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0705
SAYO & GANO トーク=<7>


〔読書はあらゆる学びの原郷〕


◎7-1 ラジオ「名作を読み直す」、
言い残したことなど <その1>

2008.11.08

小夜:おとうさんは、なぜ、テレビやラジオに出るたび、不機嫌になるのですか。
がの:えっ、そんなに不機嫌そうでしたか。
小夜:そうよ、傍から声をかけるのがちょっと怖いくらい。
がの:そう、それは悪かったですね。でも、ちょっとひどいとは思いませんか。いろいろ言いたいことがあったのに、何も言わずにいるうち、プツン! ですよ。乱暴です。いつもいつもそうなんだから。
小夜:仕方ないじゃないですか、テレビもラジオも秒単位でプログラムされているのですから。それに、おとうさんのために番組が組まれているんじゃないですからね。
がの:それにしたって、ほら、あのときは風邪をひいていて、鼻汁はダラダラ、ちょっと話すと声がかすれてしまう状態。まずいな、ということで朝一番にお医者にいって、「なんとかしてくださいよ」と泣きつき、これなら、といういちばんいい薬をもらって服んで、それから午後ずうっと待機してくれといわれていて、外出もできない。まず、ディレクターとさんざん話して、そのあと、アナウンサーとも。
小夜:アナウンサーのおねえさんと機嫌よく話していたそうじゃないですか。
がの:あ、あのひとはおとうさんと同郷なの。大学は名古屋のほうだったと思うけど。
小夜:それに、そのあとの青木奈緒さん。ずいぶん長話でしたよ、20分、いや、30分かな。
がの:あの人のおばあちゃん(幸田文さん)のおとうさんが幸田露伴。青木玉さんのお嬢さんにあたります。すばらしい感度というか、アタマがいいというのはああいう人のことを言うんでしょうね。知性にピカッとした輝きがあり、お話ししていて、楽しくなってきてキリがない。そうね、おとうさんの話したかったことはそのとき話してしまったから、それでもういいようなもんですね。
小夜:そうそう、小夜もあんなすてきなおとなのひとになれたらいいな。ていねいで、ものやわらかで、しかも、積み上げられた知識が豊富で、考えがはっきりしていて。なによりも、ことばのはしばしにまで、たしなみがあって…。
がの:さすがに幸田露伴の血を引く人。ええ、たしなみを自然に備えている人です。でも、考えがはっきりしている、と言いますが、おとうさんと話しているときは、なんだか、とても不安そう、自信がなさそうだったようには思いませんでしたか。本番で何を話したらいいか、わからない、困ったわ、とか。
小夜:午後4時、本番直前、おとうさんとの電話の最後に「決めました!」とおっしゃいました、「ありがとうございました」とも。おしゃべりのなかで、ピピッとこころにひらめくものがあったのでしょうか。青木さんのあとにはアンカーの柿沼さんからも、挨拶がひとこと。毎日の番組、そのひとつの番組をつくるのも、たいへんなんですね。
がの:もう、あのことは忘れました。忘れないと、いつまでも腹のムシがおさまらないですから。
小夜:おなかに悪いムシを抱えていると、精神衛生上よくないですから、言い残したことを小夜が聞いてあげるわ。
がの:もういいですよ、口惜しかったり恥ずかしかったりして、思い出したくもない。
小夜:まあ、そうおっしゃらずに。本番前の、アナウンサーのおねえさんとの話には間に合わなかったけれど、青木さんとの話、あれはとてもよかった。小学校からハーハー息をきらせて走って帰ってきたけど、その甲斐があったと、小夜はほんとに思ったわ。


――青葉ふれあい読書会《どんぐり》とは、どんなグループですか。
 さまざまな世界の名作文芸を読みあうグループですが、たくさん本を読むこと、広い分野の本を読むことが目的ではありません。地域活動の一環として続けている活動で、“ふれあい読書会”としているように、すぐれた文学作品を介して地域の人と人とが出会い、それぞれの考え方や意識を交流しあう場です。広い層の人たち、幅広い世代の人たちの参加を期待して8年前にスタートしました。
 活動の軸に据えているのは、海外の名作文芸。海外に限定しているわけではありませんが、すぐれた文学作品に描き出される人間それぞれの生きざまをテーマに参加者みんなの前に据えて、それをめぐってさまざまな世代、さまざまな層の人同士で考え方、感じ方を分かち合うこと。そんなところからこころの健康な人であふれる地域にしていきたい、それがねらいです。

