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―古 典 ①―




〔5-6〕◆安積香山の木簡考

【To: dorothy さん 2008.06.03】
 dorothy さんらしい話題を取り上げてくださいました。
 5月22日にこの万葉歌木簡の発見が報じられて以来、たしかにその後のことは聞きませんでしたね。ところが、じつは、この書き込みをのぞく直前、TBSラジオ、「森本毅郎スタンバイ」という番組で、この話題が語られまして、偶然耳にしました。8時から詩人の荒川洋二さんが毎週火曜日、文学と文字・ことばの周辺の話題を12~13分、話す番組。食事をしながらときどき聞いていますが、今朝、思いがけず、耳にいたしました。その話の中身は新聞に報道された以上をほとんど出ませんでしたけれど。

 ひとつわたしが注目したのは、dorothyさんが書かれた「安積山」、万葉仮名では「阿佐可夜…」となっていて、報道の限りでは「安積香山」(あさかやま)と表記されていること。dorothyさんのお住まいの安積町(あたかちょう)とどんなかかわりがあるのかは知りませんが、何かゆかりがあるのでしょうかね。ご存知ですか。黒塚や采女伝説をもつ由緒ある地でもありますので。詠み人知らずの万葉歌で、

 安積香山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに

 関係なくもないかな…、とも思える歌。こじつけでしょうが、郡山のその地に「山の井」さんというテューターもおいでのはずと記憶しておりまして…。素朴ないい恋歌です。
 この木簡が書かれて棄てられたのが743~745年と特定されています。ということは、万葉集が成立したのが783年とされていますから、それより40年ほど前のもの。もう片面に書かれていた、古今集に見られるもうひとつの歌、梅の花を詠った

 難波津に咲くや木の花 冬ごもり今を春べと咲くや木の花

とともに、当時の王朝貴族たちにはたいへん馴染み深い歌であったことが考えられ、子女の教育、和歌づくりや習字の手本として書かれたものだろう、と推察されますね。勅撰集が編まれるずっと以前から、古代日本人のこころには、ひびきよい歌があり、ことば(言霊)が大事にされてきた伝統があることを知り、誇らしくも豊かな気持ちにさせられます。
 もう一つ付記しますと、この木簡が発見された滋賀県の紫香樂宮遺跡ですが、聖武天皇がここに都を造営してすぐ大地震だかなんだかの天災で崩壊し、わずか5か月で都は平城京に移されます。その大震災(?)のおかげで、こういうものがうずもれて残ったことに、不思議な因縁を思うわけですが。


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〔5-5〕◆光源氏のいる風景
 源氏物語のおもしろさ、魅力とは…?

 わたしにとっての「源氏物語」の魅力は? …そう問われて、ひとにわかってもらえる説明がわたしにできるとは思えないんですがね。「もののあはれ」と説くような国学者ならいざ知らず、菲才なわたしなどは、分析的にこれを読むことはできないし、そんなことをしたら、学校の教科書で読んだときのつまらなさと同じで、ちっとも興味がわきませんよね。ちっとぐらいわからない古語が出てきても、そんなものはすっとばして読む、そこにしか古典文学を読む醍醐味はないように思うことがあります。だって、どうでしょうか、この小説、堅物の乾いた知性主義者は嫌うのでしょうが(陰では案外好きなのかな?)、ほら、“すみれの花 咲くころ はじめて君を知りぬ…”の宝塚歌劇を見ているような錯覚さえ感じることがあるように思うんですよね、「愛」と「恋」の専売特許局としての華麗なるタカラヅカ…。構えて読んだらその味はわからないかもしれませんし。

