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 その《2》
 その《3》
0705
物語寸景〔2-1〕【ラボ・ライブラリー関係外】

【おおきな木/二十面相・怪傑黒頭巾/クオレ―愛の学校/あのころはフリードリヒがいた/怪談「真景累ケ淵」/「人魚姫」と赤い蝋燭と人魚」/萩原朔太郎/梁塵秘抄/春を詠う古歌/りんごの木/星の王子さま】




◆おおきな木 "The Giving Tree"

【norinoriさん ――05.03.08】
“THE GIVING TREE”を声を出して読んでいると、胸が熱くなりなんともいえない気持になります。木は自分の持っている全てを少年に与えます。実を葉っぱを枝を幹を…。成長するにつれて、少年のほしいものは変わっていきました。だけど樹は変わらない。与えることに幸せを感じ続けていられるのです。なんて、素敵なお話なのでしょう。
ドイツの時間管理の専門家ロイター・J・サイヴァートさんは『幸せ時間ですべてうまくいく』という本の中でこういっています。――「私は何がしたいか」考えるのではなく、「私にできて、かつ楽しいことのうち、他人の役にたつのはなんだろう?」と考えてください。そしてもし、周りの人が予想していた以上にあなたが役に立てば、それはブーメランになります。つまり、何もかもがあなたに戻ってくるのです。感謝という形で…、と。なんだか、今日、絵本と重なりあいました。
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【To : norinoriさん ――05.03.08】
シェル・シルヴァースタインの「おおきな木」。わたしはあいにく原書では読んだことはありませんが、大好きな絵本の一つです。友人の病気見舞いに、新入学のお祝いに、お誕生日のお祝いに、何か贈り物を、と思いたつとき、よく選んで送るのがこれ。わたし自身、少なくとも20回は読んでいるでしょうか。与えつづける無私な愛。美しく尊いですねぇ。詩情に満ちていますねぇ。なんだか、そのまわりの空気まで浄く澄んでくるような…。一本のシンプルな線でみごとに表情を描き分けている絵、ユーモラスながら深みのある文章、そして空間。心にくいばかりの調和あるデザイン感覚。
しかし、最近、どうもちょっぴりひっかかるものを感じています。そもそも、このリンゴの木って何なのでしょうか。わが子を思う母性の無限の愛ということでしょうか。お若いnorinoriさんには通用しない概念かもしれませんが、さしずめ“岸壁の母”といったイメージが浮かびます。少年は成長とともに自立し、あるときはリンゴの木のことなどまったく忘れて、ほかのことにこころを奪われます。仕事でしょうか、賭け事でしょうか、それとも好きな恋人でもできたのでしょうか。それでも、少年は、失敗するごとに、挫折するごとに、そのリンゴの木というふところに帰ってきます。帰るたびにリンゴの木は自分のもっているかぎりのものを少年に惜しげもなく与えます。リンゴの実であり、枝であり、幹であり…。最後にはもう何もありません。何もなく、残った切り株を少年にあげて終わります。切り株が少年(いや、もうよぼよぼの老人でしたね)のどんな役にたつのかはよくわかりません。そこに腰をおろして休むだけの役にはなります。そんなにしてでも、リンゴの木は、自分の持っているすべてをわたしてたいへん幸せだった、うれしかった、と…そういうお話ですよね。献身とはそういうことなのでしょうか。犠牲とはそういうことなのでしょうか。
ほかほかこころがあたたかくなるようですが、一方、なんだかすごく悲しくもあります。「哀しみ」のほうが文字の印象としてふさわしいでしょうか。こんなふうに無私に、欲なく生きられたらすばらしいと思う一方、そこはかとない哀しみが…。
ラボ・テューターとしてたくさんの子どもをもつ母親のような立場にあって、自身をリンゴの木に置き換えたとき、どう思われるのかな、そんなことをこのごろ思います。

《追記》
この同じ作家の作品で『ぼくを探しに』("Missing Piece")というのがあります。ご存知ですね、倉橋由美子が訳しています。自分には何かが足りない、何かがたりない…、として足りないカケラを探しにどこまでもころがっていく、満たされないところ、欠けたところのあるマル。自分のIdentityを追求するシジフォス的な渇望に導かれてあちこち探しまわるが、大きすぎたり小さすぎたり、尖りすぎたり角ばりすぎたり、ぴったりとはまるかけらなんてめったにはない。それでもついに見つけて、寸分たがわずはまって完全なマルをつくることができる。めでたし、めでたし。しかし、マルくんにしてみれば、カケラをくわえて自己の充足は実現しても、カケラにはカケラの主体があり主張があり、分身たるカケラを大事に愛することとはちょっと違うような気がしてくる。そして結局はもとのままになって分かれるという話。ところで、カケラとは何を象徴しているのでしょう。これを女性あるいは母親、あるいはまたテューターと措定するのはずいぶん勝手な、場合によってはずいぶん失礼な読み方でしょうが、欠けた部分にはまって自身のすがたを失うこと、根こそぎ最後のところまで自分の存在をささげてしまうことが幸福なことなのかどうか、そんなことを問うているような気がするし、ほんとうに自分を満たすものがあるとすれば、それはどこか外部にあるのではなく、結局は自分の内部にあるのだ、…そう言っているようにも思えるのですが。
こんなことをぐだぐた言っていると、『百万回生きたねこ』の、なんともクセの強い、ニヒルで実存的なねこのことも思い出されて、もう、ぐちゃぐちゃ。やめておこっ、と。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆二十面相/怪傑黒頭巾――こどものモラルをつくる場