――参加者はどういった人たちですか。
 いちばん初期のころには、中学校の授業の一環として「星の王子さま」を3クラスの中学3年生と旧世代の人とでいっしょに読み合ったことがありました。その後、中学生、高校生の参加はほとんどなく、40歳台から70歳台の中高年の方がた、それもほとんどは女性、家庭の主婦です。でも、とても意欲的な方がたで、ふだんそんなに読書をすることはないにしても、こころに健康なものをもっていて、明るく闊達で、わたしはこういう人びとに囲まれていて恵まれているなあ、といつも思っています。会員制でもなく、だれでも、いつでも参加できます。参加している人たちからは、たいへん喜ばれ感謝されています。作品を通して多様な人生にふれ、未知の世界、多様な美しい自然にもふれてこころを震わす。そうしたこころの刺激が感性にみずみずしい若やぎをもたらし、こころの健康を保つことになっている、と言ってくれています。

――名作とは、どういう作品と思いますか。このごろ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」や小林多喜二の「蟹工船」がよく読まれていますが、それをどう思いますか。
 すぐれた文学作品には、例外なく、ウソがない、甘やかなゴマカシがない、読んだあとにはホンモノに触れたときに特有の深い感動が胸に残る…。このごろ特にそんなふうに思うようになりました。「カラマーゾフ…」も「蟹工船」も読者に鋭く訴えるものがそこにあるからだと思います。ウソやゴマカシがない例を、最近みんなで読んだ「風車小屋だより」と「貧しき人びと」から挙げてみましょう。
 前回10月16日に読んだばかりのアルフォンス・ドーデの「風車小屋だより」。この短篇集のなかに「スガンさんのやぎ」という一篇があります。おことわりしますが、これ、わたしの名前にひっかけてテーマにしたのではありませんよ。岸田衿子さんの訳による絵本があります。ご存知でしょうか。これはしかし、絵本らしくない絵本と言えるかも知れません。人によっては、これを子どもに読んで聞かせるのを躊躇うこともありそうです。ヤギが登場する絵本としては、「三びきのやぎのがらがらどん」や「おおかみと七ひきの子やぎ」など、いくつか馴染み深いものありますね。ヤギとトロル、ヤギとオオカミが戦いますが、最後は弱いはずのヤギが勝って、パンパカパ~ンと、ハッピーエンドになります。ハッピーエンドが児童文学の常道ですから。しかし「スガンさん…」のほうは、そのようにはなっていません。死力を尽くして一晩じゅう戦って、ついには力尽きて倒れ、食べられちゃいます。束縛から逃れ自由であることは尊い、冒険心を奮い自分の可能性を確かめる努力は大事。若いこころにはだれにも抑えられない欲望でもあります。一方、自然の仕組みにもそれなりの峻厳な約束ごとがあります。あぶない森へ行けば、高い崖から落ちることもあるだろうし、オオカミに襲われることも自然の掟のうちです。そうした約束ごとにしばられて生きているのが、とりもなおさず、われわれの存在であり、現実だ、とこの詩人はきびしい。童話的な甘やかしはここには微塵もない。
 おなじ「風車小屋だより」に入っている「」という短篇。文庫本にしてわずか5~6ページのものですが、これなどはまさに珠玉の“名品”と言えるのではないでしょうか。読んだだけで、これほどの幸せにめぐりあったことがあるだろうか、と思うほど、いい気持ちにさせてもらえます。雨に拭われたあとの夜空に見る星のように、透き通ってさわやかです。

