幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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【ソルジェニーツィンとロシア獄中文学/梨木香歩『西の魔女が死んだ』/バルザック「谷間の百合」】


◆5-3 ソルジェニーツィンとロシア獄中文学


<Kさん 2008.11.09>
 私は、名作については、ソルジェニーツィンに言及したいと思っています。また、のちほど。

 わたしたちの読書会《どんぐり》でも、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」を昨年4月に読み合いました。いまどき流行らないのでしょうが、大学時代には、この作品や「ガン病棟」「鹿とラーゲリの女」「煉獄の中で」などを読みました。とりわけ好きなのは「マトリョーナの家」でしょうか。短篇ですが、古きよきロシアと言ったらよいか、バカがつくほどの正直者、他人のためにタダ働きばかりしているお人好しの老女を、この作者は無限の慈しみをもって描いていましたね。

 「イワン・デニーソヴィチ…」やほかの代表作は、ドストエフスキーの「死の家の記録」と並ぶ、ロシア獄中文学の金字塔といっていい作品。政治と文学、共産主義体制下の知識人のあり方といった観点から評価されがちですが、へんにつくられた“プラス思考”というよりは、ラーゲリ(強制収容所)の現実をそのままあらわしていて、主人公シューホフの好人物ぶりと、それに対するスターリン・ソヴィエトのひずみを浮き彫りにしている作品でしたね。そこには、絶叫もない、感傷もない。零下数十度という極寒の地の収容所での起床から就寝までの一日が淡々と、悲壮感もなく描かれていく。異状な事件や刺激的な描写はまったくない。囚われた不自由さのなかに小さな喜びと希望を見出しつつ楽天的に送る日々を通して、自由の尊さをくっきりと逆照射している秀作。

 いまどきの人たちはこういうのを読まないんだろうなぁ、と残念に思います。たぶん、わたしがこれをテクストに引っ張りだすことがなければ、読書好きのはずのわが読書会メンバーでさえ、読むことがなかったろうと思います。(2008.11.10)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


◆5-2 梨木香歩『西の魔女が死んだ』
      ――自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力

 さちこさんに薦められていた梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』も読みました。
中学生「まい」ちゃんの複雑な感性とともに、“西の魔女”のおばあちゃんの生き方、考え方、生活スタイルがアメリカのナチュラリスト・絵本画家のターシャ・テューダーのそれを想わせてくれるものがあり、気持ちよく読むことができました。
 土の上に足を置いた古風な生き方、すがすがしいそのたたずまいは、いやいや、もっとも新しい、自然にかなった生き方だと思わせてくれますね。「死」すらも、暗さなく、すがすがしく描かれます。それに、とっても大事なメッセージが語られていますね。「魔女になるために、いちばん大切なのは、意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力」だ、と。
 ひと任せにしたり、省略したり、曖昧に誤魔化したりせず、自分で考え、決める…。当たり前なことですが、このごろの子どもにいちばん欠けているのがこのことのような気がしますので。
それに、この西の魔女、子どもを前にして、決して手抜きをしませんね。そう、子どもを育て、教育するということは、最初から手間のかかるもの。手間をかけることなしに子どもを育てることはできません。それがいやなら、子どもなんぞ生むべきではない。
(ラボなんぞやるべきではない)忙しいからといって手抜き料理を与えるなんぞ、とんでもありません。

 きょう、小学校に呼ばれてPTAの人たち十数人と話をする機会がありました。「キッズクラブ」という放課後の子どもたちをあずかって活動する横浜固有の学校に付帯する組織があるのですが、ある人がそこでお餅つきを提案。するとすぐに反対の声があがりました。臼や杵を洗う手間、お米を蒸かす手間、搗いてこねてまるめる手間…。お餅つきは自治会でもよくやりますので、その大変さはよく知っています。臼や杵の持ち運びもハンパじゃない。でも、搗きたてのお餅のおいしさ、みんなで食べるおいしさは素朴さや野趣とともに楽しく、すばらしく、何よりも、その手間を子どもたちに見せ、大変さを分かち合うことこそが大事だ、何にも勝る教育だ、手間を惜しんで何で教育か、と、
わたしは反対の声をひっくり返してきました。

 西のこの老魔女の潔さ、すがすがしさに、大学病院の病室も輝いて見えました。それに、驚いたのは、「銀龍草」。わたしが一昨年の夏、尾瀬沼で発見して「ひろば@」で紹介したことのある、世にもふしぎな植物のことが語られているではありませんか! ありがとう。たのしい本との出会いでした。〔2008.02.21〕

