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【ギリシア悲劇/宮澤賢治、夏目漱石、中原中也/バルザック「ゴリオ爺さん」/ 夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」/石川啄木の感傷/ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」】




◆4-6 ギリシア悲劇を読む午後
      みずからに誤魔化しを赦さぬ勁さ

▼【2007.06.18】
 この木曜日には、ギリシア悲劇を「ふれあい読書会」で講ずることになっております。多分、2回にわたる講座になると思いますが、まずは、テバイのラブダコ王家の悲劇、オイブィプス王の非情な運命――知らずとはいえ、自分の父を殺害し、自分の母を妻として臥床をともにして4人の子をなすという運命のいたずら。そして命果てた母であり妻の上衣を飾っていた黄金の留金で自らの両の目を突き刺し、盲目の身で見知らぬ地を乞食してさまよう身に…。ソポクレスの「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」を軸にこの悲劇を。

 また、もうひとつは、ミュケーナイのアルゴス王家のたどる悲劇的な没落を俎上にして、アイスキュロスのオレステス三部作「アガメムノン」「供養する女たち」「慈しみの女神たち」、加えてソポクレスの「エレクトラ」に書かれたドラマから、古代ギリシアの人びとの運命観を。こちらは、トロイア戦争の大将として活躍したアガメムノンの呪われた家系の話ですよね。戦勝して帰国、だが、その夜、長い戦いの疲れを癒している浴槽で惨い事件が。樵が木を切るように唐金の両刃の斧が王の頭蓋を割る。
 王妃クリュタイムネストラは、王の従兄弟であり王妃の情人のアイギストラと共謀して夫を殺害。情人が王家を継ぎ、子どもは他国に逃れて身を隠すなどの冷遇。ここから始まっていく娘のエレクトラと息子のオレステスによる母殺しという仇討ちの連鎖。

 人間にとって、何が尊いことなのか、何が賎しいことなのか、何が人間にとって誉れか、何が汚辱か、そういうことを中学生から老人までのさまざまな層の人びとと学びあうつどいになるはずです。


▼【2007.06.22】
「いまどき、なぜギリシア悲劇 !?」
 アテナイの独裁者ペイストラトスが創始した大ディオニュニア祭の悲劇競演のこと、コロスのことや劇場の構造のことを含み、どんなふうにそれがおこなわれたか、ホメロスの「オデュッセイア」とソポクレスの「オイディプス王」のつながり、また古典古代ギリシア悲劇の三大悲劇作家のことなどなど。ギリシア悲劇の最高傑作とされる「オイディプス王」、テーバイのラブダコス王家三代の罪と呪いと報復の物語の、いまのわれわれに向けて発せられているメッセージを市民の読書会のなかでお伝えしました。

 無関心時代、自分の目の前のことしか見えていないバカ親(“モンスター親”という名がつけられている)がつくる社会、といわれる今日と、真相追求の強い意志を貫き、人間の誉れとは何か、汚辱とは何か、人間の強さとは何か、人間の誇りとは何か、尊さとは何か、卑しさとは何か、をはげしい気性をもって追求する誇り高い正義の王。それゆえに転落と破局を迎え入れることになるのですが。ややこしいことはぜんぶ他人任せ、“知らぬがホトケ”でやりすごすことの多いわれわれの日常と、なんと大きな隔たりがあることか!
 「オイディプス王」の続編(独立した作品ではありますが)の「コロノスのオイディプス」や「アンティゴネ」についてはあまりふれられず、次回7月には「アンティゴネ」を中心に講ずることになりました。
また、おまけに、10分足らずでしたが、蜷川幸雄監督、野村萬斎主演でおこなわれ大好評を博した演劇公演を観た知人のひとりに、そのときの感想をたいそうな興奮をもって語ってもらいました。すばらしい芝居だったようですね。わたしは観ていませんが、萬斎の発声力を想像するだけで、その緊迫感と興奮が伝わってきます。

