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0705
小径を行けば…


⑤鎌倉の文学と花の小径④広瀬川・詩の道=萩原朔太郎(前橋市)/③本郷菊坂=樋口一葉・宮沢賢治(東京・文京区)/②風の散歩道=太宰治(東京・三鷹市)/①はけの道(東京・小金井市)



〔5〕鎌倉の文学と花の小径(早春) 

――長谷寺の写真に驚きとともに感動を持って見ております。今日、春休みに鎌倉に行きたいなと考えていたところだったのです。若いころは、北鎌倉駅から、点在するお寺を巡って鎌倉駅まで歩いたものです。長谷寺にも何度か行きましたが、確か、紫陽花のころだったような…。(ドロシーさん/2006.3.13)

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いち早く春の訪れを告げる長谷寺の河津桜


★…鎌倉は6月上~中旬、梅雨のころがいちばん美しいといわれますね。明月院、長谷寺をはじめとして、あのあじさいの色には、ほんと、目も心も、いや全身まるごと奪われます。しかし、鎌倉にはどの季節にもそれぞれの花があり、それぞれの風が吹き、多彩な愉しみに恵まれます。人や車で混雑するようなところはゴメン蒙りますが、ひとつ奥に入ると、ゆかしい風情とすがしい香りにいつでも出会えます。鎌倉の魅力を書きだすとキリがありませんね。
 ひとを案内して鎌倉の代表的なところを歩く場合、わたしにはおよそ三つのコースがあります。その一つが、ドロシーさんのお書きになっている北鎌倉からの寺社めぐり、花めぐりコース。円覚寺から東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、円応寺、鶴岡八幡宮ととめぐって、若宮大路の段葛(だんかずら)をくだり、小町小路を経て鎌倉駅に出るコース。けっこう時間がかかり、浄智寺と円応寺は省略してしまうことが多いですが。円覚寺は漱石の作品とゆかり深いところですし、“駆け込み寺”の東慶寺には和辻哲郎、高見順、小林秀雄、西田幾太郎、安倍能成、ほか多くの文人、思想家、文化人が眠っていますね。谷川徹三、神西清、堀田善衛、田村俊子、野上弥生子、川田順、岩波茂雄といったところも。美術に興味を寄せる人なら、鶴岡八幡宮の前に近代美術館鎌倉館があるし、小町小路の奥をちょっと入ったところの鏑木(かぶらぎ)清方記念美術館もたっぷりと目を愉しませてくれます。
 二つめが、今回Hさんとまわった文学コース。鎌倉から江ノ島電鉄を使って由比ガ浜へ。ふつうですと、まず「吉屋信子記念館」へ行くのが通例。腰板つきの瓦葺の壁塀に囲まれた、この女流作家が晩年の10年をすごした旧居の跡(現在は鎌倉市に寄贈されている)。今回は予約してなかったので行かなかったですが、数奇屋建築の平屋で、うしろを山で抱かれた落ち着いたたたずまい。形よいあずまやのある和風庭園もすばらしく、ここならいい作品が書けるだろうなあ、こんな静かなところに住めたらなあ、と必ずだれもがつぶやくようなすてきなところ。この時期ですとウグイスの誇らしげな啼き声が、響き清らかに聞こえていたかもしれません。