【スミティさん――05.02.27】
「名探偵コナン」と言う番組がある。私はこの番組が好きではない。子どもが見たがるので見るが、あまりにも簡単な動機で殺人が起きる。探偵物で、その推理過程が大事なので動機は重要でないのかもしれないが毎回「それくらいの事で人を殺さないでよね!!」と思う。日本はまさに子どもたちに垂れ流し。嫌なニュースは流さない、いい話題、気持ちが明るくなる話題、まねしたくなるモデルの事だけ流すチャンネルが欲しい!
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◆【To:スミティさん――05.02.28】
 ほんとうですね。ここずうーっと推理小説のようなものを読むことはありませんが、きのうの日曜日、夕食をとりながらなんとなくテレビを見たら、アガサ・クリスティのポアロのアニメをやっていました。日曜日の7時半ですから最高の時間帯、ほかに見るものもないのでなんとなく流して見ていますが、あれも殺人事件を解いていくもの。つくり方もあるのでしょうが、薄っぺらで見てはいられない、というもの。子どもにはあんなもので喜んでもらっちゃ困ると思う。日ごろから世界のすぐれた文学にふれ、深い感受性を養っているラボっ子のみなさんなら、一発がそのへんは嗅ぎわけられるはずですね。
 そう思いながら、懐かしく思い出されるものがあります。もう半世紀も前に読んだ本。文字どおり夢中になって読んだ本があります。いまにして思えば、え~っ! という感じですが、その本を読めるということで風邪をひいて学校を休むのがうれしくてたまらなかったものです(幸か不幸か風邪をひきやすい体質でした)。熱にうんうんうなされながらも読まずにいられなかった本。スミティさんはそんなばかなことはなさらなかったでしょうが。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズや高垣眸の「怪傑黒頭巾」などです。いまの子どもならすぐ「ダセーッ!」なんて云うのでしょうが、テレビもゲームもない時代、もう熱狂的に読みましたよね。
 何がそんなに少年がのさんを惹きつけたか。名探偵明智小五郎や小林少年のかっこよさもあったでしょうが、怪盗二十面相の悪漢ぶりがアッカンでしたよね。神出鬼没のあざやかさ! 次つぎにとびだすトリックの独創の妙、ハラハラどきどき興奮させる逃亡のテクニック、明智探偵との虚々実々のかけひき、裏をかき、またその裏の裏をかく追いつ追われつの知恵くらべ、…そういうおもしろさはもちろんありましたが、どこかで安心するものがあるんですね。犯人の二十面相もなかなか憎めないんです。それは、この悪人、大金持ちから宝石や美術品ばかりをねらう紳士怪盗であって、なかなか品格があり、金品にはぜんぜん目を向けません。けっして人に刃物を向けることはしません。殺しなんてもってのほかです。そうしておいて、追い詰められるたび、ウッソだろ~、と思うほどあざやかに逃亡します。
 「怪傑黒頭巾」だってそうですよ。黒い野心と陰謀によって幽閉されている父を救出しようと、まだ幼い姉と弟が悪に立ち向かいます。次つぎに姉弟を襲う危難。絶体絶命のところでかならず登場するのが謎の人物、黒頭巾の侍。この黒頭巾も、短銃を取り出して相手に向けはするが、ぜったい発砲することはありません。「死」なんてないドラマです。子どもには「死」というものの免疫をつけておくことも大事だという意見があることは知っていますが、あんなウスッペラなバーチャルな「死」で、子どもは本当の悲しみを体験できるものでしょうか。本当の涙を流せるものでしょうか。


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◆クオレ―愛の学校

〔To: hitさん 05.01.16〕
「クオレ物語」ですね。僕が5年生の時初めて読みました。教育的な本だって事はその当時でもわかりましたイタリアの物語だったんですね。
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イソップや「ありときりぎりす」からは逸れますが、「クオレ」のことも簡単に書いておきましょう。
デ・アミーチスという人が書いた作品。「ピノッキオ」のコッロディより20年ほどあとに生まれています。いいところの生まれのようですが、小さいころからなかなかの愛国少年で、14歳のときにイタリア独立戦争に志願しているんですね。さすがに若すぎますから入隊はできませんでした。大きくなり、第三次独立戦争に加わって各地を転戦、途中でコレラにかかって以来、後方任務につけられ、軍の発行する機関紙の編集などをやっていたようです。そんな中で自分の経験を軍隊物語として書き、それが意外な評判になって、作家の道を踏み出すことになる。
どうにか戦争に勝ち、国家統一が果たされたあとの「よきイタリア人をつくる」という時代の要請に添って、教育の現場にも立ちながら、国民形成に力を尽くします。その中から生まれたのが「クオレ」です。エンリーコという小学4年生の男の子の日記の形であらわされたもの。10月の新学期から翌年の7月までの学校生活でおきたさまざまなことがしるされ、じつにさまざまな性格の子どもたちが登場します。
途中に「今月のお話」というのが挿入され、愛について、恩について、奉仕について、人間の徳や愛国心、勇気といったものについて、さまざまなエピソードが語られます。ときにはきびしい叱責の調子で、ときにはやさしい励ましをこめて。こうした話の背景になっているのは、「子どもを教育せよ、青年を教育せよ、自由をもって政治をおこなえ」といって死んでいった故国独立の英雄の一人カヴール伯爵という人の思想で、それを忠実に受け継ごうとしたらしいです。そのへんはコッロディの『ピノッキオ』と事情は同じと考えていいと思います。この作品も教訓的といえば教訓的です。
で、わたしたち日本人にもっとも親しまれているのは、そういった愛国物語のあたりではなく、五月の「今月のお話」として語られている「母をたずねて三千里」、あのマルコ少年の苦しい一人旅の話。テレビアニメで涙をしぼりながら見た人も多いのではないでしょうか。これも、幼いのに勇敢で、志のたしかな少年像を描いてつぎの世代を教育する意図が働いていたのでしょう。イタリアのジェノヴァの港を出発、南米のアルゼンチンのあちこちで母を探す旅ですから、舞台は南米ですよね。この作品、hit くんにイタリアの印象がないのはそのためでしょうか。特別お薦めしたいという本ではありませんが、児童文学における教訓性ということで、書き添えさせてもらいました。