 でも、何でしょうねぇ、「源氏…」の魅力とは…?
 「日本古典文学に見ることばの美しさ」をいくら語っても、それはソラゴトでしかないでしょうしね、自分のことでいっぱい、いっぱいの、文章をしっかり噛みしめて読むことをしなくなって、ただシッタバッタと東奔西走するいまどきのパソコン族、ケータイ族にとっては。でも、心落ち着けて声に出して読んでみると、ことばに独特のリズムがあって心地よく、ゆりかごにゆられているよう…、ということがあると思います。格調高い、金襴緞子を敷き詰めたような美しいことばの世界には、背筋をスッとさせるものがあります。
 それに、王朝文化のきらめきが放つ魅力、そのゆったりとした流れに癒しを求める人もないではないはず。季節行事に見るゆかしさや女たちの着る衣装の繊細さ、色のあでやかさ。そこに通う風が、妙に日本人の本源的な感覚に合う、というか、わたしたちの感覚の奥のところまでじわじわと沁みてくるような、なじみあるなつかしさを覚える、ということ。
 また、これまで知らなかった日本の時代を知る驚きの機会ともなりますね。王朝時代のきらびやかな文化、わたしたちの知らない、あるいは忘れかけた世界、でもそこはもともとわたしたちのいた故郷、へ導いてくれるパワーと魅惑がありますね。

 正直なところをいいますと、わたしのような卑属で凡愚なものにとっての「源氏…」の魅力、いや、おもしろさを、あえて一言であらわすなら、壮大な「恋の万華鏡」だ、ということでしょうか。“いい女”のオンパレード、そして、地位において、経済力において、容姿において、「光る」源氏の連綿たる女あさり。「光」乏しいわが身にひきかえ、欲しいと思えばどんな女でもモノにできる、光そのもののような男への羨望であり憧れであり、また嫉妬、揶揄と侮蔑。いや、やっぱり、やっかみかな? 永遠の女性たる藤壺がいるかと思えば、“一見美人”とは違って底光りのする美しさの明石の上がおり、末摘花のようなゲテモノや、老いてますますおさかんな源典侍(げんのないしのすけ)のようなバケモノもいる。もの堅い空蝉や朝顔がいるかと思えば、娼婦のような根っからのおとこ好きの夕顔や朧月夜のようなのもいる、と、いろいろなタイプの女性が登場してきて「愛」を結ぶわけですが、考えてみれば、終局的には、ことごとくその愛はその場かぎりの失敗作で、未来につながるものがない。だってそうでしょう、あれほど多くの女性と交情した浮かれ男のくせに、子どもはあまりいないですよね。その時代は少子化は流行らなかったはずなのに、生産性に乏しい男。反面、これは紫式部の敷いた皮肉か、息子の夕霧のほうは、まじめ一方の堅物であり、要領の悪い愚直な律儀もの。しかし、めでたくも、たくさんの子女に恵まれています。

 教科書でしか「源氏…」を読んだことのない人には知られることのない物語世界ですが、遠い世界の浮かれたスケベばなしというだけではないんですね、これ。人間の生と死、読み進んでいくと、ゴォーン、ゴォーーンと、人生無常のひびきが不気味な低音部をなしていることがわかります。ついにあまり親しめなかった正妻の葵の上が死の床につき、六条御息所が怨念深く死に、あんなに憧れていた藤壺の宮も、夕顔も、そしてついには最愛の紫の上にも先だたれます。空蝉も朧月夜も出家して世を捨てて、源氏はたったひとりきりで残されます。光につつまれた驕慢な美貌の貴公子が完膚なきまでにたたきのめされる哀れな姿は、わたしのような光乏しい存在にとっては、それ見たことか! とちょっとうれしくなっちゃうんですね。人生、そんなにうまくいくもんじゃないだろ、バカめ、とベロを出したくなる痛快な展開。
 王朝時代の才女、紫式部のエスプリをきかせた皮肉が、殺伐としたこの煩雑な世にすれ切れてよれよれになって生きる、この光乏しいこの存在をホッとさせてくれる、といったところか。〔2008.03.30 /To: Dorothy さん=抜粋、一部加筆〕