上・まわりでリスが遊ぶ招鶴洞をくぐると文学館に。下・前田家別邸だった鎌倉文学館の建物全景…削除

 しかし今回はまっすぐに鎌倉文学館へ。加賀百万石の前田家の別邸だった和風建築を、その後洋風を加味して再建、デンマーク公使が別荘にしていたり、昭和39年から亡くなるまで佐藤栄作元首相が静養地として借りていたという三方を緑に囲まれた瀟洒な建物。文学館のテラスに出れば、さわやかな解放感のなか、由比ガ浜の海を眼下に見下ろし、空気の澄んだときなら遠く伊豆大島の島影がのぞめます。傾斜をなす広い前庭が前方に開け、そこがバラ園になっています。この時期はまだ花は見られませんでしたが、155種類というとりどりのバラ(それぞれの名前がおもしろい)が季節には見られます。もちろん、館内には鎌倉文士たちの豊富な諸資料や、萬葉集、平家物語、金槐和歌集ほか、鎌倉ゆかりの古典文学の紹介もたのしめます。ちょっと丁寧に見ようと思ったら、2時間はかかるかもしれません。
 このあとに長谷寺を詣でるわけですが、その前に腹ごしらえ。寺の駐車場の奥から通じるごく細い路地(ほとんど知る人はない幅1メートルほどの秘密の通路)を通って懐石料理・蕎麦の老舗“懐古亭”へ。180余年を経た合掌造りの民家を飛騨の山村から移築したもの。店内には数々の古美術が見られます。蕎麦の味についてはいうまでもありません。
 さて、長谷寺にもどって山門をくぐってすぐ左に見られる大きな石碑。ここが高山樗牛の旧居跡です。わたしが樋口一葉の「たけくらべ」とともに「ぜったいの名著」といつも口にする『滝口入道』、また『わがそでの記』などはここで書かれています。
 長谷寺といえば、あじさいという人もいますが、そればかりではなく、第一はここのご本尊である十一面観音像でしょう。これをもってこの寺は“長谷観音”と広く呼ばれているわけで、高さ9.18メートルといいますから、木造としては日本最大の仏像。よく見ると、ふつう京都や奈良で見る十一面観音像とはだいぶ違います。右手には錫杖、左手には蓮華を差した花瓶を持っています。すなわち、地蔵菩薩と観音菩薩、それに薬師如来の力を合わせ持つお姿で、見るもののこころをがしっととらえます。やさしく尊いお顔です。だれもが強烈な慈愛の力に圧倒されずにはいられないひとときで、いっしょに行ったHさんなぞ、わたしが「さあ、行きますよ」と引っ張ってうながすまでの10分間ほどは放心状態で、立ちすくんだままそこを動けなかったものです。宝物館や弁天窟めぐりも見逃がせません。鍾乳洞に入ったような気分に誘う「天窟」には、岩肌に刻まれた諸仏がゆらめくローソクのあかりに浮かびあがっています。

 近くにはさらに川端康成記念館があったり、時間の余裕があれば極楽寺にも寄りたいところですが、すでに五感に受けた印象はたっぷりと満ちて受け止めきれないほど。鎌倉に馴染みないひとを案内する場合なら、このあと、せいぜい高徳院の大仏殿には立ち寄らねばならないかもしれませんが。
 第三のコースについては、長くなりましたので、いつか機会がありましたら…。(2006.3.13)

〔上・左〕雲間草 〔上・右〕トサミズキ  〔中〕クロッカス  〔下・左〕アセビ 〔下・右〕プリムラピアリ…削除




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〔4〕前橋市/広瀬川 詩の道 ★萩原朔太郎★

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7月の末、「水と緑と詩のまち」前橋を訪ねた。といっても、ここはわたしの郷里である。家郷はここだが、東京の大学に進んで以来、あわただしく来ては帰るだけで、ほとんど知らない町。このたび、日本近代詩に不滅の金字塔をうちたてた郷土の詩人、萩原朔太郎の詩にゆかりある市内の各所を歩くことができた。久しい念願であった。市内の目抜き通りに近い千代田町3丁目に前橋文学館があり、朔太郎をはじめとするこの地が生んだ詩人たち、萩原恭次郎、高橋元吉、平井晩村、山村暮鳥、伊藤信吉、東宮七男(とうみや・かずお)、竹内茂登子、ほかの資料が見られる。ほかの地からも朔太郎を慕って室生犀星が来た、北原白秋が来た、三好達治や堀辰雄や佐藤惣之助も来た。一時期、ここはまさしく詩人たちのメッカだったのである。

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この文学館のすぐ前を流れるのが広瀬川。昔日にかわらず水量豊富に、見ていると眩暈がする速さで音たてて流れている。前橋文学館を中心に広瀬川に沿う小径が「広瀬川詩(うた)の道」で、朔太郎の「郷土望景詩」からの詩篇を中心とするたくさんの詩碑に刻まれた詩を口ずさみつつ、キリリと澄んだ詩人のこころに酔いながら散策をたのしむひとときは格別である。さくら、やなぎ、そして前橋のシンボルであるケヤキなどの古木が左右から川におおいかぶさる風情は貧しい詩ごころにもいつしか詩情を湧き起こされ、いっぱしの詩人になったような気分にさせてくれる。そんなそぞろ歩きのなんというゆかしさ、すがすがしさ!

