幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 その《2》
 その《3》
0705
物語寸景〔1〕
――ラボ・ライブラリー制作余話 & 周辺情報集
※いろいろな方の掲示板に書き込んだものの再録です。ご了解くださいませ。
※容量いっぱいになってしまいました。物語寸景〔3〕のほうへ移してつづけます。


《幸福な王子/ヒマラヤのふえ/ふしぎの国のアリス/平知盛/かぶ/国生み/オオクニヌシ/なよたけのかぐやひめ/安寿と厨子王/ポアンホワンけのくもたち》



◆幸福な王子
ある少女とおとうさんの対話

父「ゆうべ、小夜ちゃん、何時間泣いていたと思いますか。3時間以上ずうっと、かわいそう、かわいそう、といって泣いていましたよ」
小夜「だって、王子さまもツバメさんも、あれではあまりにもかわいそうじゃありませんか、いくら天使がふたりを天国へつれていってくれるといっても」
父「あのお話はお母さんの大好きなお話のひとつです。きっと今度また、お母さんがお話ししてくださるはずですよ」
小夜「王子さまもツバメさんもかわいそうですけれど、小夜がいちばんかなしかったのは、ちがうのよ」
父「あらっ、なにがいちばんかなしかったのかな」
小夜「ほら、寒いのに火がなくて、手がかじかんで、おなかもすいて、お芝居の本が書けなかった学生さんがいたじゃないですか。あの学生さん、ちょっとお父さんみたいだな、って」
父「えーーッ! おとうさんのこと、そんなにかわいそうですか。たしかにお父さんは貧乏なもの書きで、小夜ちゃんにあまり楽しいことをしてあげられない。ごめんね。そうそう、あの学生さんによく似ているかもしれないね。小夜ちゃんのそんなやさしさにお父さんはまいっちゃうな」
小夜「お父さん、小夜に〝ごめんね〟なんていわないでください。それより、幸福な王子さまとツバメさんのお話、またしてくださいますか」
父「いいけど。それにしても、ツバメは最初、葦が好きだったのに、今度は王子さまを好きになってしまった。ちょっとズルくないかな」
小夜「それは、お父さん、ちがうと思いますよ。ツバメさんは葦のことをほんとうに愛していました。だからお別れがつらいので、いつまでもぐずぐずしているうちに、エジプトへ帰るタイミングをなくしてしまいました。とても葦を愛していたからですね。葦を通じて愛するということを知っていたから、王子さまを愛するというほんとうの愛、もう一段と尊い無私の愛、自己犠牲の愛というものの大事さがわかったんではないでしょうか」
父「愛を知っていたから、本当の愛とはどういうものかがわかった――、愛することを知っているこころにこそ、本当の愛が見えた――。そうなのか。そうだね、きっと。でも、天国へいっても、王子とツバメさんが結ばれることはないと思いますよ」
小夜「どうしてお父さんはそう考えるのですか。結婚できなければ人は幸福ではないということですか」
父「わかりましたよ、小夜ちゃんのいいたいことは。ほんとうの愛はそういうところを超越しているといいたいのね。自分のことよりもほかのひとの幸福のために自分を投げ出す…、その尊さを愛によって知ったツバメさん。幸福な死だったのかも知れない。それにしても小夜ちゃんはずいぶんツバメさんびいきなんですね」

〔付記〕
 オスカー・ワイルドの童話は9編ある。いずれも自分のふたりの子どものために書いたとされるが、『幸福な王子』のほかの『ザクロの家』にしても、『ナイチンゲールとバラ』や『星の子』『若い王子』などにしても、他者への愛のために死んでいく美しい魂をえがいている点で一貫している。『幸福の王子』の最後の場面で、ふたつの魂――王子の割れた心臓とツバメの小さな死骸は、天使が大事に天国へ運んでいった。ほんとうの「幸福」とは、ひとのためにおこなう愛の行為のなかにある、そういたキリスト教的な主題をあらわした作品。
天性の語り手といわれるこの作者は、寓話的な味わいと唯美的な味わいを融合して、こうした新しい物語のかたちを生み出した。
 ※「幸福な王子」の関連情報追加分を「物語寸景〔3〕」で紹介しています(容量オーバーのため)

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◆ヒマラヤのふえ

(2004.09.17/To:ちゃこさん)
8月の末でしたか、東京・上野の国際子ども図書館へ地方からの友人を案内し
ながら行ってきました。わたしにははじめてのところでした。9月5日をもっ
て終了してしまったのですが、ここで「インドの児童文学――蓮の花の知恵」
展というのをたまたま見る機会を得ました。時間を急かれていてゆっくりと見
ることができなかったのがこころ残り。
日本で出版されているA.ラマチャンドランさんの「ランパンパン」や「黄金
のまち」「おひさまをほしがったハヌマン」、あるいは「シブヤとひとくいド
ラ」といった、インド民話からつくられた絵本ももちろん紹介されていました
(「ヒマラヤのふえ」が、どうしてなのか、なかったですね)。…が、ざっと
見たなかで驚かされたのは、日本の民話と蓮の国インドの民話・説話とのあい
だに意外なほど太い流れが通いあっているということでした。
たとえば「ふるやのもり」。これなどはいかにも古い日本を伝えるオリジナル
な昔ばなしと思ってきましたが、「パンチャタントラ」というヴェーダ文学に
原型と思われるそっくりな話があるんですね。「ねずみのよめいり」もそう。
「猿のいきぎも」や「くらげほねなし」「きんいろのしか」は仏教説話集の
「ジャータカ」から。さらに古代インドから伝わる「ラーマーヤナ」「マハー
バーラタ」を精査していったら、もっともっと「あっ、これは…」というもの
がありそう。
インドに発して中国へ渡り、そして日本へ。これはまさに仏教の伝播と軌を一
にしているわけですが、アジアに大きく還流する文化をここでも感じさせられ
ました。

