幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 その《2》
 その《3》
0705
物語寸景〔3〕

――ラボ・ライブラリー制作余話 & 周辺情報集 《物語寸景〔1〕つづき》

※いろいろな方の掲示板やE-Mailに書き込んだものの再録です。ご了解くださいませ。


《ふるやのもり/スサノオ/大草原の小さな家/わだつみのいろこのみや/幸福な王子》





◆「ふるやのもり」を読みなおす


みなさんはこのお話をどうお読みになるのでしょうか。ふつうにはふた通りの読み方があるように思います。ひとつは「笑い話」として。意味のわからないことばを悪い侵入者が勝手に取り違えて理解し、そのことで難をのがれることができたという、めでたいユーモラスな話。これと同じモチーフのものに「ネズミ経」がありますね。
もうひとつは「なぜ話」として。動物や植物の形や色、鳴き声の起源、由来を語るタイプの昔ばなし。「ふるやのもり」の場合でいえば、サルのしっぽがなぜ短いのか、その顔やお尻がなぜ赤いのか、その理由が語られています。たくさんありますよね、こうした例は。「瓜子姫」では、なぜソバの茎は赤いのかが、「蛇婿入り」や「食わず女房」では、人が五月の節句に菖蒲湯に入るのはなぜかが、「くらげ骨なし」では、くらげがなぜあんなにぐにゃぐにゃしているのかが語られていますね。
「ホトトギスと兄弟」で、その声を「弟恋し」と人間のことばにうつしていう“聞きなし”のことは別のところで書いたことがあります〔今月の花神―Octoberホトトギス〕。
さて、「ふるやのもり」はどちらでしょうか。両方かも知れませんが、みなさんにとっては、どちらのほうが印象的ですか。宮城県を中心に全国に広く分布する人気の昔ばなし。いやいや、国内だけではありません。朝鮮の民話には「干し柿はトラよりこわい」という話になっていますし、古代インドの説話集「パンチャタントラ」にも類話があるなど、アジアじゅうに見られる話。そして、どうやらこれはもともとはふたつだったものをひとつにつなげて語られるようになったとも思われます。
            ◇
そういうことより、今回読み直すなかで気づいたことは、ちょっと違うのです。雨漏りのするこのお爺さんとお婆さんの家は、想像するに、南部曲がり家のような、馬を家の中で家族と同様にして飼っているような家でしょうか。葺きかえることができず、腐ってしまった萱葺き屋根の家。ほんとうに貧しい家ですよ。考えてみると、この老夫婦には子どもがいないようです。どうしたのでしょうか。不妊症だったのでしょうか。それとも、生まれたけれども、病気か何かで死んでしまったのでしょうか。つまり、どうやらこの家には若い働き手がいないことに気づきます。
みなさんは、五箇山や白川郷の屋根葺きの光景をテレビか何かでご覧になったことはありませんか。それこそ村じゅうの人が何十人も集まって屋根の葺き替え作業に当たります。屋根にのぼっての作業以前にも、萱を刈り集めたり、それを運んだりというたいへんな仕事もあります。そうした総がかりの作業をするために、村にはユイ(結) と呼ぶ相互扶助組織がつくられています。ある家の屋根の葺き替えがあると、ユイに入っている人は何をおいてもこぞって参加し、労働力を提供しあいます。ところがこのお爺さんお婆さんのところでは、ユイに加わるための若い働き手がいないので、村からは孤立した状態にあります。雨漏りがしようが、屋根が落ちて来ようが、だれも面倒をみるものはなく、もう屋根の朽ちていくのに任せておくほかないんですね(足腰が立たないからといって公的介護保険制度があるわけじゃなし、災害復旧支援に活躍する自衛隊なんてない時代ですからね)。そんな哀しい状態にあると考えられます。
そんな困窮状態にあるところに入りこんで、馬を食ってやろう、盗んでやろうという悪い了見をおこすオオカミと馬どろぼう。そいつらがどれほどひどい目にあっても、同情してやる余地はないですね。うん、ないない。2004年12月23日 (木)

そんなに悪いヤツ? オオカミって

「ふるやのもり」に登場するオオカミ。雨漏りのする屋根を朽ちていくままにせざるを得ないほどに困窮しているお爺さんとお婆さんが、唯一の宝、愛しい子どものように大事にしている馬を、奪い取り、食ってやろうとするのですから、その魂胆や憎し、とんでもないワルですよね。しかし、お話を追っていくと、どうもそれほどのワルではなさそうな気がしてくる。どこか間が抜けていて、おっちょこちょいで、可愛いじゃないですか (…可愛くない、ですって!? そんな~ )。そう、可愛いですよね。

