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0705
古典芸能 ――その1

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〔4〕能「采女」
   ――美女も超えられぬ封建制度下の恋――


奈良と郡山市はこの「采女」伝説が縁で姉妹都市となりました。采女の出身が当地であったと。毎年夏には「うねめ祭り」が催されます。〔ドロシーさん 2005.09.01〕
               ☆
〔To: ドロシーさん 2005.09.01〕

   采女の袖吹き返す飛鳥風
       都を遠みいたずらに吹く  ――志貴皇子(萬葉集)

ほ~、奈良と郡山が姉妹都市。いつもながらドロシーさんには意外なことを教えなれ、びっくりいたします。
お能「采女」についてはいろいろな思い出があります。ある時期、能楽鑑賞会に入るなどして集中的にお能を観たんですね。その契機は東京支部のFテューターでして、「宝生閑が出るのよ、一度観ておかなくちゃだめよ」という弁。そして入会後最初に観たのが「采女」。なんの予備知識も心構えもなく飛び込んではみたものの、これがさっぱりわからない。2時間にわたって旅の僧(ワキ、宝生閑)は能舞台にあがってはいるのですが、ほとんど動かない。ことばはのろのろとしてちっとも前へ進まない。序の舞にきてようやくほんの少しばかり動くという舞台。観能はこれが初めてというわけではありませんでしたが、ま~、能ってこんなに退屈なものだったのかと、われながらあきれたものでした。しかし、モーレツ社員をやっていた時期でもあり、なんだかその空白の時間がこれまでどこでも経験したことのない自由で解放された時間なんですね。自分のなかを空っぽにするこのひとときがえもいわれぬ心地よさなんですね。仕事のあとの疲れを抱えての観能。ほとんど居眠りばかりなのですが、それがなんとも心地よい、ぜいたくな眠りなんです。昭和55年のこと。以来4~5年、月1回ずつ(3分の1は仕事の都合で行けませんでしたが)公演にふれ、さまざまな曲を観てきました。
世阿弥の曲とされるこの「采女」。世評は大変高いのですが、いいものなのか、つまらないものなのか、ほんとうのところはわたしにはわかりません。で、采女(うねめ)という存在ですが、これは地方の豪族が朝廷への服属のしるしとして、容色すぐれた娘を人身御供として大和朝廷に差し出したものだそうですね。帝のそばにいて食事の世話から夜の愛のなぐさみまでいろいろな雑用をしてやる立場の美しい女性。その美女が帝の寵愛のうすくなったのを怨んで猿沢の池に入水するという話。
    吾妹子が寝ぐされ髪を猿沢の  
        池の玉藻と見るぞかなしき
なんていう帝の側からの謡も添えられます。その哀しい運命を生きた采女さんの出身地についてですが、曲のなかにこんなことばがあります、「葛城のおほきみ、勅に従ひ陸奥の、しのぶもぢずり誰も皆、こともおろそかなりとて、設けなどしたりけれど、…(略)…されば安積山(あさかやま)、影さへ見ゆる山の井の、浅くは人の思ふかの、こころの花開け…」云々。お近くに安積山というのはありますか。猪苗代湖から水を取って郡山市を貫いている「安積疎水」については聞きますが、「安積山」については耳にしません。その山があるとすれば、どうやらそのへんがふたつの市を結ぶ根拠になっているような気がしますが。
                ☆
安積山――実際、郡山市内北部にある、「安積山公園」がその地である、といわれています。
  采女の袖吹き返す飛鳥風
      都を遠みいたずらに吹く  ――志貴皇子(萬葉集)
この歌も、とても好きな歌です。つい数年前まで、人の往来の激しかった都が遷都され、風のそよぎさえもわびしく感じられる、その風景を思い描けました。高校時代から好きだったこの歌の「采女」が、ここ郡山では、夏祭りや通りの名称に普通に使われているのを、不思議な縁だな、と思っています。〔ドロシーさん 2005.09.02〕


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〔3〕能「安達原」
   ――劫を経た老いのすがた、孤独な鬼――