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◆ふしぎの国のアリス

(2004.08.07/To:Play with meさん)
先ほど、朝食をとっているときテレビをつけましたら、「アリス」の山本容子
さんが「ようこそ先輩」に出演していました(再放送だったと思います)。東
京・練馬の小学校での特別授業。ピカソを超えるという発想から安全カミソリ
の刃やバンドエード、ボタンなど、生活のそばにありながらあまり役に立た
ず、誰も目にとめないようなものを絵にしていった。それが思いのほかおもし
ろくって今のスタイルが生まれたとか。いっしょに「ふしぎの国のアリス」の
絵本をつくったときのことが思い出されました。(最近描かれた物語絵が数
点、サンプルとして紹介されていましたが、「アリス」の印象と似ているとは
思われませんでしたか)
授業でも、ふだんは目立たない、あまり役に立たない、誰も絵にしないような
他愛ないものを子どもたちに家からもってきてもらい、それを使っての制作を
促していきました。そうなんですね~、そばにいてちょっとヒントを投げかけ
てやるだけで、子どもたちは一人ひとりさっそく楽しそうに、ピカソを超える
ようなユニークな作品を生み出していく。おもしろいですねぇ。
あとは、そうして生まれた作品をおとなが大事にしてやる、ガラクタにしてし
まわない、それぞれのの個性をしっかり評価してやるということではないでし
ょうか。


◆平知盛

(2004.05.09/To:さとみさん)
「平知盛」ですか。たいへんなテーマですね。
 断片的ながらいくつかのことをご紹介しましょうね。
 どういう経緯でそうなったのか,これをラボでつくろうというとき,木下順
二氏に使用許可をもらいに東京・本郷(千駄木)のお宅にうかがいました。ほ
とんどそのときの記憶はないのですが,庭が草ぼうぼうに荒れていたことと,
通された書斎いっぱいに馬に関する本がぎっしりあったことのみは,やけに印
象的です。
 「子午線の祀り」ほかの彼の著作物はSテューターほかにお譲りしてしまっ
て民話集以外には手許に残っておらず,はっきり確かめようがないのですが,
この作家がどうして知盛を舞台に乗せようとしたのか,そのことを考えたこと
があります。平家物語の全体を通してみると,知盛はそんなに重要な存在では
ありませんよね。壇ノ浦の戦いは源平の運命を決する歴史的な戦いであったと
はいえ,その戦いを書こうと思うなら,この人物よりは戦略の天才である義経
を描くほうがカッコいいに決まっています。そこじゃないんですよね,彼が書
きたかったのは。「見るべきほどのことは見つ」といってこの主人公は死んで
いきますが,まさにそこ。非情な宇宙の運行の中で人はどう生きるかを追究し
ようとした作ではなかったか。
 子午線の視点に立って,人間の知力や想像力をもってしてはどうにも手の届
かないもの,大きく高い宇宙の運行というものがあり,そのどうにもならない
流れに沿って人間は歴史をつくっていくものなんだ,…そんな彼の歴史観,運
命観を表現するものじゃないかと思うのです。さらにいうなら,人間と,人間
を超えるものとを書いているのは,この物語だけではなく,すぐれた文学作品
であるかどうかはそこを書けるかどうかによる,といっていいほどです。他の
ラボのお話にその視点を探るのも,おもしろい活動かも知れません。
 ラボの子どもたちの活動のなかで,ぜひそのあたりのことも探っていってみ
てくださいませんか。永遠なるもの,人間の力を超えるものと,たまゆらなる
人間存在との緊張関係,対立関係のなかに潜む宇宙の本質というようなこと。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆かぶ

(2004.04.22/To:ちゃこさん)
 路面を赤く染めていたサクラの花柄も先日の雨で流され,そのあとにはすっ
かり草木のみどりが目立つようになりましたね。
 小野かおるさんの「かぶ」の絵,わたしも大好きです。ほんとに味がありま
すね。この人に絵をお願いしたのは,彼女がロシア通のはずだと知ったことに
よります。ご存知だったでしょうか,この人のお父さんのこと。中山省三郎先
生といって,早稲田大学の教授,たいへん優れたロシア文学の研究家で,比較
的若くして亡くなってしまったのですが,中山先生のプーシキン「オネーギ
ン」は幻の名訳とされてその筋ではたいへん珍重され,わたしたちの在学当時
は,それを探すのに早稲田,神田の古書店をすみずみまでみんなで手分けして
駈け回ったものでした。結局,単行本のものは見つからず,雑誌に掲載された
ものをやっと1冊発見,ぼろぼろに傷んだ雑誌でしたが,途方もない高値がつ
いていて,数人でおカネを出し合ってそれを買ったことを覚えています。この
中山省三郎先生,いまは東京・府中市の多磨霊園の,田山花袋,向田邦子,堀
辰雄らと隣り合わせに,与謝野鉄幹・晶子,横光利一らのそばで永眠してお
り,わたしも数度お参りしています。
この絵本づくりの打ち合わせのために小野さんに最初に会ったのが,小野さん
のご実家,阿佐ヶ谷の中山先生の旧宅でした。その書斎に入れていただいてビ
ーックリ! かなり広い洋間の三面は上から下までロシアの作家たちの原書ぎ
っしりで埋ずまっていました。パイプタバコのヤニでしょうか,それらの背は
セピア色に染まって見えにくかったけれど,その立派な書籍に圧倒されたもの
でした。
 ロシアでふつうに食するかぶは赤いんですよ,などとおっしゃり,小野さん
が幼時よりこのロシアの雰囲気に馴染んでこられたことがうかがわれました。
中山先生にわたしは会ったことも教えを受けたこともないのですが,小野さん
に会うたび,「オネーギン」のことにふれ,中山先生についてふれることにな
り,そうするとたちまち,小野さんは目をまっ赤にするのが習わしでした。彼
女もラボでいい仕事をさせてもらったといつも云っておりますよ。