あの牙、見るものを凍りつかせるようなあの目。ラチョフによりロシアの絵本に描かれるオオカミを思い浮かべる方もおいででしょうか。だいたい、日本でも外国でも、昔ばなしの世界では、オオカミといえば凶暴で獰猛なもの、残虐で情け容赦のない、ズルくて、食いしんぼうで、ロクなもんじゃない、タチの悪い害獣の代表のようにして敵視されてきました。でも、日本の古代人はそうは考えてきませんでした。その名は「大神」から来ているとの説もあるくらいで、害獣どころか、田畑を荒らしまわるイノシシやシカを捕食してくれる農耕の民の守護神でもありました。そんなにワルじゃないんですよ。
『日本書紀』には「かしこき神にしてあらわざを好む」 (このかぎりでは、スサノオの存在に似ていませんか、乱暴なところのある…) と書かれていますし、『万葉集』には「大口の真神」なんて、ありがたそうな表現が見られます。

埼玉県の秩父の三峰山に登ったひとはおいでになりませんか。あそこにある三峰神社、イザナキ・イザナミを祀っている、古くて由緒ただしい神社ですが、あそこに行くと、いくつものオオカミの像が見られます。ここには「大口真神」という大きな札がかかるなどしてオオカミを尊び、「ヤマイヌ」とか「オイヌサマ」などと呼んで、山の神の使いとして大事にされています。ほんと、ここでオオカミといったら、害獣どころが霊獣なんです。特に奥宮の入口の左右からそこの霊威を守るかのようにして向かい合っている石のオオカミ像などは、脚はがっしりと太いし(あれで速く走れるかしら?)、その雰囲気は猛々しいほどのド迫力です。

山の神の使いであるそんな霊獣が徹底的に悪もの呼ばわりされるようになったのは、なぜでしょうか。いつからでしょうか。はい、事実、ひとを襲ってガリガリと食べたとの、むごたらしい事実から嫌われ、明治にはいるとじき、大規模なオオカミ狩りが全国でおこなわれ、明治中期のころにはニホンオオカミはこの列島から姿を消したことになっています。とは云え、今もって、ときどき、「いやいや、まだ生息している、この目で見た」といった声がひそかにささやかれているのは、みなさんもよくご存知のとおり。

いっぺんにイメージの変換がなされたのは、ペローやグリム兄弟の童話が日本に入ってきたときでした。「赤ずきん」のオオカミのむごさは子どものこころに衝撃的で、以来、オオカミといえばあのオオカミという観念が築かれてしまいました。いたいけな少女を襲うオオカミ。いまもみなさんの後ろにいるかも知れませんよ。「3びきのこぶた」のオオカミはどうですか。「オオカミと7ひきのこやぎ」のオオカミはどうですか。いずれも、最後にはやっつけられる存在ですが、恐怖を誘う存在で、あまり愛敬はありませんよね。

それじゃちょっと不当な扱いじゃないか、あの動物はそんなにアコギじゃないよ、と少しばかりオオカミさんの肩を持ちまして書いたものがありますので、ご披露します。「狼のまゆ毛」で、柳田国男の採取した昔ばなし「人擬」(ひともどき)からの再話です。かなりの創作も入っていますが。4~5年前にわたしの住む地域の小学生たちに語り聞かせをするというので、知人である語り手の依頼をうけて書いたものです。左の「ノート一覧」のうち、「つれづれ塾①」でお読みください。〔12月29日〕


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◆スサノオ


★〔ちこらんたんさん 04.11.01〕
>本当に、最近は天災がすごいですね。さすがに恐ろしくなります。
最近、研修で「スサノオ」に取り組んでおりまして、スサノオのこともご存知かと思い、質問です。アシナヅチとテナヅチの名前は、どう書くんでしょう。彼らは土地神と聞いていますが、もう少し詳しくご存知ですか?
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 そうでしたね、この年、日本列島は災害でズタズタ。台風、それもいずれも大型の台風が上陸すること10回、浅間山は噴火するし、そしてこのたびは新潟・中越地方の大震災。これはどうも尋常ではありませんね。ある見えない力がはたらき、あらん限りの悪意をこめて怒っているかのよう。だれに対する怒りか。
 スサノオのテーマ活動に取り組んでおられるとか。そうです、このスサノオのいたずらかもしれませんよ、この相次ぐ災害は。速須佐之男命は、ひとつには、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した英雄でした。この国を葦原の堅洲国と呼んだように、葦の生えているところには蛇が多いんですね。お好きですか、この生き物。いまでも蛇をやっつけた子は英雄みたいに威張っていませんか。そうでもないかな、このごろは。ひとの嫌うものを退治した英雄であるとともに、スサノオは暴風雨の神でもあることはご存知でしたか。天照大神が太陽のシンボルであるのに対して、スサノオは暴風のシンボルです。ラボの物語ではそのへんはまったく薄められていて、高天原の姉神の天照大神のところではたらいた数々の乱暴や天の石屋戸のところはあまりふれられていなかったですよね。しかし、この神さまはもともとは、手のつけられない粗暴な存在、破壊的な存在で、古事記のこの部分では、本来、自然神として語られているはずなんです。マイナスのほうの自然ね。
 ま、ラボの物語の場合、八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治して、生贄になるはずだった美しいクシナダヒメ(櫛名田比賣)を嫁さんにするというロマンチック路線をいくものになっていました。いいんじゃないですか、それも。これが日本では怪物退治の最古の話であることも覚えておきたい。そして、出雲の国に須賀宮を建ててこの姫と住んだということ。有名な歌があるじゃないですか。これが三十一音の短歌のもっとも古いものです。
    やくもたつ 出雲八重垣
       つまごみに 八重垣つくる その八重垣を

