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――ラボ・ライブラリー制作余話 & 周辺情報集 《物語寸景〔1〕〔3〕〔4〕〔5〕つづき》

※日記、またはいろいろな方の掲示板やE-Mailに“ものがたり”をめぐって書き込んだものの再録です。ご了解くださいませ。

《宮澤賢治、創作の源泉へ遡る/伊勢英子さんの絵本と「大草原の小さな家」/エメリヤンと太鼓/ギリシア神話の女性/なよたけのかぐや姫》




◇6-5 宮澤賢治、創作の源泉へ遡る

 賢治のことなら、語り尽くせぬものがある。…あれれっ、「なめとこ山の熊」の調子になっちゃったかな?(「なめとこ山の熊のことならおもしろい。…」)
 宮澤家とたいへん親交のあった人、前日本女子大学講師の先生から、これまでに耳にしたことのない数かずの秘話を聞く機会を得ました。
 宮澤賢治については、40年余にわたってたくさんの本を読んだり、話を聞いたりして親しみ、かなりよく知っているつもりでしたが、こんな話は初めて、という驚きのなかで聞いた座談講演会。地域でおこなうわたしたちの読書会(わたし自身はこの市に住むものではありませんが)の企画を川崎市の市民館の自主企画としておこなったもの。そのなかから、ひとつだけ秘話を紹介いたしましょう。
 賢治の父親は政次郎さん。質屋や古着で財をなした人ですね。ハンガーに吊るされた着物の下をくぐって移動しなければならなかった家の事情を、賢治も弟の清六さんも、子どものころから大変嫌っていたそうです。賢治が37歳で他界する最後の前日まで、この父親とは互いに理解しあうことなく確執はつづき、最後の最後に至って「おまえもなかなかだった」と初めて父親にほめられたことを、死の床で清六さんににっこりと語ったと「兄のトランク」にしるされています。はげしく反発しながらもついに父親の掌のうえから脱け出すことのできなかったその生涯。そこに賢治作品の生まれた源泉を求めるのは、ごく常識的でしょう。
 ほかにも、母親のイチさん。不和の関係にある夫と息子のあいだにあって苦労しながらも、「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのす」とずっとずう~っと賢治の耳もとで言ってきたやさしい母親です。その考え方の影を落としている作品なら、いくらでも挙げられますね。ほかにも、祖父母、宗教家、小学校の先生…などなどの影響の色も。
 ここで紹介するのは、父政次郎さんの姉、賢治から見ると伯母にあたる平賀ヤギさんという人の影響です。賢治が誕生したとき、この人は離縁して出戻っていたようです。ちょっと不幸を感じさせる女性。2歳、3歳の賢治が夜寝るときには、いつもこの人に抱かれて寝ていたようです。背負われたり、抱かれたり、たいそう可愛いがられていたらしい。ところが、そんなときいつもこの人が口にする子守唄は、なんとまあ、お経だったという。30歳がらみのきれいな出戻りバツイチ女。その人がたえず口に唱えていたのは、蓮如の「白骨の文」。浄土真宗の再興の祖とされる蓮如。しかし、口に出して読んでごらんなさい、ゾッとしますよ、この経文は。浄土真宗の葬儀に出られたことのある人なら、一度は耳にしたはずですが。
〔このテの経文は苦手という方は、どうぞここは飛ばして読んでください〕

 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、
 この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。
 …我やさき、人やさき、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、
 もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
 されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
 …されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、誰の人も、
 はやく後生の大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
 念仏もうすベきものなり。あなかしこ、あなかしこ」