【みかんさん 2008.03.03】
 『西の魔女…』読みました。それから、がのさんのHPで、銀龍草を、見ました。私も、“ユウレイダケ”という言葉がぴったりだと思いました。
 あの場面で、『大草原の小さな家』の中の『スミレの中に』を、思い出しました。バッファローが作った穴には、スミレがいっぱいでしたが、こちらは、もっと深い、日のあたらない穴なのですね~。透き通るような銀龍草は、写真を送っていただいた、ヒマラヤのブルーポピーに負けず劣らず、幻想的ですね。


 「人間になれない子どもたち」と“魔女”になる子ども

子どもが“人間”になっていくすがたを、ちょっと違う側面からご紹介し、おしゃべりしたいと思います。
 しょうもないゲームにばかり心をとらわれているような子には、「魔女修行」が必要でしょうかね。どこにもいるケータイ馬鹿にも。緑深い自然のなか、欲なく虚栄なく、つつましく暮らすおばあちゃん魔女。その“西の魔女”のスローライフのまわりには、特別なことはありませんが、明るく温かい日差しと匂い立つような緑があります。ホンモノの生きる力をもったすてきな存在です。そのていねいな生きかたが魅力的で、「まい」は学校を休んで魔女修行に入ります。いや、手の施しようのなくなったママがおこなった強制隔離によって。
 修行といっても、それは特別なことではなく、家事をしたり、勉強をしたり、ごくごく当たり前のことを、ていねいに心をこめてするだけのこと。当たり前のことをして過ごすことの心地よさ、当たり前のことの中に新鮮な喜びを見つけるゆたかさ。ちょっと神経過敏で、学校は苦痛を与えるほか何もないところと拒否して登校しない、扱いにくい、生きるに生きにくい少女「まい」は、魔女生活のそのゆたかさに癒されつつ、自信をつけ、成長していきます。
 野イチゴを摘んだり畑から野菜を採ったりと、ターシャ・テューダーを想わせる、自給自足の、シンプルな、自然とともに生きる生活スタイル。「大草原の小さな家」のインガルス一家の生活を思い起こす人もいるでしょうか。掃除にも洗濯にも電気を使うことのない質素な生活。魔女との日々はそういうものでした。
 いつも背筋をピンと伸ばし、さかしらに他を否定することなく、多様な生き方を肯定するおばあちゃんの魔女ぶりは、生きにくさを感じている人の心の痛みに触れ、外の世界とつながる力を、たくまずして示してくれるものでした。
どうでしょう、共鳴できませんか、こんな生き方。

一方、対照的なのは、中学生の主人公「まい」のママで、なりふりかまわず、仕事、仕事といってキャリアウーマンとして息せききって東奔西走しています。夫は長期単身赴任で不在、いつも自由いっぱいの独身状態で、ハーフでかっこいいママはどこへ行ってもモテモテです。そんなママとふたりきりの「まい」の生活がどんなものかは、十分に想像がつこうというもの。「まい」はどれほど高価なものを与えられても、満たされることはありません。リッチさは人のこころを不安にさせ孤独にさせるだけ。多感な「まい」には、逃避を考え、死を考え、人とのつきあいをきらい、ひねくれるしかありませんよね。

ゲームの発想にとらわれて、そこから離れられないでいる感性は、「まい」のそんな状態にどこか似ているように思えるのですが。子どもと本気には向き合っていないか、べたべたひっつきすぎで距離感のない関係。ほしいといえば、すぐに親が買ってくれるから、子どもは何も考えなくていい、自分で考えて決断しなくてもいい。魔女修行のいちばん肝心なところは、何事につけ、自分で考え、自分で決める、ということ。喜びも希望も、また幸せも、自分のこころが決める。そこに“人間”になった子どものすがたがある。テーマ活動の意味もそこにある。「西の魔女が死んだ」は、おとなたちの効率主義が見落としていったさまざまな今日的な課題を、無理なく、説教くさくなく語ってくれている好編で、いろいろ教えられます。(To: スミティさん 2008.04.15)


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◆5-1 バルザック「谷間の百合」
      ――こころの闇に咲く清純な大輪の花、崇高な愛のすがた

