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――ラボ・ライブラリー制作余話 & 周辺情報集 《物語寸景〔1〕〔3〕つづき》

※日記、またはいろいろな方の掲示板やE-Mailに書き込んだものの再録です。ご了解くださいませ。


《安寿と厨子王/ピーター・パン/スーホの白い馬/雨ニモマケズ/はなのすきなうし/ありときりぎりす・イソップ》






■安寿姫は、死んだのちどうした…?
「安寿と厨子王」と芭蕉の「おくのほそ道」

   荒海や 佐渡に横たふ 天の河
 知らないもののない松尾芭蕉の名句である。ちょっと時期をはずしたかも知れないが、この句がじつは「安寿と厨子王」の物語に深いつながりがある…、と云ったら、びっくりしませんか。久しくここでのおはなし日誌は、ゆえあってお休みしておりましたが、今回はそのことをご紹介してみたいと思います。
 俳聖・芭蕉は46歳の春、「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。…」と風雲の思いに衝き動かされて(「片雲の風にさそはれて」)「おくのほそ道」の旅に発ちます。「風雲の思い」と書いてしまいましたが、当時は、ふっと思いついて、行きあたりばったりにできるような旅ではありませんで、さまざまな思惑と綿密な計画があったことはいうまでもありません。とりわけこの年、元禄2(1689)年は、芭蕉が生涯の師とあおぐ西行法師の歿後500年にあたります。師が歩いた陸奥(みちのく)の道を自分も自分の足でたどってみたいとする西行供養の巡礼行脚の旅であったことがうかがわれます。またそれは同時に、源氏一族の悲劇、頼朝に追われて陸奥に逃がれ、そこで果てていった義経主従を供養する旅でもありました。(このことについては、その一部、佐藤継信・忠信をめぐるエピソードをすでにご紹介しました)

 さて、芭蕉とその弟子の曾良の旅は、日光を経、白河の関をすぎていよいよ陸奥に。仙台、松島、平泉などをめぐったあとは日本海側へ向かいます。出羽三山を過ぎ、能因法師や西行にゆかり深い象潟(きさがた)へ出て、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んで、日本海側の愁いをたたえた、悩んでうつむいているかの風情、うらむような風光をとらえています。ここがこの旅の最北端であり、ここから旅は最終コースへ向かい、日本海に沿って南へ西へ…。
 旧暦の七月六日、新潟を舟で出て荒川を渡り、今町に到着します。現在の直江津・上越市ですね。このあたりまでは、怖いような濃い青さをたたえ日本海の海原が吼え立てています。その海を隔てて、佐渡島が見えていた……はず。「荒海や…」の句は、この地に着いた翌日に催された俳席でつくられたもの。ところが、芭蕉にずうっと随行していた曾良があらわしている「曾良旅日記」によると、その日は一日じゅうはげしい雨が降りつづいたとあり、天の河など見える状態にはなかったことが知れます。おまけに、たいへんな暑さと湿気のため、かなり重い病気に陥り、不快に悩まされていたようです。持病の疝気と痔核が出たようですね。そんなときに書いたのがこの句。

 今わたしの手元にあるテキスト、久富哲雄博士の『おくのほそ道』(講談社)によると、
「眼前の荒海は、佐渡と本土とを隔てて、佐渡の流人たちは故郷の妻子を恋いこがれても逢うすべもない。今宵、牽牛・織女の二星が相会うという天の河を仰ぎながら、彼らはさぞ望郷の念にかられていることだろう、と述べて、親しい人びとと離れて佐渡をながめる越後路までやってきたわが身の旅愁を詠じたもの」
と解説しています。佐渡の流人たちの望郷の思いと結びつけたそういう鑑賞の仕方もあるでしょうが、わたしにはいまひとつしっくり来ない。どうしても、これが実景を詠んだものではないことがひっかかる。
 疲れはピークにあり、体調不良のこのとき、芭蕉のこころにはっきりとイメージを結んでいたのは、佐渡の流人のことではなかったろう。そうではなく、この地で広く語られていた「安寿と厨子王」の秘話であったろうと想像するほうが自然だ。