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◆リヒター『あのころはフリードリヒがいた』

〔To:がんちゃん 04.12.10〕
リヒターというドイツの作家をこの時期に想起なさる、
その代表作『あのころはフリードリヒがいた』を日本帝国主義の暴発と
結びつけてお読みになる人がラボ(敢えていうなら、お幸せボケのラボ)
にもいる……、なんだか、そのことがわけもなくうれしいです。
この少年小説でいちばん気にかかるところは、時代状況の恐ろしさとい
うことでしょうか。時代の嵐は人間をぐるぐる巻きにして吊りあげてい
く。好むと好まざるとにかかわらず、主人公の「ぼく」はユダヤ人迫害
の加害者の立場に立っていました。あんなにも仲のよかった幼馴染みを
裏切ってまで。ナチス政権下の狂気の風をあびながらここで生きていく
には、自ら「ヒトラー・ユーゲント」というナチスの少年団組織にはい
るしかない。「ぼく」はいつか、その隊員であることを誇りにさえ感じ
るようになっていく。その位置にいながらさまざまな偏見と迫害にさら
されて苦境を強いられるアパートの隣人のシュレーゲルさん一家の悲劇
を目の前で見ている。そうした葛藤のこころの時代を冷静に、客観的に
描いた、たいへんユニークな、ショッキングな作品ですね。爆撃がやん
だあと、防空壕から外に出てみる。フリードリヒがものかげでうずくま
っている。アパートからの追い出しにやっきになっていた家主が片脚で
ちょっとふれただけで、ことりと敷石のうえにたおれたフリードリヒの
絶望のすがたは、あまりにも胸に痛い。

しかし、考えてみれば、あのときでユダヤ人に対する迫害に終止符が打
たれたわけではなく、21世紀のいまにしてまだつづいていますよね。イ
スラエルとパレスチナとの戦争。ふるさとを去って2000年、その不安定
なさすらいはまだまだ終わっていない。まさに、人間はこの2000年とい
う時間のなかでどれほどの理性を獲得したのだろうかと問いたくなりま
す。
よけいなことですが、この12月8日という真珠湾攻撃の日は、なんとまあ、
わたしの結婚記念日でもあるという皮肉。しかし、云っておきますが、
わたしはそんなに好戦的な人間ではありませんよ。

   ----------参-------考-------------
リヒター,ハンス・ペーター(ドイツ、1925~1993)
*自ら体験したナチス・ドイツを客観的につづる児童文学作家、社会心理学者。
ケルンに生まれる。比較的めぐまれた家庭環境で少年時代をすごす。第二次世界大戦に際しては10代にして軍隊にはいり兵役に服する。従軍中に左腕をうしなう。終戦ののちは社会学と心理学を学んだ。社会心理学方面の研究活動にたずさわるかたわら、自分の子どもに語って聞かせる話を書きはじめる。『メリーゴーラウンドと風船』『ある馬のはなし』といった、ごく無邪気な、かわいい作品から児童文学の道に踏みいり、つづいては『聖者マルティン』『聖ニコラウス』というふたつの聖者物語を書いた。1961年、ヒトラー政権時代の反ユダヤ主義に傾いていくドイツを客観的にえがいた『あのころはフリードリヒがいた』を発表し、一躍、世界の注目をあびた。翌年にはその続編の『ぼくたちもそこにいた』で、ヒトラー・ユーゲント(少年団組織)の実態をえがき、さらに1967年には、みずからの軍隊生活のなかで、自分の目で見たもの、自分の耳で聞いたこと、また前線の若い将校のすがたを、節度と勇気をもって書いた『若い兵士のとき』を発表した。この三作がリヒターの代表作とされる。ときにはユダヤ人迫害の当事者でもあった自分の立場を誠実に見つめつつ、その時代を生きたものの一人として、感情に流されることなく、ごく淡々とエピソードを叙事的につらねている作品。


       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆怪談「真景累ケ淵」

〔To:ちこらんたんさん〕
――ヨン様だ、聖子ちゃんだと言ってウツツを抜かしていて「お累さん」にされて
も知らないからね。ほんとは累と書いて「かさね」というのですが、よく怪談
に登場してくる女です。ちこ姫さまとかさね(累)るのは可哀相なのですが、
下総のほうのお百姓の嫁さん。類(累)がないくらい不細工な女で、そのくせ、
嫉妬深さは病的。キチガイだね。そんな女だから邪魔にされて夫に殺されちゃ
う。女の執念は怖い。怨念が幽霊となって、その後の一族を悩ませるというパ
ターン。

〔ちこらんたんさん〕
かぐや姫の難題といえば、今日すごく怖い絵本を教えてもらいました。
「いぬねこ かさねがふち」っていうんですが、歌舞伎が題材みたいなんです
けど、ご存知でしょうか?
越後屋の若旦那・けんしろう(犬)に惚れた小間物屋の娘・おみけ(猫)。
おみけの父親がけんしろうの父に、娘を嫁にと頼みにいくと、必ず犬の子を産
むのならと言われるおはなし。すごいんです、その後の展開が!怖いのなんの!