 やんごとなき宮廷生活のかげに、悲しみと怨みに慟哭する姿も

 菲才をかえりみず愧じをしのんで言えば、「源氏物語」は、やんごとなき公達が繰り返す恋と性の渉猟物語として読まれる(いや、あまり読まれない)古典文学ですが、なかなか通して読むまではできないながら、気に入ったところを繰り返し、声に出して読んでいると、そののびのびとした円転滑脱な発想がよく見えてきますし、王朝文学の特徴とされる精緻幽婉な感情をたっぷりと楽しませてもらえるとともに、意外かも知れませんが、ある部分は躍動的、いや、活劇的でさえある部分もあって、こちらをハラハラ、ドキドキさせてくれます。夢中にあるような酔い心地さえ覚えます。そして、四季の自然にまみれ、自然にまろぶ彼らの生活は、情趣深いものがあって、読むもののこころを豊かにしてくれます。色彩感覚にも富み、華麗な夢の万華鏡ですね、やはり。しかも、もう一歩深く読めば、やんごとなき上流貴族のきれいごと、苦労知らずのめでたさではなく、じつは悲哀に号泣する人間の姿、怨念に慟哭し咆哮する人間の、なまなましい姿も見えてきます。みんな合わせて、これぞ日本人の美意識の原点であり、今日にいたるまで、日本人の趣味生活のあらゆる面で、この物語が直接間接に影響していることが知れます。〔2008.04.09 / To: dorothy さん〕

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〔5-4〕◆『源氏物語』に見る求婚の風光

 たくさんの個性ゆたかな、魅力あふれる女性のオン・パレードを見せてくれる『源氏物語』。求婚者の多さという点から見ると、玉鬘(たまかつら)ということになるでしょうか。玉鬘は光源氏がこよなく愛した女性の一人の、夕顔の遺児です。ほんとうは光源氏の子どもではなく、恋において政治においてライバルの関係にある頭中将(とうのちゅうじょう)と夕顔とのあいだに生まれた子。母親に似てたいそうな美貌だったようです。

 母親の夕顔ですが、物語全体のなかではそれほど存在感があるわけではありませんね。男のいいなりになってしまう自然体の女というか、どうも頼りげない存在ですが、男の欲望をそそらずにはいない魅力的な容姿に加え、性愛じょうずとされ、源氏も頭中将もゾッコンでした。そうなると、周囲の女たちの嫉妬には恐ろしいものがあり、源氏の愛人とされながらあまり相手にしてもらっていない六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)の怨霊に呪い殺されてしまいます。夕顔の19歳のときでした。とびきりの美貌で、優柔不断。まあ、好色男たちにはいちばんご都合よろしい女というわけで、身から出たのは、高雅な香りのたちのぼりではなく、サビというわけで、こんな命の閉じ方も仕方ないでしょうかね。さらにイイタマなことには、死にのぞんで娘の玉鬘の養育を源氏に託すというちゃっかりぶり。

 さて、玉鬘。なんとも可愛らしいこの子、たいそうな物語好きなんですね。紫式部がこの可愛い幼女に対する源氏のことばを借りて物語観を述べる部分です。『竹取物語』がなぜ「ものがたり」の原型なのか、そこはわたしたちにもおおいに勉強になりますね。その玉鬘、日ごとに成長して美しさを加えていきます。そうなると、さあさあ、たいへん、どっと求婚者が現われ、彼女の思いは千々に乱れます。なかには、乱暴者として聞こえた大夫監(たゆうのげん)という肥後の豪族がいます。ヘタに断ろうものなら何をされるかわかりません。それだけではありません。のちに女三の宮との密通でたいへんな事態を引き起こす柏木も。この柏木、じつは玉鬘が自分の姉であることも知らないオタンチン。源氏の弟の蛍兵部卿宮も、有力な政治家ながら無骨者の鬚黒大将も。さらにやっかいなことには、源氏自身も。自分が養父であることも忘れて玉鬘に執拗に言い寄り、親子関係が危機に瀕します。
 しかし、騒がしい男たちをよそに、玉鬘はなかなか慎重な女です。打算の人です。あれこれと己れの行く末にじっくりと思いをめぐらせます。なみいる貴公子たちから次つぎに届く恋文。彼女がそれに返信するのは、養父の弟の蛍兵部卿宮ただ一人。立場上からして欠かせぬ礼儀だったのでしょう。さあ、それで決まり! と思いきや、玉鬘がくだした最後の結論は、……なんとまあ、もっとも気が進まなかったはずの相手、鬚黒大将というわけ。う~ん、そんなもんでしょうかねぇ、賢い女の打算とは。


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〔5-3〕紀貫之『土佐日記』
土佐人のおおらかさ、人なつっこさ