 このおはなしについては、改めて説明するまでもないことながら、念のため「説経節」からその概略をたどっておくと、奥州54郡の太守をつとめていた岩城判官正氏は、帝の勘気にふれて筑紫の国に流されます。その子どもの安寿姫と厨子王丸は、悲運の父を慕って、母と乳母(姥竹)とともに奥州から京へ向かいます。しかし、途中の直江津で人買いの山岡太夫にだまされ、母と子は別々の舟に乗せられます。だまされたとわかり、姥竹は悲しみのあまり荒れ狂う海に身を投げます。母は佐渡島へつれていかれ、両の目を泣きつぶしてしまい、鳥追いをしながら悲嘆の日々に耐えている。一方、安寿と厨子王は山椒大夫のもとに売りとばされ、奴隷のよう、畜生のようにこき使われる日々。厨子王はのちには仏の導きを得て立身出世を果たし、丹後の国守に任ぜられますが、それに先だち、安寿は、弟を山椒太夫の桎梏の地獄から逃がれさすため沼に身を投げて死に、追っ手の足を一時止めさせます。
 安寿姫のその貴い心根と勇気、健気さ、清い自己犠牲の精神をしのんで、直江津のまわりでは多くの伝説が生まれました。人買いの地というマイナスイメージを払拭したいとの土地の人びとの思いもあったでしょうか。なかでも、安寿姫は入水していのち果てたのち、銀色の竜に化身して空高く舞いのぼり、星になったと語られる話がよく知られています。
 ほんとうは雨にたたられて銀河などは見えなかったけれど、芭蕉は安寿姫の化身たる竜の銀色のうろこで飾られた星空をこころいっぱいに描いてあの名句をつくったのだ、といっても、あながち間違いではないように思うのですが、どうでしょうか。
 荒波を隔ててはるかな佐渡島へ渡る天の河の雄大な夜の川の流れと、安寿のどこまでも澄みわたるこころの風景と…。また、銀河の描く円弧なす壮大な流れは、佐渡にいる盲目の母のもとへ厨子王をいざなうために安寿が架けた橋である、というロマンあふれる説話もあり、芭蕉はこうした土地の人が語る安寿と厨子王の物語に思いを寄せてこの句をつくった。…わたしはそう信じているのですが。

 上越市には今も銀河をまつる習俗が残ってさかんにおこなわれており、荒川(関川)の川べりに短冊をつけた笹を数百本立てて七夕を祝ったり、それにつづき、七日後におこなわれる盂蘭盆会は、身についた穢れを洗い落とす禊(みそぎ)の行事として、ふたつの古くからの習わしをむすんで人びとは町をあげて大事に受け継いでいる。
〔2005年10月20日〕


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■「ピーター・パン」
「I like it ! 殺すの、大好き!」をどうする?

〔2005.8.4 To: ゆっきーさん〕
「殺すの、ぼく、大好き!」…さあ、悩ましいところです、どう考えましょうかねぇ。
  Tootles : Get’em ! やったぞ!
  Slightly : Eight ! やっつ!
  Michael : Wendy, I’ve killed a pirate ! ウェンディ、ぼくも、ひとり殺したよ!
  Wendy : Oh, how awful ! まあ、なんておそろしいこと!
  Michael : No, it isn’t ! I like it ! へっちゃらだい! 殺すの、ぼく、大好き!
はい、気にしなくってもいい、こんなのは文学作品にはいくらだってあるじゃないの、グリム童話にだって、とりわけ、昔ばなしやナーサリー・ライムにはこれ以上に残酷な表現がたくさん見られるし、それが西欧感覚というものなのよ、気にしていたらきりがないわよ…。
そうとも云えましょうが、子どものこころのなかが冷えた状態、乾燥状態にあり、ちょっとヤバイこの時代にあって、わたしたちはこの表現の前に一度立ちどまって改めて考え合ってもいいのかも知れません。テキストを鵜呑みにしてそのまま受け入れるだけがテーマ活動ではないでしょうし、「ことばを大事にする」「こころを大事にする」を掲げて活動をしている組織なら、素通りしてしまうテはないでしょう。大きな子たちがキャラバンを組んでやってくるということですので、この際、若い感性としっかり向かい合い、そのみずみずしい発想に触れて、それぞれの思いをぶつけて話し合ってみたらいいと思います。