――知りません。歌舞伎にそんなのがありましたでしょうか。間違っているか
も知れませんが、それは三遊亭圓朝の代表的な怪談噺「真景累ケ淵」(しんけ
いかさねがふち)のパロディじゃないでしょうか。こちらのほうはイヌもネコ
も登場しませんで、ややこしい恋と嫉妬と、殺した殺されたとの因縁噺。あの
ね、この圓朝の命日が8月11日で、この噺家さん、死んで100年ちょっとにな
るんですけど、数年前、東京・谷中のさんさ坂にある全生庵で100年祭があっ
たの。そのとき誰だったか忘れたけれど、これを演じたのを聞きました。「怪
談牡丹灯篭」や「塩原太助一代記」などとともに圓朝の代表作です。ちこ姫さ
ま、もし幽霊さんがお好きでしたら、この8月、東京へ出ておいでになりませ
んか。11日の命日を中心に圓朝まつりがあり、8月いっぱいはその全生庵で
幽霊画の展示会があります。これ、鬼気迫るものがあり、なかなか見モノなん
ですよ。ついでながら、「真景」とは「神経」をもじったもので、ほら、お化
けは「気」のもの、神経がおかしくなったときに出没するものというじゃない
ですか。それに、こんな話ですから、最初はあまり庶民には迎えられなかっ
た。ところが、これぞホンモノの話芸、怪談の白眉だといいだした人たちがい
る。当時を代表する知識人たちで、中江兆民、二葉亭四迷、幸田露伴、尾崎紅
葉、…正岡子規も夏目漱石も。山岡鉄舟がまた全面的に後押しするといった
調子で、こうなってとたんに人気を博したとされる噺家。とりわけその語り口
は二葉亭四迷の言文一致体に大きな影響を与えたとされています。
だけど、どうもこれはけんしろうとおみけさんの話とは関係なさそうですね。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆「人魚姫」と「赤い蝋燭と人魚」

〔To:ちゃこさん〕
ご夫婦での北欧の旅、垂涎のきわみです。デンマーク・コペンハーゲンといえ
ばアンデルセンの「人魚姫像」が思い出されるほどよく知られる風景ですが、
は~、いまはそんな感じなのですか。
つい先日のこと、仕事のなかで小川未明の『赤いろうそくと人魚』のことを書
きながら、あの物語の舞台とされる新潟・柏崎の番神(ばんじん)岬を想い、
併せて岩の上に横坐りするアンデルセンのあの「人魚姫像」を想いました。神
秘な幻想とゆたかなロマンに満ちた名作である点、人間の善意を信じた人魚が
人間の物欲に裏切られるという点でふたつの物語は共通しているようですが、
ヒューマニズムと社会悪へのはげしい抗議を含むという点でも、ひとつに重ね
ながら考え、愉しみました。
そこに観光用の像を置くのも人間の浅はかな智恵と欲望なら、それを薄汚れた
印象にしてしまうまわりの風光を生み出すのも、人間の弱さなのでしょうか。
そういう人間の欲望を越えて、物語って豊かで美しいですねぇ。物語が旅を一
段と印象深いものにしてくれるそんな時間をたっぷり持つことができるのも、
テューター活動をなさってこられた賜物なのでしょうね。

marmaid-3.jpg
〔追加情報〕 デンマークといえば、あの人魚姫像。だれもが知る有名な観光
スポットになっていますね。首都コペンハーゲンの北部、ランゲリニエという
海岸ぞいの遊歩道にあの像は見られます。ですが、よく海外旅行をする人が
「三大がっかりポイント」として挙げているのがそこ、でもあります。
像は意外に小さく、高さ80センチほど。それにその借景をなすのが、青い海原、
ではなく、無骨な造船所の風景で、古びた巨大なドックと途方もなくでかい
クレーンで、アンデルセンがえがきだした悲しいまでに美しいロマンを
まったく裏切るものという。
 1913年、エドワード・エリクセンという彫刻家による作。ところでこの像の
レプリカが札幌駅の構内にあるそうなのですが、ご存知でしたか?
――2004.08.28

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆萩原朔太郎
【参照】「小径を行けば…④前橋市/広瀬川 詩の道」

>がのさんと同郷の萩原朔太郎作「夜汽車」を木田元著「詩歌遍歴」のなか
に、見つけましたので声を出して読みました、〔円戸津 高志さん〕
     ----------------------------
この本,わたしは知りませんが,木田元さんは朔太郎から「夜汽車」を採って
いますか。
ご承知のように,朔太郎研究はわたしのライフワークのようなもの。この詩も
暗唱していてどこにいても口にできる詩篇のひとつ。じつにすばらしいリズム
をもつことばだとは思いませんか。わたしにいわせてもらえば,日本近代詩中の
絶品中の絶品です。

 有明のうすらあかりは
 硝子戸に指のあとつめたく
 ほの白みゆく山の端は
 みづがねのごとくにしめやななれど
  …
  …
 ふと二人かなしさに身をすりよせ
 しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
 ところもしらぬ山里の 
 さも白く咲きゐたるをだまきの花。