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◆4-5 宮澤賢治、夏目漱石、それに中原中也の輝き

 唐突な質問ですみませんが、夏目漱石の「二百十日」と宮沢賢治の「注文の多い料理店」は、何だか似ているように感じるのですが、どちらかが、影響を受けているとか、その時代の特徴的な作風とか、なのでしょうか? ご存じだったら教えてください。〔みかんさん 2007.06.01〕
          ☆          ☆         ☆
 ははあ~、「草枕」とともに、みかんさんのお住まいの熊本を舞台にする漱石の作品ですね。細かなことはすっかり忘れてしまいましたが、「二百十日」は7~8年前に川崎市のほうでやっていた読書会で読み合った作品です。「草枕」とはだいぶ趣きが違い、ふたりの男のヤジキタ漫才といったタッチで書かれた、軽妙洒脱な会話体の短篇作品でしたね。温泉宿に来たふたり、浴衣すがたのまま阿蘇山に登りますが、噴煙に巻き込まれ、二百十日の雨と風にあって道に迷い、胸まである草のなかをさまよううち穽におちてさんざんな目にあうというはなし。そちら熊本では愛されてよく読まれている作品ですか。
 「注文の多い料理店」との影響関係ということでは、わたしはこれまで考えたこともないのですが、もしあったとすれば、先ほど年表を見たところによりますと、「二百十日」のほうは1906年の発表、「注文の多い料理店」は1924年に1,000部を自費出版したとありましたから、あとの宮澤賢治が影響を受けたことになりますね。たしかに、漱石はすでに人気作家、新聞小説としてどんどん作品を出していた時期ですから、賢治もそれを読んでいた可能性は十分に考えられます。しかし、どうでしょうかね~、「二百十日」には江戸の草双紙のような軽さがあり、金持ちや華族たちが跋扈する世の中に対する庶民的な悲憤慷慨はありますが、それは酔っ払いの愚痴というに近く、温泉につかりながらの無責任なヨタばなしのような味があって、社会批評というには浅いように思いますけど。
 一方の「注文の多い料理店」には、自然を軽視する人間の傲慢不遜さをふたりの青年紳士、イギリス風に洗練されていることをハナにかける都会人種に対する明確な批判があるように思いますね。かなり意識的な社会批判を感じます。どちらが優れた作品か、そこには違った評価の軸があるでしょうけれど。
 宮澤賢治と夏目漱石との影響関係については、後日、改めてもうちょっと丁寧に探ってみるとして、じつは、きょう、神奈川県立近代文学館の「中原中也と富永太郎展――ふたつのいのちの火花」を見てきました。きのうの狂ったような荒天とはうってかわって、気温21℃、横浜の海からの心地よい風を浴び、バラ園の香りに包まれて、遠い青春の日の甘酸っぱい記憶に浸ってすごした半日。
 この展示を見て、アッそうか、とひざをたたいたのは、中原中也の詩のいくつかに宮澤賢治のイメージが乗っている、ということ。あまり知られていないのですが、「修羅街挽歌」という中也の詩を見て、あ、「春と修羅」を読んでいるな、とピーンとくるものがありました。

    暁は、紫の色/明け初めて/わが友等みな/我を去るや
    否よ否よ、/暁は、紫の色に/明け初めて
    我が友等みな/一堂に会するべしな。
    弱き身の/強がりや怯え、おぞまし/
    弱き身の、弱き心の強がりは、/猶おぞましけれど
    恕(ゆる)せかし/弱き身の/さるにても
    心なよらか/弱き身の、心なよらか
    拆(さ)るることなし。

 この早熟な天才は、“ダダイスト”をみずからに認じ、火のように烈しい偏執で自己主張するものですから、周囲には、ちょっとつきあいきれないハナモチならぬやつ、というものがあって敬遠され、一人去り二人去り、友人に見放されて孤独をかこつ時期がありました。人の話には耳を傾けない傍若無人ぶり、自己撞着ぶりだったようようですね。自業自得か、孤独の痛みにさいなまれていたときに書かれた詩篇がこれです。“修羅”という印象あざやかな語の発想は賢治か萩原朔太郎のもの。書かれている内容においてはあまり通じるものがあるとは思えないのですが、まず「春と修羅」と無関係とは考えにくい。
 このほかにも、影響といえそうなものに、「星とピエロ」という詩稿があるし、中也にはめずらしい童話作品「夜汽車の食堂」という草稿、これなどはどうみても「銀河鉄道の夜」を知らずに書いたとは思えませんね。

    「雪の野原の中で、一條のレールがあって、そのレールの
    ずっと地平線に見えなくなるあたりの空に、大きなお月様が
    ポッカリ出てゐました」

 中原中也はどこで宮澤賢治を知ったか? もちろん直接会ってはいません。会ったとしても、賢治と親しい関係がつくられるとは考えにくい個性同士。つまり、「春と修羅」を中原中也に紹介したのは、富永太郎のほかにはいないでしょう。24歳の若さで惜しまれて夭逝した、中也より6歳年上の詩人であり画家、新鮮で硬質な象徴詩を書いた天才でした。ヴェルレーヌ、ボードレール、ランボーらのフランス近代詩を紹介して、中原中也をダダイズムの狂信のわだちから抜け出させたほか、世界の新しい詩の世界を切り開いて見せ、中也を独自の抒情詩の世界へ引き出した人物。その「新しい詩」のひとつに「春と修羅」があったことはほぼ間違いない。
 中也は17歳、すでに長谷川泰子と同棲しているときのふたりの天才詩人の出会い。それは、はげしく嫌悪し、反発しあいつつも、互いの才能を認めあわずにいない、不思議な友情でつながっていました。