ご承知のように、この作品はJ.M.バリというスコットランドの作家・劇作家により、最初「ピーター・パン――おとなにならない少年」という戯曲で書かれ、1904年12月にロンドンの有名な劇場で公演されました。この成功を受けて、1906年に「ケンジントン公園のピーター・パン」というタイトルで小説化され、さらに1911年、戯曲をもとに改めて物語にされたのが「ピーター・パンとウェンディ」で、ふつうわたしたちが読む「ピーター・パン」はこれを指していますね。さらにおまけがありまて、脚本「ピーター・パン」の台本が1928年に小さな本になって刊行されました。ラボの「ピーター・パン」はこれをもとにして再話しています。再話者のニシエさんに確かめるというのも、どうでしょうか、あまり気が進みませんけれど。
1928年版の台本をじかに目にしているわけではないので、何ともいえませんが、ただ、いまわたしの手元にある「ピーター・パンとウェンディ」(福音館書店刊、石井桃子訳)でその部分を見ると、「殺すの、大好き!」というような表現は見あたりません。その部分をちょっと引用してみます。
  ――あたりには、武器のチャンチャンと打ち合う音、また、時たま
  おこるキャッというさけび、ドボンという水の音、そして、スライトリーが、
  単調に、五人――六人――七人――八人――九人――十人――十一人――と
  数える声のほか、ほとんど何も聞こえません。…
どんなお話し合いになっていくのか、報告を期待しています。


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■「スーホの白い馬」「へそもち」…赤羽末吉

安曇野・松川村の「安曇野ちひろ美術館」でのこと。センダック、ラチョフほか、世界のすぐれた絵本作家たちの原画にも驚きと感動を覚えましたが、なかんずく衝撃を受けたのは赤羽末吉さんの作品の特別展示。安曇野、穂高、上高地方面へのこの旅をいっしょにした14名はさまざまな形でかつてラボに関わっていたものたちですが、「スーホの白い馬」「へそもち」の原画の迫真力には背筋のぞくぞくしてくるものさえあり、みな、足と眼をすっかり奪われました。ただごとではない命が息づいており、やけどをしそうなほどのエネルギーのほとばしりに圧倒されました。それは、ラボの絵本テキストで見る色ともだいぶ違います。眼にとびこんでくる光の強さが違うというか…。「スーホ…」の絵の魅力を仲間に語るうち、ほかのお客さんたちも次つぎにまわりに集まり、20人ほどのひとかたまりになって改めて作品を鑑賞いたしました。
ラボの絵本は、こういう、ぜったいにごまかしのない、最上級のものでありたい、と、夜の温泉宿では仲間どうしで熱く、いつまでも語りあったものです。〔2005.5.31〕