 クシナダヒメの両親の名の表記ですが、「手名椎」「足名椎」となっています。どんな意味かというと、手で撫でさすり、足で撫でさすりして娘をいつくしみ愛する神というほどの意味でしょうか。ちょっと、足で撫でるって、どうするの? ツチ(椎)はほめことばで、尊称のひとつ。土地神とおっしゃいますが、ここの原文は「僕(あ)は国神(くにつかみ)にて大山津見の神の子なり」と手名椎自身が名乗っています。高天原の神のことは「天つ神」というじゃないですか。それに対して国土のそれぞれの地に先住する部族のボス、それを国つ神といっていました。つまり地方の首領のことですね。村長とか市長とか知事とか。嫌われものの蛇とか大蛇とかは、その地にあって首領に従わない反対勢力のことと理解することはできないでしょうか。その不敬のやからをスサノオがやって来てコテンパンにやっつけてくれたわけですから、これはありがたいわけでしょう。(オロチを荒れる川になぞらえ、スサノオが洪水をおさめたと解釈するのがふつうですが)
なお、クシナダヒメは日本書紀のほうでは「奇稲田媛」となっています。「奇」は美称で、そこらにめったにいないほど美しい、というほどの意味。
 もうひとつここで注目すべきは、大蛇退治により神器のひとつの神剣の、草薙の剣が出てきたこと。青銅器、鉄器の使用の歴史と、肥の河が血で赤く染まったことは、この河が砂鉄を産するところだったこと。鉄を持つということはたいへんな力だったはずですね。そのほかこの日本神話についてはとてもここでは書ききれませんので、まずはこのへんで。


★〔Lauraさん 04.11.09〕
>昔から機織りは女性の仕事として大切なものでした。機織りをしている姿は
美しく   
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機を織る女性の美しさですか。う~ん、美しいですねえ、背筋をスッと伸ばし
て…。そういわれてパッとひらめくのは、まず、日本の民話「つるの恩返し」でしょ
うか。山本安英さんの「夕鶴」の美しさ。(略)
それと、……ちょっと挙げにくいのですが、スサノオの神話が思い浮かびませ
んか。スサノオが姉神の天照大御神のところへ行き、さんざん乱暴をはたらき
ますね。機を織るための建物の屋根をぶちこわして、皮を剥いだ生きた馬をな
げこんだり、天衣織女(あめのみそおりめ)の大事な急所を梭(ひ)で衝いて
死なせてしまいます。この乱暴が直接的な原因となって、天照大御神は天の岩
屋戸にこもってしまい、国じゅうが闇に閉ざされますね。神話時代から機織り
は神聖な女性の仕事だったことが知れます。

★〔ふたつの顔を持つ神 スサノオ 04.11.12〕
スサノオをめぐる神話で、わたし個人にとってもっとも興味のあるのは、
出雲神話では英雄神とされながら、高天原神話では乱暴な悪神として語られていること。
ラボのテキストのほうでは善神として積まれたいくつかの功績の部分が
多く語られていましたね。それに対してわたしはここで、主として悪神の部分を
強調しすぎたかも知れません。だって、最近の自然災害に嫌気がさしていた時でしたから。
スサノオは、へんに甘ったれた子どもっぽいところがあり、イタズラ好きで、
どこか人間的な情味があって憎めず、その悪神の部分が、どうしてなのか、
好きなんですね。ヘソ曲がりかなぁ。
そもそも、なんでそんなに「ワル」なのか。
建速須佐之男命。その名前からして「ワル」ですよね。
「スサ」とは「進む」「荒(すさ)む」につながるスサで、ただイノシシのように前へ前へ
突き進み勝ち進んで、荒々しく振る舞う神といった意味じゃないでしょうか。
前についている「タケ」「ハヤ」は、ともに神威のすさまじさを称える語。
ほんと、なんでそんなに悪い役がこの神にふられたのでしょうかね。
イザナキ(伊邪那岐神)が黄泉の国から帰って禊(みそぎ)をすませて
心身ともに清浄潔白にしたところで、左の目を洗って天照大御神を、
右の目を洗って月讀命を生みます。日神・月神と、ともに光り輝くよき存在。
それにひきかえ、スサノオは鼻を洗っているときに生まれたとされています。
もともとは、「フーン!」とう勢いをこめた鼻息から生まれた荒神。
いかにも荒らぶる神、暴風雨の神のイメージじゃないですか。
それに、気づいてみると、イザナキは目と鼻から神をつくっていますが、
ほかのところ、たとえば口とか耳からは何も生んでいない。
それにはこんな一説があります。
イザナキは黄泉の国まで恋しい妻を追って行ったが、そこで見たのは
変わりはてた醜い妻のすがただった。その穢れをとらえた器官が目と鼻。
目で醜いものを見、鼻でその耐え難い腐臭をかいだ。
しかし、そのうちでも、目の穢れのほうはまだまだ薄いけれど、
鼻でかいだあの臭いは深く、容易なことでは消すことができない。
そこから悪神が生じたという。
これ、わかるような、わからないような…。
おもしろいですけど、ちょっと苦しい説ですよね。