山科へ向かう人妻とのみちゆき。じつに悲しいドラマ,涙止まらぬシーンです
が,これはわたしの調べたかぎりでは,つくりばなし。想像上のみちゆきの相
手は初恋の女性,生涯を通じての思い人のエレナ(馬場ナカ)さん。たぶん間
違いないと思います。加賀・前田家につながるお嬢様たる稲子さんとの夫婦関
係がみじめなこわれ方をし,子を抱えて生活破綻を来たし,上州の家郷とも断
絶。そんなときにふと詩人の想念をゆすったのがこのイメージじゃなかった
か。
sakutaro-4.jpg

朔太郎というとき,わたしの口から真っ先に出てくるのは,これではなく「帰
郷」のほうです。妻は去り,幼い子ども(葉子さんと明子さん)をかかえて行
き場なく,やむなく怨みの郷里へ恥をしのんで帰っていきます。一つの人力車
に3人が乗り馬込の家を出るときには,妻は不倫相手の若い大学生とならん
で,じゃあね~,といって他人事のように手をふって見送る。北へ向かう夜汽
車が,痛んだ詩人のこころにどんなものだったか…。

 わが故郷に帰れる日
 汽車は烈風の中を突き行けり。
 ひとり車窓に目醒むれば
 汽笛は闇に吼えさけび
 火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
 まだ上州の山は見えずや。
 夜汽車のほの暗き車燈のかげに
 母なき子供らは眠り泣き
 ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
 嗚呼また都を逃れきて
 いずこの家郷に行かむとするぞ。
 過去は寂寥の谷に連なり
 未来は絶望の岸に向かへり。
 砂礫のごとき人生かな!
  …
  …
「砂礫のごとき人生かな!」これで完璧にまいっちゃうのよね。
 

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆梁塵秘抄

〔to:スミティさん 04.03.13〕
>「梁塵秘抄」後白河法皇がつくったんですか! 知らなかった!!
 あそびをせんとや生まれけん
いいほうにだけ理解していてそんな背景があったとは・・・
      ----------------------------
「梁塵秘抄」は大天狗といわれる後白河上皇が「つくった」というよりは,周
囲のものに命じて当時の俗謡をあつめさせ,つくらせたということでしょう
ね。平家か源氏か,朝廷はどうなる,という世がひっくりかえるようなとき
に,のんびりとこういう他愛もない(!)ものをつくらせるタヌキじじいぶり
がおもしろいですよね。
 あそびをせんとや…
をめぐっては,以前から学説が真っ二つに分れているようです。ふつうには,
親の目にうつる無邪気なこどものすがたであり,ほのぼのとしたやさしさが感
じられるとするもの。その一方,片田舎に生まれた少女が貧しさから口減らし
のため悪所に売られ,夜をひさぐ身となって何年か,いつか性病を移され肺病
にもかかってもう直る見込みはなく,近い死のときを待つばかりの不幸な女。
その女が2階の手すりにぐんにゃりとよりかかりながら,下の通りでキャッキ
ャッと遊ぶこどもらのすがたをぼんやりと見ている。自分の幼かったころを懐
かしむ思いとともに,いまは嬉嬉として遊んでいるこの子たちも,やがて自分
と同じように修羅の道へ歩む宿業を負っているであろうことを思い,それをあ
われんでうたった唄。どうもそちらのほうが現実味があるようで,わたしは好
きなんですが。まあ,解釈はどちらでもいいんじゃないでしょうか。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆春を詠う古歌(04.03.26)

春の野に すみれ摘みにと来しわれぞ
    野をなつかしみ 一夜寝にける ――山部赤人

トップページの写真は,ご存知,オダマキですね。
ミヤマオダマキ(深山苧環)と呼ぶ種類だそうですよ。
キンポウゲ科の多年草で,このほかにたくさんの種類があるようですね。
ふつうには5月の花とされているのですが,暖冬ということなのか,
一足早い季節ながら,わが家近くで見つけました。
ほんと,この世の清さをひとつに集めたような奇跡の色。
もう少し光線が強いと発色も一段ときれいなはずなのですが,
このところスッキリせず,春が足踏みしているようで…。
花ことばは,なんと「勝つ」。
つつましげに下を向いて咲く花には,
ちょっと似合わないように思うのですけれど,どうでしょうか。
オダマキは古歌のなかでは「もぢずり」(捩摺り)という名で詠われていて,

   みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
     乱れむと思ふ われならなくに

という百人一首にもとられている源融の古今集の有名な恋歌が見られますね。
それに,わたしはこのホームページのBBS,2月25日のところで
萩原朔太郎の詩「夜汽車」(または「みちゆき」)のことを書きました。

  ……しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
  ところもしらぬ山里に
  さも白く咲きてゐたるをだまきの花 (「純情小曲集」より)

この鮮烈なイメージとともにこの花はわたしの中に咲いています。
わたしは花や草についてそんなに詳しいわけではありませんが,
このところ,さまざまな雑事のなかで揉みくしゃの状態にあり,
このホームページを振り返るいとまもあまりありませんでした。
ところが,ふと目にしたのが岐阜のちゃこさんが書いておられる
土筆のこと。すばらしい文章ですね。最初に挙げた歌
「野をなつかしみ ひとよ寝」たくなる思いへ誘ってくれるような…。
そんなわけで,わたしもふらりと草花のことを書かせてもらいました。

