◇Play with meさん
「あちらがわ」と「こちらがわ」を意識して、木下順二氏の「義経」と「知盛」を読んでみました。読んでいる側によって、どちらも「こちら」になるんですよね。物事は軸足を置いているほうが「こちら」になるんだ、とわかっていながら不思議に感心してしまいました。ラボ・ライブラリーがなぜ「知盛」だったのか? それが理解できたように思いました。(2005.8.15)
【To: Play with meさん 2005.07.12】
『龍の子太郎』、――たいへんすぐれた作品だと思います。これがラボ・ライブラリーになったらいいのになぁ、とずうーっと思ってきました。天狗にふしぎな力をさずかった主人公が、北の湖で龍になって住んでいるという母を求めての苦難の旅。壮大な冒険です。その試練のなかで主人公はさまざまな人に出会い、労働というものを知り、社会というものを知っていきます。農民の貧しさと苦しさ、しかし同時に、民衆のもつ賢さと不屈の辛抱強さを見つつ成長していきます。祖先が歴史のなかで培ってきたものの豊かさ、力強さ、美しさの結晶にふれるとともに、日本という国、ふるさとというものを見出していきます。日本の原型がそこにあります。
加えての魅力は、作者固有のもつ母性観でしょうか。ほかの作品でもさまざまな母性というものを描いておりますが、これはすごいと思いますね。自分の目玉をくりぬいて子どもに差し出してしゃぶらせる母親の情念は、美しいというだけでなく、すさまじいですよね。
それにしても、イワナ3びきをひとりで食べてしまうようなことがあってはならないという村社会の掟を犯したばかりに龍になってしまうとは…。他をかえりみず、自分だけの欲に溺れてしまうことの醜さを伝えるわたしたちの祖先の教えであり美学でもあったでしょうか。