◆国生み

〔2004.03.03/To:bokobokoさん〕
 じつはいま,ふーちゃんの書き込みにある,ベトナムの人が話してくれたアジア
におけることばの共通性に関連して,「古事記」にのっている古伝説を考えていた
ところでした。
 下品だ,無礼だとしてスサノオが殺した大宜津比賣の,頭から蚕,耳から稲,
耳から粟,鼻からあずき,陰(ほと)から麦,尻から大豆――が生じた,ということ
になっていますね。この神話伝説と韓語とのあいだに何か符合するようなものが
あるような気がしていたものですから,bokobokoさんのいきなりのお話にビックリ
いたしました。
 さて,お尋ねのスサノオとカタツムリの関係ですが,口惜しいながら,わたしには
知るところがありません。昔は国文学をやってきたはずなのに,このへんのこと,
すっかり忘れてしまっています。しかし,うつろな記憶ですが,ラボの「スサノオ」
で採られているのは,梁塵秘抄に載っている今様のひとつで,直接「古事記」とは
関係なかったような気がしますが。
 これを機会に「古事記」の須佐之男のところを改めて読み直してみますね。
 だれかそのへんのことについて書いているか……。あるいは和辻哲郎さん,唐木
順三さん,谷川健一さんあたりがどこかでふれているかも知れません。気にとめて
おいて,わかることがありましたら,お知らせいたします――ということで勘弁して
いただけますでしょうか。
 野村萬斎の狂言「蝸牛」がとりわけ絶品だ,といろいろなところでふれまわって
いながら,蝸牛そのものについては何も知らない,というのは,ゴメン! なんとも
恥ずかしいこと,無責任なこと。
 カタツムリをめぐる古伝承の情報は,左の「つれづれ塾――その《2》」でアト・
ランダムに紹介していきましょう。梁塵秘抄に見られる今様のカタツムリについて
も紹介しています。

〔2004.04.10/To:さとみさん〕
 おかしな逆説になりますが,ラボの国生み神話をあまり信用しすぎない
でいただきたいのです。つまり,なんといったらいいか,古事記の口吻にじか
にふれてほしいんです。むずかしい注文でしょうか。
 たしかに古事記の文体はやさしいものではありません。ラボのもののように甘
い味をつけて飲みやすくしたものとはまったくちがいます。どうしても現代人
の肌にはなじみにくい晦渋さに満ちています。ちょっぴり恐ろしげで,神秘と
呪術の雰囲気にあふれ,何やら妖しげで,この世からは遠い冥界からとどくよ
うな低いひびきがたえず聞こえています。怖い夢のなかに浮遊しているみた
い…,とでもいうか。しかし,そこにわたしたちの血につながる大事なもの,
始源をなすものが脈々と流れています。その流れに一度はどっぷり身を浸した
うえで取り組むテーマ活動は,ちょっと違うものになるはずだろうと期待して
いるのですが…。
 これまでに「国生み」シリーズのすばらしいテーマ活動をいくつか見てきまし
た。さすが…,と心底,感動もさせられました。にもかかわらず,それでもな
いんじゃないか,まだまだ…,という思いがいつもわたしの底のほうでしてい
るものですから…。「うずまきが見えた」というすぐれた感性をお持ちのさと
みさんにもう一つ上をおねだりしてみたいという次第。

〔04.04.11/From:さとみさん〕
 天の浮き橋のイメージも、大学生の時、九州のキャンプ(当時のキャンプ地の
名忘れましたが)へ参加したとき、阿蘇の周りのどこかの山へ登り、そこ
の頂から、どこまでも広がる雲々、空との境界線もひとつになり、立っている
う感覚がふっと消え、自分の姿さへその景色の中に一体化し瞬間、ラボの『国
生み』のテープの声が、臨場感あふれる音楽とともに、頭に鳴り響いた“あな
たたちの立っているところが天の浮き橋だ。”自分はいざなみになって鉾を
「こうろこうろと」回していた(頭の中でですが)てな具合に、身体にしみこ
んでしまったイメージが、自然と湧き起こってきてしまうのです。そして、
「天の浮き橋がどこだったか」という諸説を読んでも、自分の中では、九州の
あの場所以外はあり得ない。なんて思ってしまうのです。そして、興味は果て
しなく広がっていきます。日本人のルーツ、邪馬台国の歴史等など。でも、あ
る意味、はじめにインプットしてしまったイメージは絶対なんですよね。

〔04.04.11/To:さとみさん〕
おー,「古事記」を読破されている!
“What are little boys made of?” というナーサリー・ライムがよく知られ
ているが,ほんと,ラボはこういうスゴイ人でできていると,世に広く誇りたい
衝動に駆られますね。(国文学を専攻したわたしでさえ,恥ずかしながら,6~
7割程度しか読めていない。部分的には何度も読んではいますが)。
 高橋鐵のその本をわたしは知りませんが,なるほど,「古事記」には彼の好み
そうなSexualなイメージがあふれていますからね,およそ彼がどんな書き方をし
ているかは想像できます。で,それはおもしろく,わかりやすいことでしょう。
「成り成りて成り合はざる處一處在り」「成り成りて成り餘れる處一處在り」な
んて表現には彼はすぐ飛びつくはず。事実,そのつぎには「成り餘れる處を,汝
が成り合はざる處に刺し塞ぎて…」と,「古事記」はそういうエッチなところの
ある書ではありますが,感傷的すぎると批判されるかも知れないにしても,わた
しはもっと敬虔な思いをもってこれを読みたいほうですね。神秘なもの,美しい
もの,誇りに満ちたものをそこに見ているほうが好きです。何ごとにつけイチャ
モンをつけるほうですが,本質的には保守的なのかな,わたしは。