【To: ドロシーさん 2005.08.27】
「安達原」は、ご承知のように、女の業を生きる宿の女主人と旅の山伏との凄絶なひとときを描くもの。女のなんとも哀しい孤独と人間の二面性とを、彫り深くあらわす名曲で、その幽玄の世界は生きることの悲しみとはかなさにあふれ、怖さとともに、涙をさそうものがあります。
                   ☆
「安達原」は、福島県説が有名ですが、実は東京都足立区が伝説の発祥である、との説もあるようです。〔ドロシーさん 2005.08.29〕
【To: ドロシーさん 2005.08.29】
東京・足立区説については知りませんでしたが、資料には奥州安達原とあったり陸奥安達原となっていたりします。おっしゃるとおり、福島県の安達太良山の物語とするのがもっとも適切ではないかとわたしも思っております。
「安達が原の鬼婆」として一般によく知られる説話をもとにした作品。観世流では「安達原」ですが、他の流派が演じるときは同じものを「黒塚」としており、わたしはこちらで観ています。
紀州の那智からはるばるやってきた山伏(ワキ)の一行が、山深いところで行き暮れる。そこにあった粗末な一軒家に一夜の宿を求める。許されて泊めてもらうことになりますが、そこの老女(前シテ)が繰れども繰れども尽きない糸の長さにあわせて、老いのわびしさ、苦しさを語ります。凍えるような寒い夜の語り。老女は話を途切り、火にするたきぎを取りに外へ出ます、「ぜったいにむこうの閨(ねや)は見ないように」と云いおいて。このへんは、ギリシア神話のオルフェウスの話であり、イザナミ・イザナキの話、「みるなの花ざしき」の展開に似ていますね。禁を破るのは山伏の従者(アイ)で、閨で見たのは累々たる死骸の山。さてはここがうわさの鬼の住処かと、山伏一行はほうほうのていで逃げます。薪を背負った女の鬼(後シテ)がそれを追う。
わたしは、これはただに恐ろしい鬼婆の話ではなく、もっと文学的なものと考えたいのですね。鬼は男どもをたぶらかして喰おうとしていたのではなく、はかなく命を長らえた老女が祐慶というすぐれた山伏に出会って、ふと恋してしまったのではないか、と。その根拠ですか。この鬼女は白頭であらわれますね。能では、黒頭の鬼は鬼本来の凶悪さをあらわしますが、白頭のほうの鬼は劫を経た老いをあらわし、悲しみや孤独や、あるいは何かの罪の果てに鬼に変身したと考えられるからです。ですから、最後に山伏祐慶の法力で祈り伏せられる鬼が哀れで哀れでならないんですね。
           ----------------------
先回の書き込みで四面楚歌のことにふれていただきました。思い出せばこれについても能の名曲があるんですよ。ひとつは「項羽」。これでは覇王項羽の最期の場面とともに、虞妃との哀しい別離、そして彼女の自決が語られますが、死んだ項羽の化身(後シテ)が船頭のすがたであらわれ、船に乗った客から船賃として虞美人草を求めるという、ロマンに満ちたすてきな話。また、こちらはわたしは観ていませんが、土岐善麿はこれに飽き足らないとして「四面楚歌」という曲を書き、虞美人のほうにぐっと比重をおいたものになっているとか。

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〔2〕狂言「節分」「泣尼」
――笑いの生理、狂言のおかしさ――


能や狂言のおもしろさ、って何でしょうか。
むずかしいですね。
それを細かくくずして分析し、解説的に語っても、ちっともおもしろくない、というか、
わたしには興味がもてないですが、あえてひとつ挙げるとすれば、
ひょい、ひょいと思いがけない調子で飛び出してくる美しいことばにふれる、
そんな喜びではないでしょうか。狂言の演じられる会場でまず聞く
「ようこそ、ござったれ!」
こんな声をかけられるだけで、来てよかったと思ってしまう。
きょう、山本東次郎一門の大蔵流狂言を観てきました。「節分」と「泣尼」と
「秀句傘」の三曲。
「節分」は観たことがあるという方がおいでかもしれませんが、
いずれもめったに観ることのない珍しい曲ですね。

狂言の笑いはじつにシンプルです。アホらしいくらい単純で
荒唐無稽なすじの運びのなかに、
人間のだれもがもっているむごさ、ズルさ、愚かしさ、妬みといったものをとらえ
みごとに表現して見せてくれる。ですから、説明や解説は不要で、
笑いの型を分析し分類するようなことは学者先生や研究家にお任せすればよく、
わたしたちは、その作為のない自然な笑いの世界へ
自分をチャラチャラ飾る見栄や気取りの装身具をすっぱり棄てて
はだかのまま飛び込んで、好きなだけ楽しめばいいということになるでしょう。
ほんとうにおもしろいです、狂言は。理屈なくおもしろい。あえていうなら、
シンプルな笑いにこめて、人間の根元的、本質的なものへの真摯な問いかけが
そこにあることをピタリつかむことができれば、
狂言はわかったといえるのかも知れません。それがなかなか…。
きょうの演目すべてについて述べるゆとりはありませんので、一例を。