 あ、ここは似ている、ここはこちらをまねている、盗用しているなどと詮索するのは好きではないですが、知性と知性、感性と感性が本質的なところでふれあえば、熱い火花がほとばしり、どうしたって影響関係は生じずにはいないでしょうね。それでなくてさえ、たとえば日本神話とギリシア神話に共通するものがいくらでもあることにみるように、時間や空間をはるか隔てても人間存在の本源には太くつながっているものがあり、絵画も音楽も文学もあらゆる芸術が古来よりそこをひたすら表現してきたのだ、とはいえないでしょうか。時代を超え世紀を超えて残っていく傑作、人類の宝には、いつの場合も共通して、人間とは何か、存在の意味は何か、の問いと追求がありますね。〔2007.06.02〕


>「二百十日」は大学の「新熊本学」という教科で取り上げられて、読んだものでしたが、「弥次喜多道中」を彷彿とさせるという、dorothyさんの指摘ももっともですね。私は、阿蘇の草原で迷子になったあたりが、山中で迷子になる「注文の多い…」の二人に似ているような気がしたのですが。〔みかんさん 2007.06.05〕
     ----------------------------
 はい、みかんさんが似ていないだろうか、と見たのはそこだろうとは思っていました。阿蘇の草千里。九州のラボ・キャンプで産山に、湯坪に行ったことがあります。背丈ほどもある草の原を漕ぐようにして右往左往する感覚を経験したことはありませんけれど、方向感覚も失って迷い歩き、疲れはてたすえに、ふと目の前に見たのが、宮澤賢治の描く途方もないレストランだったり、「雨月物語」の浅茅ケ宿だったり、むかしばなしの「すずめのお宿」だったり…。そうした幻想と人間の根源的な不安を高等落語のように語ってみせる漱石って、やはりタダモノじゃないですね。〔2007.06.05〕


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◆4-4 バルザック『ゴリオ爺さん』
    愚かしくも美しい永遠の父親像―、子に与えつづけた老人の悲しい死

「結局、わしにわかったのは、自分がこの世で余計な人間だということでしたよ」
「娘たちをかわいがりすぎた罪」がこの報いで、「あの子たちはわしの愛情にこっぴどい仕返しをしてくれた」
「わしのことを恥ずかしいと思うようになっていたのじゃな。子どもを大事に育てたところで、結果はこれでしてな」

自分が老いて死の病にとりつかれたとき、周囲の世界はどんな表情で自分を見るのだろうか―。
すでにいまは亡いが、両親の恩に、自分はどれほど報いることができたろうか―。
そんなことを思うときはないだろうか。そんな思いをもってこれを読むものには、総毛たつほどに恐ろしい作品であった。日ごろ、地域の高齢者福祉に幾分か携わっているわたしにとって、不思議なほどのリアリティをもって伝わり、腹の底のあたりからゾッと冷たいものが立ち上ってきた作品。みなさんのなかにも、老親介護の日々で加齢とともに日ごとに衰えていく肉親のすがたを目にしている方も少なくないだろう。老いなんて考えたこともないかつての学生時代には、こんなふうには読めなかったバルザックの代表的な傑作。愛とは何か…、わたしたちにそれが問われている。

                   ☆
粗末な貧乏下宿に一人息をひそめるようにして暮らす老人。かつては西洋素麺業者として巨万の富を築いたことのある、69歳の人物。1789年、バスティーユ牢獄襲撃事件に端を発するフランス革命の混乱に乗じて、穀物取引きで財をなしたという。加えて、地方の豪農のひとり娘を妻に迎え、事業も生活も順風満帆だった。が、幸福の日々はそう長くは続かない。妻は7年目に病死、ゴリオはふたりの娘とともにあとに残された。愛らしい美しい娘だった。
父親の豊かな財力をバックに、上の娘(ナジー)は伯爵夫人に、下の娘(フィフィーヌ)は男爵夫人におさまる。その上流貴族社会は、うわべの優雅さ、華やかさとはうらはらに、カネの力だけがモノをいうところ。そこに生きるものの生殺与奪の権利を握るのは、カネ。娘たちがその社交界の虚栄の渦に巻き込まれながら、その世界で、体面を保ちつつ、円満に、気随気ままに生きていくために、父親は、次つぎに残された財産を注ぎ込む。
 「父親なんてのは、幸せになるためにはいつまでも与えつづけねばならんのじゃ。いつ  までも与えつづけることが、父親を父親たらしめるんでな」
低級な安下宿にある父親とは対照的に、娘たちが住んでいるのは、奢侈と虚栄、情欲とエゴイスティックなかけひきが支配する社会。幾重にもなる虚偽と欺瞞によって生ずる歪みは、次第しだいに人間を堕落させ、破滅の道へと導く。爛れた性愛の狂宴、持参金目当ての謀りでなされる形式的な夫婦生活、空虚な愛のかけひきで織り成す社会に、本当の愛などあるはずはない。華美な装いの裏には底深い闇の沼が渺々と広がっている。そんな闇にあたたかい灯火を見せるのが、ゴリオ爺さんの一途な愛、娘たちに注ぐ愚かしいまでの愛、真率で盲目的なその愛は、かえって輝かしく美しい。間違っているかもしれない、過ぎた愛かもしれない。しかし、そこに父性のキリストともいうべき崇高な愛を見ることができる。
男たちはおカネ目当てに女に近づき、出自の誇りを楯に、享楽への誘惑で女の心を蕩かすことにうつつを抜かす。ところが、いったん女を支えるべき親の財力に翳りが生じてきたと知ると、あとは、ただの疎ましい存在、邪魔なゴミのようにして棄てて他に走るか、さっさと外国などに逃げ出してしまう。そういういかがわしい社会に娘たちがいることを承知しながら、ゴリオ爺さんは、娘の夫には隠れるようにして、持つ限りのものを与えつづける。娘たちの奢侈をわが身の幸福、わが身の使命であり生き甲斐とする悲しい老人。その親バカぶりの愚かしさを超越して、ひたすら娘を思う純粋な感情には偉大な輝きがあり、胸をうつ。親ならではの無限の愛、無償の愛の尊さ。

