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〔6〕♯ な~がいことは いいことだ~ ♪


◆短い詩句に凝縮して見せる日本的な美意識と、「源氏物語」の長さと

 今朝、テーブルの前にすわって、コーヒーを一ぱい。さて一仕事を、…いや、その前にちょっとラジオでも、とスウィッチをいれたところ、思いがけず、こんな話を耳にしました。文学作品の長さくらべ、といったところ。

 書かれた文章を印刷するとき、その分量は400字詰原稿用紙で何枚、という数え方をしますね。原稿を依頼されるときも「何枚くらいで」といわれ、原稿料の計算も1枚についていくらで、何枚だからこういう金額になる、というふうに。なぜ400字が印刷のときのひとつの単位になっているのか、あなたはご存知でしたか。今は高度なIT化もあってそのスタイルもぜんぜん変わってしまっていますが、ちょっと以前までは、植字工が左手に木の箱を持ち、その中へ一本一本活字を拾って組みつけていったものでした。その作業は「文選」といわれ、本文活字のポイント・号数に応じて箱の大きさも少しずつ変わっていました。その木の箱に入る活字の数が400本と決まっていたんですってね。一箱400字かっきり。
 さて、クエスチョンです。「源氏物語」は400字原稿用紙に換算して何枚になるでしょうか。

 ヒントですか。…海外の長編小説の代表といえば、プルーストの「失われた時を求めて」となるでしょうが、だれが数えたのかは知りませんが、これが8,700枚とされ、群を抜いています。トルストイの「戦争と平和」が4,619枚、「ドン・キ・ホーテ」が3,060枚。比較的短いものでは、カフカの「変身」が129枚ほど。
さあ、「源氏物語」の長さはどのへんに位置するのでしょうか。
 もうひとつ、クエスチョンです。日本の最長編小説は誰の何という作品でしょうか。

 そのラジオの話で知ったのですが、答えは、中里介山の「大菩薩峠」ですって。文庫本で20冊、41巻、14,250枚という途方もない長さでできているそうですね。いまのところわたしは読んでいませんけれど。

 ◆人間の本質を追求する文学の力強さ

 話が逸れましたが、「源氏物語」は約4,000枚だそうです。(う~ん、「大菩薩峠」はその3倍半強か! スゴイ)「枕草子」が404枚。ご存知のとおり、日本古典文学は、だいたい短いのが主流です。「万葉集」や「古今集」に見るように、きわめて短文のなかに情緒をこめて思いを語るのが伝統のようにされてきた、と言えなくもないように思いますが。
そんななか、「源氏物語」は、たしかに異例な長さです。読みきるのは容易なこっちゃない。「更級日記」などは、優婉で流麗というだけでなく、きわめて生き生きとした名文で、わたしは大好きですが、これが79枚、「方丈記」は22枚、「歎異抄」も22枚。みんな短いですね。
 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。…」と、「方丈記」はキリッと引き締まった名文で、無常観と生きる意味、生きることの悲しさと苦しさをつづっていますが、これがわずか22枚。274行のなかに見事に宇宙の重さと哲理を投げ込んで見せていますね。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」「万のこと皆もって、そらごと、たわごと。真実あることなし」などという「歎異抄」も、かくのごとし、というわけ。これが日本の伝統的な文藝のひとつの様式であり、そんななか、「源氏物語」が、当時、いかに息長くつくられ、広く息長く読まれたかを、理解することができます。そう、1000年にわたって読み継がれ、研究されてきたんですね。ここに日本人の美意識の原点であり、自然感があり、今日にいたるまで、日本人の趣味生活のあらゆる面で、絵画、工芸、音楽、映画、演劇の世界まで、この物語が直接間接に影響していることは、折あるごとに知るところ。

    