これを読んだ前の月、9月にはドストエフスキーの「貧しき人びと」を。これはロシアの大文豪が24歳のときに書いた処女作です。最下級の役人の男と、孤児で病気がちの娘。ふたりのあいだには親子ほどの年齢差があります。小心もの同士のつつましやかな、悲しいほどに秘めやかな愛。ふたりがどれほどこころを通わせ合っても、どうにもなりはしない。双方それぞれ涙ぐましい努力をしつつ互いを思いやります。しかし、足掻けば足掻くほど、その足はすべって泥沼の深みにはまりこんでいきます。
 このへんは、このごろ顕著に現われてきた格差社会のひずみのなかで苦しむワーキングプアと呼ばれる人びとのすがたをそのまま照射してはいないでしょうか。19世紀の半ばに書かれた作品ですが、今の時代をみごとに映し出しているとも言えますね。オンリピックから帰ってきたメダリスト、あるいは宇宙から帰還した宇宙飛行士など、いわゆる勝ち組の成功者が、子どもの前に立って必ず口にするのが、「夢を持て」「夢は、持ちつづければいつか必ず叶うもの」と言います。しかし、現実はどうか。“ひきこもり”や“不登校”の人の悩みがそういうことばで解消した例は聞きません。そんなのはソラゴトさ、と嘲うかのように、夢を持てば持つほどに事態は悪いほうへ悪いほうへと歯車の回転を早めていくケースのほうがずっとずうっと多い。わたし自身のこれまでを振り返っても、その思いのほうが強いですね。挫折、挫折の繰り返しのなかを、あえぎあえぎ生きてきたようなものですから。夢とは、なかなか叶うものではないから「夢」なんだ、と身にしみて思わされてきました。
 作品中の貧しい男と女の「不幸」と「不幸」を掛け合わせたところで、奇数と奇数を掛けても偶数にはならないように、それがクルッと「幸福」に裏返るようなことはなく、どんどん不幸の淵へ導かれていく。ロシアの文豪はついにふたりに幸福な結末をさずけることはありませんでした。
 貧しいのは努力が足りないからか。たくさんたくさん涙を流せば幸せになれるのか。運命はかならずしもそんなに公平ではないことを知らされます。
 九等官の小役人のマカールと、貧しくとも清らかな少女ワーレンカ。わたしたちは、その男女の貧しさと、わたしたち自身が今感じている貧しさとを比較して話し合いました。贅沢や虚飾を捨て、ある程度の辛抱をし、節約につとめれば、どうにか凌げていくわたしたちの日々の貧しさに比し、不幸な運命に弄ばれるこのふたりの場合は、すぐ死に直結する貧しさです。何がほんとうの貧しさか、何が本当の不幸か。それを容赦なく問いかけてくる作品がこれ。こういう訴求力をもってわたしたちの胸板をぶち抜く作品を名作というのではないでしょうか。

小夜:はい、おとうさん、長くなりましたよ。ここでプツン! 読む本はどんな尺度で選んでいるのか、海外の作品にこだわる理由は何か、声に出して読むこと、など、まだまだありますが、このつぎにしましょう。少しは腹のムシがおさまりましたか?



◎7-2 ラジオ「名作を読み直す」、
言い残したことなど 〔その2〕

【2008年11月26日】

小夜 ごめんなさい、小夜の不覚でした。
がの どうしましたか、何かまた毀しましたか。冷静そうですけど、じつは意外にそそっかしく、よくものをなくすし、よく器を割るからなあ、小夜ちゃんは。
小夜 そんなんじゃありませんよ。一生の不覚。
がの またまた、おおげさな…。さては、このあいだおとうさんが陶芸教室でつくったご自慢の花瓶、あれ、落としたんじゃないでしょうね、まさか。だいじにしてくださいよ。不朽の傑作かもしれないのですからね。
小夜 ちがうの。このあいだのラジオの放送、じつはむこうのお部屋で録音していたの。
がの あっ、録音はやめなさい、と言ったのに。ごめんですよ、あとになって自分の声を聞くくらい、いや~な気分になることないですから。
小夜 ええ、そうは言われていましたけれど、ひとによっていろいろご都合があるじゃないですか。「聞けなかったけれど、どうでしたか?」といわれたとき、それを聞いてもらえれば…、と思って、念のためのつもりで。事実、あのあとたくさんの人から言われたじゃないですか、「ごめん、聞きそこなった」と。
がの いいの、いいの。ごらんなさい、結局、言いたいことも言えないままプツンされちゃったじゃないですか。
小夜 おとうさんは何度もそれを言いますけれど、そんなことはありません、ちゃんとそれなりの時間は与えられ、けっこうたくさんお話ししていたじゃないですか。
がの そうかなあ。
小夜 午後4時からの放送と聞いていたので、それに合わせてカセットテープをセット。ところがそのテープは片面30分のものだったの。おとうさんの出演する4時35分すぎのものは、まるでペケでした。
がの そうでしたか。でも、べつにいいじゃないですか、もともと電波による放送なんて瞬間で流れて消えてしまうもの、虚しいもの。それに、生放送のなかで何を話したのか、おとうさんにはぜんぜん記憶がないのよね、とにかく、アレッ、という間に時間切れで。
小夜 前回、ここで冒頭部分を少し整理しました。おとうさんのタチの悪い腹の虫がおさまったかどうかは知りませんけれど、記憶の糸口は、幾分か、つかめたはず。小夜はラボのみなさんにお約束してしまいましたし、採り上げる作品はどんな基準で選んでいるのか、海外の作品にこだわって読む理由はなにか、そのあたりのことを改めてお話しくださいませんか。