一方、そんな腐った社交界にあこがれ、それを利用して出世願望を果たそうとする貧乏学生がいる。ウージェーヌという南国生まれの法科学生。ゴリオ爺さんと同じ下宿屋に住んでいる。22歳の彼が美しい貴族夫人に恋を求めて、貧民の集まる不潔な下宿と、奢侈と傲慢不遜の牙城である上流貴族社会とのあいだを往き来しつつ、その眼で大河小説を紡ぎだしていく構成。ゾッとするほど冷たい物語だと先述したのは、老人の見せる無垢な愛と、虚栄心と功名心のからくりの社会とのあいだに埋めがたく横たわる距離の大きさのことである。
死の床に臥しながら老人がウージェーヌ青年に告白する。
 娘たちは「一度だって、わしの悲しみや、苦しみや、窮乏を察してくれたりしなかった。わしが死ぬことだって察してくれるものか。わしがどんなに愛しているかという秘密ですら、知りはしないのじゃ」
与える愛、一途な愛を引き裂くもの

父親と娘たちを隔てる懸崖の恐ろしい深さ。ああ、これこそが現実というものか。美しい魂を持っていると、この世に長くとどまっていることは許されないのだろうか。娘が手紙でおカネを無心してくるたび、身を削りつつどうにか工面をつけてきた。しかし、上の娘が舞踏会に着ていくラメ入りのドレスのために、今度こそ最後の最後、残るものは一切ないところまで、老人は底をはたいて投げ出す。一文なしになった老人。びた一文もなく痴呆状態で死の床にある老人。それでも老人の頭のなかには、シャンデリアの光かがやく舞踏会の中心で男たちに囲まれ、華麗にダンスを舞う娘のすがたしかない。
 「ああ! わしは病気なんかしておれん。娘たちはまだまだわしの助けが必要なんじゃ。あの子たちの財産は危殆(きたい)に瀕しておる。そして、何という亭主どもの餌食になっていることか!」
死装束の経帷子(きょうかたびら)を買うおカネさえなく、爺さんを知る下宿の仲間からは  「死んだほうが幸せだ」という早すぎる追悼のことばを受けて、なおわずかな命の灯をともしつづける老人。すべてが遠くへ遠くへと離れていく感覚のなかで、それでも娘たちの最後の接吻を心待ちにしている。そら、そら、靴音だ、やっぱり駆けつけてきてくれたじゃないか、と、虚しい幻聴を何度も楽しむ。その娘たちは、それぞれに破局と沈倫の淵に溺れていて、父親の危急の知らせを受けながらも、一歩すら動こうとしない。一文なしの父親はもはや父親でも何でもないのだ。何という懸崖の深さか。娘の幸せを信じ、娘に尽くすことに生涯を捧げてきた、愚かしくも崇高な魂。「姉妹のダイヤの向こうに横たわっているゴリオ爺さんの粗末なベッド」が、ふたりの貧しい青年、ウージェーヌと医学生ビアンションにはやけに目に映る。「舞踏会へ行くためなら、父親の死体でも踏みにじりかねない女」たちの生きざまに、ふたりの青年は上流社会に通う冷やかな風を今こそ感じる。出世を願って上流社会の浮ついた女たちを漁ってきたさすがのウージェーヌ青年も、目前の絶え絶えに衰弱した老人の顔を見つつ、
 「愛情とは、あるいは、快楽に対する感謝の念なのかもしれない。恥を知らない女であれ、崇高な女であれ、彼はこの女を、自分が持参金のように彼女に提供した官能の悦びのゆえに熱愛していたのである」
と知る。一方、老人は、娘たちが駆けつけて最後の接吻をしてくれるだろうとの期待をはかなく裏切られて絶望し、余命いくばくもないことを意識しつつ、自分が娘に傾けてきた愛のいかに虚妄であったかを、ようやくにして気づく。なんとも悲しい、遅すぎる認識である。
 「こっちが子どもに命を与えてやっても、子どもたちはこっちに死をくれてよこす。子どもたちを世間に出してやると、お返しに、こっちを世間から追い出す。たしかに、あの子たちは来るもんか! 十年前からそのことはわかっていたんじゃ。ときどき、そうじゃないかと疑ってみたのじゃが、本気でそう思う勇気がなかったのでな」
そうこぼしつつも、ひょっとしたら娘たちは来てくれるのではないか、との期待を完全に棄てたわけではない。来ない。まだ来ない。命の灯はあと数呼吸を残して消えようとしている。いよいよ絶望して、老人は喘ぎあえぎ青年に語る。
 「だが、何もない。金で何でも買えるんだ。自分の娘でも! ああ! わしの金はどこへ行ったのじゃ? わしが財宝を残してゆくのなら、娘たちはわしを手当てし、看病してくれたろうに」
 「わしは娘たちの前にひざまずいていた。見下げはてた子どもたちじゃ! 十年前からのわしに対する親不孝に、最後の上塗りをしおったのじゃ」
老人の絶望は深い。引き裂かれた思いのなかで、生きる気力も失せていく。わずかな望みも断たれたあとは、悲しい自虐のトゲだけが襲いかかる。
 「何もかもわしの罪でしてな。わしは、あの子たちがわしを踏みつけるようにする癖をつけてしまったのでしてな」
 「いまになって、わしの一生が見えてきた。わしはだまされているんだ! 娘たちはわしなんか愛してはいない、一度だって愛したことなんかないんだ」
 「わしは野良犬みたいに死んでいく」