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◆大草原の小さな家


★〔To:ざわざわさん 2004.10.23〕
川崎洋さん。なつかしい人です。茨木のり子さんたちとやっている詩の雑誌
「櫂」を通じて知り、『大草原の小さな家』制作に際して再話をお願いするこ
とになりました。最初、NHKではじめてお目にかかり、こちらの企画につい
て話しましたところ、たいん人気の高いテレビ・ドラマにもなっている物語、
みなさんの期待も大きいでしょうし、わたしなんぞでいいんでしょうか、とそ
の驚くほどの謙虚さにこちらがドギマギさせられました。静かな、おだやかな
人でした。悪いこと、ずるいことなど何も知らないというような醇朴さをたた
えた人。とにかく、こちらのいうことはまず全部聞こうと、ていねいに耳を傾
け、わたしの話をいちいちメモしているふうでした。絵は伊勢英子さんにお願
いしてある、と伝えると、だいぶその気になってくださった様子。その後、ご
自宅のある横須賀に3度、4度と出向いてお会いし打ち合わせ、お願いした期
日にはきちんと書きあげてくださいました。
その後、ラボとの関わりはなく、わたしとも年賀状の交換程度になってしまい
ました。いまはラボのなかで接触をもつものはだれもなく、さびしいことです
が、なつかしく思い出される人です。
この仕事をつうじて谷口由美子さんとも親しくさせていただいたことも忘れが
たいことです。いままさにもっとも輝いている児童文学翻訳家ですね。
 ※川崎 洋(かわさき・ひろし)2004年10月21日腎不全にて逝去、74歳

★〔To:ふしぎの国のアリスさん 2004.10.23〕
川崎洋さんのこと、『大草原…』だけでなく、もっと別な機会にもラボに近づ
いていただくとよかったですね。あの人のことばは、わかりやすい、あたたか
いことばです。痛ましいほどシャイなところがあり、ぜんぶがやさしさででき
ているような人でした。ウィンターキャンプはその『大草原…』をテーマにお
こなうのですか、産山のあの民宿に集いあって。ローラの世界、また川崎さん
の世界にラボのみなさんに改めて親しんでいただけること、たのしみにしてい
ます。

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◆わだつみのいろこのみや


★〔さとみさん:2004.9.24〕
明日のテュ-ター研修の話題として、何かないかと、古事記関係の図書をもう一度、探してぱらぱらと。今回皆さんと決めたテーマは「わだつみのいろこのみや」。一度もパーティでも取りかかったことのない、『国生み』4話の中では比較的地味な存在だけれど、流れはとっても美しい海の中の物語。
> ラボのCDのなかにはないのですが、山幸彦が辿りついた海神のいろこのみやの庭で、のぼって隠れていた木が桂の木で、木の根元にあった泉に水を汲みにきた侍女の頭の上にひらひらとハート型の葉が落ちて、山幸彦に気づくことを知りました。
> 本の中には、ハート型の葉とは書いてありませんが、恋の予感を暗示している葉だったのですねぇ。ロマンチック~ゥ。
                ☆
――う~ん、物語の滋味をよく知るテューターさんならではの読み方。そのすばらしい感度にまいってしまいます。肝心なところにピタッと目がいくんですねぇ。感激です。
海に四辺を囲まれているこの国ですから、神話に海のことが書かれるのはごく当たり前のことでしょうが、「古事記」のこのあたりは日本の神話のうちでも、どうでしょう、白眉中の白眉だと、わたしなどは思うのですよ。
世界じゅうのほかの国の神話を探したって、これほど想像力ゆたかな、きれいな神話は、まずないのではないでしょうか。
ご存知と思いますが、「いろこ」とは魚鱗のこと、あのキラキラ光る「うろこ」のことですよね。これを「色好み家」と読んでおもしろがっているのがいて困るのですが、たしかにこの「古事記」、セクシュアルなイメージに満ちていて、そういう読み方を愉しむひとも少なくないのですけれど、ここはそうじゃないですよね。このあたりを原文でみると、青緑の光にみちた神秘の海の底に、魚鱗(うろこ)のように立ちならぶ宮殿がある。壮麗なその宮殿の前に門があり、その近くに清く涼しげな水のわく泉がある。そのほとりに立っているのがカツラの木。そうです、かわいいハート型の葉をしげらせているカツラ(香木)です。「古事記」を書いたひとがそこまで意識したかどうかはわかりませんが、小さな緑のハートです。青々としげったその木の梢に、若い美しい男神がもの思わしげに下を見ています。するとそこに、青く光る着物をまとった侍女が玉壷(玉器、たまもひ)を胸のところに抱いてやってきます。優雅な腰つきで泉のほとりに身をかがめ、壷で水を汲もうとする。すると、木のうえにいた美しい男神のすがたが水のおもてに映っていて、びっくりする。――ね、美しいイメージ、きれいな描写じゃないですか。
この美しさをぴたりととらえたのが明治の天才画家、青木繁ですね。この人の「いろこのみや」は代表作といえる名画だと思います。タテ長のあの絵、ご覧になったこと、あるでしょ? 切手にもなっていましたし(ただし、この絵のカツラの葉はハート型じゃないんですね、どうしてだか)。このひとは28歳で波乱に満ちた人生を終えた人ですが、「古事記」を材にしたたくさんの絵を残していますね。「黄泉比良坂」(東京芸大蔵)「大穴牟知命」もたいへんすぐれた絵ですし、ブリジストン美術館にある「海の幸」、これなどはまさに青木繁の本領といいますか、…命の原郷としての海を絵画の源泉として情熱をこめて、祈りをこめて描いています。この人は生まれた自分の子どもを「海幸彦」にちなんで「幸彦」と名づけたほど、日本の神話を愛し、それを近代ロマンティシズムにつつんで表現したひと。若いさとみさんはご存知ないでしょうが、この幸彦さんがじつは尺八の名手の福田蘭童というひとで、テレビが登場する前にだれもが聞いていた人気のラジオドラマで、何度も耳にした名前です。おとうさん、おかあさんに聞いてごらんなさい。え~ト、これ、あまり主題に関係なかったですね。(2004.9.25)