 人が死ぬのは、自分が先か他人が先か、わかったものではない。今日死ぬか、明日死ぬか、だれもわからない。あした(朝)には赤いほっぺたをして健康そうにしていても、夜(夕べ)には死んで白骨となる身、それがとりもなおさず、人間さ。哀れなものよ、人間とは。まだものごころのつかぬ賢治は、抱かれても、おんぶされても、添い寝されても、四六時中ぶつぶつとこんな呪文の雨を浴びて育ったというんですね。
 賢治が書き残した数かずの珠玉の作品の随所に、どこか、何とも云えぬ哀しいものがあるのは、ひょっとして、ここかも知れない。たしかに、一面、この伯母さんの影響を無視することはできないのではないか、と。
 ご存知でしたか、こんな逸話を。宮澤家の人たちと深い関係がなくては、こんな話を知る機会はありませんでしょうね。

 賢治と宗教のことは来週に改めて話される予定。父親の政次郎さんは、すわって昼飯を食べたことがないというほどのたいへんな働きものでした。同時に、仏教の信仰にとりわけ篤い人で、生粋の浄土真宗の徒、周辺地域ではその方面のトップリーダーの立場にある人でした。幼いころから賢治は欠かさず仏教講話に連れていかれ、正座してまじろぎもせず熱心に聞いていたそうです。賢治の透明な時間が想われますね。
 それが、あるときふと、日蓮宗の系統の「国柱会」へのめりこんでいきます。そこがどうもよくわからないのですが…。


〔To: みっちゃん 2008.07.11〕
 「宮澤賢治の奇跡」第二回は「宮澤賢治の信仰と文学」と題しての講演会で、宗教のほうから宮澤賢治を捉えなおすという、ちょっとむずかしいテーマでしたが、先生ご自身の目と耳で捉えた確かな手ごたえをもったお話で、楽しく聞けましたし、よ~くわかりましたね。熱心な浄土真宗の信者である父親の政次郎さんとの終生つづいたはげしい確執のことや、伯母さんにあたる平賀ヤギさんの「白骨の文」のことからはじめて、暁烏敏(あけがらす・はや)、島地黙雷、その養子の島地大等、高橋勘太郎などといったすぐれた高僧・学僧のこと――父親の政次郎さんが東京に赴いては連れてきて講演してもらった、そのたび、賢治は息をとめるようにしてジッとその話を聞いたという――、島地大等編著の「漢和対照妙法蓮華経」のこと…。ほとんど生まれ落ちると同時にまわりじゅうが仏教の信仰に彩られた環境にまみれていて、明けても暮れてもそういうところで育った賢治像が浮かびあがってきました。

 そして、この日、何よりもびっくりしたのは、「歎異鈔」のこと。親鸞のことばを弟子の唯円(ゆいえん)が書き留めたものとされていますが、「この第一章をもって全信仰とする」と、ケンカをふっかけるように父親にむかって手紙で宣告する賢治の気負いぶりも驚きですが、講師の先生がワイシャツの胸ポケットから無造作に取り出した和綴じの豆本。名刺よりもうひとまわり小さい手づくりの豆本で、和紙のうえに虫メガネで見なければ読めないような微細な文字、「歎異鈔」の全文を筆で書き写したもので、これが、なんとまあ、みごとな達筆!
 年に数度、先生からお手紙をいただきますが、墨痕あざやかなその筆の走りは、いつも額に入れて飾っておきたくなるような美しいものです。宮澤家の表札を書いているくらいですから、いい書をなすことはかねてよりよく承知しておりましたけれど、こんなに微細な字を、しっかり、一字のごまかしなく書かれるなどとは思ってもいませんでした。宮澤賢治にぞっこん傾倒するひとでなければ、こんなしんどいことはなさらないでしょうし。根性なしのわたしなんぞは、とてもとても…。

 大学の講義のための往き帰り、電車のシートに深くすわり、胸のポケットからこれを取り出しておもむろに「歎異鈔」を読む老人のすがた、よく見ると、目のまわりが涙でぐっしょりぬれている…。そこには神々しいまでの風韻と慈愛がありますね。人間の味とでもいうか。及びもつかないことながら、わたしもそんな老人になれたらなあ。
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手書きの「歎異鈔」冒頭部。ほぼ原寸大。