             ☆
老人の亡骸は、医学生が病院から格安に手に入れてきた貧民用の棺に納められた。もっともつつましい三等の葬儀の費用は、貧しいふたりの青年が走りまわってどうにか工面したもの。上流社会で浮かれる娘とその夫たちは、文なしの野良犬の死には一顧だに払わない。わずかばかりの埋葬の費用負担にも耳を貸さず、使いの青年を面会謝絶でぴしゃりと追い払う。老人は、文字通りの野良犬同様の死を死に、人びとの記憶からすぐに消え去る。《エッセイ集「読書、このごろ」より》2007.03.11
★バルザック『ゴリオ爺さん』平岡篤頼=訳、新潮文庫


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◆4-3 『吾輩ハ猫デアル』初版本、一大奇書にみる漱石像

 12月9日、この日、夏目漱石が歿しています。1916年のことですから、90年経ったということですね。
 このところ、森鴎外の研究書をあれこれ読んでいるなかで、無意識のうちに夏目漱石と比較している自分に気づきます。名実ともに近代の日本文学を代表するふたり。
先月のはじめころでしたか、漱石の『吾輩ハ猫デアル』を読みなおしました。『坊っちゃん』とともに国民文学と呼ばれるほどポピュラーな作品。知らない人はいませんね。でも、ちゃんと、これ、読んでいますか。
 ずっとずっと以前に読んだときとはぜんぜん印象がちがうんです。現代かなづかいに直されたもので読んでいましたが、今回は初版本の復刻版なのです。中村不折が装丁したり挿し絵を描いたりしています。途方もない懲り方のされた美本。ゴールデンギルトトップのアンカット・エッジス、つまり本の束と小口の部分には金が施され、手ざわりよろしい用紙を8ページごとにペーパーナイフでカットしながら読んでいくというもの。ええ、豪華です。ぜいたくな気分になりますねぇ、たかが読書ですが。
 ところが、どっこい、これは明治文壇の一大奇書ですなあ。いや、高等落語というか。軽快洒脱な滑稽もので、漢語の警句に満ち、行分ハキハキとしてヒリリと人を刺すというものながら、多少は古語・漢語には通じているはずのわたしにも手におえない難物です。四つ五つの辞書を脇におきながらの読書。え~~っ、こんなだった!? 誤字もある、誤植もある。因みに、短文をいくつか拾ってご紹介しよう。もちろん、ルビなんてふってありません。〔  〕はわたしの読み。

 無事に消光罷り在り候間、乍憚御休心可被下候〔…はばかりながら、ご休心くださるべくそうろう〕

 雑ぜかへしてはいかんよ〔まぜかえしては…。雑の字はパソコンにはない旧字〕

 今日は無據處差支があつて出られぬ〔よんどころなきさしつかえがあって…〕

 彼等鈍瞎漢は始めて自己の不明を耻づるであらう〔彼らどんかつかんは…はずるであろう〕

 瞎漢は、禅のことばで、“めくらやろう”といったほどの人を卑しめていう語。鈍はそれを強調する接頭語ですね。百姓を「どんびゃくしょう」と云ったりすることもある、あれです。