〔To: Michelleさん 2007.01.26〕
どういう符合でしょうか、わたしはこのところ、紀貫之『土佐日記』、高校以来のこの日本古典を読み直していました。併せて、津島佑子さんの、「土佐日記」の旅をたどるエッセイを読んでいたところでした。
60歳になってから土佐の国守に任ぜられ、没落貴族の悲哀をかこち、ようやくにして任を解かれて京の旧居に帰る、その苦難の55日の記録。そちらではこの故事が親しく語られていることでしょうね。ほとんどは手漕ぎ舟による旅。平安文学ならではのおおどかさはありますが。
「惜別の情——大津・鹿児の崎」から始まる旅。しかし、わたしには一度も行ったことのない土地。大湊(前の浜)、宇多の松原、羽根岬、行当岬(奈良志津)、奈半利、室津、千羽海崖、鹿の首岬、…などといわれても、さっぱりわからないのですが、今ならそんなに苦労するまでもなく、飛行機や車で1時間足らずで終わってしまうであろう、「旅」とも言えないほどの移動、ところがまあ、平安時代初期の旅となるとなかなか困難なんですねぇ。たえず海賊や山賊の脅威にさらされ、小舟のうえで激浪にもみくちゃにされ、船酔いに耐えながらの旅。
そして一方、まあ、あきれてしまうというか、おもしろいのは、餞別の宴が何日も何日もきりもなくくり返されること。港ごとにくり返されるその饗応で旅はなかなか先へ進んでいかない。和歌をつくることでつながれていたこともあるでしょうが、土佐にはわずか4年ほどしかいなかったのに、束の間の出会いさえ大事にされ、別れを惜しみ合う伝統の習俗がうかがわれます。あるいは、その人なつっこさが土佐人の気質なのでしょうか。

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〔5-2〕近松門左衛門の浄瑠璃本に見る
     日本的な情死


▼ ことばを声に出して言ってみること、自分のことばにして言ってみることには、すばらしいカタルシスがあります。いまわたしは近松門左衛門全集を読んでいます。おもしろいですね~。「曽根崎心中」「鑓の権三重帷子」「心中天の網島」「堀川波鼓」「冥途の飛脚」「女殺油地獄」などなど。何がおもしろいかといえば、人形浄瑠璃で語るものとして書かれていますから、やたらことばの調子がいいこと。どうしても自分で声に出して言ってみたくなります。

  「みをつくし 難波に咲くや此の花の 里は三筋に町の名も 
  佐渡と越後の合いの手を 通ふ千鳥の淡路島」(「冥途の飛脚」より)

といった調子。〔To: Dorothy さん 2007.01.16〕


近松ものでは「女殺油地獄」が好きです。あの、おどろおどろした舞台の雰囲気。江戸時代、どうやってあの雰囲気を舞台演出したんだろう? と想像してしまいます。〔dorothy さん 2007.01.17〕

▼ いやいやいや…。近松をこの「ひろば@」で語り合うことになろうとは、思いもよらないことでした。
 『女殺油地獄』、わたしはその舞台は見たことがありませんが、読むかぎりで、ものすごいやりきれなさ、切なさを覚えましたね。きわめて現代的とも云えるように思うんです。与兵衛という油屋「河内屋」を継ぐ次男坊、これがとんでもないワルです。遊女の小菊のところに入りびたっている放蕩無頼、手のつけられない極道ものです。太兵衛という長男もいるのですが、こちらは家を出て同じ油屋をかたくやっている律儀な働きもの。与兵衛がどうして放蕩に走るようになったか、と云えば、母親お沢の盲目的な愛情というか、可愛いがりすぎです。極道ものと云っても老舗の大事な跡継ぎ。欲しいといえば何でも与えて育ててきました。父親の徳兵衛は、実父の先代徳兵衛が死んだあと、番頭あがりで後夫に入った養父で、先代の手前や周囲の目をはばかって、云いたいことも云えず、不良青年の無頼を見て見ぬふりをするしかない弱い立場にありました。先に書いたJ.J.ルソーの「エミール」にあることば、「子どもをダメにするのはいとも簡単だ。欲しいものがあればハイハイとすぐ与えるようにすればよい」という、まさにそのダメな申し子の典型のようなものですね。妹のおかちに聟をとろうという話が起こって、いよいよ与兵衛は荒れます。