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◇6-4 伊勢英子さんの絵本と「大草原の小さな家」

〔To: ぼっくりさん 2008.05.03〕
 伊勢さんの作品展が開かれているんですか。うわ~ 、行きたいなあ。久しぶりに伊勢さんにお会いしたいなあ。6日までですか。きついなあ。ゴッホとのつながりについては、思い至らなかったなあ。
 先々月だったか、図書館に立ち寄った折、たまたま目にした「1000の風、1000のチェロ」という絵本を立ち読みしました。以前に「カザルスへの旅」を読んでいたので、生命への慈しみと社会的なあたたかい視点にもあふれ、彼女らしい感性だなあと、感動しながら見たものでした。
 伊勢さんの描き出す賢治童話の世界も大好きです。イメージの捉え方がたいへんゆたかであるばかりでなく、わかりやすい。「ざしきぼっこ」や「風の又三郎」の幻想性、「よだかの星」の悲劇的なニュアンス。……賢治の世界をもっともっと、もっともっと向こうまで広げてくれるイメージです。とりわけ好きなのは「水仙月の四月」。厳粛なまでに澄明な死の世界が、彼女独特の青で描かれています。
 ぼっくりさんには、以前、谷口由美子さんがチェロの弾き手であることを紹介しましたね。じつは、この伊勢英子さんも相当なチェロ奏者なんですよ(そう言えば、おふたり、どこか雰囲気が似ているなあ)。上記の「1000の風、1000のチェロ」では、彼女の愛するチェロという楽器のフォルムが、思いっきり、たくさんたくさん描かれています。いいですよ、この絵本も。彼女の絵にはいつでも音楽があります。思いあたりませんか。ラボの物語CD「大草原の小さな家」、あの絵本のトビラには、ちゃんとヴァイオリン(ビオラかな?)が描き込まれています。
 あのライブラリーの絵本の制作に際しては、大草原の火事のカット(たしか、2枚あったでしょうか)を描きながら、ご自身も焼けるような熱さを感じ、興奮しながら描いた、とおっしゃっていたことを思い出します。

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 ぽっくりさんのHPで「大草原」が伊勢さんの作品だったこと知りました。あのとき 講演会でおはなし聞きたかったです。がのさんが関わられていたのは、羨ましい!  伊勢さんの「旅する絵描き」も素敵な本です。 妹がパリにいた時、製本技術を習ってきたので「ルリユールおじさん」の絵本に惹かれました。〔ばーばーじゅこんさん 2008.05.03〕

〔To: ばーばーじゅこんさん 2008.05.04〕
 そうですよ、あらためて見てくださいね、「大草原の小さな家」の絵本テキストは伊勢英子さんの絵でつくりました。ぼっくりさんのところでちょっと紹介しましたが、草原の火事の場面など、とっても興奮して描いたということ。そしてなぜあの絵本づくりを伊勢さんにお願いしたか、といえば、わたしとしては、ひとつには、彼女のあらわす子どものしぐさがとっても、とってもかわいいと思ったからでした。ばーばーじゅこんさんも挙げておられますが、最近わたしが目にした彼女の絵本のなかでも、「ルリュールおじさん」、パリの木造り職人と少女のことを描いた絵本ですが、ここにも幼い女の子の、いかにも自然な、かわいいしぐさがたっぷり見られましたね。
 それに、作品展でご覧になったろうと思いますが、「にいさん Frere 」、ゴッホとテオのものがたり。あの絵をご覧になってピーンときませんか。あそこで使われている青の色の印象こそ、「大草原…」で見せてくれたものですよね。おまけに麦の穂までラボの絵本のイメージに近いものがあるような…。

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◇6-3 「エメリヤンと太鼓」の秘密
――エメリヤンと、捨てられるもの一切を捨てたトルストイと

