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日本の伝統的技芸
<1>華道から見た日本人の美意識
時間の遠い深みにあるものを、ひとつずつ、ごまかしなく…
テューターのみなさんのうちの多くが茶道や華道の心得をお持ちのことでしょう。わたしのひとつ上の世代の女性は、ほとんど例外なく、お花とお茶、それにお裁縫とお料理を、女学校を卒えるとすぐ女のたしなみとして学び、体得していました。編み物教室に通う人も。そういうお稽古ごとが花嫁修業として広く普及し、定着していましたね。地方都市では、まだ、女子が都会の大学へ出るのはごく稀れな時代でした。日本舞踊をならうお嬢さんに恋にも似たあこがれをいだいたりしたことも…。当時、町にはそういう学校がたくさんあったことを記憶しています。いまはどうでしょうか。茶道、華道というと、なにやら取り澄まして気取った、何派だ、何流だと、いやに閉鎖的、権威主義的で、おかねがらみの印象もあり、庶民感覚からは遠いところのものになっているような…。
小原流華道の先生であり、ときには地域の福祉ヴォランティアをいっしょにすることもある一人の尊敬する知人がおります。60歳代の、謙虚で目立つことはないが、どこか気品があり、欲がなく、たいへん魅力的な女性でして、このひとに招かれるまま、華道の何かも知らず、生まれてはじめて華道展なるものをのぞくことになりました。
そんなわけでして、だれの作品…、といわれても、その知人以外には名前は知らないんです。それぞれの作品の、どこをどう見ればよいのかもわからない。困ったことに、華道の求めるこころなんて考えたこともなく、そもそも「道」というあやしげな伝統というか因襲というか、そういう前近代的なものがいやな気がして、剣道、柔道、弓道、書道、芸道…、
どう
にも生理的に合わないんですね(といいながら、すこしばかりは茶道、香道にはふれたことがありますが)。「道」だからって、
どう
したっていうんだ、めん
どう
だよ、
どう
でもいいことじゃないか、と、…
ドウ
しようもないのですが。(あれっ、戯作気分がまだ抜けない)
BBSのタイトル下でちょこっと書きましたように、無知の恥をしのんでその知人に聞いたところによれば、なかなか華道も奥が深いようなんですね。話してくれたことをわたしが十分理解したとはとてもいえないのですが、およそ以下のようなことらしいのです。
活け花にあっても、求めるところは人間の生きるたたずまいと同じで、ひとに目鼻があり、手足があるように、それがある微妙なバランスをもって美しい形を生み出す。そうしたなかでも、ひとつの芯がないと表現にならないのだそうです。表現世界の柱になる個性的なシン。女性が、お化粧でいくら化けても、ほんとうの美しさには届かない。髪や耳や首をどれほど高価な宝石で飾っても、飾れば飾るほどチンケなものになるだけ。センスというものはそういう虚飾とは関係がない。活け花にあっては、小枝ばかりをきかせてキンキラに飾りたてても、生彩ある美しさは生み出せない。
云っていることは、まさに人間についてなんですね。才能に恵まれ、たくさんのすぐれた能力をもち、りっぱな教育も受けてゆたかな教養と知識をもちながら、ほんとうの人間のシン(心、芯)を備えていないひとには魅力がない、ということ。まいりますね、こういうことを云われてしまうと。人がらをしのばせる人間の滋味。さて、わたしのシンにあるものって、なんだろう。そのシンを磨き、強めるために、わたしはこの1年、何をしなければならないのかを考えるお正月でした。
ひとつわかったことは、急ぎすぎないこと。急いで大事なことを見すごしてしまわないこと。わかりもしないのにわかったふりをしないこと。年末に来て大騒ぎになった事件に、マンションやホテルの建設に際しての耐震強度偽装という、人間の良心を疑う問題がありました。その根本にあるのが、急ぎすぎたこと、ひとを欺きごまかしたこと、自分の利益に奔走するあまり人間のシンを忘れたか捨て去ったかしたこと、自分の仕事の誇りを見失ったこと…、ではなかったか。
早いことはちっともえらいことじゃない。手帳の予定表を真っ黒にして東奔西走することを充実と勘違いする愚かしさは犯すまい。ゆっくりでいい、一つひとつ、じっくり時間をかけて考え、新しいとされるものに流されないこと。そう、時間の遠い遠い深みにある真実にしっかり目を向け、視点をずらさず見つめなおし、ごまかしなく考えてみること。そう見てくると、これは普遍的な教育観でもあることに気づきます、…いそがないこと、ごまかさないこと。
やはり、プリミティヴな地平、古典に還るということかなあ。さまざまな「道」についても、わけもわからぬまま忌避しないで、その底にある哲理の輝きを汲み上げる努力をしなければ…。――じつは、それは、この年末、このひろば@のなかで、ある少女の生活スタイルから学ばせてもらったことでもあります。
〔To: Candyさん 2006.01.10〕
自分の中心軸をどこにすえるか、ゼニかねで動くのでなく、ほんとうに自分の求めるものが何かを意識しながら活動することが必要なようで(どれほどすぐれた能力に恵まれていても、限界はありますので)、無用なものをどんどん削ぎ落としてすっきりと個性的に立つすがたのほうが美しいんじゃないでしょうかね。能力をひけらかすかのように何でもかでも中途半端に受け入れてばたばた忙しがっているすがたは、どう見ても美しくない。
〔To: Hiromi~さん 2006.01.12〕
活け花につかうあのケンザン、漢字では「剣山」と書くようですね。太い針が逆さに植え込んであり、それで花の茎を固定させるやつ。どうしてなのか、あれに、少年はふしぎな魅力を感じるんです、トゲトゲがあってチクリと痛いけれど、手にもつとズシリとした手応えがあって。これを武器にしてケンカをしたら、もうだれにも負けない、…そんな気がして、生意気なアイツをこんどおんおん泣かしてやるぞ、なんてね。
小学校の低学年生だったころでした、私立の女子高校へいっている上の姉が持っているお花のお稽古でつかう楕円の形をしたケンザンがむしょうに欲しくなってしまって、こっそりくすねて自分の部屋の秘密の場所に隠し持っていたり、ランドセルの底にしのばせて学校へ持って行ったりしたことがありました。
さて、そのうち姉が、ない、ない、といって騒ぎだし、探すこと、探すこと! 泣き泣き探すうち、ついに疑いが末っ子のわたしに向けられます。ウソをそんなにじょうずにつけるほどの知恵はありませんので、たちまち白状することになります。揚句、姉には、ボカボカ、ぼかぼか、頭がイビツになるほど滅茶苦茶になぐられたうえ、親には倉に押し込められるという最悪のおしおきを受け、やけに元気に走りまわるネズミの声におびえながら半日をすごした記憶があります。
活け花の記憶といえば、そんなことが。
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