わたしにとっての草花は萬葉集とともに親しむというもの。
わが家近くにある大学のキャンパスには
萬葉学者たちによってつくられた「萬葉の小径」があります。
ここでは萬葉集にあらわれた160種ほどの花や草木のうち
150種を集めて植栽しています。
かつての一時期,わたしもヴォランティアで
その手入れのお手伝いをしたことがありました。
だれもがこころやすく中に入って見ることができ,
千数百年前の日本を生きた萬葉びとの思いと生活をしのびつつ
四季それぞれに萬葉秀歌と植物に親しむことができます。
最近行っておりませんが,この季節,よもぎ,せり,れんぎょう,
サクラ,シュンランなどなど,春の息吹きに燃えていることでしょう。
せっかくですから,ここでいくつかの歌を。

   もののふの八十をとめらが汲みまがふ 
        寺井のうへのかたかごの花 ――大伴家持

   石(いわ)はしる垂水(たるみ)のうへのさ蕨の
        萌え出ずる春になりにけるかも ――志貴皇子

   道の辺の尾花がしたの思草
        いまさらになど物が思はむ ――山上憶良

   夏の野の茂みに咲ける姫百合の
        知らえぬ恋は苦しきものぞ ――坂上郎女

「かたかごの花」はカタクリの花(ユリ科)のこと,
「思草」とはナンバンギセル(ウリ科)のこと。
いかがでしたか,ふだんは英語の世界にいることの多いみなさん,この機にちょっぴり日本の清麗なことば,萬葉びとのこころの風光にふれていただくことができましたら幸いですが。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆コールズワージー『りんごの木』(04.02.19)

ゴールズワージーJohn Galsworthyといっても,あまり知る人はいないかも知れない。美智子妃が卒論のテーマにした「フォーサイト家の物語」を書いた作家といったら,あっ,そうか,と思い出される方も。
 地域活動としてやっている「ふれあい読書会」は,きょう,この英国の作家の「りんごの木」(岩波文庫,新潮文庫)をテクストにしておこなった。
 きのうが小学生,きょうは中高生と地域の旧世代の人びと,…と,さまざまな層とのふれあいの日々である。
 率直にいって,それほどすぐれた作品とは云いにくい。目もあやな物語ではない。魅力といえば,イギリス南西部の半島,ケルトの民が多く住むウェールズ地方の,精霊がただようような澄んだ空気,牧歌的なリリシズムで覆われた,田園的,詩的雰囲気と,朝露とも云うべき愛のはかなさ,素朴なヒューマニズムといったところか。そう,デヴォンシャーの荒野地帯(ムーア)の素朴な美しさの描写はチェーホフのものを思わせるし,絶対とされたもの(愛)がアッという間に崩れ去るそのはかなさは,チクリと胸に来る。
 うつくしい村娘ミーガンの清らかな,しかし一途なはげしい愛,それとイギリス上流階級に巣くう旧弊な西欧的知性との相剋があざやかにつづられた物語。自然も人のこころも水彩画のように,いや,水晶のように透明である。
 エピローグで,老いた農夫が杖にすがり,パイプのタバコをくゆらしながら,道端の芝塚……18歳の農場の娘ミーガンが永い眠りをねむる小さなお墓……のいわれを静かに語る場面をわたしが声にして読むうち,あっちで,こっちで,嗚咽がおこる。はなをすする音も…。14~15歳の女の子たち,60代,70代のご婦人たちがハンカチで涙を拭く。
 まったく予期しないことだった。いつものように,作品の鑑賞に先だってわたしのほうから30~40分ほど話をする。今回は,作家とその時代のこととともに,神話のなかの「りんご」の話をした。ギリシア神話のさまざまなところに登場するりんご。美の妍を競う女神たちの審判にあたり,羊飼いの少年パリスが使ったのがりんごだった。それに,ヘスペリデスの楽園の話。ゼウスの妻のヘラが,結婚の記念に他の女神たちから贈られたりんごの木の苗を遠い西方の島に植え,ヘスペリデスと呼ばれる三人の歌姫に番をさせます。その美しい三姉妹のニンフ(妖精)を援けるのが,百のアタマを持つ龍ということになっていますね。
 ゴールズワージー描く「りんごの木」は,まさにこの神話が透かし絵になっていると思われる。たとえば,この百のアタマの龍は,霊のようにしてときどき現われる「ジプシーのお化け」である。つまり,如何に望んでもついに行き着くことのできないところとしての「りんごの木」の園であり,だれがどれほど手を伸ばしても届かない「りんごの木」の実,運命を引き裂く不思議な木というわけである。
 作品を読み解くカギとなるこの神話をわたしが知ったのは,1987~88年のころ,ギリシアの英雄伝説と神話(SK21「プロメテウスノ火」)の制作へむけて100冊以上におよぶ関係図書を読みあさっていたときのことである。そのころ読んだものがこんな形で活かされるというのを知るのは,望外の喜びである。

 新しい芥川賞受賞作をこれ以上批判するのも愚かなこと。「未来なんて見えない」でテキトーにその刹那,刹那を下等な虫のようにして生きる19歳のルイという少女と,純情無垢でひとを疑うこともしらない18歳の少女ミーガンと。並べて比べるまでもない。もう,口にするにも値いしない軽さを見せる異星人。「古い」といわれてもいい。世代をいくつもまたいで胸をうつ良質な文学作品は,視線を下げてそんなところに目をむけないでも,大きく目を開けばいくらでもあるということ。不況をかこつ出版社の卑しい商業主義的陰謀と用紙の浪費による環境破壊には,金輪際,巻き込まれまいぞ。


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◆サン=テグジュペリ『星の王子さま』(04.01.19)