★〔さとみさん:04.09.27〕
ラボのテキストでは、
   ”Beside the well grew a fine, big maple, thick with leaves.”
   そばに、りっぱなかえでが葉をしげらせています。
となっています。「かえで」となっていますが、「古事記」にあたってみると「かつら」の木です。ここの違いにはどんな制作意図が隠されているのでしょうか。
                 ☆
「わだつみのいろこのみや」の、ホオリがのぼって姿をかくしたのは「カツラ」か「カエデ」かという点ですが、原文はこうなっています。

…傍之井上。有湯津香木。故坐其木上者。海神之女。見相識者也。訓香木云加津良。
故隨教少行。備如其言。即登其香木以坐。爾海神之女。豊玉毘賣之従婢。

「古事記」については、ご存知のように、賀茂真淵、本居宣長、そのほかにも田中頼庸、上田萬年、橘守部など、多くの国文学者が研究し校訂本をつくっています。ほかのものをいろいろあたってみることはいまは資料不足でできませんが、わたしの手許にある上記の田中校訂本(次田潤著「古事記新講」)では、わざわざ「訓香木云加津良」(読み、コウボクはカツラという)と書いていますし、岩波文庫の倉野憲司校注の「古事記」では香木に「かつら」とルビがふられているくらいで、ここはカツラと考えてまず間違いないものと思います。ラボのものを再話するにあたりどの校本をもとにしたかは、当時の制作者に訊いてみたこともなく、いまわたしにはわかりません。古語辞典を見ても「香木」は「香りのよい木」という程度しか説明はなく、どうしようもないですね。
また、青木繁の名画「いろこのみや」に描かれた葉は、鮎の形というか、黒々とした長楕円形で、へりがチリチリにちぢれていて、カエデでもカツラでもなく、カシやカシワでもなく、どちらかというとコナラの葉に似ているように思います。
これについても、いまは確かめようがないですね。やはり、もとにした校訂本による相違と推定されます。

【付記】わかりましたよ、さとみさん。青木繁の代表的な名画「わだつみのいろこのみや」に描かれている木、葉のかたちからしてカツラでもカエデでもなく、あれは月桂樹の葉ですね。暗緑色で、先端がとがり、ふちはちぢれてちょっとギザギザ。干して香料に使われるあの葉。名誉、栄光、勝利のしるしとして冠「桂冠」にされているあの木の葉だろうと思われます。神話にふさわしい神聖なものでもありますね。念のために辞書を見てみたら、中国の古い伝説で、月の中に生えているカツラの木、それを「月桂樹」と呼んだとありました。青木繁の勝手な想像でもなければ、誤解、読み違いでもないことがわかりました。


「わだつみ…」と隼人舞いをめぐり
(2004.10.21)
海幸彦・山幸彦の話(わだつみのいろこのみや)は、兄弟の争いとして書かれていますが、これは、太古の時代、九州にふたつの大きな勢力があって、その争いを語ったものと思われます。争いの舞台は西九州。潮の干満ということでは有明海がよく知られていますが、あの九州の西あたりは、潮の干満に大きな差があるところ。海の王からもらった珠で意地の悪いイカンタレの兄貴を水攻めしたり助けたりする逸話は、潮の干満のイメージに重なりますね。火遠理(ホオリ、山幸彦)と火照命(ホデリ、海幸彦)の兄弟喧嘩で、弟のホオリが九州北部、兄のホデリが九州南部の薩摩・大隈あたりを支配していた勢力とみられます。この南部の勢力は血気盛んな人たちでしょっちゅう反乱を起こして、国をまとめようとする朝廷を悩ませていたのですが、8世紀に入るころには制圧され、完全に朝廷に帰順しています。この物語はそのへんのことを語っているようですね。原文では、

