幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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0705
★…青少年育成〔1〕…★



 ④「めんどくさい」からの関係性再構築

    ――壊れたこころを癒し、
       生きる力をコミュニケーション能力の再開発で


〔2009.09.14 BBS: To スミティさん〕
 きのう9月13日(日)、青少年指導員の研修の一環で、横浜市主催の講演会に地区を代表して行ってきました。
 講師は、某医科大学の講師であり泌尿器科の医師でもある人で、テーマは「思春期の心と性」。女子中学生・高校生の性に対する無知、命の意味など、ラボのみなさんにはちょっと公開をはばかる部分もあるのですが、「めんどくさい」(めんどい)で一切の思考を停めてしまう若もの、考えることを拒否する若もののすがたにふれ、驚愕させられました。自殺を含む自傷者の多さ、いじめ、児童虐待の多さにも驚かされますが。

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 「めんどくさい」として無関心な態度を決め込むのは子どもたちには限りません。わたしたちの周囲にはびこる病気のように広がっていることをよく感じます。他者の経験から謙虚に、真摯に学ぼうとする努力を喪ったすがた。どうでしょうか、身に覚えはありませんか?
 「めんどくさい」のとは別に、このごろ、学校の給食で「いただきます」「ごちそうさま」を言わない子がいるとか。ラボのキャンプではまさかそんなことはないと思いますが、事実、学校ではけっこうそういう子がいるのだそうです。どうして言わないのか。給食費をちゃんと自分の親が払っているのだから、言う意味がわからない、という。だれに感謝して「ごちそうさま」をいうのか、と。なるほど、そういう理屈もあるのか、と思うが、学校給食で「ごちそうさま」を言わない合理性とは、どういうもんでしょうかね。親の過保護によってのみ生かされている、まわりの見えない存在。

 子どもたちは、過剰なほどにいろいろな人の愛に包まれていながら、その「愛」はどこか偏端なもので、本質的にはつながってはいない、ということ。「愛」の反対概念は何か? 愛憎の「憎」と応える人が多いと思うが、それはこのごろは違うらしい。「無関心」だそうです。こころを踊らせることを知らない、冷めて、考えることを放棄した生き方ですね。想像力の欠如と言えるのではないかとわたしは思うのですが。

 わたしはどうもケータイが苦手で、ふだんあまり使うことはないのですが、ちょっと問題があって面倒をみている女子中学生がいて、何か緊急なことがあったら連絡するように、とメールアドレスを教えたことがありました。電源はいつも切っているか、マナーモードです。その日、文化講座で人の前で話をすることがあって、2時間ほどケータイを手放しました。終わって、ふと見れば、そのあいだに、その子から十数通ものメールが入っていました。内容はみなほぼ同じ、どれも他愛もないことでした。いまどきの中学生はメールを送って、内容はともかく、返事がくるのを5分と待てないみたいですね。「おじさんはなあ、仕事中なんだよ」と返事してやれば、「あ、そうか」。相手のことを想像することもできないこんな調子ですから、子どもどうしのあいだでは返事が遅れただけで友情は簡単に壊れる、人間関係がケータイで壊される、いや、すぐに壊れてしまうような希薄な関係性しか持っていないのがいまどきの若ものなのでしょう。

 人と人との関係のなかで自分のプライドが保てない、自分のこだわりが理解されることなく解消できない――それが生むストレス。しかし、そこを耐えるのが人間を育てる場であることを、わたしたち大人はコミュニティのかかわりのなかで伝えていかねばならないように思います。

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 例は適当ではないかも知れませんが、たとえば、なぜわたしは万引きをしないんでしょう。なぜ痴漢をしないんでしょう。なぜ他人のお金を横領しないんでしょう。なぜ人を殺したりしないんでしょう。たぶん、これからもそういうことはしないだろうと思います。清廉潔癖な聖人君子だから? いやいや、とんでもありません。小心で意気地がないだけかもしれませんが、それなりに自分のストレスをマネージメントする能力があるからであり、想像力を備えているからにほかなりませんね。衝動に駆られてそれをやってしまったら、おてんとさまに恥ずかしい、一家一族は世間に顔向けできないだろうし、それまでいい関係にあった知人・友人の信頼を裏切ることにもなる。そう思って自制することを理性というのかも知れませんが、それこそが想像力でありコミュニケーション力。煎じつめて言うなら、わたしのこころがまだ病んでいないからですね。(身体的にはボロボロですが)

 人と人とのあいだで存在するのが人間。ところが、氾濫する情報のなかで自分が見つけられず、他者との関係性を喪って孤立を深める若い世代。いろいろな違った関係、多様なつながり方のなかで子どもが自分を見つけていくスタイルは、(ラボで、といいたいでしょうが、どっこい、それはちがい) 地域でつくられると思っています。