 近隣の中学校に招かれ,特別授業に何かしゃべってくれという依頼を受けたことがある。学校への地域参加の一環である。そんなとき,二校とも同じテーマで話したのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』のこと。ファンタジー文学の読み方ということで,よく知られたこの作品を軸にして話した。
 この世代の子どもがいちばん共感する部分がどこかはわかっている。まずは導入として彼らに媚びて,6つの星めぐりのあたりから。へんてこりんなおとなたちの硬直的な理性を次つぎに告発していく王子の質朴さは,自分たちに理解を示さない周囲のおとなたちへの痛快な復讐としてすっぽり彼らには受け容れられている。しかし,それ以外のところはただキレイっぽい,純粋っぽい…といった印象のみで,あまり理解されていないことが多い。
 ところが,これがただの,子どもの純良な感性に媚びたキレイごとのファンタジーではなく,背後には作者の悲壮なまでの非戦の思いや,自分の小さな星に残してきた一本のわがままなバラ,すなわちコンスエロ=スンシンさんという,ちょっとブッ飛んだ奥さんへの屈折した愛情を映している,などと読み解いていくうち,中学生たちの目はパッと輝きを見せる。たとえば,ま~るいもののまわりから3本のバオバブの木が生えているあの絵を思い出しませんか。あれがどういう絵かというと,一本はドイツのナチズムの木,一本はイタリアのファッシズム,そしてもう一本が日本の帝国主義をあらわし,それが地球をガシッとまわりから掴み,押し潰そうとしてはびこっている,…そのことをあのフランスの実存主義作家はいいたかったんじゃないか,という勝手な読み方を示す。びっくりはするものの,残念ながらそれに対する反応は薄く,こんなときたくさんの物語のなかで育っているラボっ子たちだったらどんな反応を返してくるのだろうな,と思ってしまう。
 そういえば,これまで,ラボのなかでこの『星の王子さま』が話題になることがなかったな,とふしぎに思う(ライブラリーに,という意味ではない)。かつて,ギリシアの神話と英雄伝説のラボ・ライブラーをつくったとき,「ペルセウス」の吹き込みをやってもらった岸田今日子さんと話した折り,彼女の好きなはなしとしてまっ先に挙げたのがこの作品だったことを,いまふと思い出す。もっとくわしく聞いておけばよかったな,といまになって後悔しているが。
 ※サン=テグジュペリ『星の王子さま』についてのわたしの小論文があります。ご希望の方は  お申し出ください。

◆〔Play with meさんより(2004.08.18)――〕
 王子さまは星めぐりによって人間…大人を多方面から眺めているのですね。「地理学者の星」はいちばん陥りがちな点を鋭くついているなぁと感じます。直情的で自分が触れて感じることが大好きな私でもどこか知らず知らずに地理学者のようになっているのでは?と反省するところが多々あります。辞書や図鑑など調べなくてもインターネットを開けば手軽にあらゆる情報が手に入ります。うっかりするとその手軽さにはまり、「地理学者」になりそうです。正に現代人への警告ですね。
 作者サン=テグジュペリが見本ずりを1冊もって帰国したのは私が生を得た年です。そんな頃にこの作品が書かれたというのも驚きです。今に通じることばかりで、反省シキリです。また、ラボにおいては「ひとつしかない地球」が発刊され、あらためて「星の王子さま」に出会い、深く考える時を得たのは偶然と感じています。
 都度繰り返している王子さまの言葉「かんじんなことは目にみえないんだ」。本当にそうですね。
「愛してやまない1本のバラの花」を私は本当に持っているのだろうか? それに気付いているのかしら? と、ふりかえらせてもらった「星の王子さま」でした。
星の王子さまが地球から消えた時の様子は何度も読み返してみました。「音もなく木が倒れでもするように、しずかに倒れました」その後はどうなったの? とかんがえながら。王子様の足首の傍にキラっとひかった黄色い光に乗っておおじさまのほしへ、ひとつだけのバラの花の待つ星へかえったのでは?と想像します。
「ひつじの入った箱」はどんなにでも考えられる豊かな泉のように素晴らしいですね。こんなすみきった創造力を忘れないようにと思います。それはとりもなおさず、大人になってしまったから思うことなのでしょうね。いろんなことを静かに考えるチャンスをありがとうございました。