――みなさんで読み合う作品はどんな尺度で選んでいますか。
 一応、どんな作品を採り上げてほしいか、おりおりメンバーに希望をうかがいます。これまでは、こんなのが読みたいと、声をあげて具体的な作品をいう人の例はなく、わたしが半年ごとにプランを立て、それに沿いつつ、なお柔軟性をもたせながら進めてきました。基準のようなものは特になく、かといって、何でもいいというふうにもなりません。平坦な目で見て、ある星霜のなかで社会的評価の定まっている作品から、その時どきの話題性に富むと思われるもの、みんなで考え合ってみたいテーマをもつものをリストアップし、集会所の掲示板に公表いたします。
 あれこれ作品を考えているなかで、いろいろ意外に思われる発見があります。人口に膾炙され、さまざまな機会に耳にして知っているつもりでも、実際には読んだこともない作品だったり、本はずっと以前に買って持っていたけれど、読む機会もなく、いつか興味は失せて、書棚の隅にうずもれたままになっているような作品。どなたにもそんな本がたくさんありますね。
 この読書会を進める第一歩のとき、3クラスの中学生たち数十人といっしょに「星の王子さま」を読みました。これなど、世界じゅう、聖書についで多くの人が読んでいるとされていますし、知らない人はまずいませんが、事実は、きちんとこれを読んでいた人は、旧世代の人もふくめてごくごく少数でした。この有名な作品でさえ、です。それとなく生活していて、いろいろな機会に話題になることがありますので、みんな知っているつもり、読んだつもり、あるいはごく一部分を限定的に知っている、といった状態。
 別な例で、先ほどから出ているドーデの「風車小屋だより」に立ち戻って、このなかに「アルルの女」という短篇があります。ビゼーの作曲した名曲がすぐ思い浮かびますね。その名を聞いただけで、あの曲が頭のなかで華麗に鳴り出すほど、よく知られた曲。ですが、どうでしょうか、これはどんな物語につけられた曲なのか、どれほどの人が知っているでしょうか。(オペラ用の台本は別に書かれていますが)原作は文庫本にしてわずか6ページ足らず、アッという間に読み終えてしまいます。しかし、それだけのなかに展開する壮大な人間ドラマの山脈。気づいてみると、そこでは一行たりとも“アルルの女”、…かんじんカナメの人物の実像は描かれていません。にもかかわらず、読むものには、そのイメージがくっきりと目の前に見えてくる。その容姿や衣装、ことばづかいや声の調子までが。こういうのを名作というのではないでしょうか。抑制され、引き締まったその文章は、ほんと、魅力的です。一語のムダさえない文章のなかに、人間の、わかっていてもどうにもならない、若ものの抑えがたい心情、哀れなまでの憧れの思いが描写されています。そんなところはぜひしっかりと味読したいと思いますね。一読したら、ビゼーの曲もそれまでとは違うように聞こえるかも知れません。
 やはり、古今の名作とされているようなものには、汲み取っても汲み取っても尽きることのない滋味がありますよね。想像力によって書かれた作品ながら、そこには日々のこの現実以上にリアルな、ほんものの真実に出会う機会になります。