 そして、ちょっと理解できないのは、なぜお吉(よし)がこのバカなハナつまみものに殺されねばならないのか、ということ。おなじ大阪・本天満町の斜め向かいで同業の油屋を営む「豊島屋」の美しい若妻。女ざかりの27歳。町内きっての美人であり、3人の子どもをもつ、無邪気なほどに明るい、まわりの受けのいい、小商人の律儀な妻です。だれにでも親切で、気さくに声をかけます。屋形船に乗っての野崎参りの途中、茶屋でひと休みしているところを、悪い色仲間といっしょの与兵衛に出会います。からかい半分でしょうか、お愛想でしょうか、「あら、きょうは小菊さんといっしょじゃないんですか」。それ以上には関係のないお吉の店「豊島屋」に行って、女郎を身請けするカネを貸してくれと執拗にせがむ与兵衛。亭主の七左衛門は出かけていて留守。主人に相談もなくそんな大金を貸すなんてできない、とお吉がぴしゃりと断ると、ブスリと刃物で刺して、集金してきたばかりの大金をごっそり棚の上から奪って逃走する。
 お吉にしてみれば、殺される何の筋合いもないのに、カネ欲しさ、女欲しさに狂う与太ものに刺し殺される。どうして…? 理由を探れば、親切がアダになって、というしかない。たしかに、喧嘩でドロまみれの与兵衛を見て、帯を解かせ着物のドロを拭いてやったという親切はあった。周囲から白眼視されているワルにとっては、そうしてくれるお吉のすがたは慈悲の女神のように思えていたかも知れない。ワルには過ぎたる親切だったということか。
 しかし、お吉殺しの犯人が、天井のネズミが暴れたことによって発覚した、という展開には、これまた驚かされました。〔To: Dorothy さん 2007.01.17〕


 「曽根崎心中」でしたでしょうか? これから心中しよう、というとき、男の父親を見かけ、心中相手の女がその父親の落とし紙をこの世の思い出に、と大切そうに懐中するシーンはそのせつなさに涙が出そうになります。〔dorothyさん 2007.01.17〕

▼ そうそう、遊女梅川と忠兵衛の、縄目を逃れての死の道行きで、老父が巾着から銀子一枚をとりだして梅川に渡すシーンですね。1日でも多く逃亡して生き延びよとの路銀だが、それでは世間が立たぬ、大坂の義理は欠かせない、と、梅川の親切に対するお礼として手渡す。
 覚悟を決め、この世の見納めに、忠兵衛は梅川をつれて生まれ在所の村にやって来ます。忠兵衛は男女双生児の片割れで、この村から大坂の飛脚問屋亀屋にもらわれて行った養子でした。名うての美妓の梅川との相思相愛のよしみができ、ひとから預かった大事な金を盗んで追われる身に。帰郷して一目なりとも親に会ってから死にたいが、ここにもすっかり追求の手は延びていて、親子が会うことは許されない。遠いものかげから実父の孫右衛門を見れば、老いて足はよろよろ、高下駄の鼻緒を切ってよこざまに泥田へ転げこんでしまう。梅川が思わず飛び出して、すぐさま抱き起こし、裾をしぼって、腰と膝を撫でさする。鼻緒はわしがすげようと、ふところから紙をとりだす父親。梅川は、よい紙がある、こちらをひねってあげしょうと、裂いて見せる。息子の嫁としてのせめてもの親孝行。その美しい手もとを見ながら、孫右衛門は、やさしいこの見知らぬ上臈がだれであるかを察する。老いた実父の出した紙は、唯一の形見として梅川がもらい受ける。このあと間もなく、忠兵衛・梅川は代官所の捕手の縄にかかるのですけれど…。

 どちらの作も実際にあった事件にもとづき、近松の手を経てつくられた物語だそうですが、とにかくすごい創作家ですね~、近松という人は。酸鼻な心中ものの類型をつらねるもの、と思ってきましたが、どうして、どうして。心中ものというよりは、すっきりとした人情もの、心理劇につくりなしていて心をうち、味としては、どちらかというと、いま評判の「蝉しぐれ」などの藤沢周平さんや、山本周五郎の下級武士もののの作品に通じるような…。ずうっとわき目もふらず、息もできないほどに緊張し集中して読むことになります。それは、やはり、ことばの調子のよさに尽きるでしょうか。