「故(かれ)二柱の神,天の浮橋に立たして,其の沼矛(ぬぼこ)を指し下ろして
畫(か)きたまへば,盬,許袁呂許袁呂(こをろこをろ)に畫き鳴らして,引き
上げたる時に,その矛の末(さき)より垂落(しただ)る盬,累積(つも)りて
島と成る。是,於能碁呂島(おのころじま)なり」

 くらげのようにふわふわ漂っていたところに,雲がわき,野が生まれ,そこに
泥や砂ができていき,やがて男神と女神が誕生する。この男女の神,伊邪那岐・
伊邪那美に天界の神たちが国づくりを命じ,天の沼矛というものを下される。
天界と地上をつなぐ橋でしょうか,天の浮橋のうえに立ってこの男女の神が仲良く
矛をかきまわす。かきまわす矛の先端から雫がしたたり落ち,それが宝石のように
きらきら光って凝り固まる,ひょっとすると虹のような輝きに包まれていたかも
知れない……。
 美しいイメージですよね。わたしたちの国はこんなにも清い,イラク周辺に見る
ような野卑な争いで汚すことがあってはぜったいいけない国なんだと,時代おくれ
の偏屈おとこはそう思うわけです。葦の芽のような人間たちが神々の末から分かれ
て次つぎにふえていく。それがわたしたちの祖先だという。なるほど,文学的では
あるけれど,危機にあっても追従に終始し腰のさだまった態度をとれないこの国の
指導者たちは,葦のようにあっちにそよぎ,こっちにそよぎ,そより,そよりと,
…関係ないかな,これ。
 そんなに読んでいるわけではないので,これを読めとお薦めするわけにはいきま
せんが,「古事記」に関しては,やはり本居宣長の「古事記伝」は欠かせないでし
ょうし,わたしは西郷信綱の「古事記注釈」がいちばん好きでしたね。


◆オオクニヌシ

(2004.4.15/To:ちゃこさん)
多世代をつなぐ地域活動としてやっておりますふれあい読書会,きょうの午後
はトーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」を素材に,市民的凡俗さとアウト
サイダーとしての芸術家のあいだ,何が幸福なのだろうか,といったあたりを
しゃべってくることになろうかと思っています。
そんなことから,このところこの作家のものをいくつか読むうち,「ヨセフと
その兄弟たち」,あの途方もない大長編にぶつかりました。とてもとてもあの
大部を読む根気はいまのわたしにはないのですが,聖書物語でふれるかぎり
で,「創世記」の終わりの十数章をなすこのヨセフの物語がオオクニヌシの物
語と部分的によく似ているということに気づきました。
もちろん,その両方のあいだに影響関係があるなどと考えているわけではあり
ません。それにしても,両方とも,読み始めたらやめられないおもしろさがあ
り,小説も及ばないスリルに満ちていますよね。
利発な末っ子のヨセフとオオクニヌシ。さまざまな奇跡によって危機を脱しま
す。親がこの賢いヨセフ(オオクニヌシ)を偏愛するあまり,兄たちの妬みを
買い,策略に落ちてエジプトに売り飛ばされます。兄神たちのいじめで焼けた
石を抱かされたり,ヘビやサソリのうじゃうじゃいる穴に閉じ込められるな
ど,つぎつぎにひどい目にあわされるオオクニヌシ。
ヨセフはそのあと,逆恨みから無実の罪を着せられ投獄。しかし,その悲運の
ドン底状態を卓越した知恵でひっくり返し,エジプト王にとりたてられる。揚
句には副王にまでなり,7年におよぶ大豊作・大凶作を予言して国の危機を救
う大活躍。かつては自分をいじめた兄たちの困窮も救うなどして,運命の不思
議,神の摂理の不可思議さを語るものだったように思います。
これがのちの「出エジプト」の歴史的伏線になっていると見ています。
まあ,似ているからどうということもないのですが,機会があったらふたつを
対比させながら改めて読み直してみるのもおもしろいかな,と思ったような次
第。


◆なよたけのかぐやひめ

(2004.04.01/To:ちゃこさん)
「なよたけのかぐやひめ」を大事にしてくださっているご様子,大きな大きな
悦びです。あれを秦さんとつくるについては,語り尽くせぬ苦しさと楽しさの
思い出があります。ほんとうに彫り込むようにして一語一語に気迫を込めて書
く彼の創作スタイルには多くを学ぶことになりました。
どちらかというと「むずかしい」としてテーマ活動に取り上げられることの少
ない作品ですが,これは安っぽい翻案などとは遠い彼のオリジナルな創作で,
ことばといってもことばの質が違います。ラボ・テープの尺をはみ出すからと
いって一語でもけずることのできないものでした。全体を通じて,「国生み」
シリーズとともに,これがなければラボ・ライブラリーの品格というか,気韻
が下がるといってもいいようにさえ思える,わたしにとっても最も大事な作品
のひとつです。ラボの品格をつくっているひとつ,といってもいいかも知れま
せん。ラボっ子には一度はこれに触れてから卒業していってほしいと願ってい
ます。
「死んで死なれて」は読んでいるはずなのですが,どうしてなのか,いまほと
んど記憶がありません。本箱をひっくり返してみますが,もしお手間でなかっ
たら,いつかの機会にその要旨でもご紹介いただけませんでしょうか。だれが
読んでも格好の参考になるはずと思いますので。
            ☆
そうそう,あとに残されるものの思い,「こころ」にふれた部分など,思いだ
しました。本箱のどこかにあるはずですので,(乱雑をきわめていますのでた
いへんなのですが)探して読みなおしてみます。
「なよたけのかぐやひめ」では,たとえば,読点の打ち方ひとつをとっても,
ふつう読む文章とはだいぶ異質ですよね。しかし,声にしてみると,それがじ
つに自然。「、」ひとつにこだわる秦さんの思い入れをうかがえます。
お手間をとらせました。(2004.04.03)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〔FROM:まじょまじょさん〕
 92年発刊時に「ことばの宇宙」での特集と制作資料集を再度読み返し、
それぞれの第一線で活躍されておらる方々がどれほどの想いをもってこ
の作品に魂を刻み込んだかを噛みしめました。
特に、日本語を担当された秦恒平さんは、ご自身の人生をそれこそ根こ
そぎ掘り起こしながらこの『なよたけのかぐやひめ』に向かい合ったこ
と。ことばのひとつひとつ句読点ひとつにいたるまでまさに「彫りこむ
ように気迫をこめて」書かれた作品だということを知りました。
 作者が魂をこめて書いた作品を前に、「人間にはどうしても越すに越せ
ない運命がある」こと、愛があるゆえにどうしようもない悲しみや苦し
みを背負ってしまうこと、そのあまりに大きな主題に真正面から向き合
えるだけの力が私にあるのかと、自問自答します。何物にも変えがたい
大切なものを失ってもなおその悲しみをのり越えて「生きる」というこ
と……。この作品に出会えたラボっ子ひとりひとりの心に残る、またそ
れぞれの人生の糧となるような深いテーマ活動が出来たらと思います。
私がもしラボに出会ったなかったら、こんなにもこの物語に向かい合う
ことは生涯なかったと思います。