<おまけ情報>  馬頭琴について。モンゴル語で「モリンホール」と呼ばれる、モンゴルの代表的な楽器。すでに8世紀のころから人びとはこの楽器を楽しんできたとされる。弦を弓でこする擦音楽器のひとつで、さおの先端部分に馬の形の彫刻をつけることから「馬頭琴」と呼ばれるようになった。モンゴル草原をわたる風を思わせる、一種哀調をおびた音とともに、これに和して歌われる「のどうた」という遊牧民特有の発声法がめずらしいものとして注目されている。馬頭琴の弦は2本。その2本を同時にひくのが基本的な演奏のスタイル。なお、馬頭琴の起源についてはもうひとつ有名な物語がある。「フフー・ナムジル」という話で、フフー・ナムジルという若ものと王女の恋物語。ここにジョノン・ハルという翼をもった空飛ぶ馬が登場して展開する哀話である。
 このほか、世界には楽器の起源にまつわる昔話はたくさん伝えられている。馬頭琴によく似た話が北欧神話に見られる。フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』にのっている「カンテレの誕生」では、ワイナモイネンという伝説の英雄が巨大な魚(大カマス)を退治し、その骨と瀕死の馬の毛でカンテレという民族楽器をつくったとされる。5本の弦を張ったこれもごく単純な楽器だが、伝統の叙事詩を語る伴奏楽器になっている。


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■雨ニモマケズ宮澤賢治
  
◆05.05.24 To: Play with meさん
きのうの新聞でご覧になりませんでしたか、この5月12日に宮澤賢治をめぐるシンポジウムが朝日新聞、岩波書店、国際日本文化センターの主催で開かれ、「『雨ニモマケズ』の心を探る」というテーマで語られたようなのです。このシンポに参加しているのは、中村稔氏(詩人・日本近代文学館理事長)、武田清子さん(国際基督教大学名誉教授)、赤坂憲雄氏(児童文学者・東北芸術工科大学教授)、それに山折哲雄さん(宗教学者)と、宮澤賢治研究の第一人者たち。レポートでエー~~ッ! とびっくりさせられました! わたしたちはふつう、宮澤賢治の人物像を『雨ニモマケズ』のあの清廉で禁欲的なデクノボー、欲なく、他のひとのために自分を投げ出す清雅な生き方をする人物に重ねて考えてきたように思います。いかがでしょうか、Play with meさん、そうではありませんでしたか。
「永訣の朝」では、死を前にした妹トシに、こんどまた人として生まれ変わってこの世に出て来れるなら、自分のことだけでなく、ひとさまのためになるような生き方をしたい、と語らせていますし、「よだかの星」にしても「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」にしても、その他多くの作品で自己犠牲をずうっと書きつづけてきましたですからね。
それがじつは、『雨ニモマケズ』には別にはっはりとしたモデルがいて、その人物像を投影して書かれたのがあの詩であるという。わたしたちの賢治像とは別に、生前の賢治にはとかく毀誉褒貶がつきまとい、とくに弱さや迷いや矛盾を抱えていて、高邁な精神と卑俗な精神、強い精神と弱い精神とのあいだに引き裂かれた存在だというのです。
 モデルとされるのは斎藤宗次郎というキリスト者。同じ花巻に生まれた人で、内村鑑三の忠実な弟子のような人。小学校の教員をやっていたとき、子どもたちに聖書を教えたために旧弊な迫害にさらされ、学校を追われます。職を追われたあと新聞配達業にたずさわり、雨の日も風の日も配達をつづけながら、詩にあるように、困っている人のために東奔西走し、住民に誠実に接したらしいですね。賢治は花巻農学校の教諭をしていたときにこの人と知り合っているのだそうですね。
 賢治がたいへんすぐれた詩人であり童話作家であることには変わりはないですが、病床にありながら夢想していた賢治の理想の生き方が、あのデクノボーだったろう、という。ですから、デクノボー、すなわち宮澤賢治、と考えるのは間違いなのだそうです。ちょっとショックでしたね。