――海外の作品にこだわる理由は、何かありますか?
 理由はありませんし、こだわってもいません。これまでの76回を振り返っても、山本有三の「米百俵」や松谷みよ子さんの「龍の子太郎」、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」、最近では梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」も。
 「米百俵」は小泉・元総理がご都合主義的に引き合いに出した作品で一時話題になりましたが、そういうことでなく、ドーデの「月曜通信」のうちの「最後の授業」に関連して、ことばこそ文化の精粋であり、母国語を守ることがどれほどたいせつなことかを話題にしました。そのおり、わが国にも同様の母国語が失われそうな危機がありました。GHQによって日本語から漢字・平仮名・片仮名が奪われローマ字表記に統一されようとしたとき、貴族院議員だった山本有三が頑迷にがんばって日本語を守った、そのすばらしい気骨と「米百俵」で書かれた長岡藩士の小林虎三郎の気骨、今このときの空腹を満たすより、10年後、50年後の長岡を考えて若ものの教育に百俵の米を投ずべきとする堅い信念、枕元に反対派の刀が林立するなか、命を張って学校をつくることにこだわったその根性にふれようと、読んでみました。それのみならず、その時期、文学散歩で三鷹から吉祥寺のあたりを歩きました。太宰治の心中事件で知られる玉川浄水のほとりに瀟洒な西洋館の山本有三記念館があり、多くのメンバーといっしょにそこを訪ねていることにもよります。
 小川未明の「赤い蝋燭と人魚」は、同時にアンデルセンの「人魚姫」を抱き合わせて読み、人魚の描き方ひとつをめぐって、日本人と西洋人の感性の相違、あるいは同じ感じ方といった点を探りあいました。

 たしかに、それ以外は海外の作品でしたね。わたし自身はもともと、大学では国文学を専攻したほどで、そちらの専門というわけではありませんが、この地域には、わたしたちのこの読書会のほかに、もうひとつグループがあります。むしろそちらのほうが参加者も多く活動歴も長いのですが、そちらは日本の作品のみをずうっと読んでいます。趣味で読書をする程度の人たちがほとんどですから、どうしたって、日本の作品のほうが近づきやすい、親しみがある、ということでしょうね。しかし、それでおさまらないのがこの地域の特徴なのかも知れません。
 ご承知のように、横浜はわが国が海外との交易をはじめる最初の窓口となった地。生糸貿易を中心に閉ざされていた国を開き、国の富を築いていった歴史があります。まあ、それを持ち出すまでもなく、身辺どちらを向いても、海外をよく知る人、豊富な国際交流経験を持つ人、国際的視野を持つ、開けた感覚の持ち主に恵まれています。新しがりやのものずきなのでしょうか。つい最近の話題では、介護福祉士をめざすインドネシアの若ものをイのいちばんに迎え入れたのがこの近くの福祉施設です。施設で受け入れる、ということでなく、地域の全体で迎え入れようとの気運のなかで。ODAを通じて赤道直下のアフリカ諸国を駆けまわり、農業指導にあたっている人がいます。イギリスとのあいだの航空路を長年行き来していた人を中心に、荒れて人が近寄らなかった公園をバラいっぱいのイングリッシュ・カーデンのスタイルに生まれ変わらせた人たちも。
 ですから、このあたりの人には海外文学も、意識としてそんなに遠くはなく、パンとコーヒーがいつの間にか日本人の朝食の定番になっているように、ごくふつうのことで、むしろそれがないと何か欠けているようにさえ思える感覚があるようです。
 わたしたちは読書を、何かのために、と考えたことはありません。それでも、たとえば仕事でイギリスへ行ってしばらくあちらで生活することになった、というような場合、むこうで出会う人びととのあいだで、シェークスピアの作品を話題に語り合う、モームヒルトンマンスフィールドの作品、ゴールズワージーテニスンの詩を話題に近づき合えたらすばらしく、どうでしょうか、ビジネスを超えた良質な人間関係が築けるように思いますね。
 ある開発途上国に仕事で行った人が、会で読んだツイアビの「パパラギ」を話題にして、現地の村じゅうの人たちとおおいにもりあがったとも聞きました。功利性を求めるわけではないにせよ、良質な読書を通じて、ある種の柔軟なセンスが知らぬ間に培われていくように思います。

