びのような快感。

以前にも書いたが、
ぼくは若いときから、そして今も
どんなに忙しくても、
仕事や遊びから帰って
風呂に入って着替えて
即睡眠ということがいやだ。
なにかしらプライベイトなことを
5分でもしないと気がすまない。
仕事モード、遊びモードのまま
寝るのではなく、
なにか本を読むとか
映像を見るとか、
自分へのインプットをして
自分自身に戻らないとダメなのだ。
だから、ベッドサイドに
本を積みあげる。
しかし、疲れているときは
数ページで寝てしまう。
アホだと思うが、
わずかでも自分だけのための
時間をとることで
リセットできるのだ。

眠いけれど、寝たくない。
あのせつない感じ。
子どもの頃、
ぼくは小6まで20時に
寝るように親にいわれていた。
だけどおとなたちは、
楽しそうなことをしているに
ちがいないという妄想。
いいなあと思いつつ
やっぱりひとりで眠りに落ちていく。
目醒めと入眠のあいだのセレナーデ。

センダックは「絵や物語の能力などないが、
幼少期の記憶は明確にある」
と述べているが、
幼い日のセレナーデが
まだ聞こえていたにちがいない。
bvg
『まよなかのだいどころ』は
1970年の刊行当時、
主人公のミッキーが
全裸で描かれている場面が
問題になったことがある。
今なら滑稽な話のようだが、
3年前にヨーロッパの一部で
クマのプーさんが
裸であることが咎められて図書館から
排除されるという事件があったが、
この絵本も児童ポルノではないかと
指摘する評論家もいた。

確かに、ピューリタニズムの
裸に対する忌避感はノアの方舟後の
エピソードに遡るほどに根深いし
幼児、児童の性的被害が
世界的な問題となっている
状況を考えると笑えない話ではある。
しかし、もっと怖いのは、
そうした風潮から
表現の自粛や規制が
進行していくことだと思う。

『かいじゅうたちのいるところ』も、
子どもに悪夢をもたらすと
刊行時はめちゃくちゃにディスられた。
しかし、この絵本は世界で
2000万部売れた。
子どもは選別する能力を
ちゃんと持っている。

うわべや権威や、あまい菓子や
そのばしのぎの理屈や、
なれなれしさといった、
子どもが見抜くおとなの手練に
常に抵抗しつつ
子どもの心の深いところに
寄り添っていたアーティスト。
であるがゆえに、
自身は深い孤独を
内包していた表現者。
航佑くんが「ものにとりつかれた」
かどうかは別として
センダックの魂は確かに
航佑くんに届いている。
btb
以下はオマケ。
ラボ・ライブラリー
『まよなかのだいどころ』の
日本語の語りは
俳優の西沢利明さんである。
文学座から劇団雲へ。
雲の解散後は昴で1997年まで活躍した。
その後はテレビや映画に進出して
知的な悪役は絶品だった。
憎まれ役が多かったが、
素顔はとてもダンディで
真摯でやわらかな物腰の方だった。

この作品の声には、
知性と凄みと夜が必要だったから
ぼくはどうしても
西澤さんにやってもらいたくてオファーを出したが
すぐに出演を快諾してくださり、
ラボのコンセプトも
しっかり受けとめてくださった。
残念ながら一昨年、
77歳で他界された。
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