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■はなのすきなうしロバート・ローソン

◆(2005年04月05日)ぼっくりさんへ
『はなのすきなうし』お好きだとか。三つ☆ですか、四つ☆ですか、それとも五つ☆ですか。じつは、わたし自身、この絵本と、ロバート・ローソン、マンロー・リーフについて別の仕事のなかで小論を書いたばかりでして、これがラボ・ライブラリーになったとして、テューターは子どもたちにこの作品を通じてどんなメッセージを伝えようとするのかな、とふと思いました。勿論、すぐれた絵本のひとつとして評価はしておりますが。
ぼっくりさんの考えるいちばんのポイントはどこですか。わたしのなかにいちばん先に飛び込んできたのは、ですね、友だちと遊ぶことには無関心な、引っ込み思案の自分の子を見て、母ウシはさぞかし心配だったはずですが、なんとまあ、おおらかなお母さんで、
「うしとはいうものの、よくもののわかったおかあさんでしたから、フェルジナンドのすきなようにしておいてやりました」
とあり、てんで気にもしていない。太っ腹お母さんですよね、ほんと、牛とはいえ。子ども自身が判断し決めねばならないことでも、ぜんぶ親がとりあげてやってしまう場合が多い最近の情勢のなかで、これほどおおらかに構えていられる親がどれほどいるだろうか、自分の目の届くところ、管理下に子どもをおかないと気がすまない親が多いようだからと、そんなことを思いながらこの絵本を読みなおしました。

コルクをめぐって
◆(2005年04月10日)ぼっくりさんへ
コルクですか? 洋酒の栓に使われたり、保温材、防音材としてよく使われるあのコルクですよね。
樫(かし)の一種と考えていいと思いますよ。卵形の葉をつける常緑高木樹。キルクということもありますかねぇ。日本でいえばシラカシ、ウバメガシ、アカガシ、アラカシ…(マテバシイも仲間かな?) どんぐりの実をつける木。
コルク樫は日本ではめったに見られないはずですが、わたしは、…どこだったかなぁ、小石川の東大植物園だったかで見たことがあるような、ないような…。ポルトガル、スペイン、南フランス、北アフリカあたり、地中海の沿岸地域では比較的ポピュラーに群生しているのを見られるようですよ。
ブナ科の高く伸びる樹。ロバート・ローソンがわりあい丁寧に描いていたと思います。コルクはあの樹の幹ではなく、樹皮でして、樹を伐採して採るのではなく、羊の毛を刈るように丁寧に樹皮だけを剥ぎとるんですって。樹皮が厚いコルク質の層をなしているようです。剥いだあとの幹は裸んぼになりますが、これで枯れてしまうようなことはなく、9~10年するとすっかり再生されて、また樹皮を剥ぐことができるとか。
初夏のころ花をつけます。それがどんな香りかは知りません。きっといい香りなのでしょう。雄花がヒモ状の穂をなして垂れ下がるようです。スペインにくわしい人、たとえば画家の堀越千秋さんとか、バルバさん(関本さん)、あるいは村田栄一さんにうかがったら、よくご存知かも知れません。
植物図鑑を見たらもっとくわしいことがわかるのでしょうが、手元にありませんで、こんど図書館に行くついでがありましたら調べておきます。