 他とのかかわりの少ない、ほんとうのつながりを持たない若ものに、どうやってコミュニケーション能力を育てるか。心地よいコミュニケーションの取り組みとして講師が挙げていたのは、(えらいね、と)褒めてあげること、(ありがとう、と)感謝してあげること、(いいんだよ、と)認めてあげること。犯してしまった反社会的な行為について、いっしょに受け止めながら、これからの生き方を探ること。情報がいくらあっても、教育がいくらあっても、それは生きた知識とはならず、生きた知識とコミュニケーション能力が合わさってLIFE SKILL生きる力になっていくという論理。
 こころに病いを持たない(と思う)わたしたちが、身を低くしてもっともっと地域の子どもたちにふれることが求められているように思いました。



=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =


 ③「怒る」こと「叱る」こと
    --落語家桂才賀師匠の講演から

【2009.03.12】
子どもを叱らない、いや、叱れない親が多くなっていると聞きます。どうしていますか、あなたは?
 やさしいばかりではすまされない場合があります。どこでも目にする、目に余る子どもの行儀の悪さ、悪質なイタズラにも、叱らないどころか、まわりの人が見かねて注意しようものなら、逆ギレして怨んだりする親さえも。そうかと思えば、牛馬に対するように子どもを怒鳴りつける親がいたり。嘆かわしいことには、そのどちらでもなく、われ関せずで、見て見ぬふりをする人が大多数。たしかに、怒るにせよ叱るにせよ、互いの関係性が大事で、ワルを見てすぐ「コノヤロウ!」とはならないのはもちろんです。
 さて、「怒る」と「叱る」は、どこがどう違うのでしょうか。

 3月8日、横浜市青少年指導員大会に参加してきました。その第二部が記念講演で、落語家の桂才賀師匠による1時間半にわたる話。落語が演じられたわけではありません。ただ、付言させてもらうなら、古典落語というのは、本来、一種の説法であり、どこかにかならず「教える」「諭す」というものがあって、教訓を笑いのコロモにくるんで語ってきた、そういうものだそうで、わたしは初めてそのことを知りました。
この日は、落語ではなく、「子どもを叱れない親たち」と題し、師匠が少年院篤志面接委員として出会ってきた青少年のこころの内側を、これはさすがに59歳の噺家、円熟した名調子で語ってくれました。

 ところで、みなさんは桂才賀という落語家をご存知でしたか? 恥ずかしながら、わたしにとっては初めて見る人、初めて知る人でした。1980年代の8年間、日本テレビの人気番組「笑点」のレギュラー・メンバーだったそうですね。1985年に真打ちに昇進しています。
 この人、東京・羽田の生まれ、飛行=非行と縁が切れない宿命にあるとかで、法務省の「少年院篤志面接委員」という、あまり聞きなれない肩書きをもっています。奥さんが沖縄の人で、あるとき、子どもさんをつれて里帰り。ムコどのとしてはヒマをもてあまして、なんとなく近くにある少年院を訪問しました。この沖縄は、中学生の逮捕補導率で全国トップのところとか。その後、北海道に行ったら、そこの少年院に沖縄で会った所長が転任してきていて、やあやあ、となり、これを契機に日本じゅうの少年院をめぐることになったそうです。日本全国にはいま53の少年院があり、その全部をまわって、現在は3巡目。いっさい無償のボランティアで、交通費さえ出してもらえない活動。わたしたちの知らない、高い塀の中で、自分の犯した罪と向かい合いながら毎日をすごす数万の若ものたちと、四半世紀近くにわたって対話してきたことになります。
 保護司という人が各地に52,500人おり、この人たちは刑を終えた青少年の自立と健全育成にあたっています。一方、面接委員というのは、全国に800人弱いて、保護処分を受けて少年院に入っている若ものたちの自立と心身の健全育成を任意にあずかっています。めったにその生活が外部の人に知らされることはありません。
 正確なところは知りませんが、罪を犯した未成年者は、ふつう、2週間程度の鑑別所生活ののち裁判にかけられ、家庭裁判所から保護処分を受けたとき少年院に送致されます。そこでの判断基準は、多くの場合、ダメ親、ダメ生活環境で、そこに置いておいても子どもに改善が期待できないとされるとき。親の無関心・無理解と愛情不足、あるいはその逆の、イビツな愛情過多。若ものを犯罪に走らせる要因には、それが大きいようです。
 家庭から、学校から、さまざまな理由ではみ出された子どもたち。その少年院の子どもたちに川柳や詩をつくらせることがあるそうです。
  「たまにはよ 叱ってみろよ おとなたち」
  「この人は 向いてないのに 教育者」
叱れないおとなの弱みに乗じて悪に走った子どものすがたが見えてきます。叱るべきときにしっかり叱れるおとなでありたい。叱る人=し(っ)かりもの、というわけ。