小夜 ほら、おとうさん、おしゃべりしすぎですよ。ドーデのムダのなさ、抑えのきいた文章を言って、まだその舌が渇かないうちに、これですからねぇ。まだ言いたいことがありますか。小夜はもう眠いです。
がの ありますよ、もちろん。放送前の打ち合わせでは、「名作をもう一度読み直す、その意味は?」とか、「読書の活動を長くつづけていくコツのようなものは?」とか、「声に出して読む、その意味は?」なども話したはずなんですけれど。
小夜 またにしてく……クークークー…(寝息)


◎7-3 ラジオ「名作を読み直す」、
言い残したことなど 〔その3〕

【2008年12月14日】

小夜:おくればせながら、おとうさん、おめでとうございます!(パチパチパチ…)
がの:うん…? あ、あれね。やめてくださいよ、恥ずかしいから。
小夜:福祉功労者の一人として、11月30日(日)、市から表彰されました。考えてみれば、小夜が生まれるより以前から、地域福祉方面のこと、なさって来られたんですね。
がの:そう。いまはそれだけじゃなく、青少年指導員として中高生のさまざまな問題にも頭をぶつけています。でも、いいですよ、それは、このラボのサイトでは。
小夜:さっきの電話は区長さんからでしたね。ずいぶん長い電話。なんですって、区長さん。
がの:うん、あのね、このあいだの市の福祉大会につづくフォーラムで記念講演をしたじゃないですか。「誰もが支え手、だれもが受け手の生活環境づくり」と題し、ボランティア活動のほうから新しい地域活動の方向を探るとして話しました。あれ、案外反響が大きかったんですって。で、区長さん、そのことで何かに書きたいんだそうです。区報かな。それでね、あのときのお話のポイントをもう一度聞かせてほしい、って。
小夜:でも、おとうさんは、あの大きな大会が終わって、やっと、やれやれ…、ですね。それにしても、おとうさんの講演やレポート、テレビ(ケーブル)やラジオは、このところ、福祉とか防災のことばかりでした。小学校低学年の英語導入のこともありましたけれど。以前はよく、サクラの季節になれば西行のサクラの歌とか、万葉植物のこととか、FMで毎年のように放送していたのに…。
がの:そうそう。すっかり文学ばなれ、古典ばなれでした。NHKラジオで文学のこと、読書のことを話すなんて、久しぶりでした。
小夜:だからなのね、おとうさんがご機嫌ナナメだったのは。おはなししたいことがいっぱいあるのに、時間だからとプツンとやられてしまって。
がの:もう、あのとき何を話したかったのかも忘れてしまいましたが、今年も残すところあとわずか、一応、ここでまとめてケリをつけましょうかね。
小夜:もう一度作品を読み返す、その意味は? 読書会というグループ活動を長くつづけていくコツは? それに、声に出して読むことについて…。
がの:おつきあいしてもらってありがたいのですが、失礼だよなあ、小夜ちゃんは。おとうさんがいっしょけんめいおはなししているのに、このあいだなんか、クークー眠ってしまうんだから。
小夜:ペコン! ごめんなさい。だって、おとうさんのおはなし、長いんですもの。きょうはサッといきましょうね、サッと。