――攻めむとするときは潮盈(みつ)珠を出して溺らし、それ愁ひ請(まを)せば潮乾珠を出して救ひ、かくしてたしなめたまふ時に稽首(の)みまをさく(おじぎをして言うには)、「僕(あ)は今よりゆくさき、汝が命(みこと)の夜昼の守護人となりてぞ仕え奉らむ」とまをさき。故(かれ)、今に至るまで、その溺れし時の態(わざ)絶えず仕え奉るなり」

潮が満ちてきて、足のところについたら、こんなふうにせよ、膝まできたときには、こんなふうに、股まできたら、腰まできたら、腋のところまできたら、いや首まできたら…と、海幸彦が水に溺れかかったときの恰好をするのですから、そんなにカッコいい踊りとは思われないのですが、これはすなわち、兄弟喧嘩に負けた南の勢力の隼人が、反抗をやめて中央勢力に帰順し、その証しとして宮廷の大嘗会の節会などのたびに隼人舞いを奏するようになったいわれを語るものと思われます。というよりは、隼人のあいだに伝承されてきたその話を古事記の編著者がここに織りこんだものとみていいのではないか、と。そのとき以来、隼人が宮中に出て隼人舞いを演じるようになるわけですが、それを継承していく人たちにこの舞楽のいわれと意味と筋を語り伝えるためのものだったかも知れません。


★〔とんかつ姫さん 2004.10.24〕
>この話は「国生み」の中でもエキゾチックと言うか南方的で興味深かっ
たですが。ホオリのこどもを密に出産したトヨタマヒメはワニ子を産んだ、
「え~私たちの先祖はワニだったの~?」と言ってまして。
----------------------------
エキゾチックですよね。
記紀神話の全体を通じても、たしかにここはほかの部分と大きくちがっている
ように思います。
象徴的には、この現世を超えた異界といえば、イザナキ・イザナミの神話でわ
たしたちはよく知るように「根の国」「黄泉の国」ということになっています。
それがここでは、海の深み、海の彼方というわけですよね。
このことから、人によっては、沖縄の神話にある「ニライカナイ」を想うかも
知れません。
沖縄本島の東南に久高(くだか)島というのがあって、いまでも人びとはそこ
を「神の島」と呼んで尊んでいるそうですが、ここに沖縄の租神のアマミキョ
が海の彼方の「ニライカナイ」から渡来し上陸したというんです。「アマミキ
ョ」とは「遠い遠い海から来た人」という意味。
このへんの神話・説話と結びついた話とも考えられますし、じつは先にすっか
り図書資料を処分してしまって手もとになく、確かめようがないのですが、イ
ンドネシアにこれとそっくりの昔話があったはずです。インドの昔話にも。
仲のよい兄弟がいた。あるとき、それぞれの仕事をとりかえっこする。弟が兄
の大事にしていた釣り針をなくしてしまったことから、仲たがいがおこり、兄
は怒って弟をきびしく責める。途方にくれた弟が身を棄てようと海辺にくる
と、あるふしぎな存在によって救われ、海の底のもうひとつの世界でさんざん
いい思いをして、揚句には魚の咽喉から釣り針を取り返して帰り、イカンタレ
の兄貴に報復する。
これが浦島太郎の伝説の源流になっていることはすぐわかります。
出てくることばも、ほかの神話の部分とぜんぜん違うような気がしませんか。
塩盈珠、塩乾珠、塩椎神、綿津見神、鯛、鰐、鵜羽…、などなど。海の生活を
していた人びとのあいだで生まれた神話であることは間違いないんじゃないで
しょうか。
日向にある鵜戸神宮はおおきな岩窟のなかに建てられているんだそうですね。
わたしは行ったことはありませんが。豊玉姫があさましいワニのすがたにかえ
ってこっそりと鵜茅葺不合命を産んだのがこの岩窟ということになっています
し、海岸ちかくの青島が海のお宮のあとだそうで、ホオリと豊玉姫を祀る青島
神社もあるとか。さて…。のちの世のひとがこしらえた付会だろうとは思いま
すが、宮崎にお住まいの方、このへんのこと、よかったら精しく教えてくださ
いませんでしょうか。

先祖がワニさん。そうだわに~。いいんじゃないですか、はずかしいことでは
ないでしょうに。りっぱなことだワニ。めでたい、めでたい、ワニなっておど
ろ、てなもんでしょう。国によっては、ほら、フンコロガシを自分たちの先祖
として誇っている人たちだっているんですから。