 偖此原理を服膺した上で時事問題に臨んでみるがいゝ〔さて、この原理をふくようしたうえで…〕

 服膺(ふくよう)は、心によくとどめて忘れないこと。

 會ま吾妻橋を通り掛つて身投げの藝を発表し損じた事はあるが〔たまたま、吾妻橋を…〕

 十年一孤裘ぢや馬鹿気て居りますなあ〔十年ひとこきゅうじゃ…〕

 孤裘(こきゅう)は、古代中国の斉の宰相の晏平仲(あんへいちゅう)が1枚の狐の皮でつくった皮ごろもを30年も着つづけていたという伝説にもとづく。

 吾輩を目して乾屎橛同等に心得るも尤もだが〔吾輩をもくしてかんしけつどうとうに…〕

 乾屎橛(かんしけつ)とは、どうも漱石さん、お品がよろしくないですなあ。拭いたあとまだ不浄のついたまま乾いているクソカキベラのこと。今みたいにトイレットペーパーはないもんね。

もうひとつ、珍野苦沙彌先生が奥さんに向かって投げつける有名なことば、「オタンチンパレオロガス」。意味もわからず、かつてこんなことばで悪口を言って友だちをいじめた経験、…あるんだなあ。今ごろ謝っても遅いかしれないけど、うん、ごめん、ごめん。意味、やっとわかったよ。ローマ帝国の最後の皇帝コンスタンチン・パレオロガスにひっかけたシャレだったんだね。

 ————こんなところでやめておきましょう。どうですか、子どもでも楽しく読めると思われていた“吾輩ネコ”、どうしてどうして、高校生、いや、大学生でもちょっと歯が立たないのではないでしょうか。それにしても、漱石については、知っているようでいて実はあまりよく知らないことばかりだと気づく。
 代表作の一つ『三四郎』に登場する魅力的な女性、美彌子という女性、あのモデルが平塚らいてうだったなんて、ご存知でしたか? 良妻賢母教育のお茶の水の“海老茶式部”であり、志操堅固な禅学令嬢たる平塚明(はる)。のちに「元始、女性は太陽であった」と「青鞜」で宣言、日本の婦人解放運動の第一歩を画期的に築いたあの女性ですが、それより以前、22歳のとき、とんでもないスキャンダルを起こしますね。作家のたまご、森田草平と那須塩原温泉の尾花峠の雪のなかで心中未遂。とびきりのエリート同士による「痴に倣へる未曾有の事」として世間で大騒ぎになります。師である生田長江が、消防隊や警察に保護されたふたりを引き取りに塩原まで行き、事件の後始末に奔走、結局、森田草平の身柄は漱石のあずかりとなります。
 バカな火遊びをしたもんだ、とさんざん森田を叱った一方、「で、どうだったんだい、あの女は…」、と根掘り葉掘りらいてうの、そそられるような「女」の味を探るおヒンよろしくない漱石。ピーンとはね返るような美彌子の堅さ、姿勢の高さと輝くような知性。う~ん、あれはたしかにらいてうのコピーかもしれない。自分で『三四郎』のなかに美彌子を描く一方、森田にもチャンスをつくってやる。そのときの経験を細かに書き朝日新聞に連載した『煤煙』が森田草平の出世作になっています。

 さてさて、身分、格式の高い家の長男として生まれ、たいせつに育てられた森林太郎。俗悪な立身出世の欲にはまったく薄く、身分にも位にも社会的な地位にも役せられないながら、それでも次第に出世し、いちじるしく立身を遂げた鴎外。かたや、人生の迷い多く、地位や俸給や生活費のことでたえずあくせくしていた漱石。その生まれ方、育ち方をこんなふうに書いていることを知って、またまたびっくりしました。

 「私の家も侍分ではなかった。派手な付合をしなければならない名主といふ町人であった。私の知っている父は禿頭の爺さんであったが、若い時分には、一中節を習ったり、馴染の女に縮緬の積夜具をして遣ったりしたのださうである」

 いったい、幼児期はどんな育てられ方だったのか…。
 「私は両親の晩年になって出来た所謂末っ子である。私を生んだ時、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいふ話が、今でも折々繰り返されてゐる。単に其の為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生まれ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。其の里といふのは、無論私の記憶に残ってゐる筈はないのだけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世にしてゐた貧しい夫婦ものであったらしい。私は其の道具屋の我楽多と一所に小さい笊(ざる)の中に入れられて毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐたのである。それを或晩、私の姉が何かの序に其処を通り掛かった時見付けて、可哀相とでも思ったのだらう、懐に入れて宅(うち)へ連れて来たが…」
 「私は何時頃其の里から取り戻されたかは知らない。然しぢき又或る家へ養子に遣らされた。それは慥(たしか)私の四つの歳であったやうに思ふ。私は物心のつく八九歳迄其処で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起こったため、再び実家へ戻るやうな仕儀となった」