 第三期のラボ・ライブラリー制作活動の第一歩としてロシアの民話の森に子どもたちを連れていこう、と発想したとき、ちょっとむずかしいかも知れないがどうしても一つ入れたかったのがトルストイの作品。ご承知のように、レフ・ニコラエヴィッチ・トルストイは、数かずの名作を書いた大文豪であるとともに、ガンジーと並んで、史上最大の思想家と呼ばれることもあり、「人生の教師」として四海に認められている偉大な人物。どこが「偉大」かについては、ラボのこの作品を訳出した水野忠夫先生や金本源之助先生、タチアーナさんらの謦咳にたっぷりと触れて学んだ千葉のKさんがいつか書いてくれると期待していますが。そうそう、3年後の2011年はこの作家の没後100年になりますね。
         
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80歳のトルストイと、右は晩年のトルストイの秘書役だった三女のアレクサンドラ


 トルストイの代表作「戦争と平和」や「復活」「アンナ・カレーニナ」をラボのおはなしCDに入れるのはもちろん無理。でも、それらで語られているトルストイの思想(の一部)を集約的にあらわしている作として、水野先生たちといっしょに頭をかかえ、一所懸命考えて選んだのが「エメリヤンと太鼓」(原題は「作男エメリヤンと空太鼓」)でした。

 「復活」を読んだ人なら、主人公のネフリュードフにトルストイのおもかげを重ねたことでしょう。あるいは「戦争と平和」のアンドレイ公爵にその人を見た人もいるかも知れません。「アンナ・カレーニナ」ではリョーヴィンがトルストイかな。永遠の生命の道を探るこの登場人物たちのこころの葛藤、魂の彷徨、知性のはるかな旅で行き着いた先で見つけたのは、現代生活のうすっぺらな虚偽であり、はかなさ・むなしさであり、そこを突き抜けたところで見えた「全人類との抱愛」「真理と実生活との調和」でした。

 「エメリヤンと太鼓」に戻して言うなら、つまらないことでいちいち怒るな、ということであり、悪に抗するに悪をもってするな、暴力に抗するに暴力をもってするな、という教え。
 きょうのこのときでさえ、世界のいろいろなところで戦争、紛争がおこなわれています。チベットの騒乱など、このところ毎日、テレビやラジオで繰り返し報じられていますね。気になってもわたしたちには何もできませんが、いくら大量に中国軍が動員されようと、軍隊の武器による暴力をもって抑えつけようとしたら、互いの憎しみが増すばかりで、けっして解決しないであろうと思われます。あるいは、ここ2~3日、人を無差別に殺傷する事件が西で東で、わたしたちのすぐ身辺で頻発しています。命がそこまで軽くなっていることに愕然とさせられます。
 こんなとき、トルストイ(ガンジーも)は言います。憎しみを去って、愛をもって向かい合い、相手を助け、奉仕せよ、と。暴力、強制、流血、争闘、階級制度……、そういうもののない新しい世界の創造の理想のため、1世紀も前から苦闘していた人、トルストイ。
        
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農場にたつトルストイ、77歳


 生むことのほんとうの苦しみをつうじてもうけた子どもにしてはじめて「わが子よ!」と呼べる。ひたいに汗してかち得たパンにしてはじめて「わがパンだ!」と喜んで受けとめることができる……。そうした思想に立って、名門の大富豪でもあった大作家は、水汲みもした、薪割りも靴づくりもした、泥まみれになって大工仕事も農耕の作業もし、何でもやりました。農奴の子どもたちのために学校をつくり、教育を施しました。下層の農民の生活のあいだでようやく探りあてた世界観が、愛と無抵抗と自己犠牲の思想であり、その観念と実生活を調和させるのがトルストイの生涯をかけた戦いでした。

 その晩年、伯爵とか名門の大地主という階級を捨てます。富を捨て、ヤースナヤ・パリャーナの広大な家を捨て、私有する一切を捨て、愛する家族さえ捨てて、家出します(このへんは、わたしにとってのもう一人の師、良寛さんの生きかたが思い出されます)。自分の生涯の最後の幾日かを、完全に自由に、孤独に、誰にも煩わされないで静かに生きたいとして出奔。1911年11月、ロシアの片田舎のある寒駅スターポヴォ(現在は「レフ・トルストイ駅」と改名されているとか)で高熱を発し、駅長官舎での1週間の病臥ののち、7日払暁、肺炎のために他界します。