  「笑顔にまさる化粧なし」
 さて、「怒る」とはどういうことか。「叱る」とはどういうことか。
 ずっとずっと以前、どこで触れたか思い出せませんが、関西のPlay with me さんの叱り方のじょうずさをこの「ひろば@」のページで書いた記憶があります。「怒る」とは、こちら側の利得と都合とメンツに立って、感情にまかせて一方的に相手を責めること、と言えるでしょうか。「怒髪冠を衝く」という故事にも見るように、そこには荒々しさ、衝動的な激しさがありますね。弱者を「怒罵」するすがた、だれであれ、怒りののしるすがたは、美しいものではありません。一方、「叱る」はどうか。相手の立場や事情もわきまえたうえで、あやまちを強い態度で戒める、しっかり注意して正してやること。「叱責」してアタマからなじるのではなく、「叱咤激励」ということばがあるように、相手の立場に立っていっしょに考え、あるべき方向へ率直に導いてやる、励ましてやる、冷静に、余裕を持って。

 また、才賀師匠が女子の受刑者の前でよく話したり色紙に書いたりすることばは――「笑顔にまさる化粧なし」。こころを飾り人間を飾るのは、化粧品ではなく、自然に生まれる笑顔。これは、女子の心得としてもらいことばであるとともに、だれもがいつも胸に持っていたいことばですね。

 地域にあって、若ものたちの心身にわたる健全育成をあずかる青少年指導員。これは、子どもたちの成長と教育を全的にあずかるテューターの立場とかなり近い距離にありはしないでしょうか。犯罪に走らない、犯罪に巻き込まれない青少年づくりと、その活動を通じて、安心できる町、安定した地域づくりの一端をになう両者。ただ、ラボがもしその社会的使命を忘れて語学教育、狭隘な夜郎自大の英語至上主義に走り、利潤追求を金科玉条とするなら、話はぜんぜん別ですけれど。


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 ②ガーディアン・エンジェルスたちの活動

【2008.11.12/ To: Hiromi~さん】
 この日曜日(11月9日)、神奈川県青少年指導員大会が磯子であり、行ってきました。いろいろな催しがあったなか、ひっくり返るほどのショックは、「ガーディアン・エンジェルス」(守護天使)というボランティア・グループの活動報告でした。横浜といえば、どうでしょうか、おしゃれな、ファッショナブルな美しい街、高級感のあるあこがれの港町というイメージ。ですが、その裏側では、路上犯罪や性犯罪が野放し状態のまま横行している、危険な、醜い街でもあると知りました。荒れた汚いところには汚いこころ、ずるいこころが集まると言いますね。晴れやかな横浜のウラにある暗部で繰り広げられる汚い、醜いおこない。携帯電話の出会い系サイトが若者たちの乱倫を助長しているらしい。ここでは恥ずかしくて書けないような、信じがたいほどの生々しいその実態にびっくりさせられるとともに、犯罪や暴力から青少年を守り、若者を犯罪者にしない、犯罪に走らせないため、犯罪者を寄せつけない環境づくりのために、武器もなく、身を守る防具さえなく、まっ赤なウィンドブレーカー、まっ赤なベレー帽すがたで街を駆け回る“守護天使”たち。すごいですねぇ。
 性風俗の街で平然とおこなわれている売買春や児童買春。ひったくりや恐喝や万引き。暴力団がらみの薬物取引。国の法律や行政がつくる条例ではどうにもならない、警察でさえ手がつけられない汚れた環境が、わたしたちの生活のすぐ隣りにある、しかもそれが誤魔化したりつくろったりできない真実であるということ。 ぬくぬくと傍観者でいたら見えない真実、その醜い環境に体当たりして初めて知る真実。最近の格差社会で弾き出されたワーキングプアと呼ばれる人たちは、その真実、谷間の深さと暗さをすっかり見た。「カラマーゾフ…」や「蟹工船」を読む人がいるとして、その求めるものは、お体裁やうわべの華美さではない、その真実、ではないでしょうか。


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 ①若ものの居場所づくり“現代版若衆宿”

【2008.11.10 To: ぼっくりさん】
 区役所の地域振興課のほうとともに、こちらでいま取り組んでいることのひとつが、ひきこもり、不登校、非行を視野に入れた「若ものたちの居場所づくり」。「ラボ・パーティはこどもの居場所」なんていわれることがありますよね。ある意味では一つの理想的な姿なのかも知れません。生活実感をともにする地域からは浮いているので、ホンモノとは言えないという面はありますが。わたしの構想は、いわば昔の“若衆宿(娘宿)”の現代版。若者たちの自立支援の拠点であり、地域の教育力を生かした若者たちの通過儀礼(成人儀礼)の場。ひ弱ないまの子どもたちに通過儀礼をしっかり体験させてやりたい。
 従来の青少年育成活動が非行対策と団体育成に終わっていたのに対して、むしろ次の地域社会の担い手をつくること、時代をつなぐことを主眼にしたもの。しかし、わたしのアイディアは多くの支持を得ながら、なかなか前進しません。すでに地域社会というものが壊れてしまって回修不能の状態にあることと、もう生活共同体としての社会の記憶を持っている人がほとんどいなくなっていること。それに、第一、予算がない、適当な場所が確保できない、と。
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