◆(2005年04月11日)ぼっくりさんへ
コルクのこと、そんなにこだわるほどのことではないのでしょうが、きのう図書館へいったついでに図鑑を調べてみました。…が、牧野富太郎博士のものをはじめ、いくつかのものを見てみたのですけれど、ない! 多分調べ方がまずかったのでしょう。時間もなかったですし。子ども向けの図鑑にもあたってみたのですが、「コルクガシ」は出ていませんでした。
で、樹についてうるさいある友人に電話で聞いてみました。いくつかわからずにいたことがわかりましたので、特に必要なことではないでしょうが、ご紹介いたします。
一つには、もちろん、この樹にコルク栓の実がなるはずはありません。実は、わたしたちのよく知っている形のどんぐりです。ふだん目にするコルクは、樹の樹皮を剥いで、それを機械で粉々にしたものを接着剤などを使って成型し、あるときは洋酒の栓に、あるときは板状にしたり球形にしたり…。王冠の内側についていることもありますよね。要は、あれは樹の細胞の集合体で、厚い層をつくって樹の本体を保護しているんですね。それを欲張りで自分勝手な人間が根性卑しく奪ってしまう! 
次には、絵本を見て確かめればよかったのですが、時間がなくて…。樹の葉からぶらさがっているのは、雄花らしいです。ちょうど今ごろの季節に新しい枝のつけねのところに黄色っぽい花序をつくって垂らすらしい。この時期、トサミズキやヒウガミズキにそんなすがたを見ることができるじゃないですか。きれいですよ、あれ。藤の花ほどには大きくないし美しいわけではありませんが、あんなのを想像したらいいかも知れません。ほかにも、トチノキがもう少しするとクリーム色の花序をつけますし、コナラやイヌシデにも小さいながら花序が見られます。そうそう、ハリエンジュ(ニセアカシア)の白っぽい花序、たしかあれがいい香りだったはず。
もうひとつ。日本にもコルクをとる木があるそうです。ぼっくりさんの日記のほうでアカガシから、と紹介されていますが、アカガシなら家のまわりでいくらでも見られますけれど、あれからコルクを採るのはできないと思います。40年、50年を経たもっと大きく太くなるものでないと。品質的にはコルクガシにはぐっと劣るようですが、「アベマキ」という樹、地方によっては「ワタクヌギ」と呼んでいるそうですが、そうそう、これですよ! ガキ大将をやっていたころ、コルクのタマの入ったピストルで追いかけっこし、撃ち合って遊んだのは。ポーン! という乾いた音がして気持ちよかったですね。いまの玩具にはないんでしょうかねぇ、そんな素朴なおもちゃ。

そうそう、コルクといえば、思いだすのは、ワインの栓よりは、鉄砲。おじいさんにくっついて四万温泉、草津温泉、伊香保温泉などへ湯治によく行きました。子どもにとっての楽しみは、みやげもの屋に並んである射的屋でした。身をいっぱいに乗り出して片目をつむり、的をねらう。なかなか当たらないですが、当たって的が倒れたときのうれしさ、いまも忘れられません。

◆<2005年04月17日>ちこらんたんさんへ
コルクの木の件は、そもそも私がなげかけた話題。皆さんが調べてくださって、どうしよう~! と思いました。ありがとうございました。

⇒そっか~、言いだしっぺはちこさんでしたっけ。
図書館で改めて確かめました。フェルジナンドが木の枝葉をちぎり飛ばし、コルク栓を振りまきながら暴れまわっていますね。なるほど、「まちがいだ」「ローソンって画家、コルクの木のこと、何にも知らないんじゃないの」という声をあげる人がいても不思議じゃないかもしれませんね。Hiromi~先生のおっしゃるように、テーマはほかにあり、細部にこだわるべきではない、というご意見はそのとおりでしょうが、しかし、子どもの眼はなかなか鋭いですよ、子どもからの指摘があったら、どうお答えしますかねぇ。「画家のシャレっ気」「ローソンという人のイタズラごころ」で子どもは納得するでしょうか。瑣末なことでしょうが、テューターさんがどうこれに対応なさるか、たのしみです。
このページの上にコルク樫の尾状花序に近いとおもわれるキブシの花序を示しました。(わたしの想像)コルク栓とはだいぶ形状が異なりますね。

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■イソップ動物寓話の秘密
 
「ありときりぎりす」この物語はよほどテーマ活動向きなのでしょうか、どこのパーティでも取り組んでいて、もうしゃぶり尽くされていて、わたしが紹介するようなことはあまりないように思います。原話は「ありときりぎりす」でなく「セミとアリ」となっていることも、みなさんよくご存知のはずですし。