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〔5〕「根」についての根も葉もない考察


睡蓮の一種「コウホネ」をノートの「今月の一枚」で紹介、
その名が動物の白骨に似ている根茎に由来することを説明した。
写真資料で見ると、まことそのとおりなのである。
で、この際、もちっと、その「根」に目を近づけてみようというわけ。
「木」扁に「艮」がついて「根」。木のほうはわかるとして「艮」(こん)。
こういう字を見たことがありますか。
ウシトラ(東北)という方角を意味するかと思えば、
「止まる」「堅い」「もとる」という意味もあるそうです。
字源でみると、突き刺すようにじっと視線をとめて見ること、という。
これ、ぜんぜんわかりません。…えっ、わかります?
ふつうわたしたちがいう「根」は、植物の根でイメージされるように
Root 下で支えているもの、ものごとの根ざすところ、
根元(源)、根拠といったあたりのことですよね。
それはどうやら、下の深いところにあるらしい。
根の国、根の堅洲国は地下の深いところにある死者の世界。
ちょっと違うようですが、数学の用語にも「根」(こん)がありますね。
「根をもとめよ」なんていう問題に悩まされた経験をお持ちではありませんか?
こちらは中核というほどの意味。深いところにある核。
まあ、上述の根元とか根拠に近いと見ていいのではないでしょうか。
さて、では、「屋根」の「根」はどうでしょうか。
これは下の深いところにあったのではその機能を果たしてくれませんよ。
なんで家屋のてっぺんにあるものに「根」がついているのでしょうか。
――どうやらこれは、頂上、上にあるもの「嶺」「峰」が
転じて使われるようになったということらしい。
そんなにいい加減に変えて使っていいものなのでしょうかねぇ。
もう少しまわりを見まわすと、よく耳にすることばに
「根掘り葉掘り」(訊く)、「根も葉もない」(デマ)なんてのもあります。
ここまでの説明で「根」のほうはすぐ理解できるとして、
「葉掘り」「葉もない」のほうは意味をとれるでしょうか。
ことばをあそぶ粋人が「根」と「葉」をツイにし、レトリックとして調子よく使ううち
庶民のあいだにいつともなく定着してしまったものではないかと考えられます。
しかしですねぇ、この「根」は、
そんなふうにあそんでばかりいては困るもののようですよ。
フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユはこう云っていますから。「深い」ですよ。

「根をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な要求であると同時に、
もっとも無視されている要求である。
また、定義することがもっともむずかしい要求のひとつである。
人間というものは、
過去のある種の富や、未来へのある種の予感を生き生きと保存している集団に、
自然な形で参与することによって、根をもつ」
――シモーヌ・ヴェイユ「根をもつこと」より
【関連】「今月の1枚」コウホネ



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〔4〕神社はなぜ赤いか?


keikoさん
>これはアメリカの方に聞かれました。「どうして神社は赤いのか?」丹というか腐らないようなものが含まれているのではと思っているのですが…。
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 神社はなぜ赤い? 伊勢神宮、明治神宮、鶴岡八幡宮…と見ると、必ずしも神社は赤いとは限らないようですが、宮島の厳島神社にせよ、京都の平安神宮にせよ、日光の輪王寺にせよ、ちょっと見るものが辟易するほどケバケバしい赤で塗られた神社が思い浮かびますね。鳥居を赤く塗ったものも多い。さて、なぜなのでしょうか。わたしは寡聞にしてそのわけは知りません。どうかご存知の方がおいででしたらお教えください。わたしも意識してものを読み、わかることがありましたら報告させていただきます。9月半ばに國學院大學の講座にでることになっていまして、神道系の大学ですので、もしかすると訊ねる機会があるかも知れません。
 なぜ神社を赤くするか。ひとつ想像できることに、権力の誇示ということがあると思われます。ご存知のようにわが国の名「日本JAPAN」の意味は「漆を産する国」だそうですね。Webster'sにも、
 1. hard lacquer or varnish giving a glossy finish: it was
   originally from Japan.
とあり、漆をもつことが富であり力だった時代がかつてあったわけです。とりわけ丹漆は生産量もごくごく少なく、貴重この上ないものだったようです。厳島神社などはまさに平清盛の途徹もない権力を思わせますよね。平家納経やあの華美な建造物を見ただけでも「平家にあらずんば人にあらず」と、他を見下ろして豪語したくなる気分もちょっとわかろうというもの。
 先ごろ、奈良の鳳凰堂を調査する人がいて、いまは古びて色を感じさせない状態にありますが、精査すると、これが丹漆で塗られていたことがわかったとの報告がありました。丹漆というのはほんとうに貴重なものだったのでしょうね。
 どこの民話だったか、貧しさに負けて身を投げようとした木こりが、偶然、滝壷にたまっている漆のかたまりを発見して、一躍、お金持ちになったというのもありました。
 ただし、いま神社でよく見られる赤い塗料の多くはそれほど貴重なものではなく、自然なものには遠い、化学が生んだまがいもののようですが。
 ところで「丹」にはどんな意味があるのでしょうか。「仙丹」なんてことばを聞いたことはありませんか。古代中国の不老不死の薬ですよね。なにやらたいへん得がたい貴重なものというニュアンスを感じませんか。丹闕(にけつ)といえば朱塗りの楼門のこと。丹塗り、丹漆といったことばのほかにも、純粋な精神性の表現にも使われているような気がしますが、どうでしょうか。丹念(な仕事)、丹精(誠)(のこもった…)などと。