 さて、すべてを捨てて孤りになって、「全人類との全き抱愛」の理想は、この大作家のなかで完結したのでしょうか。

 とんでもありません。それこそが、わたしたち、そう、あなたたちラボっ子に投げかけられた課題なんだと思います。むずかしいことだよ、これ。だから、だからね、しっかり「エメリヤン…」の“テーマ”活動をやっていただきたいのです。
 ついでにいわせてもらうなら、読んでもらいたいなあ、これらの大作の一つでもいいから。プーシキンの娘のマリアを外見上のモデルにしたというアンナ・カレーニナ、ソフィア夫人の妹のタチヤーナ・クズミンスカヤがモデルとされる「復活」のカチューシャ、「戦争と平和」のナターシャ…。彼女たちの魅惑とその生きかたにもふれてもらいたい。【2008年03月24日/to: スミティさん】


 子どもをヤワな、自己中心のひ弱な人間に育てあげようと思うなら、それはいとも簡単です。口に甘いものばかり、柔らかいものばかりを食べさせたらいい。欲しいとねだるものがあったら、すぐ与えるようにしたらいい。(その種のラボ・ライブリーもたくさんありますので)
 しかし、ちっとはこころの強い、自分で考え、自分で決める力のある人間、相手の気持ちのわかる人間に育てたいと思ったら、ときには骨の太い、カチッとして歯ごたえのあるものを与えるべきだろう……、というようなことは、子育て経験の豊富なテューターのみなさんなら、十分ご承知ですよね。
 ときにはちょっとしたケガをすることもあろうかも知れませんが、その丈を越えた、少し高いものにとびつく挑戦をさせなければなりません。「エメリアン…」はそんな意図をふくんでつくられたものです。【2008.03.26/to: スミティさん】


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◇6-2  ギリシア神話は女性をどう描いたか
 ――女の本能は国境を越え、あらゆる規範を超え、すべてを捨てても

 ギリシア神話のお話ですが、以前にサマーキャンプでペルセウスをしたとき、いろいろ読んだり調べたりしました。お話は面白いのですが、男性中心の世界であまりにも理不尽で、正直生理的に好きではないなと思いました。〔おがちゃん/2007.07.02

⇒ たしかに! ギリシア神話は「女性蔑視の宝庫」といわれることがありますが、それは、ギリシア神話に限らず、北欧神話の場合もインド神話の場合も、古典神話においては概ねそういうことがいえるようですね。そもそも、ゼウスに逆らったプロメテウスに対する罰として最高神から与えられたのが“美しき悪”としての女性、パンドラ。最初の女であるパンドラは思慮もなく贈り物の函の蓋をあけ、この世にあらゆる種類の悪をひっぱりだしてしまったし、聖書神話でもアダムとイブの物語など、“女は禍い”であり、人間に対する懲らしめとして与えられたのが女というわけで、どちらも「美しいが、わざわいをもたらす禍々しき存在」として現われたことになっています。ま、いまのわたしたちを包んでいる社会構造とは大きくちがっていましたのでね。

 でも、それはどうでしょうか。ギリシアの物語、いまに残っているすぐれた文学作品のどれをとっても、女性の存在なくしては少しも動いていかないことがよくわかります。第一、あの時代のエポックとなったトロイア戦争、ホメロスの「イリアス」ではアガメムノンやオデュッセウスやアキレス、トロイ側のヘクトル、アイアスらの英雄たちの活躍が主として描かれていますが、もとはといえば、アガメムノンの弟メネラオスの嫁さん、ヘレネという絶世の美女の存在に始まりますね。高貴の生まれながら、天性の無邪気さと破天荒な行動で、順風満帆な自分中心の生活に倦んじはて、すべてを捨てて異国の男、トロイア王子パリスの愛に走ってしまう女性。ですから、本来ならミケーネのアトレウス一族の身内だけの争いだったものが、全ギリシアをあげての報復戦争になっていきました。