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他愛ない余談、愚かしいエピソードをひとつ。
いまのわたしの体躯を知る人ならだれも信じてはくれないでしょうが、これでも小中学生のころはなかなかのスポーツ少年でした。野球はじょうずだったし、とりわけテニスとなるとちょっとしたものでした。自分でいうのもなんですが、そんなわけで女の子にモテたのである。部活も終わり、さあ帰宅しようとゲタ箱をあけると、たいがいいくつかの手紙がかわいい封筒にいれておかれていた。昔のことですから、バレンタイン・デイなんてありません。晩生(おくて)だったこともあり、そういう方面にはまったく関心がなく、へんなプライドと潔癖さもあってその手の女の子には歯牙にもかけず知らんぷり、どうしてもと返事を求められてむりやり書いたのが、ふっと思いついた朔太郎の詩の一行「ちひさき魚は眼にもとまらず」(「広瀬川」最終行)というものでした。
恥ずかしい! なんという高慢、なんといううぬぼれ、なんという無礼! しかも詩の全体の意味なんてまったくわかっていないわけです。郷土の先輩詩人にも顔向けできない。
まあ、おませな女の子たちの、からかい半分の他愛ないゲームに過ぎなかったのですけれど、かっこうつけてキザに無視。そのバチがあたってか、それ以降の女性運はさっぱりで、運に見放されたままついに生涯を終えるところに来てしまったというわけ。あ~あ、古きよき時代よ。(2004.08.01)

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〔3〕本郷菊坂 ★宮澤賢治と樋口一葉★

本郷での仕事を終える。気分スッキリ,天気は上々,花粉の黄魔もいまのところまだここまで来ていない,――となれば,また気ままな街歩き。

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この本郷にいてパッとアタマの中をかすめるのは,樋口一葉のこと。菊坂下の伊勢屋質店。一葉日記にたびたび登場するその店の土蔵跡が都の文化財として残っているとは以前から耳にしていたが,迂闊にもこれまで見過ごしてきた。なにしろ,このごろわたしは,その一葉日記は古今を通じて日本最高の日記文学じゃないかと信じているのである。
母たきさん,妹くにさんとともに食うや食わずの極貧に耐えていた菊坂生活。

   此月も伊せ屋がもとにはしらねば事足らず,
   小袖四つ,羽織二つ,一つ風呂敷につゝみて,
   母君と持ちゆかんとす

といった文がいとも流麗な筆づかいでしるされている(のを,以前,台東区立一葉記念館で見たことがある)。

   蔵のうちに春かくれゆくころもがへ

という句がみられるかと思えば,

   我こそはだるま大師になりにけり とぶらはんにもあしなしにして

という歌も。足なし(お金=アシ)の達磨大師に自身をなぞらえ,この期におよんでなおユーモアに包んで生きざまを見せる心の強さ,わたしはそこに惹かれる。
いまはさまざまな商店のつらなる,なんの変哲もない道だが,一葉が行ったり来たり歩いた道。露伴,鴎外,漱石が歩いた坂道。一葉を慕ってあつまった文学界同人の平田禿木,馬場孤蝶,戸川秋骨,あるいは島崎藤村,上田敏,川上眉山が通った道。この菊坂については,これらの作家たちの作品の随所に見られるほか,田宮虎彦の忘れがたい珠玉の青春小説「菊坂」があるし,明暦の大火,いわゆる振袖火事の火元とされる本妙寺の跡,女子美術大学の前身の学校跡もある。

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…と,パッタリ,宮澤賢治の旧居跡に出くわした。まったくアタマになかった発見だった。
大正10年の真冬のころ花巻の家を飛び出した。で,その寄宿先は,…そう,本郷だったはず。
ここだったのか~!
といっても,今はデーンと立派な5階建てのビルになっていて,その脇の狭い石段にチンマリと記念碑が置かれているだけ。しかし賢治はここで途方もない奇跡を起こしたのである。(一葉の「奇跡の十四か月」が有名だが,賢治の場合もこれを「奇跡」と呼んでいいのではないでしょうか)昼間は謄写版刷りの筆耕や校正のしごと,昼の休みには街頭に出て日蓮宗の布教活動,そして,夜間やちょっとした空き時間のなかで童話や詩を書いた。1日平均300枚も書きまくったというから,どうしようもなくスゴイ!
でも,ここでのその暮らしは惜しくも8か月足らずで終わる。真冬に来て真夏の8月,妹トシの病状が悪化,危篤の報が入り,急きょ花巻に帰ることになる。帰るそのトランクの中にはぎっしりと原稿が詰まっていたというわけ。「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」「かしわばやしの夜」…こうした賢治の代表作はここで書かれたんですね。
   ……あめゆじゆとてちてけんじや~…
恋人,いやそれ以上の深い信頼で結ばれていた兄と妹が永遠に引き離されるときは「永訣の朝」の絶唱で語られていますね。