さて、それなら何をご紹介しようか、と考えてイソップ物語について思い返してみると、いやいや、このたった一冊の寓話集、約400のおはなしが地球上の人類に及ぼしてきた影響力の大きさに思いあたります。なんせ、これが最初に形をなしたのが紀元前4世紀ですよ。そしてこの21世紀の今日に至っているわけでしょ。25世紀もの長きにわたって親しまれ、人間の精神形成にかかわってきたという点で、これに比肩するものはないですよね。たとえば「ありときりぎりす」のおはなしから、人びとは何を考え、どんなことを学んだでしょうか。ラボのテーマ活動ではまさにそこを衝いて取り組んできました。ふつうには、遊興的・享楽的生活におぼれてはいけない、働くことを中心に人間はもっと堅実に、地道に、人と人とが協調しあいながら生きるべきだ、といったことでしょうか。
もっと端的には、きわめてよく人口に膾炙されている「うさぎとかめ」のおはなし。あのおはなしから、どんなことを考えましたか。「北風と太陽」や「金の斧・銀の斧」からは…? だって、日本人で「うさぎとかめ」のかけくらべのおはなしを知らないという人はどれくらいいるでしょうか。「もしもしかめよ、かめさんよ、世界のうちでおまえほど…」あのうさぎさんとかめさんです。ここから人びとは、どんなときも油断をしてはいけない、高慢はいけない、才能におぼれるのはよくない、ということを学んだかも知れないし、こつこつと地道に積み上げた努力は生まれついての才能にまさる、と知って頑張る力にしたかも知れないし、自分の実力をよく知り、他と自分を比較したりすべきじゃない、なんてったってgoing my wayよ、と、そんな人生の教訓を会得した人もいるかも知れません。
「オオカミ少年」のおはなしだってそうじゃないですか。ほんの退屈まぎれに少年は「オオカミだ、オオカミが来たぞ!」と叫んで村人たちを驚かして喜んでいる。このテの愉快犯、いまもよくいるじゃないですか。でも、そんなイタズラがくり返されるうち、ほんとうのオオカミが襲ってきたとき、だれも駆けつけてはくれず、哀れ、少年はオオカミの牙にかかって死んでしまう。このおはなしから、ウソはいけない、軽はずみは身を滅ぼすと考えた人も多いことでしょう。「キツネとぶどう」「羊の皮をかぶったオオカミ」「ネズミの嫁入り」といったおはなしも、おもしろいですよねぇ。これらのおはなしも、知らないという人はほとんどいないんじゃないでしょうか。(2005年01月14日)