『節分』に登場する鬼は、たしかにおそろしげな形相をしていますが、
これが今どきどこにも見られないくらい純情、純朴です。
腹を空かして立ち寄ったある家では、ご主人が出雲大社におしごもりに行っていて、
若い嫁さんひとりが家を守っています。これがたいそうな美人ときています。
遠い異境、蓬莱の国からやってきたという鬼が、なんとまあ、この人妻にほれてしまう。
あの手この手で「伽」(とぎ)をしようと口説くが、
つめたく、「腹立ちや、腹立ちや」「出てうせい、出てうせい」と追い出される。
(「伽」の意味はおわかりですか。お伽噺の「伽」であり、夜伽の「伽」ですね)
そして、この世のものでないはずの鬼が、室町小唄(当時のはやり唄で、
恋をする若者がほれた女性に向けて歌ううた)を6曲もうたう。相当しつこい。
しょうもない唄である。ひとつだけ。

しめじめと降る雨も、西が晴るればやむものを。
なにとてか我が戀の、晴れやる方のなきやらん。

嫁さんもだんだんその気になったか、あるいは妙な欲が出たか、知恵をはたらかせて
ついに鬼をたぶらかし、その宝である「隠れ簔」「隠れ笠」「打ち出の小槌」を
そっくり奪いとり、ついに無一物にして鬼を退散させてしまう。
かわいそうな鬼。鬼のまぬけぶりを観るものは笑うわけだが、
それにしても、その必死さがなんともかわいげな鬼である。

『泣尼』についても、う~ん、スペースがないけれど、ちょっとだけご紹介したいなあ。
ヘタの長談義をするとされる法師が、めずらしく法話を頼まれる。
感動して泣きながら聞いてくれる聴衆のサクラとして、尼を抱きこむ。
老いた尼さんで、話のはしばしで泣いてくれればお布施の半分をやろうとの約束。
ヘタの長談義がはじまると間もなく、尼のからだが右に左に揺れだし、
感動してむせび泣くどころか、居眠りがはじまる。
そしてついには、コトッと倒れてそのままほんとうに寝てしまう。
法話を語る僧と、それにはまったく関心のない尼のあいだにかよう空気が
絶妙な味なのである。みなさんに見せたいくらい、おもしろかったですよ。
              ☆
純良な笑いを数多く体験したいものです。日本人の最もプリミティブにして
最も洗練された笑い、日本人の生理的感覚に合った笑いが狂言にあります。
狂言でも古典落語でも、自分の自然な生理感覚にそって笑う、
その経験をくり返し積むことが大切だと思います。そこにしか本当の笑いはない、
というか…。


★スミティさん(2004.10.14)
>狂言は人間のさまざまな欲望 食欲、性欲、権力欲などを認めて、見事
にスマートに、明るく笑いにしている、すごいなあと今回あらためて思
いました。ついでにあの舞台の構図。この衣装、この色、この位置。何百年の
間守られてきた「形」は、納得。「美」になっているんですよねえ。動かせ
ないなあ、と。
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狂言を観るたびに思うことですが、狂言の世界にはへんな山っ気はありません。
もったいぶった神秘性もなければ、政治性、宗教性もありません。
すこぶる謙譲な庶民性、日常性のなかにあります。あとに何も残らない純粋な笑い、
というのでしょうか。決して、まわりくどい知性に訴えるようなものではなく、
人それぞれの柔軟きわまりない情調という近道を通って、じかにわたしたちの
こころに語りかけるものであって、そこへ導いてくれるのが「様式」なのでしょう。
これを誤解して、神聖なる舞台上で繰り広げられる特別な大演劇のように
思ってしまうと、もう、ちっともおもしろくありません。だって、
そこは博物館ではなく、すぐれて今に生きている人間劇の世界なんですから。