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最後に,一葉が24歳の処女のまま終焉のときを迎えた地,丸山福山町。――広い白山通りに面し,その先には後楽園遊園地の観覧車が見える,紳士服コナカの巨大なビルの前にひっそりと建つ文学碑です。岡田八千代,平塚らいてう,幸田文,野田宇太郎らの肝いりで昭和27年に建てられたもの。みごとな雅俗折衷文。揮毫は平塚らいてうのもの。その筆づかいのなかに一葉のさわやかな息づかいの感じられる刻文である。

そういえば,昨年の初夏のころ,一葉の父祖の地,山梨・塩山の慈雲寺に建つ
りっぱな記念碑も見たなァ。「一葉の道」というのもそこにあったなァ。
(2004.3.10)
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〔2〕風の散歩道(三鷹市)
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           風の散歩道。左が玉川上水。道をさらに行くと井の頭公園に。
           

 昨年,太宰治の命日,桜桃忌(6月19日)には1週間ほど早いが,仕事を終わったあとふと思いついて三鷹に出,太宰の眠る霊泉山禅林寺に詣でた。桜桃忌には例年ファンが押しかけるが,その日はひっそりとして人のすがたはなく,時として,わずかに走り過ぎる風に卒塔婆がカラカラと鳴るほかは,小鳥の声さえなかった。太宰が山崎富栄という女性と玉川上水に入水心中して果て,昨年は歿後55回忌だったはずだ。
 三鷹駅を南に出,カツラの街路樹が整然と通りを縁どる三鷹通りへ。ここ数年は来ていないが,この時期にこの禅寺を訪れるのは大学時代から数えて7回目か,あるいは8回目か。ここには桜の古木が大きく枝を伸ばすその下に太宰治と森鴎外がほぼ相向かいに眠っている。墓石には「太宰治」「森林太郎墓」とだけ刻まれている。そのシンプルさがいい。「太宰治」の墓碑銘は太宰の自筆,「森林太郎墓」は中村不折の書という。太宰の墓石のとなりには津村家の墓,そのまたとなりには太田家の墓が並んでいる。また,鴎外のとなりには,妻「しげ子」さんの少し小さい墓もある。太宰の墓の前には色あざやかな季節の花があふれるほど献じられている。鴎外の墓の背後には,これも大きな泰山木が影をつくっており,ちょうどそのときが盛りの白い花が清い香りを放っていた。
 この禅林寺はかつて太宰のお気に入りの散策コースで,鴎外の墓を見て,いつか自分が死んだらこんなところに埋葬されたいという一文(「花吹雪」)を残しているが,それを知っての遺族のはからいか,まさに鴎外の墓の真向かいに葬られ,太宰もむこうで満足していることだろう。
 いつもならこのままバスでJR三鷹駅に出て帰るのだが,好天に誘われて歩いて帰った。JR三鷹駅の手前のさくら通りを越え,次の路地,福家というとんかつの店のところを右に入って少し行くと,永塚葬儀社,その斜向かいに「ベル荘」というなんの変哲もない古びたアパートがある。このベル荘は,その当時「千草」という小料理屋だったところで,太宰はこの2階を仕事場にして『斜陽』などの作品を書いていた。その前の葬儀社になっているところに,当時,山崎富栄が住んでいて,二人はここで運命の出会いをしたわけだ。両方の家を行き来しながら太宰は最後の『人間失格』と『グッド・バイ』(未完)を書いた。終戦後の,あらゆる価値観がひっくり返った時代のことである。
 この路地を出てすぐ突き当りが玉川上水である。昔は「人食い川」と呼ばれて恐れられていたようだが,今見ると,どうしてこんなところで心中ができたのだろうかと疑われるほど,水量は少なく,音たてて泳ぐ鯉たちの背びれが乾いて見えるほど。それでも川にはうっそうたる樹々の緑が両側から覆い被さり,光は入らず,太宰の暗い情念を映すかのように空気は重くよどんでいる。ときにはぽつんと咲いた紫陽花がハッとさせるほどの鮮やかさで目に飛び込んでくる。
 井の頭公園の西口へとつづく玉川上水沿いのこの道は,いつからなのか,「風の散歩道」と名づけられ,桜の並木がずうーっと先まで連なる。ごろんと無造作に置かれた大きな石。ここが太宰が入水したところという。遺族の意向によるものか,その石は無名碑となっている。「風の散歩道」をさらに行き,むらさき橋をすぎてほどなく,南へ向かう右の道,平和通りへ入る。赤く染められた砂利を敷き詰めて舗装した小径で,車が来てもすれ違えないほどの幅。閑静な,文字どおり平和な住宅地だ。この小径づたいにどんどん行く。やがて左手に「みたか井心亭」(せいしんてい)という板看板の出た,こじんまりした和風平屋建ての家がある。今は三鷹市の和風文化施設として,おもに茶会や華道のつどいなどに使われているらしい。中でも月1回ずつ開かれる寄席はその7月で100回を数え,座布団を敷いて聞く落語はたいへんな人気で,半年先のチケットを入手するのさえ困難という。この家屋の木戸のむこう,入ってすぐ左にサルスベリの木があり,細かい葉を透かして涼しげなすがたを見せている。じつはここと道を挟んで向かい側に太宰の旧宅があり(いまは亀井勝一郎があらわす「茅屋」には遠い,瀟洒な家になっている),そこにあったサルスベリの木をここに移植したものという。ここから「千草」まで通って執筆活動をしていたということか。
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           太宰が入水自殺した玉川上水
 再び「風の散歩道」にもどり,右へ向かうとすぐ,巨木のあいだに見え隠れする豪壮な洋館があらわれる。このあたりには珍しいエキゾチックな雰囲気を漂わせている。これが山本有三記念館。正門の鉄の門扉に至るまでが児童公園ほどの広さを持ち,その正門脇に黒々とした巨石が置かれている。〝路傍の石〟と案内板にしるされている。鉄柵越しに中を覗き見ると,ヨーロッパのお城か美術館を思わせる煉瓦積みの格調高い洋館で,赤松のあいだから見える屋根の緑青色が6月の鈍い光を受けて淡く輝き,印象に深い。庭園の植物の手入れも行き届き,展示館に至る道には枯葉一枚落ちていない。
ここを過ぎると,ほどなく井の頭公園の自然文化園。その深い樹々の茂みが近くに迫る。無論,桜の艶やかさはないが,川沿いの緑が眼底に沁みるほどに美しい。井の頭自然文化園に入る手前,川越しの左手に彫刻園がある。外からも赤松のあいだに配置されたいくつかの彫刻が見える。ここは,長崎のあの平和祈念像をつくったことで知られる北村西望の作品を集めたところ。武蔵野の風がサラリと過ぎていく道。太宰治や森鴎外,山本有三の作品に思いをいたしながら,また季節を違えて訪ねてみたい道。