 この一大叙事詩でも、ヘレネという女性の人物像がきちんと描かれているとはいえませんが、すごい! と思うのは、女の本能には国境もない、自由でどんな規範も意味がなく、栄誉もかけひきもない、ということ。ホメロスは、男性中心の世界を描きながら、じつはなかなかのフェミニストで、女性を大事に、大事にしているんじゃないでしょうか。だって、10年にもおよぶ大戦争、敵味方をあわせて10万余の命が消え、数多の名誉が傷つけられた戦乱であり、トロイアが陥落し惨禍のおさまったあとも延々とつづくさまざまな災厄と不幸にもかかわらず、ひとりヘレネだけは、まあまあ、驚くなかれ、まったくの無傷。夫を捨て、異国の男と歓楽のかぎりをつくし、災厄の元凶になりながらも、トロイア王国にあっても篤く庇護され、ついにそこが陥落するとまた無事に、養父のいるスパルタに帰還するという、人生の苦渋とは無縁の、天衣無縫の生涯をおくったメデタイ女性。現代の感覚ではぜったい許せない女ですが、ホメロスは一言もこの女に異を唱えていない。どうしてでしょうかねぇ。最高神ゼウス(白鳥に変身した)とレダのあいだの子だから、畏れ多いということでしょうか。

 この物語にかぎらず、ギリシア悲劇の傑作「アンティゴネ」も「エレクトラ」も「メディア」も、オレステイア三部作(アガメムノン、供養する女たち、慈しみの女神たち)も、みんな女性の尊い意思を描くもの。まさに神品のかがよいゆたかなこころです。強いですよ、アンティゴネもエレクトラもメディアも、母でもない、女でもない、性差を超えて自分の信念で主体的に行動する<人間>の気高さをもっています。いつの時代だって、実質的に社会を動かしているのは女性ですよ。いや、このごろはもううしろに身を隠してということはなく、オモテのいちばん前に立っていますけれど。ギリシア喜劇の「女の平和」(アリストパネス)なんて、お読みになったことありませんか。戦争にばかりうつつをぬかし、女や家庭を顧みない男どもに性のストライキをもって対抗する愉快な話。こうなってくると、男って悲しいもん、惨めなもんですね。


 でも読んでしまうし、それに関連した絵画など興味が引かれるのですよね。ギュスターブ・モローの絵とか。それだけギリシア神話をテーマにしたものが多いのでしょうね。〔おがちゃん/2007.07.02

⇒ ええ、ヨーロッパ社会、その美術、文学、音楽、建築…、どこをとってもこのヘレニズムとヘブライズムに深くむすびついていますね。映画などの映像文化でも、そうです。ギリシアからは遠いこの日本にいても、その物語と文化にたえずさらされていて無縁ではありません。もちろん、古代ギリシアのこと、キリスト文化のことなど知らないでもこの日本で生きていけます。でも、ほんのちょっとばかりにすぎないのかもしれませんが、ラボを通じてギリシアの風にふれた人は、まったく知らずにいる人の何十倍もの楽しみをもって、正確さと深さをもって、その情報を受け止められるということですね。〔2007.07.03〕

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◇6-1 かぐや姫をめぐる求婚の風光
 ――5人の貴公子たち、また最高権力者の挑戦と非情ないつわりの駆け引き