■イソップ、その生涯と動物寓話の秘密

イソップ、またはアイソーポス。その生涯についてはあまりはっきりしたことはわからないみたいです。ヘロドトスの『歴史』やアリストテレスの『弁論術』という古い文献のなかにわずかに登場するだけで、それによって推定すると、紀元前6世紀に生きたギリシア人とされています。紀元前6世紀のはじめのころ、ギリシアの東の端、トラキアで生まれたと。その説とは別に、小アジアのフリジア島が生地だとする人もいるようです。どちらも、貧しい羊飼いの家に生まれたとなっていて、黒人で、どうも顔はひどく醜く、そのうえどもりで、人とまともに向かい合って話をするなんてことはできなかったとか。そんなコンプレックスのかたまりのような男が、そののちエーゲ海の東の端にあるサモス島に渡り、奴隷として働いていた。ひどい扱いを受けたようですが、さまざまな苦難に耐え、ひたむきに努力をした。2番目に雇ってくれたご主人がわりかしわかった人で、イソップの天賦の才を見込んで奴隷の身から解放してくれた。自由の身になったイソップは、いつそんな能力を養っていたのか、大変身をして、アテネ、コリントなどギリシア各地を寓話を語りながら渡り歩きます。
中世ヨーロッパでは吟遊詩人という旅芸人がいて各地を遍歴していたことはご存知のとおり。その前身のような存在と考えていいのでしょうか。イソップは、どもりでまともに口のきけない奴隷から、寓話をつくって渡り歩く語り屋になったんですね。学校制度もととのっていない時代でした。子弟の教育は親がすべて負っていました。しかし、親の教育力には限界があります。だいたい教育という概念もなければ意識もありませんでした。そんな時代ですから、子どもの情操教育は語り屋が大きく担っていたんですね。語り屋であり教訓屋だったんです。このとき語られていたものをいまのわたしたちも享受しているというわけ。
それにしても、2500年以上も前に生きていた人。幾世代、いや、幾百世代、数えきれないほどの世代を貫いて、あの、ごく簡潔で、わかりやすい、しかしたいへん印象的な寓話をいっぱい、いっぱい語り、子どもたちを笑わせ、子どもたちの想像力を掻き立て、そのモラルを養い、生活の知恵をさずけてきたことを想うと、びっくりですよね。どうでしょうか、わたしたち自身、知らず識らずのうちに精神形成、モラル形成にこの寓話のおかげをこうむっているんじゃないでしょうか。その意味では、ひょっとすると、キリスト教、イスラム教、仏教、あるいは儒教や道教、そういったものよりもずっと深く人間のこころに根をはっているのかも知れません。違いますでしょうか。
道徳を説き、処世術を伝えて、古代ギリシアの青少年教育にあずかり、図りしれない真理を伝えてきたイソップ。イソップの寓話にはたくさんの動物たちが登場します。しかしこれは動物記ではありませんよね。ときには、動物に託して人間の性質や行動を痛烈に批判し風刺し否定する社会批判の要素を強く含みます。なんでそんなまわりくどいことを…。イソップの生きた時代は、ホメロスの時代よりは500年ほどこちらですが、まさにきびしい僭主政治のおこなわれていた時代です。正論をストレートに言えるような状況にはありませんでした。ほんとうに云いたいことを、人間でなく動物の性質を借りて婉曲に語るしかない時代。いやな時代ですねぇ。そんななか、イソップは語り屋として次第に認められ、人気を博していきます。となると、時の権力は黙っていません。体制に反するようなことをあちこちで吹き込まれてはたいへんですから。イソップもちょっと調子に乗りすぎたかも知れません。最期は、紀元前550年代、「神都」とされ、「大地のヘソ(オンファロス)」と呼ばれたデルフィで、あらぬ罪を着せられ、処刑されています。
ですから、イソップがありときりぎりす(アリとセミ)に託して伝えたかった本当のことは、なんだったのでしょうか。ありの勤勉さに学べ、浮かれて遊んでばかりいたら将来はないよ、と語っているだけではないような気がしませんか。イソップの真意は、わたしたちがいまの感覚でとらえるメッセージとはまたぜんぜん違うものだったかも知れませんよ。

もうひとつ知っておかねばならないのは、約400篇の寓話のすべてがイソップの語ったものではないということ。その後に別の人がつくったものもつぎつぎに吸収しつつだんだん形成されていったものなんですね。紀元前4世紀ごろからぼちぼち集成してみようかとの気運がおこり、紀元後1世紀にローマのファエドロスという人が体系化し、その後、ギリシアやローマではほそぼそと語り継がれていたようですが、一挙にこれが世界に広まったのは、印刷技術の起こった15世紀に入ってからでした。英・独・仏の訳本が出てからですね。日本に最初に紹介されたのは1593(文禄2) 年といいます。天草のイエズス会から出たローマ字本『イソポのハブラス』(天草本伊曾保物語)が最初 で、収録数は70篇。これは子どものためのものではなく、もともとは、渡来してくる宣教師たちに日本語を学ばせるための教化本でした。そのあと、明治にはいり、渡辺温、西村真次、福沢諭吉、上田萬年、巌谷小波らが訳して出し、さらに大正・昭和になって、平塚武二、浜田広介、坪田譲治、川端康成、また菊池寛、新島出らによって広く普及されました。
ラボの「ありときりぎりす」が上記のどれを下敷きにしてつくられているかは、みなさんが研究してみてください。わたしたちはイソップのこの遺産をどう引き継いでいったらいいのでしょうかねぇ。そのことも考えてみてください。 (2005年01月15日)

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