〔To:keikoさん 04.09.09〕
 ▼「赤」についてのアテにならない考察

 以前、神社、鳥居はなぜ赤いのか、ということで、ない知恵をしぼり汗をしぼったものでした。
 この8日、國學院大学で萬葉集をめぐる特別講義に出たおり、顔見知りの教授をつかまえて訊いてみました。その一端をご参考(になるかどうか)までに。笑い話であって、あまり信用なさいませぬように…。

 須藤豊彦先生という萬葉集のほうではたいへん高名な同大学の名誉教授に、個人的に立ち話で聞いた話によりますと、どこまで信用していいのかわならないのですが、もともとの意味は、色彩のことをいうのなら「紅」(呉藍、くれない)といったし、「赤」はどうやら色彩のことではなく、サンスクリット語で閼伽(あか)、つまり「水」に関係する語だというのです。アクアラング、アクアフィルター、アクアロードといったことばもこのごろはありますね。
 赤ちゃん、赤ん坊の「赤」は、生まれたてでまだ赤い顔をしているからそういうのではなく、おかあさんの羊水のなかにいた子だからだという。(一方、「水子」ということばもあり、今日では流産したり堕胎した子どものことをいう場合が多いが、昔は生まれたての赤ん坊のことを言ったそうですね。帰ってきて漢和辞典をひいてみたら、いまでも中国地方の一部では子どものことを水子と呼んでいるところがあると書いてありました/広辞林でもそうあります。ただしミズゴ/大辞林では、生まれてまもないうぶご、みどりご、とあります)。なお、還暦になって赤いちゃんちゃんこを着る習わしがあるのは、その年になって人間は赤子(水子)に帰るということとか。還暦になり、わたしはだれからもちゃんちゃんこをもらいませんでしたけれどね。
 源平の戦いで、平家の旗が赤なのはもともと水軍だったから、一方の源氏は陸軍であって白山信仰と関係があるとかで白、あれは海と山の戦争だったという。
 今年は申年。昔はその元日には男は赤いふんどしをしめ、女は赤い腰巻を巻くのが習わしだったそうですね。それは、年をとったとき尿もれの粗相(失禁)をしないように、との願いをこめてそうしたのだとか。尿も水のうちですかねぇ。
 宮島の厳島神社、関門海峡の守り神としての赤間神宮、それに福井の赤崎神社(これについてはわたしは知りません)、日光の輪王寺、それらはいずれも赤を使っているが、それぞれ水と深い縁があるとのこと。
 サルに赤いものを着せることを古来やってきているそうですね。それはサル‐馬‐河童の三すくみに関連していて、昔、農耕馬を田畑で働かせ、仕事の終わりに汗をとってやるため川にいれて全身をこすってやった、そんなとき河童がよく出てきて、馬の性器(メスですかね)からもぐりこみ、殺してしまうことが多かった、そんなとき馬を河童から守ってやる役割をサルがつとめていたのだとか。
 こんなことをひとしきり話してくれたついでに、野村克也元監督は試合のときには赤いパンツをはいた、川口順子外務大臣は重要な会議にのぞみ、これだけは退けないという課題があるときには赤い下着をしていたとか。
 これの場合には、赤は血の色、人間の根元の色で、パワーを出す色とのこと。