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〔1〕はけの小路
(小金井市)
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 12月のはじめ,わが敬愛する詩人の一人,富永太郎・次郎の生家と,大岡昇平の「武蔵野夫人」のおもかげを追って武蔵小金井の南面を歩いた。このあたり,著しい都市化の影に,いまもゆかしい武蔵野のおもかげをとどめ,ところどころに古代武蔵原生林の残物であるケヤキ,カシ,ムクノキの巨きな古木が見られる。武蔵野段丘が随所に「はけ」の湧水をつくり,それが集まって野川となり,そこから約20キロ,二子多摩川(世田谷区)に至って多摩川に注ぐ。「はけ」とは,鼻(はな)がなまったものともいうし,端(はし)の意味だという人もいる。「武蔵野夫人」では,「峡(はけ)にほかならず,…(略)…から流れ出る水を遡って斜面に深く喰い込んだ,ひとつの窪地を指すものらしい」と書かれている。
 この湧水をわたしは滄浪泉園,貫井神社,中村研一記念美術館の裏庭の茶室「花侵庵」などで見た。人妻の道子と復員兵の勉が野川の源流を求めて歩き来たったのが,おそらくこのあたりだったろう。1970年代の半ばには72ヶ所あったここの湧水も,いまはその3分の1になっているとか。
 「花侵庵」の前からはじまるのが「はけの小路」。鉄平石を敷きつめた遊歩道を,時の流れを惜しむようにゆったりと歩く。なんという心地よさ! 人と人とがすれ違うのも難儀な狭さ。とりどりの野鳥たちの声。遊歩道に沿って走る小さな流れが,木々のあいだを洩れくる光を受けて,宝石を連ねたように清く輝く。「汚れっちまった悲しみ」というものを知らない水。季節によるものか,水量は少ない。かつてはこの水を利用して人びとはさまざまな洗いごとをし,あるいはまた,子どもたちのさまざまな楽しみを提供してもいたろう清涼な水だが,いまはこれに腰をかがめて大根や人参を洗うもの,農機具を洗うものはない。しかし,ちょっと目を瞑れば,昔日のそんな風光がふっとひとときイメージできる。しかし,しんみりとそんな雰囲気に浸る間もなく,「はけの小路」はあれっという間に尽きてします。150メートルくらいだったろうか,あるいは200メートルくらいはあったろうか。
 ここから野川の河畔に出ると,まっすぐな水路を右の岸から左の岸から,ススキとオギのまっ白な穂が戯れるように細い手を伸ばしあっていた。

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