〔2004.04.16/To:まじょまじょさん momoさん〕
 この作品の発刊されたころ,まじょまじょさんはテューター活動を始めてお
いででしたかねぇ。わたしのラボ・ライブラリー制作にとっても,あのころが
ピークだったかも知れませんね。なにかと注文のうるさい秦さんを「ぜったい
にいいものをつくりたいんだ,力を貸してくれ」と粘りに粘って口説き落とし
たり,絵のほうでは,いまにして思えば怖いもの知らずの無謀なことでした
が,日本画の大家,森田曠平画伯や池田遥邨画伯の子どもさん(名前を忘れま
した)にもアタックしたものでした。森田画伯の絵といえば1点描いてもらっ
て何億円もする,描きさえすれば国宝級とされるもの。いまでも竹取物語を描
いた数点が記念切手で途方もない値をつけられていますよね。しかし,そのと
きはすでに高齢で描く体力はなく,お会いした2か月後には他界されました。
絵のほうも音楽のほうも吹込みのほうも,とにかくラボ・テープ(と当時は云
っていました)で最高のものをつくろうと気持ちを合わせてつくりましたね。
おじいさん役には今福さんを。その切ないほどの語りに涙をこぼしながら録音
作業をしたことも。「ことばの宇宙」の特集はまったく記憶がありませんが,
「制作資料集」の編集に際しても,「竹取物語」に関する資料としてこれ以上
のものはないものを,というつもりでつくった記憶があります。たしか秦さん
の3回にわたる講演を起こし,それをもとにまた徹底的に書きこんでもらった
ものを軸に編んだように覚えていますが。
 お気づきのように「、」ひとつにも細心の注意を払いました。ラボ・テープ
には物理的な制約があり,1セット4本のカートリッジにおさめねばなりませ
んでした(CDになってその制約はゆるめられましたが)。しかしそれにおさ
まるサイズではありませんでした。経済的な条件もありますので,部分的にカ
ットして短くせねばならない問題に立ち至り,社長からはドヤされるし,かと
いって,とてもカットすることはできないんです。そんなふうに乱暴にカット
して作品にキズをつけるようなことはどうしてもできない…。幾晩も幾晩も悩
みで眠れない日がつづきました。結局社長に拝み倒して,5本だか6本だかに
して発刊した,会社としては不経済な,特別に稀有なものでした。
たしかに,だれもが気やすく食いつける作品ではありません。なかなかテーマ
活動に取り上げられることは少ないでしょう。でも,「国生み」とともに,こ
れがあるとないとではラボ・ライブラリー全体の品格がぜんぜんちがう,ラボ
が誇っていい知的財産のひとつだと思っています。
          ☆   
「竹取ツアー」ですか。たのしそうですねぇ。いつごろ,どんなメンバーでお
いでになりますか。子どもたちもいっしょですか。
竹の植物園に行ったのは一度だけですが,伊豆に親しくしている友人がいるも
のですから,ときにはあのへんによく行きます。文学のほうから,美術のほう
から,民俗資料のほうから…,あのへんはいろいろな楽しみがありますし,つ
いでにもうちょっと入れば,伊豆の温泉はいくらでも…。
どうぞよい旅を計画なさってくださいますよう。
          ☆
 さとみさんのところの掲示板で「たけとりの里」をお探しと知りました。
たぶんここのことかと思いますのでご紹介いたします。
「なよたけのかぐやひめ」をつくっているときには行く機会が得られませんで
したが,数年前に行ってきました。
  東名高速の裾野IC,または沼津ICから15分,「富士竹類植物園」です。
  静岡県駿東郡長泉町南一色町885  
  TEL.(0559)87-5498 FAX.(0559)87-5413
  車でない場合ですと,新幹線三島駅から車で15分,または駿河平行きバス
  (富士急)で15分,富士竹類植物園入口です。
  火曜日が休み,入園料大人800円,子ども400円。団体割引あり。
  5月第二日曜は「竹酔い祭り」,7月上旬の七夕まつりは入園無料

世界の竹500種類が植栽され,なかには,輝くようなもの(スオウチク,キン
メイシホウ)もあり,かぐやひめはきっとこんな竹から生まれたにちがいない
と思わせてくれるきれいなものもあります。水戸黄門さまが杖にしているキッ
コウチクもめずらしいですね。ぜひこどもたちに見てもらいたいものですね。
わたしたちはひとくちに「竹」といってしまいますが,じつは「竹」と「笹」
と「バンブー」には根の張り方などにそれぞれちがう特徴があることを知りま
した。