★〔さとみさん 2004.10.24〕
それにしても、豊玉姫からの恋の詩だけで、なぜ、ホオリからの返事の詩は、
ラボライブラリーでは、カットしてしまったのかしら?あなたなら、この詩
に、どんな返歌をしますか?という投げかけでしょうか?
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ま~あ、さとみさんは、いつもいつも、ビミョーなところに着目なさるので、
純情無垢ムクなわたしなんぞはドギマギさせられます。
豊玉姫からの歌に返歌をしなかった(返しの歌をラボではカットした)のは
ヘンカな~、との疑問。
じつはわたしにもちょっとひっかかるところです。なぜなら、
これが、のちの萬葉集などでさかんにおこなわれる男と女のあいだの贈答歌の
ハシリとなるものだからです。で、この歌ですけれど、古事記では、
   赤玉は 緒さへ光れど
      白玉の 君が装(よそ)いし 貴くありけり
一方、日本書紀のほうはちょっと違っていまして、
   赤玉の 光はありと 人は言へども
      君が装いし 貴くありけり
こちらのほうは、赤玉、すなわち豊玉姫が産んだ子のフキアエズの可愛らし
さ、美しさを訴えるほうに重点があるように思いますが、当然、ここでの流れ
と背景からは、前者の古事記の歌のほうが自然でしょう。なお、赤玉は琥珀な
どのことをいいますが、赤ちゃんのことを暗示していることはあきらかです
ね。
ご存知のとおり、これにはちゃんと返歌はあります。どうしてラボのテキスト
ではそこをカットしたか…。ほんとうのところは知りませんが、わたしは「ビ
ミョー」だからだと思います。未成年者にはちょっと、という…。わたしが再
話したとしても、考えちゃうところですから。どんな返歌か。
   沖つ鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝(ゐね)し
     妹は忘れじ 世のことごとに
オシドリ(鴛鴦)のオス・メスの仲のよさはよくいわれますが、鴨の夫婦仲も
きっとよいのでしょうね、萬葉集の歌にも仲のよさをいうたとえとしてよく登
場しますから。
きれいな歌でしょ。白波がさわさわと立ちさわぐ沖のかなたに横たわる島、カ
モメが空を裂いて飛び交う美しい島のイメージが浮かんできませんか。ところ
が、一転、「率寝(ゐね)し」となり、成人の世界が展開します。わたしとぴ
ったりひとつになって共寝した処女のあなた、やさしいあなたのことがいつま
でも忘れられません、これから先、生涯にわたってずうっと、ずう~っと…。
「世」は夜這いの「よ」でもあります。
ほら、さとみさん、このホームページでこんなことをわたしに書かせてどうす
るんですか! し~らない、知らない。


★〔さとみさん 2004.10.24〕
 海幸の子孫たちは、おそらくは征服者たちの嘲笑と蔑視を浴びながら、一族
の敗北の様を演じ続けたのだろう。その永遠に続く屈辱の記憶の繰り返しは、
彼らから復讐への意志を奪い、その魂の深部に底なしの空洞を空けてしまう。
 征服者による恐ろしいほど残酷な心理作戟だ。――
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ついでに、もうひとつだけ付け加えさせてください。
引用いただいた上記の資料についてですが、おおむねわたしの見方と同じなの
ですが、誤解なきよう付言するならば、隼人は負けて卑屈になってものわらい
にされているような人たちではないということです。
日本列島の北東に毛人(えみし、蝦夷)がいました。
そして南西部に隼人がいました。
ともにヤマト政権にとってはやっかいな存在で、手を焼いていました。
その絶えざる戦いのなかで、反乱したり服属したりを何度も繰り返して
いました。
しかし、「日本書紀」にせよ「続日本紀」にしても、
これは中央政権の側に立って編纂した歴史書で、巧妙な情報操作のなかで、
こうした人たちを害をなすものたちと見下した書き方をしていることは
ほぼ間違いありません。今でもよくあるじゃないですか。
日向神話をみれば、これはまっ赤なオオウソだとなっているはずです。
いずれにしても、蝦夷(えみし)と並んで隼人は歴史上の名族なんですね。
「薩摩隼人」といえば、いまでも、行動力があり、信念かたく、
精悍で勇敢であることの代名詞みたいになっていますよね。
わたしたちはそんなにいつも素直でいてはいけない、
歴史の鵜のみはあぶないということですね。
歴史をもうひとつの側から見る必要があるときもある、ということ。


★〔Samiさん 2004.11.02〕
>今研修で「わだつみのいろこのみや」をやっているので、参考になりまし
た。バックグラウンドを知れば知るほど、面白くなりますね。
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年をとったから、というだけでなく、人にはある時期、自分の立っているとこ
ろがどんなところか、遠いわたしたちの祖先はどんなことを考えて生きていた
のか、知りたくなるのが自然のようですね。
神話というのは、わたしたちの存在の原郷といいながら、わかろうとしてもわ
からないことがたくさんありますね。そこは想像力をはたらかすしかないとこ
ろで、わたしなどは、そこはひょっとすると、もっとも高度なファンタジーの
世界なのかな、と思うことさえあります。
Samiさんたちも、目下『わだつみのいろこのみや』のお話とぶつかりあって
おいでとか。この神話をめぐるいくつかのわたしの断想は「物語寸景(3)」
で並べておきましたが、あらためてこの神話を思うとき、どうしてなのか、これ、なかなかいいんですね。
ご承知のとおり、これは古史神話の最後をかざるものです。わが国の古代人の
生活と考え方をしのぶ最後のところで、隼人が狂ったように踊るわけですよね。
日本書紀のほうですと、、この狂い踊りはもっともっと強調されていたと思い
ます。本来なら口承されていくべき神話を、ここではことばを超えて身体を
もって伝えようとしていますよね(そこまで意識していたかどうかは、本当の
ところ、よくわかりませんが)。思いあたりませんか。これ、ラボの言語習得
のスタイルとよく似ているじゃないですか。こんなところでもふるさとに出会う
なんて、おっどろきぃ…!