「谷間の百合」やっと読み終えました。「ゴリオ爺さん」のパリの社交界とは正反対の息苦しいほどの清い愛。モルソフ夫人の心の葛藤。そして愛に死ぬ衝撃。パリの社交界での成功のレールを引く夫人。そこに世俗的な愛が忍び寄ることを恐れながらも愛するフェリックスをパリに送り出す気持ちを思うと、それほどまでに深い愛だったのだと最後に気付きます。読みにくいと思いながらも惹かれるバルザックの作品です。〔Play with me さん 2007.07.16〕
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 すごい! すばらしい! さすがPlay with me さんです。バルザックの名を知らない人はなくても、いまどきこの大河小説をひもとこうなんて人は、めったにいません。読書をよくするとされるラボのみなさんのなかでも、最近『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』『従妹ベット』といったあたりを読んだという人は、たぶんいないはず。薄っぺらなもののうえで幼児顔して滑っているだけでなく、こういうものをじっくり読んでいただきたいですがね。だって、こういうものを読んだあとには、自分が新しくなったような、自分がひとつ確かに高められたような、そんな悦びがありますよね。新書などで表面的なその場限りの簡易知識をいくら詰め込んでもぜったいに得ることのできない、感動の深さがここにはあります。うわっ面の知識を追うことのむなしさを知るときでもあります。

 『谷間の百合』――。もうずいぶん前に読んだもので、忘れてしまったことばかりですが、そうそう、バルザック自身を想わせる主人公のフェリックス。百合の花に譬えられる美しい貴婦人モルソフ夫人(アンリエット)。ふたりはある舞踏会で偶然に出会い、青年は踊ったあと思わず夫人の匂やかな肩に顔をうずめてキスをしてしまいます。愛情薄い家庭で育ち、星を眺めることで自分を慰めることしか知らない青年にとって、伯爵夫人は生涯、忘れることのできない人となっていくんですね。

 昔、これを読んだときにわたしの胸板を突き破った衝撃の大きさは、わたし自身のあり方にあったでしょうか。どんな努力にもかかわらず、ことがうまくいかないとき、周囲のだれにも目を向けてもらえないようなとき、思惑がいつも外れるとき、才能や実力の真価をどこにも発揮できないようなとき、自分のことばが相手にどうしても届かないとき、胸のなかにある思想がだれにも評価されないようなとき…。

 そう、このごろ折あるごとに考えているギリシア神話のほうから言うと、タンタロスのような状態にあるとき、フェリックスは深い孤独と疲弊感と劣等意識のなかで崇高なこころに出会ったんですね。
 タンタロスというのは、ゼウスの子で、黄泉の国の湖にあって、顎のところまで水に浸されながら、焼け付くようなノドの渇きを癒すことができないでいる哀れな存在。ヘラクレスが12の難行と戦っているとき、スティクス川を渡ったハデスの国(黄泉の国)で目にした凄まじい光景で、水を飲もうとするとサ―ッと水は退き、木の実を摘もうとするとピイーンと枝が退き、永遠の飢渇に苦しみつつなお生きていかなければならない男。ツキに見放されたおれって、まるでタンタロスだ、とまいってしまっていたときに出会った気高い女神。アンリエッタは、フェリックス(あるいは、わたし)には、そんなふうに見えたものです。つまり、人生の暗い谷間の底のようなところから見えた、あまりにも神々しい太陽、匂いやさしい大輪の花。

 『ゴリオ爺さん』を読んだときに調べたことによりますと、ふたりの子持ちと書かれているモルソフ夫人のモデルと思われるベルニー夫人は、当時(バルザック23歳)、45歳、9児の母親でした。バルザックはパリの屋根裏部屋にこもって作家修行をしているときで、まだ誰にも評価されていませんでした。で、ベルニー夫人とその近親者たちに資金を出してもらって、バルザックは自分で出版業をはじめます。もちろん、商売はうまくいきません。その間にも、高級娼婦オランプ・ペリシエやカストリ公爵夫人との関係が生じ、そのつど破局します。ポーランドのハンスカ夫人や、バルザックの子をなすことになるマリア・デュ・フレネーとの関係、私生児をなすギドボニ・ヴィスコンチ伯爵夫人…と、まことにおさかんです。それでも、36歳、再びベルニー夫人との交際がはじまり、その息子の死を機にふたりの関係は終局を迎えます。

 『谷間の百合』は壮大な恋愛小説として読まれるのが普通ですが、肉と霊の葛藤のなかで展開する崇高な愛の行方もさることながら、自然をうつすバルザックの筆力の冴えと、人間を観察するその目の鋭く澄んでいることが印象に深く刻まれる作品でしたね。
 いまのわたしは、8月中旬まで、地域のさまざまなことに追われて本を読む時間がほとんどなく、それが大きな悩みです。ピンチです。そんななか、Play with me さんとこうした感動を共有できることを、ほんとうにありがたいと思っています。〔2007.07.17〕
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