◆〔「星の王子さま」もうひとつの秘密(2004.08.18)――〕
 掲示板に書き込まれたPlay with me さんの「すみきった想像力」のことばに導かれて、また『星の王子さま』の世界に久しぶりに立ちもどってきました。「たいせつなことは目に見えない」という主旋律によって展開される深遠な哲理と寓意のこめられた文学的宇宙。ここにはたくさんのナゾが秘められ、興味は尽きません。ほんとうに、子どものしなやかな感性、自由な心を持ちつづけているひとなら、おもしろくてならない文学作品といえるのではないでしょうか。
 読むたびにそこに埋めこまれた秘密が見えてきます。事実、あらゆる作品は、それが書かれた時代・政治状況、または作家の生き方とその内面、それらと無関係であることはできません。とりわけこの童話が書かれたころは言論統制のきびしい時代でした。1940年6月にパリはドイツ軍に占領されています。その傀儡としてペタン元帥によるヴィシー政権が樹立し、フランス北部はドイツ軍に、南部はヴィシー政府が管轄、出版物にはたいへんきびしい検閲がはいり、言論界は暗い「沈黙の時代」にありました。バーネットの『小公女』でさえ禁書になったくらいです。ですから、悲しいほどに美しいこの名作も、祖国を離れたアメリカのニューヨークで書かれ、「たいせつなことは目にみえない」というように、「いちばんかんじんなところは下に深く埋めて隠し」、カモフラージュして書いているわけですね。。
 で、今回、サン=テグジュペリが『星の王子さま』を通してもっともかんじんな主張をいうのに、どうしてキツネの口に託したのかということです。キツネといえば、日本の民話や昔話だけでなく、世界のおおよそあらゆるところで、信用のできない、ズル賢い嫌われものです。崇高な哲理を語るにはふさわしくないマイナスイメージのキャラクターです。そのキツネにたいせつなことを星の王子さまに教える役割を負わせている。あまり信用ならぬそんなものに! なぜか。
 ここに絶望的な人間不信にある作者のすがたが見えはしないだろうか。諷刺的にえがかれている六つの星で出会うわけのわからぬ、しかしドキッとさせられるほどリアルなおとなたち。それに象徴される人物たちにホトホトうんざりしている作者の顔が見えます。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」といい、王子に、一本のバラの花のもとに帰ることを説き、自分の星に帰ることを決意させます。また、キツネはこうもいいます。
「人間ってやつぁ、いまじゃ、もう、なにもわかるひまがないんだ。あきんどの店で、できあいの品物を買ってるんだがね。友だちを売りものにしているあきんどなんて、ありゃしないんだから、人間のやつ、いまじゃ、友だちなんかもってやしないんだ」
 ほんとうに自分のアタマで考えることをせず、規格品ばかりのなかで生きているわたしたちのいまの生活、それぞれが利己的で、人間関係がうすく、ほんとうの友だちをもつことのすくないいまのようすを語っているようでもありますが、それとは別に、これがこの作家が生きていた時代の状況であったということですね。
 王子が毒蛇にわざと足を噛ませて、死という形で自分の星に帰っていったように、サン=テグジュペリも、この作品を書きあげたあとすぐ、危険を承知で無理やり長距離偵察部隊に復帰し、コルシカの基地から飛び立って、そのまま帰らぬひとになりました。もう覚悟を決めていたんですね。それくらいこの人の絶望は深かったということでしょうか。

◆〔Play with meさんより(2004.8.18)――〕
 何度も読み返すたびに「星の王子さま」の伝えようとすることが深まってきます。わがままなバラの花だけれど、王子さまを愛しているのがわかり、王子様も知っているんだなーと感じます。愛していながら素直に表現できないバラの花。妻、コンスエロ・スンシンさん。

◆〔2004.08.18――〕
 高慢チキでわがままなバラに嫌気がさして自分の星を飛び出してしまう星の王子さま。なんだか、気の弱い(!)わたしのようで身につまされます。サン=テグジュペリについてはいまも世界じゅうが神格化しているものですから、うっかり悪口など云えないのですが、にもかかわらず、ずうーっと気にかかっていたことの一つがバラと星の王子さまとの関係。それについてはすでに「わがままなバラと 光に飢えて空高くのぼっていった 星の王子さまと…」で私見をまとめさせていただきました。この作者の奥さんだった中米エルサルバドル生まれの情熱的な女性、コンスエロ・スンシンさんの回想録『バラの回想』が明らかにしていくサン=テグジュペリ像とともに、ひたすら待つことに耐えたバラの孤独に目を近づけていただきました。名門貴族の誇りとトゲもつ女と。いや、もっと別な見方をするひとも多いことでしょう。少し時間を置いてまた読み返したら、まったく別なものがそこに引き出せるかも知れません。そういう作品ですよね、これは。

◆1本のバラのために人は死ねるか〔2004.09.06〕
「星の王子さま」でPlay with meさんがたいへん気になさっていたことに、王子さまの死に方がありましたね。王子さまの星が1年たってちょうど頭のうえにきたとき、ふしぎな方法によって、自分の星に帰っていきます。
「王子さまの足くびのそばには、黄色い光が、キラッと光っただけでした。……一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした」
小さい王子は毒蛇に足を噛ませて、死んで自分のからだを軽くして(霊となって)、棄ててきた自分の星に帰っていきました。ここらへんは、子どものための文芸を遠く超えたむずかしい哲理の働いているところでしょう。帰っていく星に待っているものといえば、一本のバラだけ。美しいけれど、トゲを持ち、わがままで、あまり親しみのもてないバラ。そこには、1年にわたる星めぐりの体験を語りあうべき友だちなんていません(ラボの国際交流帰国報告会のようなわけにはいきません)。そう、そこには神もいなければ天使もいません。このあたりがほかのメルヒェンと決定的にちがう救いのないところで、なんともいえぬ寂しさを読むものに残します。星の王子さまの永遠とは何だったのか。
それがこのユニークな実存主義作家サン・テックスの求めた固有の永遠というものだった、…神なき世界への存在の超越というものなのでしょう。存在の果てにはすべてを棄て何も残さないという思想。真空のように透徹した世界へのあこがれが冷たく冴えざえと光っている。

「…しかしてわれ永遠に立つ、汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」(ダンテ「神曲」地獄篇より)

すべての欲を棄てて永遠にはいるという潔い孤独。Neant! (Nothing!)
王子のこの絶対的な孤独と比較するものがあるとすれば、アンデルセンの「人魚姫」だろうか。愛する王子のために泡となって海にきえていく美しい人魚姫のすがたが印象あざやかに髣髴する。そしてまた、「幸福な王子」とツバメのあいだの無償の愛、澄みわたる自己犠牲の愛も。

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