   「世を忍ぶ心の氷三百両、身も懐も冷ゆる夜に、越後屋に走りつき、
   内を覘(のぞ)けば八右衛門、横座を占めて我が評判、はつと驚き立ち聞きす、
   二階には梅川が、心を澄ます壁に耳、濡るゝぞ仇の始めなり」
                 (「冥途の飛脚」より)

この八右衛門という腹黒い友人のワナに忠兵衛はまんまとはめられ、追われる身になるわけ。〔To: dorothy さん 2007.01.17〕


 近松ものは、国立劇場で歌舞伎鑑賞会の企画の中で取り上げられたものを見たことがあるだけです。「女殺油地獄」では、舞台の上じゅうにもれた油のなかをすべっては転び、転んでは追いかけ、の、本当におどろおどろしい演出でした。
 〔dorothy さん 2007.02.02〕

▼はは~、dorothyさんがご覧になったのは、原作とはかなりちがうものになっていたかもしれませんね、喜劇的要素をたっぷりと盛り込んで。これは晩年の傑作とされる作品で、他にはないリアルな殺人の場面があり、酸鼻なまでの残酷さを感じさせられるものでした。もっとも近松は歌舞伎狂言として書いたものもいくつかあり、そうした味付けで舞台をつくったのかもしれません。
 井原西鶴、近松門左衛門——。こうして改めて考えてみると、その強靭な創作力に驚かされるんですね。
 西鶴が生まれたのが1642年、少しおくれて近松が1653年に生まれています。高校で使った歴史年表を取り出して見てみると、この人たちが活躍したのは、徳川五代将軍綱吉(1646~1709年)、あの“おイヌさま”で有名な、評判よろしくない将軍が治めていたころですね。この「生類哀れみの令」にかぎらず、タガの弛んだ綱紀を徹底的に粛正しようとした時代でした。どうも、“美しい(属)国”をいう今の内閣がやろうとしている教育改革に一脈似ているような…。「勘定吟味役」という怖い権力が置かれ、人びとは日夜それに脅かされていたようです。

 人びとは古臭い儒教道徳できびしく抑圧され、封建的な身分制度、家庭制度を押しつけられて、窮屈でたまらなかったはず。自由恋愛なんてとんでもありません。なかんづく、不義密通となれば、市中ひきまわしのうえ、ハリツケのさらしものです。しかしね~、人びとはそんなには禁欲生活に耐えられるものではありません。ナマの人間ですから。近松の作品はいずれも実際にあった悲劇的な事件にもとづいて書かれているそうですが、命を賭けて恋にわが身を投げて燃やした男と女、そして恋を成就し、果かなく消えていった、自分のこころにウソいつわりなく生きぬいた男と女を描きました。パッと生きパッと消えた男女を描くことによって、西鶴も近松も、命がけでその非人間的な社会制度と時代状況に抗議したんですね。そこがまたスゴイ!
 〔To: dorothy さん 2007.02.02〕


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〔5-1〕萬葉集の恋歌 雑記

〔2006.09.16〕
しかしまあ、早や秋。萩の花がこぼれる季節でもあり、古事記までいって萬葉集をいわないのは片手落ちというもの。

   萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
      女郎花(おみなへし)また藤袴 朝貌(あさがほ)の花   山上憶良

 朝貌(あさがほ)とは桔梗のこと。高校のころ暗記させられませんでしたか。秋の七草が詠みこまれた有名な歌。萬葉集4千5百余首の3分の1に植物が詠み込まれているうち、秋のハギがもっとも多いことはよく知られていますね。そのつぎに多いのは梅、松、橘。わたしに由縁あるスゲも50首あります。サクラはそれより少なく40首。さて、モモやスモモは…? あります、あります。数は少ないですが、まずよく知られているのは、