★スミティさん(2004.10.15)
狂言って、読んだり聞いたりしたのでは、なかなかその面白さは分から
なくて、見たり、やったりする方がいいですよね。私も高校時代、堅苦しい古
文で最初に出会うのではなく、本物を見たかったなア。
----------------------------
そうでしたか、スミティさんにしても、教科書でふれる古典文学はつまらなか
ったですか。
教室を離れ、ラボをも離れて観た野村家三代の狂言「うつぼざる」に、
思いがけないこころの解放とほかほかした愉しさを覚えたとして、さて、
日ごろがんばっておられるテューターのみなさんにお尋ねしてみたいことがあります。
たとえば、ご自身、「柿山伏」をほんとうに笑いましたか?
「三人のおろかもの」を生理の底から笑い尽くしましたか?
ラボ・パーティにあって、笑ってばかりいて英語のお勉強になるか、といえ
ば、…ならないでしょう。笑いなんぞ、人が生きるうえで何ほどのものぞ、と
いわれれば、…何ほどのものでもないでしょう。
しかしまあ、ご存知のように、ラボ・ライブラリーはなかなかうまくできてい
まして、上記のようなものもちゃんとはいっています。狂言、とまでは限って
いわないでも、その周辺のものに、もっとも自然な笑いの原質がある、いや、
人間の原質がそこにある、…なんて鹿つめらしく云おうものなら、さっそくみ
なさんに嫌われ、反発をくらうことになるのでしょうけれど。
でも、こうしたものを「教科書」にして子どもたちに教えこむことは、できる
だけお控えいただきたい。わたしたちが中学校や高校の教室で古典を教えこま
れたときと同じにしないでいただきたい。
本来、わたしはラボのみなさんにそんなことを云う立場にはありませんが。
そう、「柿山伏」は無理に「教え」ないでもいいんじゃないでしょうか。「三
人のおろかもの」を、みなさんの洗練された知性で過剰につっつきまわすのも
どうでしょうか。子どもそれぞれのしなやかな情調をもってじかにふれてもら
えば十分。いいじゃないですか、英語教育につながらなくっても。さまざまな
課題に縛られ追いまわされている子どもたち、いつもいつもいい子を演じる
ことを求められている子どもたちが、ふっと自分のこころにウソをつかない
ひとときをもつ。それはかけがえのない時間じゃないでしょうか。加えて、
そのなかで、自然でゆたかな表現力、ひとに楽しく訴求する力の源泉を汲み
とってもらえるとすれば、それこそが、ラボ。
だめでしょうか、そういうのは。


★Play with meさん〔2004.10.20〕
>関西の今年の総会で「蝸牛」を舞台ではなく、畳のお部屋でテューターがエ
プロンシアターのように囲み、演じていただきました。おもしろかったな~。
おなかを抱えて笑いました。息のかかる位置で、気取ることなくみんなの気持
ちが引き込まれていきました。
----------------------------
狂言「蝸牛」のおかしさについては、いつだったか、わたしはどこかで書いた
ような気がしますが(「つれづれ塾」のページ?)、多分これまでに4回はこ
の曲を観ていると思います。うち2回は野村萬斎の演じるもの。ほんとうに、
これ、絶品ですよね。「でんでんむしむし、でんでんムッシムシッ!」単純な
このことば(歌)のくり返しと動きのなかに、人間が業(ごう)のようにして
持つズルさ、むごさ、強欲、貪欲、イタズラごころ、他をやっつける快感、や
さしさ、いたわり、…そんなものが見事に表現され、また来るゾ、また来る
ゾ、そら来た! と、その反復ごとに腹の底から笑いころげてしまう。眉根を
寄せてむずかしい芝居を観ているのとは違います。
とりわけ、こういう芸能は立派な能舞台でないほうがよいような気がします。
緑に囲まれた広場の一角につくられた急造の仮設舞台で演じられる薪能の
スタイルがいい。スナックをポリポリかじり、鼻をほじりほじり、ガキが
がさがさやるのを迷惑に感じながら、お尻にあたる土のひんやりした感触も
たのしみながら、好きなかっこうで、好きなだけ笑う。品性卑しいわたし
なんぞはそんなのがいいと思うのですが、教養ゆたかな、育ちよろしい
皆さんにはどうでしょうかね~。