 廊下でのふたりだけの、バカ笑いをしながらの立ち話で、どこまでが本気でどこからが冗談なのかわかりませんが、そんなことでした。
 権力の誇示というぼくの説については、そういうこともあったろうね、とのこと。もっともこの人は神道学者ではなく萬葉学者ですからね。あまり信用してはいけません。


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〔3〕「お転婆」考

 「お転婆」――あなたも少女期に一度や二度はそう呼ばれた経験をお持ちではありませんか。あるいは「おきゃん」とか「やんちゃ」とか。いや,ない……。そうですか,それはたいへん失礼いたしました。
 広島のMさんが「おままごと」をしない最近の子どもたちのことを書いておられましたね。その点,ラボのごっこ遊びは子どもに大事な感性を育てる,と。このご意見に少々思いあたることがあって,先日,「お転婆」のことばが消えつつあること,お転婆をしない行儀のよい子どもたちのこと,などをそのホームページにちょっと書き込ませていただきました。わたしたちの生活が自然なもの,自然な時間から遠くなればなるほど,こうしたことばも色あせ,消えていくのかなあ,とあらためて考えさせられます。それにしても,これ,おもしろいことばだとは思いませんか,年老いたご婦人を転ばすことをもって「お転婆」というとは! 考えれば考えるほど,ナンデカナ~,と疑問がふくらんでくるので,これについてもう一歩考察しておきたい。
 お婆さんを転ばせてどこがおもしろいか。とんでもないこと。もし転びそうなお婆さんがいたら,身を挺して支えてやる,それがひとというものだろうじゃないか。しかし,ちょっと待った! あるいは「転」にはぜんぜん違う意味があるとしたら…。転倒,転落,逆転…,ころぶ,ころばすの意味しか考えられない。あるいは,転居,移転,流転,心機一転…,こちらは移す,移動させるというほどの意味になる。(責任)転嫁というときの「転」もこちらの意味か。過失や責任を他人になすりつけることで,責任を嫁さんのほうに移すこと。どうしてそれが「嫁」ということになるのか,可哀そうなはなしである。ま,ここからは特別な意味を引き出せない。それなら,「婆」のほうに秘められた意味があるのか。ふたつの漢和辞典につぶさにあたってみたが,年とった女の人という以外の意味は見出せない。
 「お転婆」――これはどうしたって,幼い女の子や若い娘さんで,男まさりに活発な動きをする,女性らしい淑やかさ,たおやかさに欠ける様子,あるいはそういう女の人のことを指すことばとしなければならない(「淑やか」ということばも消えた,とMさんはおっしゃる)。どこか,そそっかしい,でしゃばりで,軽はずみなところのある女の子。いずれにせよ,あまりよくない女の子を形容することばである。この「お転婆」ということばは,江戸時代に生まれ,その後ずうっと広く庶民のあいだで使われてきた。その語源にはさまざまな説があるようだが,そのひとつに,広辞苑は外来語からの転用説を紹介している。オランダ語の「オンテンバールontenbaar」からの転用だと。ちょっとマユツバな感じもしないではないが,このオンテンバールという語をひとに訊くと,もともとは,wildとほぼ同義で,飼い馴らすことのできない,野生の,といった意味。オランダ社会においても一般に,女性としてのたしなみを忘れてふざける少女のことをそう呼んでいるとか。「女性としての…」ってどういう意味!? そうつっこみたいでしょうが,ま,そのことはここでは,パス。