――名作をもう一度読み返すことに何を求めておいでですか?
 小さいとき、若いときに通った道を、10年後、20年後、30年後に改めて歩いてみる。以前見たものがそのまま残っているのを見るのも楽しいし、すっかり印象が変わってしまった風景に出会うのも、また楽しい。少なくとも、そこに足を向けてみることなしには、その楽しさは得られませんよね。そんな、つつましい楽しみのためではないでしょうか。
 わたしたちの世代は、大学に入るなりすぐ学生運動の渦中に投げ込まれました。はげしく闘って、そして挫折して、傷ついて、その虚脱感のなかで、ある人はマージャンに走りました。アルバイトに走った人、演劇や映画にのめりこんでいった人も。で、わたしの周辺にいた人たちは、とりつかれたように本を読みました。今はほとんど読まれることもないようですが、当時は実存主義がもてはやされる時代でして、ニーチェのニヒリズムから、キェルケゴール、ハイデッガー、ヤスパースといった実存主義哲学、サルトル、カミュ、カフカ、ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、メルロー・ポンティ、シモーヌ・ヴェイユ、ジョルジュ・バタイユらの実存主義文学、日本のその系統の埴谷雄高、椎名麟三、大江健三郎、倉橋由美子らの作品を争うようにして読みました。ええ、まるでそれがファッションでもあるかのように、手あたりしだいでした。ほかの仲間に先を越されて侮られるのが悔しいから、一歩でも先んじよう、1冊でも多く、と。

 そんな読み方が何のタシにもならないことは言うまでもありません。一夜漬けのお勉強が、試験のあとで何も残さないのと同じこと。専攻していた国文学のほうはさっぱりお留守という次第でした。で、ろくに自分の勉強はしないまま社会人生活へ。能率主義、成果主義の車輪に組み敷かれ、目の前の仕事に追い立てられているなかで、かつて読んできた本が話題になるようなことはありません。悲しいかな、何を読んだのか、記憶は影さえ残さず霧のかなたです。それだけの粗雑な読み方しかして来なかったということですね。

 読むとはどういうことでしょうか。読むとは、読んで考えるということです。自分の感性で問題を捉えて考えるということ。その場で必要な知識を得るためなら、知るだけでいいのなら、テレビを見るほうがいい、インターネットを見るほうがいい。そのほうが情報量は多い。すなわち、たくさん読んでは来たけれど、考えることはして来なかったんですね。

 で、はるかな星霜を経て、埃まみれになった本を書棚の片隅から引っ張り出して、今度はゆっくりともう一度読む。読書会はそういう機会であり、ほんとうにありがたいと思います。
 その本はどれも、すっかり黄ばんで活字もかすれて読みにくい。古本特有のいやな臭いがすることも。ですが、手垢の染みたその本を開き、赤鉛筆、青鉛筆で引かれた傍線、とがった鉛筆の先で細かに書き込まれたメモなどを見ると、気恥ずかしさとともに、言うに言われぬなつかしさがこころを満たしてくれます。おもしろいのは、読み直して、大事な箇所や気に入った表現のところに改めて傍線を引くとすると、昔のところとはぜんぜん違う箇所だったりする。そのズレこそがわたしの年輪なんでしょうか、若いときの寡聞ながらも真剣で純粋だった自分のすがたが見えてきます。また、家庭をもち、子を持ち、失敗を繰り返し、現実の波に揉まれてスレっからしになったあとの、疲れの見える今の自分のすがたが見えて来る。ですから、名作の再読というのは、青春の日々を振り返り、もう一度、自分を探る旅をしているようなものではないでしょうか。

 いい旅をするためには、ホンモノでなければなりません。すぐれたホンモノを見ること。読むことは読んで考えることだと言いました。では(ホンモノを)「見る」とはどういうことか。目の前にあるものをよく見る、目を近づけてじっと観察する、正確に捉える、…このごろはそういうものではなくなってきたように自分では感じています。「見る」とは、目に見えないものを見ること、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。そんな読み方、そんな見方ができると、名作はいっそう輝くと思いますね。

――読書(読書会)を長くつづけるポイントは何でしょうか。
 何でもそうでしょうが、いい仲間がいることが一つの要件。そして、無理があってはつづきません。楽しくなければつづいていきません。読書においても、こころに楽しくひびくものがなければ、すぐに途絶えてしまいます。何が楽しいか、どんなことにこころの鐘は鳴るのか、それは人それぞれ。ですが、読み継いでいくうち、おのずからルートがつくられ、広いところにつながっていきます。先回、ドーデーの「最後の授業」と山本有三の「米百俵」とのつながりを一例として見ましたね。「国破れて山河あり 城春にして草木深し…」(杜甫「春望」)で、フランス語による最後の授業で母国語を守ることの大切さを子どもたちに伝えた先生と、占領軍から日本語を守り抜いた山本有三の気骨。とりわけ、身を投げ出して「フランス万歳!」をいい、捕縛されて教壇から消えた先生の誠実さは、ヒルトンの「チップス先生さようなら」の、一人の老教師の愛情あふれる子どもとの向かい合い方にリンクしていきます。教育の本質を問う読書になっていきますね。どこをテーマにして読むか、そこがはっきりしていると、作品世界がくっきりしてくるとともに、どんどん広がりが生まれてきます。