〔04.07.04 /To:ちこらんたんさん〕
>パーティでかぁ、それはまた夢のまた夢のような・・・
でもパーティでやったら、私かぐや姫やらせてもらえないでしょ。
うーん、やりたいようなやりたくないような。
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 わたしのイメージしていたかぐや姫とはこんなひとです。さあ、ちこちゃん、
心して挑戦してみてくださいね。
 これはわたしが絵を依頼したときに画家の本多豊国さんに伝えたとされること
ばです。じつはわたし自身はそんなことを云ったかどうかあまり覚えはないの
ですが。(「ラボ・ライブラリー制作資料集Ⅷ LITTLE INCH and Five
Other Stories」17ページより、本多豊国氏講演記録参照)
             ☆
…とにかく超俗の存在だと。たとえば、日本古代の伝統的な美人ではない、ギ
リシアの女神の肉体美はない、サロメの妖しさでもない、ましてやスーパーマ
ーケットに出入りする現代女性のような生活臭が微塵もあってはいけない、キ
リッとした怜悧さをもっているけれども彫刻的ではない、ただに美しいだけで
なく、手のとどかない美しさと気高さ、神々しさをたたえた女性だろう、魔性
の女、鬼女、あるいは魂をなくしたモノ狂いの女をイメージしてみてくれ、事
情があって宇宙からやってきた抽象的な存在、少女であって少女でない…。
             ☆
 新進版画家への挑戦状でもあったのですが、よくぞこんな無茶な挑戦に応えて
くれたものだと、いまにして感動を禁じえません。その後彼にお会いする機会
があるごとにいわれるのは、なんのことはない、あれはがのさんの理想の女性
像だったんですね、と冷やかされます。ま、そんなところかも知れませんの
で、みなさんはべつにそのイメージにとらわれる必要がないのは当然ですけれ
ど。でも、こんなひとがどこかにいないものでしょうかね~。(いたらどうし
ようというのさ!)


〔From:まじょまじょさん (2004年07月09日 02時53分)〕
がのさん
久しぶりにこちらに来て、日記とBBSをさかのぼって一気に読ませて
いただきました。赤岳の写真、素晴らしいですね。私がまだ子供だった
頃、父が夏になるたびに登っていたもので、「あ~この展望小屋で一息
ついていたのかな~」なんて思いを馳せながらじっくり見入ってしまい
ました。富士山の次に高い山。実際に登るとなると相当の覚悟がいりそ
うです。「そこに山があるから・・」なんてとてもさらっとはいえない
厳しさを感じました。
 さて、かぐやひめ
>…とにかく超俗の存在だと。キリッとした怜悧さをもっているけれども
彫刻的ではない、ただに美しいだけでなく、手のとどかない美しさと気
高さ、神々しさをたたえた女性だろう、魔性の女、鬼女、あるいは魂を
なくしたモノ狂いの女をイメージしてみてくれ、事情があって宇宙から
やってきた抽象的な存在、少女であって少女でない……。
⇒うわぁ~、こんなところで、がのさんの理想の女性像を知ることにな
ろうとは・・・
>「でも、こんなひとがどこかにいないものでしょうかね~。」
⇒ほんと、いたらどうしようとするのさ! ~その先も聞いてみたいよ
うな怖いような~
個人的な趣味かどうかはさておき大変な依頼を受けてしまった新進気鋭
版画家も頑張りがいがあったというものですね。90年にラニオン国際児
童画ビエンナーレでグランプリをを受賞され、、その翌年チェコスロバ
キアで開催されたビエンナーレで主催者招待による本多氏の特別個展が
ひらかれたとか。その時にこの「なよたけのかぐやひめ」も一部出展さ
れたことを知りました。世で成功する作家には名編集者が必ずいるよう
に、本多氏もまた、注文の多い料理がの店にて創作意欲をかき立てられ
芸術家として一気にブレイクしたような!さすが「鬼にがのぼう!」才能
を見出す眼力ならぬ「がの力」もさすがです。

かぐやひめはみめ麗しく心もやさしいと印象付けられますが、しかしほ
んとに全てそうとは言えずものすごくきついというか、魔性があります
ね。「難題」のところでの5人の貴公子のていたらくも全てお見通し。
財力や地位や家柄だけではどうにもならない手ごわさ。そんなすごい女
性の婿になるとするならもう特別な能力、異能を持っていなければなら
ず、加えて成功するには必ず(前述のごとく)援助者が必要のようで、
場合によってはその援助者は相手の女性本人がなる時もあれば、動物が
助けてくれる場合もあるそうな。・・・考えてみたらオオクニヌシはそ
の両方が援助してくれて恋が実っていますしね。それにそういうスンバ
ラシイ女性には偉大なる親もちゃんといるわけで、親なり一族なりの厳
しいテストにも合格しなければならず、それはまあ赤岳を登るよりもか
なりしんどそうです。オオクニヌシもスセリヒメの親御さんに相当の拷
問に近いテストを受けていますしね~。だってほら、天人女房も、天井
に上がった男が父親にテストされてしまいに大失敗して、愛する天女と
は別れ別れになり、とうとう1年に一度の逢瀬しかかなわない牽牛織女に
なってしまいますものね~。やはり超俗の存在である女性は、ながめる
に限るのかしら?
かぐやひめ~羽衣伝説~七夕~つながりもまた興味深いところでまだま
だ書き足りませんけど、今宵七夕の夜空を眺めて1000年の時を旅できた
らなんて素敵!
かぐやひめによびよせられまして!!横レス(って言うんだそうです)失
礼しました。