   春の苑 くれなゐにほふ桃の花
        下照る道に 出で立つおとめ   大伴家持

カビによる劣化で問題になっている明日香村の高松塚古墳、そこに描かれていた明日香美人が想い浮かびます。うん、美人にモモがよく似合う、…ような。また、

   わが園の李(すもも)の花か庭に散る
        はだれのいまだ残りたるかな   読み人知らず

というのも。
ところで、悠仁親王お誕生のめでたさに沸くわが国ですが、そのオシルシが「高野槇」だとか。「槇」を詠ったものを萬葉集に探してみました。ありましたよ。

    時雨の雨 間なくし降れば
        真木の葉も争ひかねて色づきにけり   読み人知らず

槇=真木については「日本書紀」の歌謡にこんなのがあります。これがなかなかいい。

  真木拆(さ)く 桧の板戸を 押し開き 我入り坐(ま)し 後取りて 端取りて 
  頭辺(まくら)取り 端取りて 妹が手を 我に纏(ま)かしめ 我が手をば 
  妹に纏かしめ 真木葛 手抱き交はり ししくろき 熟睡寝(うまい)し時に
  庭つ鳥 鶏は鳴く……(以下略)

歌垣のなかでオペラのようにして歌われたものでしょうか。ちょっと刺激が強すぎるかしれませんが、幸せに満ちた恋の夜の歌。あまりつっこんで解説すると、問題になりそうですので…。
 萬葉集はその時代の日本の風土と自然につちかわれた人間のこころを実感のままに技巧なくストレートにあらわしていますが、素朴で、余裕があってゆたか、自由で平和ですねぇ。歌には見えないだけかもしれませんが(歴史的事実とは別に)、この世界には、親殺し・子殺しもないし、酔っ払いによる車の轢き逃げもないし、拉致も核兵器もテロもありません。平和って、美しいです。戦争のできる美しい国をめざすという、どっかの国の次期宰相もいるようで、困ったものですが。


〔dorothyさん/2006.09.18〕
私は推薦で入った大学に、入学前レポートという宿題を出され、毎日高校の図書館に通っては万葉集の植物について取り組んだことがありました。あのころは、万葉集総索引なるものがあるのも知らず、一首一首を調べては、植物の多い順に書き込んでいきました。ほとんど出来上がったときに、索引の存在をしり、自分の無知を恥じたものでした。
そんなわけで、万葉集の中で萩の花が一番多く詠まれていることは、実体験として理解できます。
また、大学一年のときに毎週十首ずつ万葉集を暗記していく授業があり、(そのほとんどは忘却の彼方ですが)

  春の苑 くれなゐにほふ桃の花 
     下照る道に 出で立つおとめ   大伴家持

これは、とても心に残っています。実際に、友人と鎌倉に散策にいった折、丁度桃の花が咲いていて、その下に立っていた友人の顔が桃色にそまり、とても雅でした。このときの風景は今でもこの家持の歌とともに印象深く残っています。

相聞歌、というと万葉集第二巻、石川郎女と大伴宿禰のやりとり、

みやびをと われはきけるを やどかさず
       われをかへせり おそのみやびを

みやびをに われはありけり やどかさず
    かへししわれそ みやびをにはある

(結構遊び人って聞いてたのに、いざとなったら私と共寝もせずに私を帰しちゃったでしょ。案外晩熟なのね。いやいや、誰とでも共寝するわけじゃない、ちゃんと相手を選んでいるんだよ。君なんかと共寝するのは私のプレイボーイとしてのプライドが許さなかったんだよ。本当の遊び人とは、そういうものさ。)
これ、好きですね。


〔2006.09.18〕
相聞歌、というと万葉集第二巻、石川郎女と大伴宿禰のやりとり、

  みやびをと われはきけるを やどかさず
    われをかへせり おそのみやびを

  みやびをに われはありけり やどかさず
    かへししわれそ みやびをにはある

(結構遊び人って聞いてたのに、いざとなったら、私と共寝もせずに私を帰しちゃったでしょ。案外晩熟なのね。……) これ、好きですね。(dorothyさん/06.09.18)

⇒ へ~ェ、そうなんだぁ! 武門の名家大伴家の跡取り息子、父ゆずりの詩歌の血を引く若き貴公子、大伴宿祢家持は、一時期のヨンさまみたいなものだったでしょうか、もう、どうしようもなく、もてて、もてて、この美貌の若者に熱烈な恋ごころを寄せる女性はおびただしく、石川サンもその一人で、萬葉集は彼に寄せる恋の歌にあふれています。