『わだつみ…』をめぐって、ひとつ思い出したことがあり、追加いたします。
盬椎神(シオツチ)のことですが、これは「盬筒」のことだ、という説があり
ます。わたしもそう思うのですが、つまり、潮路をよく知る存在といった意味
で、航海の神さま、水先案内の神というわけですね。それに、『スサノオ』に
出てくる手名椎・足名椎にふれて、「ツチ」は敬称であり尊称であると書きま
した。みなさんは古事記の神話をいろいろ読むうち、いかがですか、「チ」と
いう音、「チ」と呼ばれる存在が意外に多いことにお気づきになりませんか。
シオツチのほか、イカヅチ、ノツチ、カグツチ、タケミカヅチ…、などなど。
「チ」は霊のことであって、どうやら神と呼ばれる存在ではなく、三千世界に
わたる霊のこととして区別されているようですね。

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◆幸福な王子


〔To:Hiromi~さん 2004.9.15〕
「幸福な王子」の〝愛〟をめぐる探索には、小夜ちゃんという5歳ながら
たいへんオマセな女の子とお父さんの対話に一端をご紹介したように、興味の
つきないものがあります。どこまでいっても届かないような深み、行けば行く
ほど遠ざかる暗い森が横たわっています。
オスカー・ワイルドはアイルランドの首都ダブリンに、家庭的にはたいへん恵
まれて生まれています。若いころは詩を書いていた社交家のお母さんジェイン
の強い意向から、オスカーは小さいころは女の子として過保護に育てられてい
ます。その後、プロテスタント系の名門校へすすみ、そこでかなりきびしいキ
リスト教教育を受けたようですね。〝愛〟の思想、献身の思想はそうした環境
のなかで教えられ身につけていったようです。
王子、そしてツバメの気高い魂は、しかし、現実社会ではゴミクズのようにし
か扱われることがなかった。辛うじて天使が王子のハートとツバメの死骸を天
国に運んでいったというわけ。このへんがこの作家の死にかたと妙に符合して
いることに気がつきます。すなわち、晩年、唯美主義作品の結晶とされる悲劇
「サロメ」の圧倒的な成功にもかかわらず、同性愛問題をめぐる裁判で有罪と
なり投獄され、刑に服したのちは、自分の生まれた国に受け容れられることな
く、失意の生活ののち、パリで死んでいますね。才能ゆたかで華々しい作家生
活を刻みながら、ついに郷里のダブリンには迎えられることがなかった。
永遠の眠りについているのは、フランス・パリのペール・ラシェーズ墓地、パ
リ最大の墓地ですね。背に羽のついた少年を刻んだ記念碑の下にOSCAR WILD
の文字が見え、前にはいつも絶えることのない花が供されています。気をつけ
てもっと目を近づけてみると、なんとまあ、たくさんのキスマーク! 生まれ
故郷では疎外されましたが、世界じゅうで彼の〝愛〟は尊ばれているというこ
とでしょうね。これもちょっと涙を誘われます。

〔To:Hiromi~さん 2004.9.17〕
「幸福な王子」を素材に中学生を前に〝愛〟と〝恋〟を語って3回に及びまし
た。3年近く前のことですが。同じオスカー・ワイルドの「ナイチンゲールと
ばら」「若い王」の場合にもふれ、さらには「サロメ」や、古代ギリシアの抒
情詩人サッフォーにもおよび、ナルシズムについても話した記憶があります。
ただ、これらもわたしの個的な読み方と「感動」によるものですから、みなさ
んはみなさんの「感動」をつき合わせながら、本来のテーマ活動をなさったら
いいのではないでしょうか。そして何よりも、「人」と呼ばれることなく「消
費者」と呼ばれて走りまわらされるこの時代に、ある力と欲望と流行に鼻づら
を牽きまわされることなく、自分たちの感動という原点に立ち帰ろうという姿
勢は尊ばれていいのではないでしょうか。ムダばなしは控えつつ、多いに語り
あってください。とりわけ、オスカー・ワイルドの〝愛〟の問題は、やさしい
好意が裏切られ、献身的な愛情が踏みにじられていく、実人生のリアルな苦さ
残酷さ、あるいは、どうしても相手に届かない愛、崇高な心による自己犠牲の
愛、ナルシズムなども含め、語り尽くせぬほど深いですよ。 先に挙げた作品
や「王女の誕生日」「漁師とその魂」も合わせてこの機会に読んでいただきた
いです。

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