〔To:まじょまじょさん 04.05.09〕
>かぐやひめはみめ麗しく心もやさしいと印象付けられますが、しかしほ
んとに全てそうとは言えずものすごくきついというか、魔性があります
ね。「難題」のところでの5人の貴公子のていたらくも全てお見通し。
財力や地位や家柄だけではどうにもならない手ごわさ。
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ご丁寧な書き込みをいただき、ありがとうございます。ラボの40年近い歴史
のなかで燦然たる輝きをもってこれからも語られ記憶されるであろうと噂され
る、過日の間瀬パーティ20周年記念発表会での『なよたけのかぐやひめ』。
その長い苦闘の取り組みの末に探りだしたポイントで、さすがに捉えるところ
が深い! そのテーマ活動を見せてもらっていないのが悔やまれます。かぐや
姫は、ただに美しく、親にやさしい理想的な女性というだけではなく、ラボの
かぐや姫は、お見通しのように、「魔性」も備えた、きびしく怖いところも持
った女性として描きだしていますね。そこですよね、ラボの物語CDが、他の
再話ものの、やけにメンヘンチックなかぐや姫物語を決定的に越えているの
は。この物語のほんとうのドラマはそこにある、と見当をつけてつくったのが
このラボ・ライブラリーで、原典にかえれば当然そうなるはずのものでした。
(でも、この女性像、まじょまじょさん、ちょっと胸に手をあててみると、ハ
ッと思いあたるところがありはしませんか!?)
ここでは、なみいる貴公子たちが命にもかかわる過酷な試練に立ち会わされま
す。ばかなやつらが…、とお思いでしょうが~、たぐいまれな美しさをもつ女
性を求めて止まぬ男たちの真情とはそんなものなのでしょう。オオクニヌシも
そうでした、天人女房の婿どんもそうでした。その抑えがたく高揚した恋の感
情に理由なんてありません…と思います(経験がないものですから)。
ところで、難題への挑戦ということで、グッと話を逸らすことになりますが、
きのう(7月8日)、地域のある福祉グループが主催する映画会で『華岡青洲
の妻』を100人ほどの高齢者たちに見てもらいました。

『なよたけのかぐやひめ』では、なみいる貴公子たちが命を賭けた試練に立ち合わされました。しかし、難題をぶつけられるのは男たちだけでなく、女の場合もあります。
きのう(7月8日)、地域の福祉グループが主催する映画会で100人ほどの高齢者に『華岡青洲の妻』を見てもらいました。この映画会は、ベテラン映画監督の河崎義祐氏のおこなう出前映画ヴォランティアによるもので、第一回の『東京物語』(小津安二郎監督)を皮きりに今回で21回目を数える地域の恒例行事。若い日をしのぶなつかしい映画を年に2回程度ずつ上映してきました。『華岡青洲の妻』の原作は有吉佐和子、これは増村保造の監督による同名の映画で、新藤兼人が脚本を書いています。そうそう、音楽は林光さん。映画そのものは、わたしのように原作を4、5回も読んでいるものには、その厚みを大きく損なうもので、ちょっと耐えられない気分もあるのですが、この監督のものらしく、しっとりとして落ち着きがあり、シンプルで、無駄を極限的に削り取った映像で見せてくれました。白黒映画特有の映像処理はさすが。
物語は、ご存知と思いますが、武家育ちの娘、加恵さん(映画では若尾文子。若くみずみずしいですよ)が望まれて名門の医家に嫁入りします。婿さんのいないままの祝言をあげて。この家には、美しく淑やかで、気が利いていて才覚もあり、近在のだれからも仰ぎ見られている姑の於継さん(高峰秀子)がいます。ほどなく蘭方医学を修めた婿どの、雲平=青洲(市川雷蔵)が帰ってきます。青洲をあいだにはさんでそこから展開される嫁と姑の凄絶な葛藤。ふたつの愛のかたち。名ある封建的な家門における女の身の置きどころ。…その確執には息づまるものがあります。理想的な女とされる姑の前で、加恵さんはいちいち試されます。跡取の子を生めない女の僻みもあります。いくら健気につとめても、努力すればするほど事態はマイナスにばかり働きます。それに加えて、外科手術に道を拓く決め手としての麻酔薬の開発に打ち込む男の悲壮な戦い。その戦いにも母と嫁が争って参入します。麻酔薬の人体実験の揚句、加恵さんは健康をそこない視力を失って闇のなかで生きることになります。一人娘もころりと死んでしまいます。一人の男の夢に全身を捧げて生きる母そして嫁。そういう女の生きざまを今の若い世代はどういうのでしょうか。ばかみたい…、と。
でも、男であれ女であれ、人間というのはいつもいつも試されている存在なのかもしれません。わたしのような、無用なしがらみを断って生きるフリーターでさえも。ましてや、テューターのみなさん。いつでも、どこにいても注目され、試されている存在といえないでしょうか。それによって強く育てられるという点もあるのでしょうが。

〔FROM:スミティさん 04.07.12〕
なよたけの話題で盛り上がっているこのページに触発されて、久しぶりに「なよたけ…」を一気に聞いてしまいました。で、発見! このライブラリィ、英語だけのバージョンのみでなく、日本語だけのバージョンが入ってる! はじめてこのライブラリィを聞いたのは1994年。テューターになって全ライブラリィをそろえたとき。そのとき思ったことは、絵がすごい。日本語がすごい。これだけのものを作れるラボはすごい、と思いました。と、同時に、ラボっこのためだけでなく、英語だけで海外に出せば日本文化の発信だし、日本語だけで日本国内に出せば、生涯教育のいい材料。もったいなあ。と思いました。
そうそう、かぐや姫がかわいくない、怖い感じと思っていたなぞが解けました。それに対して求婚する男性たちの無邪気そうな表情…。
今回、あらためて原典竹取物語(新潮日本古典集成 手元にありました)と比べて、原典を生かしたもので、学校の教科書にしたっていいくらい。こういう日本語で触れると、1000年以上前に日本でこれだけの物語が作られたことのすばらしさを素直に感じられる。古文の勉強なんて
思わずに…、などなど思いました。いつか大人で取り上げてみてもいいなあ。