 萬葉集ということになりますと、わたしには、「苦い」というか、「痛い」というか、悔やんでも悔やみきれない深い因縁があります。ラボを早期に退職、ラボ・ライブラリー制作の縛めから解放されて最初にやったのが、それ以前から少しずつやっていた萬葉集、主として東歌、防人の歌の鑑賞でして、ひとからゆずり受けたセコハンのノート型パソコンに、思いつくところからどんどん打ち込む作業を、きわめて快調にやっておりました。萬葉学者のだれにも書けないことを自分ならやれるのではないか、とそんなバカな奢りさえもって。全体の構成はあとで考えてまとめればいい、ということで、寝る間も惜しんで書いていました。
 そのうち、東歌や防人の歌から逸れて、萬葉ですので、どうしても相聞歌に行きつき、大伴宿祢家持と彼を取り巻く女性たちの歌、とりわけ笠女郎(かさのいらつめ)の恋のこころの微妙な推移を夢中になって書いているとき、パソコンがプツリッ! あれっ! という間に全部消えてしまいました。
汗ぐっしょりになっていろいろ操作してみてもどうにもなりません。数日はそればっかり。パソコンに詳しい友人の何人にも復活を期してトライしてもらいましたが、もう、パアでした。いろいろいじりまわしたのが却っていけない、なんていわれたりして。ばかですよねぇ、バックアップをとっておけばよかったのに、まずは書き進めること、書きためること、すでに書いた部分を思い出しては修正加筆を繰り返す作業でもありましたので、あとでいいや、という油断があったんですね。400字の原稿用紙にして220~230枚くらいだったはず。マッキントッシュのアップルでしたよ。だいたいあのパソコンはむこうのものですから、日本語のほうはかなりいい加減な部分があり、内容からして古語による表現を避けるのは難しく、文字変換には苦労したんですよね。損害賠償を請求するわけにもいかず、安い中古パソコンを使ったのを悔いたり、バックアップさえとっておけば、とわが身の迂闊を悔いたりしてもすべてはあとの祭り、もう、最後にはそのパソコンを頭のうえ高くにかかげ、力いっぱいコンクリートの地面にたたきつけましたよ。
 以来、そのショックから立ち直れず、萬葉集のことはすっぱりと忘れることにしました。関係の図書資料のすべても文庫活動をしている知人にもらってもらい(ゴミで出さないといういじましさ!)、ようやく萬葉集の縛めからも解放されたというわけ。マッキントッシュなんて見たらツバをかけたくなるような心境。ようやく心癒えて、4~5年前から近くの大学に本部を置く「萬葉花の会」というところでちょっと楽しんでいます。これも、ある不純な動機からなのですが(K.Mという清純派女優さんがいっしょにやっていると聞いて、うん、それいいかも…、と軽薄にも)。

 まだ忘れずにわたしのなかに残っている、笠女郎の熱烈な恋の思いをつづる歌のいくつかを。声に出して読んでみると、ほんと、日本語って、美しいなあ、と思うし、恋をした経験のある人なら、しみじみとして、なんかやるせない思いにつつまれます。

  夕さればもの思ひまさる見し人の言問ふすがた面影にして

 彼女の歌は萬葉集に二十九首とられています。そのすべてが大伴家持に贈った恋の歌。特に巻四の二十四首を見ると、まさに恋愛歌集のさまになっていますね。

  わが形見 見つつ偲ばせ あらたまの 年の緒長く われも思はむ 

 形見とは何だと思いますか? これは恋の一夜のあと、たがいの下着を取り交わし、次に会うまでそれを肌身につけておくという当時の習慣があって、その下着というわけ。ちょっと、ねぇ。

   わが思ひを 人に知るれや 玉櫛笥(たまくしげ) 
             開き明けつと 夢にし見ゆる

 もう、どんどん書いて送りますが、それに対する家持の返歌は二首のみ。彼女のはげしさに色男のほうはちょっともてあましぎみ。その歌が次第に変化していきます。最後には、あきらめと自嘲に満ちたこんな歌。甲斐のない恋に身を焼き尽くし、もうやけくそ、という感じですかね。

   相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼の後(しりへ)に 額づくごとし

 哀しく燃えるこころを伝える実感のこもったいい歌ばかりですが、所詮、笠女郎は人妻でもあったらしいし、美貌の貴公子、大伴家持のほうは、星の数ほどの女性との恋の遍歴を経て、結局は初恋の女性、大伴坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)との恋に戻っていく。歌の背後にせつないドラマが見えてきます。
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