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〔1〕 能「蝉丸」

semimaru-b.jpg

 お能はもともと,余分な部分を極限的に削いで,削ぎに削いでシンプルにつくられるもの。ですから,これを根掘り葉掘り解説するというのは愚かなこと。説明は不要,観てもらえばそれでよい,という性格のもの。ここは最低限の説明にとどめましょう。
 ひとことで云うなら,落魄した貴種の再会と別離のものがたりで,その悲しい宿業に涙をしぼりながら観る曲。醍醐天皇の皇子・皇女をめぐるものがたりで,第四皇子の蝉丸は,不幸なことに,生まれついての盲目でした。子の不具を恥じ,それを不吉とした天皇はこの皇子を臣下に命じて山の奥に棄てます。棄てられてみると,身のまわりに残されたのは簔と笠と杖,それに1張の琵琶。ごく粗末な藁屋の庵にあって,琵琶を抱いて泣くよりない日々がつづきます。もうひとり,第三皇子が逆髪(さかがみ)です。彼女がシテで,これをFさんが演じています。この逆髪もまた不幸な宿業を背負って生まれてきた女で,生まれながらに髪がつっ立っていて,発作性の狂気をもっています。体裁を重んじる天皇一族はこの女も宮中から追放しています。都を遠く離れて乞食のように路頭にさすらう身の上。どういう神の引き合わせか,この姉弟が逢坂山の草庵で邂逅,しばしお互いのきびしい境涯を嘆きあったのち,泣く泣く別れます。このあたりがクライマックスで,観るものの涙をしぼります。

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筋立てといえばそれだけ。洗練されたことばがたいへんきれいです。
シテが登場,橋がかりでいいます。――それ花の種は地に埋もって千林の梢に上り 月の影は天にかかって萬水の底に沈む。これらをば皆いづれをか順と見 逆なりといはん。我は皇子なれども 庶人に下り 髪は身上より生ひ上って星霜を戴く。これ皆順逆の二つなり 面白や。
地謡が逆髪を語ります。――今や引くらん望月の駒の歩みも近づくか 水も走り井の影見れば 我ながら浅ましや,髪はおどろを戴き黛も乱れ黒みて げに逆髪の影映る 水を鏡といふ波のうつつなの我が姿や。
逆髪が弟の蝉丸に逢うところです。――ふしぎやこれなる藁屋のうちよりも 撥音(ばちおと)気高き琵琶の音聞こゆ そもこれほどの賎(しず)が屋にも かかる調めのありけるよと 思ふにつけてなどやらん よになつかしき心地して藁屋の雨の足音もせで ひそかに立ち寄り聞き居りたり。

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 ふしぎな感覚にとらわれるのは,蝉丸が,盲目で生まれたばかりに皇子の装束を剥ぎ取られ僧形(そうぎょう)の身に追いやられ,ついには山の奥に棄てられるという非業の身ながら,抵抗は見せず,いやに達観していること。前世で業悪なおこないを働いたむくいがこれで,父である天皇の政(まつりごと)の邪魔になってはならないと,身を棄てることをすんなり受容しているすがた。この仏教的諦観が日本人のこころの原郷にはくっきりとあったことが知れます。因果応報,輪廻転生の伝統的な思想もここに。しかし,仏教的あり方といわずとも,ひょっとすると,以前にこの「ひろば@」のどこかで書かせてもらったカタツムリ精神,ガンジーの精神にも通じているような…。ずいぶん勝手な,いい加減な見方でしょうかねぇ。

semimaru-d.jpg

 シテの逆髪を演じたFさん。舞いはすばらしいものでした。もう,カッコよく,カッコよすぎです。たいしたものだとホ~ッと感嘆するのみです。
で,せっかくのいい気分のところですが,これもふしぎな符号を見つけてしまいました。かつてラボに大きな津波が襲い,組織分裂による破れが生じて存亡の危機にさらされた時期がありました。そんなとき,この組織を守りぬくために,文字どおりの櫛風沐雨,先頭に立って,髪を雨でべとべとに濡らし,髪を逆立ててがんばった一人こそFさん。わたしはそのすがたをよく見,ともにその痛みと労苦を分かちあった一人です。その人がいま,能の幽玄の世界で「逆髪」という狂女を演じているというめぐり合わせ。能の世界に入ってすでに40年余になるそうです。こういう人もいるという,ラボの組織の厚さを感じます。
 
semimaru-g

 もうひとつ特記したいのは,間(アイ)狂言を野村万作さんが演じていること。さすがに,そこに立っただけでビリリとします。この野村万作さん,「蝉丸」の間狂言を演じたその足で成田へ。あすには中国での公演を控えていると,そんな情報を入れてくれる人もいました。
 ラボ・ライブラリー演出の西村正平さんに隣して観せてもらったお能。彼の観能のしかたもおもしろかったです。この日は,最近つくられているラボ・ライブラリーについて彼と話し合う時間はありませんでしたが。

※Fさんより,二,三の間違いの指摘(修正済み)と解説がありました。
  能装束――買ったのではなく,宝生宗家から借りたもの
  面――泣増(なきぞう) かつら――馬毛の黒髪
  曲のテーマは,因果応報と輪廻転生への深い信仰
 だそうです。 
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