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◆安寿と厨子王

(2004.03.09/To:カトリーヌさん)
「安寿と厨子王」をカトリーヌがやっている――
それだけで,なにやらズキン! とくる感慨があります。
さすがです,「安寿と厨子王」の物語の奥処を的確に捉え,
そこのテーマをはさんで子どもたちと真摯に向かい合う,
そんなカトリーヌの姿が彷彿されます。
それにしても,現代っ子の感じ方,おもしろいですね。
わたしなんかには思いもつかぬ発想です。こういう子たちが,
かつての日本の歴史のなかでおこなわれていた生活様式と
それぞれの時代に吹いていた風を
テーマ活動の形でふれるとき,良きにつけ悪しきにつけ,
封建的であろうと近代的であろうと,新しい未来へ注ぐ視線には
(それを知らずに来てしまった人とは,大きく)違うものが
あるように思いますね。それが歴史だからです。
わたしたちが今立っているその下に流れている歴史だからですね。
カトリーヌご自身にとってこの物語がある特別なものとして
胸に残っていると同じようにして,
わたしの中にも鮮やかなイメージとして焼きついています。
わたしの幼少期といえば,絵本などめったにありませんでした。
それがどういうわけか,この絵本と数冊の日本神話の本が家にあり,
数十回,いや,もっとでしょうか,母親に読んでもらったものです。
今にして思えば,粗悪なものでしかなかったでしょうが,
盲いた母がうたう鳥追い唄,「ホーヤレホー…」は
いまは遠い他所に行った実母の記憶とともにあり,
ひとしおの懐かしさを覚えます。
文字が読めるようになってからも,鴎外の「山椒太夫」を
何十回読んだことか! 特別な思いのある作品であり,
これをラボ・ライブリーにするときには,
みんな帰宅してしまった事務所の片隅でスクリプトをつくりながら泣き,
録音吹込みに立ち会いながらひそかに泣き…,と,そんな感じでした。
でもまあ,そんな思い入れとは別に,
いまの子どもたちとは,無理なく,彼らの尺度も見ながら
このお話を楽しんでくださることを期待しております。
          ☆
これはひとにお薦めしたい本ではありませんが,
人攫い,人買いの話が出てくる話で,ちょっと「山椒太夫」に類似した
ところがありますので,一部概略をご紹介いたします。
皆川博子さんの『乱世玉響』(らんせいたまゆら)という小説。
「蓮如と女たち」というサブタイトルがついています。
蓮如は,知恩院派の高僧で真宗をつくった傑物とされていますね。
85歳で歿するまでに5人の妻をもち,27人の子をなしたとされています。
その子の一人,乙女というおんなの子が15歳のとき,
琵琶法師の男に騙され,人買いに売り飛ばされます。
次々に売り渡され,夜をひさぐ女になったり,
夜盗の群れに入ったり,乞食になったり…,
さんざんな辛酸をなめたのちにどうにか寺にもどることができたが,
生んだ子のことは顧みない,子をなした女を首を締めて殺すような父親の上人

聖人づらして人前で法を説くことにどうにもならない怒りを発し,
寺に火を放ったうえで,自身は首をくくって果てる,というシーンがありま
す。
フィクションですから,そういうものとして読まねばならないわけですが,
やはり,かつて日本にそういう時代があったんだな,
との思いを新たにしました。
わたしたちの幼少時も,わるいことをしたときに向けられる脅し文句は
人攫いにやっちゃうぞ,でしたね。頑是なくぐずぐず云っていると,
それそれ,人攫いがくるぞ,といわれ,口をふさがれたものでした。
「安寿と厨子王」の話を聞かされて育っていたこともあって,
「人さらい」は怖い怖いことばでしたね。それもいまはなつかしいですが。
( Mar 11,2004 )


◆ポアンホワンけのくもたちと谷川雁

〔04.04.11/To:カトリーヌさん〕
谷川さんという詩人については,云うに云えない複雑な思いがあり,
軽々には語る気になれません。9年前の2月2日という日,歿しました。
学生運動の渦中に出会ったこの人の詩句,

  海べにうまれた愚かな思想 なんでもない花
  おれたちは流れにさからって進撃する
  蛙よ 勇ましく鳴くときがきた
  頭蓋の窪地に緑の野砲をひっぱりあげろ(「おれは砲兵」より)

まだ何もわからず,血気盛んで純真なばかりで,若くみずみずしかったわたし
の感性は,自分の顔を「蛙」にしたり,こういうことばにコロリとまいってし
まい,当時ふらついていた磁石がピタリとひとつの方向を示すようになったの
を感じたものでした。とりわけ,

  朝は毀(こわ)れやすい玻璃(ガラス),だから
  東京へ行くな,ふるさとを創れ   (「東京へいくな」より)

この2行はどうしようもない疼きをもって受けとめたものでした。そして,以
来ずうーっと,いまもってその呪縛から逃がれることができずにあがいている
というわけ。数年前,新しい自分を求めて彼の著作物のいっさいを廃棄したに
もかかわらず…。
彼に招ばれてラボで仕事をするようになり,いきなり見せられたのが「ポア
ン・ホワンけのくもたち」のスクリブト。待たされている間に読んでみろとい
われて渡されたものでしたが,

  雲がゆく/おれもゆく/アジアのうちどこか/
  さびしくてにぎやかで/馬車も食堂も/景色も泥くさいが/
  ゆったりしたところはないか/どっしりした男が/五六人/
  おおきな手をひろげて/話をする/そんなところはないか/
  雲よ/むろんおれは貧乏だが/いいじゃないか つれていけよ(「雲よ」より)
                      
こんな彼の詩を思い浮かべながらその童話を読んだ記憶があります。吉岡實と
並んで難解な詩を書くとされていますが,現実の根っこのところにひそんでい
る根源的な心情を的確に表現する詩人としてわたしのなかにあり,一方,上の
詩のようなやさしく平明な,そしてとびきり新鮮な詩も書く人でした。彼がラ
ボでの活動の集大成として残していった『国生み』に特別な思いがないはずが
ありません。忘れようとして忘れられない存在。久しぶりに思い出しまし
た。
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