 それなら,英語で「お転婆」をどういいますか? 英語に明るい皆さんのこと,いくつかのことばが口からころころと「転」げ出すのでしょうが,そうはいかないわたしのようなものが思いつくのはせいぜい”tomboy”ということばくらい。これこそよくわかんない。Tomb(お墓)とboy(少年)がくっついてどうしてお転婆ということになるのか…。まあ,わたしらがガキ大将で遊んでいたころはお墓もいい遊び場だったことはたしかだけど。いずれにしても,これ,少なくとも女の子を褒めることばではなさそう。
 さて,このことばがわたしたちの生活の周辺から消えかかっている,いや,もう完全に消えてしまったかも知れない。第一,わたしの住むマンモス集合住宅のあたりでは,土曜・日曜・祝日というのに,町に子どもたちのすがたがあまり見られない。夏休みというのに蝉や蝶を追う子はいない,冬休みというのに芝スキーをする子はいない。さてはハーメルンの笛吹き男に連れ去られてしまったか。町から子どもの声がしないのだ。少子社会とはいえ,こんなはずはないと思うのだが。受験熱の高い地域でもある,学習塾やおけいこごとへ走る子どももいるだろう。お部屋のなかの遊びでよほどおもしろいものがあるのだろう。そうは想像できるが,子どもの声のしない町はさびしい。うん,じつにさびしい。
 J.J.ルソーが「エミール」のなかで云っていますよね,若者をダメにしようと思ったら,ごく簡単だ,何でも欲しいというものをすぐ与えるようにしたらいい,と。このホームページの別のどこかで紹介したと思いますが,モーパッサンの「女の一生」でその典型が見られます。女主人公のジャンヌは一人息子のポールを溺愛し,欲しいというものを何でも与えます。過保護である。揚句は希望の星のその息子はとんでもない放蕩児となって母親を根っこから欺いていきます。これに近いものをこのごろよく目にしているような気がするのですが。
 少ない子どもに親やまわりのものは与えられるだけのものを与える。子どもが欲しいといわない先から何でも与えてしまう。おカネさえあればモノはいくらでもある結構な時代。平和ボケした飽食の時代。親や周囲が何でもしてくれるから,すべて用意ができているから,子ども同士が互いに切り結ぶ機会なんてない。かつてのように,欲しければ奪ってでも獲得するような競争原理がそこでは働かない。昨今,人に対する関心が薄くなっているとはだれもがいうこと。どこかで本気にぶつかりあうことなしには堅い人間関係は生まれないだろう。4人も5人も兄弟姉妹がいて,遠慮していたり譲ってばかりいたら生きていけないような関係に,今はない。「お転婆」であったり「やんちゃ」であったりする必要がぜんぜんないのだ。着るものにしたってそうだ。上の子のおさがりばかり,幾重にもツギアテされたものを着せられるから,多少は親のこごとはあっても,木のぼりしようがドロンコ遊びをしようがあまり気にしないでもすむ。それが,最近の女の子は,高級ブランドの洋服をあり余るほど与えられている。まるで着せ替え人形のように。そんなのを着ていたら,きょうだい喧嘩で,町なかを大きな声をあげて,泣きわめきながらおいかけっこするわけにはいかないだろうじゃないか。ドロンコになりたくても,いまどき,そんな道はないし。うっとりするようなその美しい洋服は,何かの記念日だけに着るにふさわしく,野や川にとびだしていって虫や野草と遊ぶにふさわしいファッションではない。
 モデルさんにでもしたいような,そんなきれいな,お行儀のよろしい,申し分なくすてきな子ばかりでなく,ちょっと粗野でもいいから町を生きいきと蘇らせ弾ませてくれる元気な声がほしい,はちきれるような子どもの笑顔が欲しい,エネルギーみなぎるその若々しい光耀がほしいように思うのだが…。(2004.1.19)