 がぐや姫については、みなさんにはあまり説明を必要としないはずですが、一応、整理してみますと、求婚者には、5人の身分の高い人物と、もうひとり、帝がいました。しかし、かぐや姫はもともと月の世界の人で、何やら罪を犯して月から地上に追放されている身。罪の償いが済めばもう地上に留まることはできません。美しいかぐ姫を求めて5人の求婚者が竹取の翁の家に入りびたります。それぞれ有力者ですから、親役の竹取の翁、讃岐の造(みやつこ)としては無碍には断われません。その饗応のためには多くの散財と失礼のない配慮を要したことでしょう。そこで、直接に求婚を拒否することなく体裁よく彼らを撃退するため、かぐや姫からそれぞれに難題が課されます。石作皇子には仏の石の鉢、庫持皇子には蓬莱の珠の枝、右大臣阿部御主人には火ねずみの皮衣、大納言大伴御行には龍の頸の珠、中納言石上麻呂足には燕のもてる子安貝、というわけ。
 求婚者はその難題物の入手のために艱難辛苦の奔走をし命がけの挑戦をします。しかし、ひどいもんです、それは相手を欺く手段であり、ぜったいに入手不能のもの、もともとそんなものなどはありません。かぐや姫の提出した課題が偽りなら、婚約者たちの挑戦もいずれもうそっぱちで、口先だけで偽りの話をつくりあげて姫を欺こうとする芝居でした。偽りはバレて、求婚者は赤っ恥をかいたり、命を落としたりして、挑戦に失敗します。被害の度は話の展開ごとに増大していきます。ま、婚約者たちのやっていることがまっ赤なデタラメなら、かぐや姫の投げかけた難題はその上を行く偽りもの、姫はタチの悪いしたたかものです。偽りと知りつつも女の美しさに惑わされ振り回される男たちこそオタンチンパレオロガス、悲しい男の業なのでしょうけれど、たまったもんじゃないね、これ。。

 『竹取物語』の劇的展開の心柱には、男たちの難題物獲得をめぐるウソっぱちの挑戦のほか、月の使者の出現と帝の兵との対決があります。対決とは言え、帝の兵の力は月からの使者の力の前ではまったく意味をなさず、戦いにもいたりませんけれど。

 で、なぜ物語の最後に帝が登場し姫に求婚するのか。それこそが『源氏物語』の作者がいう「物語のい出来はじめの親」ということなのでしょう、わたしにはうまく言えませんが、物語としてのバランスであり、コントラストなのではないでしょうか。だって、前半のすさまじい謀りごとで終わってしまったら、これはひどいじゃないですか。美しい姫が悪鬼か地獄からの使いか、ということになりませんか。天の羽衣をまとうと同時に、ものを思うこころを喪い、だれとも気持ちの通じない「モノ」となり、月の世界に属するわけのわからぬ存在として素っ気なくスーッと去っていってしまう。育ててくれた翁たちへの恩義はどうなのだ。多くの人たちから受けた愛情に報いるにそんな冷淡なことでいいのか。ところが、帝とのエピソードが入ることにより、姫は地上での人たちとのお別れを悲しみつつ月の世界へ去っていくという、余情ゆたかな悲劇のうちにエピローグを迎え、読むものをホッとさせてくれます。

 でも、わたしは、ほんとうをいうと、そこのところがよくわかりません。かぐや姫との関係で、帝はかなり暴力的です。帝からの使者に対して求婚をしりぞける意思を伝えるとき、かぐや姫は「帝に背くのだから、どうぞわたしを殺してください」とまでいいます。そもそもが、狩りを口実にして翁の家におもむき、みずからかぐや姫に迫っています。その袖をつかんで宮仕えを強制します。こりゃあ、親方ヒノマルで、権力にものをいわせた暴力の行使ですよね。それでも、姫のはげしい抵抗を受けて、残念無念、帝は求婚を断念します。すっぱりと求婚を断念した帝は、その後、姫と文をとりかわしこころをかよわせ合います。富士山の噴煙、かぐや姫が残していった不死の薬を焼く煙は、遠い遠い月に消えていったかぐや姫への、帝の憧れの表現でもあったでしょうか。わたしたち読むものとしては、ロマンに満ちた輝きある憧れの存在は遠くにそのままあって、欲まみれ権勢まみれのつまらぬヤツと結婚し所帯をもつようなことがなくて、ああよかった、とスッとさせてもらえるというわけ。
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