 大文豪の幼少期がこんな暗い悲惨なものだったなんて、知らなかったですねぇ。漱石死して90年目、わたしがここで書いたことが尊敬すべき大文豪の威徳をしのぶにふさわしいものだったかどうかあやしいが、何となく書いていたらこんなものになってしまいました。気にさわったらお許しあれ。そして、願わくばその才能の一片でも分けてもらえぬものか。〔2006.12.09〕


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◆4-2 石川啄木の詩魂と少年の日の感傷

〔To: ばーばーじゅこんさん 2006.12.11〕
小樽でしたね、ご実家は。小樽のゆかりといえば、小林多喜二の「蟹工船」「不在地主」、石川啄木、伊藤整、小熊秀雄…などでしょうか。とりわけ小学生から中学生のころに読んだ啄木の歌は、いまも数十、諳んじていますよね。なにかにつけてあの清冽なイメージが口に出てくる。
努力にもかかわらず、何をやってもうまくいかないとき、

  はたらけど はたらけど 猶わが暮らし楽にならざり ぢっと手を見る

自信なくわが身の不甲斐なさに哀しくなって、

  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻と親しむ
  実務には役に立たざるうた人と 我を見る人に金借りに来る

それでも、なんとか気力をふりしぼって…

  何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る
  新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に嘘はなけれど

体調が悪い。このまま死ぬのかなあ、と弱気になったようなとき、

  氷嚢の下よりまなこ光らせて 寝られぬ夜は人をにくめり
  そんならば生命が欲しくないのかと 医者に言はれて黙りしこころ

小樽をうたったものでは、

  かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ
  あらそひて いたく憎みて別れたる 友をなつかしく思ふ日も来ぬ
  世渡りの拙きことをひそかにも 誇りとしたる我にやはあらぬ
  子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな

どのうたにも哀切な思いが引き出されます。小樽でのうたではないかもしれませんが、恋を知ったときにはこんなうたが…、

  君に似し姿を街に見る時の こころ躍りを あはれと思へ
  山の子が 山を思ふがごとくにも かなしき時は君を思へり
  石狩の都の外の君が家 林檎の花の散りてやあらむ
  かなしきは かの白玉のごとくなる腕に残せしキスの痕かな


> それにしても、がのさんは啄木の歌をよく覚えていらっしゃいますね。びっくりしました。小樽の街のあちこちに碑がありますが、私はすきにはなれませんでした。〔ばーばーじゅこんさん 2006.12.14〕
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 なんで~、なんで~! 啄木の歌、好きが嫌いか、ということで云えば、自分でもよくわからないですが、どうしようもなく胸に飛び込んできて逃げていかないじゃないですか。やはりすごいことば、すごい文学、すごい才能なんだと思いますね。

  頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
  東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
  砂山の砂に腹這ひ 初恋のいたみを遠くおもひいづる日

たかが海岸の砂。砂をこんなふうにうたった人は世界じゅうどこにもいないでしょう。ああ、そうなんだ、ばーばーじゅこんさんは恵まれて育って幸福いっぱいに生きて来られたし、恋で痛い思いをしたことなんかないんだな、きっと。わたしなんぞ、少年の日と青春は、傷ばかり、悔いに満ちた悲しみの色ばかりで塗られていましたので、どれも哀しいまでにピタッと胸にひびきます。

  己が名をほのかに呼びて涙せし 十四の春にかへる術なし
  不来方(こずかた)のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五のこころ
  わが恋をはじめて友にうちあけし 夜のことなど思ひいづる日
  ゆゑもなく海が見たくて海に来ぬ こころ傷みてたへがたき日に

貧乏してでも意地を張って田舎には帰らず、都会の片隅で小さく身をかがめて、質素に清貧に生きているわたしの思いと、

  そのかみの神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと
  石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆるときなし
  小学の首席をわれと争ひし 友のいとなむ木賃宿かな

神童と呼ばれたことはありませんが、こんな田舎への思いは、もう、どうしようもなく親しくなつかしい。これも小樽のお嬢さまには関係ないですかねぇ。
欲をかかぬ、貧しい暮らしのなか、格差と不公平への怒りを殺してふと口に出るうたは、

  はたられど はたらけど  (…あ、これはすでに挙げましたね)
  呼吸(いき)すれば胸の中にて鳴る音あり木枯しよりも寂しきその音
  あたらしき洋書の紙の香をかぎて 一途に金を欲しと思ひしが
  何故こうかと なさけなくなり 弱い心を何度も叱り金かりに行く
  家を出て 五町ばかりは用のある人のごとくに歩いてみたれど
  手も足も離ればなれにあるごとく ものうき寝覚め 哀しき寝覚め

 もう、やめましょうか、啄木の貧乏ったらしさ、孤独な不健康さ。わたしもなんだか惨めになってきました。でも、啄木や樋口一葉、極貧のなかで早逝していった稀有な才能には、わが身の不才を恥じ、まいってしまいます。〔206.12.15〕


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◆4-1 ストウ夫人「アンクル・トムの小屋」Uncle Tom’s Cabin
    どこで越える、人種差別の問題…?

マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」では、逃亡奴隷のジムをその所有者に渡さないとハックが決意した瞬間から、さまざまな問題が起こってきましたね。旧家のいさかいに巻き込まれたり、ふたりの詐欺師にまんまと利用され、ジムを売りとばされたり…。そのあとの、トム・ソーヤの力を借りながらのさまざまな救出作戦がおもしろいわけですが。
アメリカの児童文学に黒人奴隷の問題が登場するのは、これが初めてではありません。「ハックルベリー・フィンの冒険」が世に出たのが1884年、それより先、1852年にはストウ夫人の“Uncle Tom’s Cabin”が出ていますね。これはかならずしも子どもの文学とは呼べないという面もありますが、ご存知のように、黒人奴隷トムの感動的なすがた――、どんな迫害にも屈せず、愛と信仰と忍耐を見失うことのない、寛容な忍従のすがたを感動的に描いた作品。奴隷制度の廃止を主張し、その解放のための南北戦争の気運をもたらしたとされる作品で、リンカーン大統領の奴隷解放宣言以上に影響力は大きかったといわれます。
にもかかわらず、なぜマーク・トウェインがまた改めて同じ問題を書いたのか。ストウ夫人(ハリエット・ストウ、1811~96)は、神学者の娘として生まれ、聖書の文学を教える牧師と結婚した人。いわゆる“ハイソ”な人で、その主張も、どこか、市民のもの、働く人たちのものではなかったということではないでしょうか。トムの不自然なほどに寛容なすがたは、白人にとって都合のよい黒人像を示すものだったのかもしれません。アメリカがその誕生以来抱えている重たい社会問題、根深い社会悪を感傷に流しているとの批判は、ある意味では当たっているかも知れません。遠い東海の小島に生きるわれわれには考えおよばない深い問題、いまもって解決しない問題がそこにはあるようです。〔06.09.25〕

〔dorothy さん 06.09.28〕
「アンクル・トムの小屋」は中学校のときに読みました。そのあまりの仕打ちと反対に、そのあまりの仕打ちと反対に、あまりにも清らかなトムに純粋に感動したものでした。白人っぽく見える女奴隷が生まれたばかりの子供を抱いて白人のふりをして逃げるシーンは今でもありありと覚えています。
奴隷船。大きな船底に身動きできないほどびっしり黒人さんを詰め込んでアメリカ本土まで移送していた、という事実。丸太並みの扱い。一度病気が蔓延したらそのほとんどが病死しても何の手当もされない。また嵐で舟が沈みそうになっても、鎖でつながれた黒人さんたちは逃げ場もない。
                ☆
わたしが「アンクル・トムの小屋」を読んだのも、中学生のころだったか、高校生のころだったか…。忘れてしまったことばかりですが、ええ、おかげさまでだんだん思いだしましたよ。ケンタッキーの農園。そこの寛大な農園主。しかし農園経営は行き詰まり、使っていた奴隷たちを売らねばならない事態に。
召使いの女奴隷エルザの、生まれたばかりの赤ん坊まで売り渡さねばならない。そのことをエルザが偶然に立ち聞きし、生まれて間もない赤ん坊を胸に抱きしめて夜陰にまぎれて逃亡、氷のかたまりが浮いて流れるオハイオ川をまろぶようにして渡って奴隷商人の追っ手から逃がれ、カナダを目ざす場面…。
敬虔なこころの持ち主の中年奴隷アンクル・トムも妻子と引き裂かれて売られていく。妻子との別れを悲しんでいるとき、主人の一人息子が、「必ずトム爺を買い戻しに行くからね」という。それをこころに深く刻んでどんなことにも耐えるニグロ奴隷に、これでもか、これでもかとつぎつぎに降りかかる苦難…。
そんなすがたに、涙をポロポロこぼしながら読んだ記憶が。
奥地の棉の栽培地に買われていったトムには、恐ろしい重労働と迫害が待っていましたね。老いがきて自由に動かせないボロボロの肉体。しかし、もとの主人の一人息子が言ってくれたあのことば、「かならず買い戻すから」ということばをひたすら信じ、キリスト教的信仰をつらぬいてあらゆる悲惨に耐えます。いや、ついに耐え切れず、死の床につくわけですが…。
文学的な評価は別にしても、からだが熱くなるような感動なしには読めない一冊でしたね。dorothyさんが「ハックルベリー・フィン」に加え、ここまで読んでおられますと、「トム・ソーヤ」のテーマ活動の取り組みは、ことば=英語にばかり走る、表面ばかりのうすっぺらなものとは違う、テーマのしっかりしたものになることでしょう。そんなテーマ活動をいつかぜひ見てみたいと思いますね。〔06.09.28〕
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