    
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〔2〕初詣の願いごと

 教養もある,育ちもよい,容貌にも健康にも恵まれている,経済の心配もない,そんな円満具足の皆さんには,神だのみなんぞの愚は無縁なものなのでしょうが,うめきつつ這いずりまわりつつ火宅を生きるこの凡愚の身には,挙げればきりがないほどの願いごとがあります。衰残また起つべからざるこの年齢になってもなお,である。
 思えば,家族そろって(といっても,3人だけなのだが)初詣に出かけるなんぞは,ここ20数年来なかったこと。そもそも,わが家の一人息子が年末になって約半年ぶりに顔を見せに帰ってきたことによる。帰って来たについては,めったにない機会だから,億劫ながらどこかに出かけようかということになった次第。この息子,遠くにいるわけではなく,都心の寮でコンビニを「おふくろ」にし「つれあい」にして暮らしている。ハッと気づけばすでに30歳を越している。わたしの愚妻が時には電話でそろそろ身を固めるよう促している様子だが,当人にはからきしその気はないらしく,16億だ,20億だという大きなプロジェクトを抱えていてそれどころじゃないとニベもなく蹴散らされるとか。働き盛りというにはまだ若すぎるように思うのだが,予算不足にあえぐ公務員の仕事の周辺はそんな現実らしい。たしかに,かわいそうなほどよく働く。
 さて,初詣だが,駐車するにもバスに乗るにも,参拝するにも鐘を撞くにも,食事をするにも金を払うにも,あっちの列に並び,こっちの列に並び,という具合い。いちいち待たされる不快に耐え,ようやくお賽銭箱の前に立ってのわたしの願いごとは(あまり待たされるので忘れてしまいそう),大きいことから小さいことまでいろいろある。恥をしのんで2つほど告白いたしましょう。
 その一。そろそろわたしのところに「運」が向いてきてくれないものか,ということ。賭けごとこそしないが,よく懸賞やクイズに応募する。クジを引くのも嫌いじゃない。しかし,きれいさっぱりダメである。年賀状のお年玉クイズも,よくぞまあ,とあきれるほど,当選番号はわたしを避けて通る。あるときにはこんなことも。小学生の放課後の遊びにつきあうヴォランティア活動のなかで,50人と次々にジャンケンするゲームを。50回のジャンケン勝負でわたしが勝ったのは2回(白状すると,その2回はこっそりズルをしていたのだが)。いやいや,本気ですよ。手加減はしていません。あまりの負けっぷりに周囲がわいわいはやし立てる。わたしはいよいよカッカしながらグー・チョキ・パーをするのだが,ムキになればなるほど勝てない。これって「運」がないというのと違います?
 その二。おやじに似て女の子にもてない息子に,今年あたりはなんとかよい縁がありますように,と。吉永小百合さんほどでなくてもいいけど,できれば松たか子さんか和久井映見ちゃんほどの人を…,と手を合わせれば,杉木立のむこうの神域から,霊気を含む天狗の声が「勝手な好みを若いものに押しつけてどうするんだ,バカなぼけおやじめ!」と,かすめて過ぎる。詳しい因縁はよく知らないけれど,この寺は天狗さんとの所縁があり,その履物たる高下駄が左右一対ずつ,大小さまざま奉納されている。すなわち夫婦和合の信仰なのだそうだ。
 ともあれ,どうでしょうか,松たか子とか和久井映見とかはいいません,どなたかいい方がいらっしゃいましたら…,ホント,お願いいたします。因みにこの息子,ひとからは仲村トオルとかいうタレントさん(お笑いタレントかな?)に似ているといわれることがあるとか。わたしに似ず真面目です。

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〔1〕猿面

 干支でいうと,来年は「申」年だってね。かくいうわたし,年賀状には近くの路傍で見つけたボロっちい石像,ほら,あの「見ざる・聞かざる・話さざる」の写真を入れて場所ふさぎをさせてもらった。「申」しわけない! とサルし上げ,いや,「申」し上げるほかない。
 ところで,あなた,お酒好き? ――いいねぇ,お酒が好きな人は。わたしがまったくの下戸なもンですから,酒飲みにはコンプレックスをもってるんですよ,それも相当強いコンプレックス。お酒が飲めないためにう~んとソンをしているような気がいつもしている。そもそもそれがわたしの人間のハバを小さいものにしている根源なんだ,と。ほどほどにお酒が飲めたら,わたしにももっと楽しい人生が,すばらしいロマンもあったのではないか,なんて。
 そんなわけで,萬葉集では大伴旅人ってやつ,どうも好きになれないのよ。ふざけたヤツだよ,あいつ。
 
 
あな醜(みにく) 
  賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似る

 
                         ――萬葉集巻3-344

 きったねぇなあ,さかしらぶりやがって,わしゃ酒は飲まぬとぬかしやがる。しかしまあ,よくツラをみてやれよ,ははッ,猿に似てるじゃねぇか。そんな意味でしょうか。この伝でいくと,わたしなんぞはさしずめデブの年寄り猿というところか。でも,冗談じゃない! 酒を飲んで赤い顔をし,あっちへこっちへだらしなく足をよろめかし,同じことを何度も何度もぐだぐだいい,周囲への心配りもなくロレツのまわらぬ口で大声で勝手なことを吐き散らすあの種族こそ猿じゃないだろうかな。それももっとも見にくい猩々。ま,どっちでもいいか。
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