 近い例で、11月にはヘッセの「クヌルプ」を読みました。非人間的な戦争や人間性を圧殺する社会機構の“車輪”(「車輪の下」)から脱して自由に生きるとはどういうことか。主人公の流浪と漂泊の人生に神はどんな意味を与えたのか。「スガンさんのやぎ」の自由の場合、良寛さん、山頭火、寅さんの自由の場合とどこがどう違うのか、…どんどん広がりをもってテーマがあらわれてきますね。

 今月はまた、ユーゴーの「死刑囚最後の日」です。フランス文学史上指折りの傑作とされる「レ・ミゼラブル」の下敷きになっている中編小説。自由の問題とも無関係ではありませんが、日本では来年の5月から裁判員制度がスタートします。法律家でもないわたしたち個人が一人の罪人をどう裁けるのか、神ならぬ身でありながら人に死刑を求めることなんてできるのか、考えれば考えるほど怖いことになってきました。また、ずうっと引っかかりながら一歩も前進しない死刑をめぐる論議。日本には残る死刑制度。犯罪被害者はますます犯罪者に極刑を求める傾向にあります。無関心ではいられない、突きつけられているそうした課題を、このあと、どんなことになりますか、わたしたちなりの市民感覚で考え合い、話し合ってみたいと思っています。

小夜:おとうさん…。
がの:長い、というんでしょ! はい、おしまいにしますね。もうひとつ、「声に出して読むことについて」は、もう、ラボのみなさんには自明のこと、語る必要はありませんので。五感を働かせた体験があってこそ、ことばとイメージがひとつになり、こころのなかできれいにひびきあう、ということですよね。はい、ご清聴ありがとうございました。
小夜:よかった。おとうさんは、これで胸のつっかえがとれ、こころおきなく新年が迎えられそうですね。読むというのは、読んで考えること、見るとは、目には見えないけれど確かにそこにあるものを見ること。読書はファッションでもなければ、広い知識を得るためのものでもないのですね。
がの:そうですよ。トクをするために読む、知ったかぶりをするために本を読むなら、それは物を獲りあう世界と同じ。物で栄え、物で滅びる世界。つまらない争いの絶えることなき世界です。そういうのは、もういい。
小夜:来年は小夜も、ホンモノの本を読んで、じっくり考えるようにしますね。

【To: dorothy さん 2008.12.16】
たまたま機会を与えられて、日ごろ考えている (ほんとうは、あまり考えていない)「読書」について、その一端をここにまとめることができましたこと、幸運と喜んでおります。
 「読む」とは「読んで考えること」、「見る」とは「見えないもの、見えないけれどそこに確かにあるものを見ること」であり、知識をふやすこと、物を獲るためのものではない、と書いたばかり。
 で、これはまた、なんという符合か、きょう12月16日の朝刊(朝日新聞)の1面トップに、「基本は国語力」という大きなヘッドラインで、先におこなわれた全国学力調査のことが出ていました。その結果を文部科学省の専門家会議が細かに分析しておりますね。いささかこれには疑問も感じてはおりますが、国語力を重視したことで算数・数学の学力も向上した、などは末梢的なこととして、高学力層がふえた学校では、自分で考える学習に取り組む姿勢が養われてきたことを指摘しています。国語で「書く習慣をつける」取り組み、「読む習慣をつける」取り組みによって高学力層がぐんとふえたことを明らかにしています。与えられたものを受容するだけでなく、自分のアタマと感性で考えること。

 学力をつけるために読書をせよ、などと子どもたちにいうつもりはありませんが、やはり、すぐれた作品にふれるごとに、ひとは強くなっていく、生きる力を強くしていくのだと思いますね。
 ラボの活動がそういうものであってほしいと願っています。
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