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―詩 歌―





◆6-2 挽歌、そして宮澤賢治と妹トシ

〔To: dorothyさん 2008.07.05〕
 たとえば、広く文藝世界を見回して、心に深く刻まれて片時も忘れることのできない「挽歌」を三つ挙げよといわれたら、dorothyさんでしたら、どんな作品を挙げますか? ガーンと打ちのめされて呆然自失させられるような作。
 わたしの場合でしたら、ひとつは斎藤茂吉の「赤光」にある一首、

   のど赤き玄鳥(つばくろめ)ふたつ屋梁(はり)にいて
       たらちねの母は死にたまふなり


 つぎには与謝野晶子が夫鉄幹を喪ったときに書いたいくつかの歌(白桜記)、たとえば、そのうちのひとつ、

   みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
       もうけふおまへはわかれてしまふ


 そして第一には宮澤賢治の「永訣の朝」「無声慟哭」、もうひとつ「青森挽歌」でしょう。

  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
    (あめゆじゆとてちてけんじや) …


 東京ことばで書かれた地の文(賢治のことば)に、妹トシのことばと
して花巻弁が差し込まれ、ふしぎな諧調をつくる詩文ですね。ほとんど
平仮名で書かれ、「っ」「ゃ」といった撥音も使わぬ、雪の夜のような
静謐な調子。とりわけわたしがまいってしまうのは、最後に近い部分な
んですけどね。

  この雪はどこをえらぼうにも
  あんまりどこもまつしろなのだ
  そんなおそろしいみぞれたそらから
  このうつくしい雪がきたのだ
    (うまれてくるたて
     こんどはこたにわりやのことばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
  おまへがたべるこのふたわんのゆきに
  わたくしはいま こころからいのる …略…
  わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ …
(永訣の朝)

 トシが死の床でいうことば、今度生まれてくるときには、自分のことばかりでなく、ひとさまのためになるような生き方をしたい、という願い、というよりは、祈りは、母親のイチさんがいつも賢治の耳もとでいっていたことばですよね。「人というのは、ひとのためになるように生まれてきたのッす」。自分の利得ばかりしか考えないで破廉恥な欺瞞を犯すこのごろのケータイ短絡型人間に、イチさんのこのことば、トシのこのことばの一部でもわかってもらえたらなあ、と思いますね。せめてラボにかかわる人びとには、賢治のこの澄み切ったこころを大事な糧にしてもらいたいと、「わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」次第ですが。
 それにしても、人間の「絆」って何だろう、すごいなあ、と思います。一人の人間の思想形成、人間形成にとって、「絆」とは…。

 さらに涙をしぼってもらいましょうか、「無声慟哭」から抜粋して…。

  こんなにもみんなにみまもられながら
  おまへはまだここでくるしまなければならないのか
  ……おまへはじぶんにさだめられたみちを
  ひとりさびしく往かうとするか


〔To: Dorothy さん 2008.07.07〕
 宮澤賢治は第一級の「りっぱな」詩人か、「うまい」詩人か、というと、わたしは必ずしもそうは思わないところがあります。しかしね~、「永訣の朝」「無声慟哭」…、「雨ニモマケズ」も含め、こういう賢治の詩は、わたしごときもののいささかの蛇足も必要としない真情にあふれていますよね。
 かつての日、わたしはこれらの詩句を嗚咽しながらなんべんも口にし、自分の手で一字一字、原稿に書き写しつつ、何度涙したことだろう、何枚の原稿用紙を涙にぬらしたことだろう。わたしには妹はなく、その実感には薄いものがあるのかも知れないけれど、わたしは、その涙にこれ以上ないほどの清らかさを感じ、ことばを超える詩的宇宙のなかに誘いこまれる美しい時間をこころいっぱいに楽しみました。

  鳥のやうに栗鼠のやうに
  おまへは林をしたつてゐた
  どんなにわたくしがうらやましかつたらう
  ああ けふのうちにとおくへさらうとするいもうとよ
  ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか
  わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ
  泣いてわたくしにさう言つてくれ
  (「松の針」より)

 死に瀕する妹に、林から松の一枝を採ってきて与える兄の思い。格別な巧妙さがあるわけでもない、過剰なもの、飾ったもののひと切片もない詩。でも、修羅を誠実に生きた賢治という人の玲瓏な心象は、清浄な気でわたしのこころを満たしてくれます。「詩」なんて呼ばなくてもいいことばの世界がありますね。

     = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =

◆6-1 萩原朔太郎、
詩人の魂に憑かれた少年


>中原中也と萩原朔太郎、どちらもシュール、という点で似ている、と言えなくもないように思います。また、系譜からいっても、中原中也と朔太郎は似ている。いうとむしろ室生犀星に近く感じます。〔dorothy さん 06.04〕
     -------------------------------------------------------
 中原中也や立原道造、宮澤賢治、あるいは室生犀星、佐藤春夫、三好達治、高橋元吉、萩原恭二郎、西脇順三郎、……などなど、国内でいえばこうした詩人の詩に若いころから親しんできましたが、萩原朔太郎となると、わたしにとっては、まったく別格なんですね。まったく違うところの存在。文学史的には、高村光太郎が「日本近代詩の父」であり、朔太郎は「日本近代詩の母」といわれます。そんな称揚のされ方をされても、わたしにはぜんぜん納得するものがありません。どういえばいいのかわかりませんが、「父なる天神」とでもいうか、ギリシア神話にならって言えば「ガイア」とでもいうか、デメテルのような地母神のような存在、とでもいうか…。シュールでもサンボリスムでもレアリスムでもリリシズムでもない、朔太郎の詩は朔太郎だけの詩で、わがままを言わせてもらえば、だれかの詩に似ている、なんていわれるのが、いやなんです。理由は、…ない、としかいえませんが、…そう、理由なんてないんです。

 郷里を同じくする詩人です。高校(朔太郎の時代は中学と呼んでいましたが)の先輩で、わたしが高校へ入った年がちょうど創立80周年でして、何か画期的に記念になることをやろうじゃないか(高校入試の少し前に校舎の半分を焼失する火事があり、そのショックを払拭しようという意気がはたらいていたでしょうか)という気運のなかで取り組んでいるうちに発見したのが、朔太郎の短歌。
 ずうっと以前につくられていた校内の文芸誌「坂東太郎」にたくさん書いていたものでした(坂東太郎とは利根川の別称)。探しているうちに十数編の詩篇も出てきて、び~~っくり! 
 インクの色も落ちた、ほこりまみれのその文芸誌から数十の短歌と詩を拾い、記念誌をつくろうと、高校に入ったばかりのすこしおませな男の子が、ああでもない、こうでもないと不器用な手つきで進めていました。当初はごくつつましいものを、とのつもりでしたが、「朔太郎の短歌が掘り起こされた!」「朔太郎の幻の詩、あらわる!」というニュースが中央にまで流れると、すごいんですよ、じゃんじゃん問い合わせが舞い込み、依頼をかけたわけでもないのにそうそうたる詩人たちがつぎつぎに寄稿してくれ、記念誌はあれあれという間に分厚いものになっていきました。
 伊藤信吉、谷川俊太郎、高橋信吉、村野四郎、東宮七男、三好豊一郎、渋谷国忠、町田嘉章、高橋元吉、白鳥省吾、長瀬清子、菱山修三、中川与一、能村潔…。これをきっかけに、このあとすぐ、中央で第一次朔太郎ブームが起こりました。朔太郎の娘の葉子さん、妹の愛子さんにも寄稿をお願いして、と、どんどん計画はふくらんで、わたしたちの手にあまるものになると、地元新聞社も協力の手を貸してくれ、思いがけないほど立派な記念誌ができました。
 朔太郎の死後、葉子さんは父朔太郎をめぐるいくつもの作品を書いていますが、書くことなどまったく考えたこともなかったという彼女がものを書くはじめとなったのが、この記念詩「桑弓」でしたね。
 前橋の代表的な公園、敷島公園の一角に記念碑がたったのもその前後でした。

     わが故郷に帰れる日
     汽車は烈風の中を突き行けり
     ひとり車窓に目醒むれば
     汽笛は闇に吠え叫び
     火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
     まだ上州の山は見えずや。
   (「氷島」より「帰郷」)

 その記念誌ができたことでたいへんな話題になり、高校の文化祭は内外から空前の人の数を招き寄せることになりした。それを見込んで上記の詩碑の拓本をもう一人とともに一日がかりでとりました。ところが、拓本のとり方など詳しくは知らぬお調子ものの少年、べったりと詩面に墨をぬるというヘマをやらかしてしまったものですから、市のほうからさっそく大目玉。とんでもない不敬もの! ということで呼びつけられてさんざんしぼられたうえ、またふたり、一日がかりでごしごしと水洗い、よごれをふき取る作業をしなければなりませんでした。
 高校にほぼ隣接して二子山古墳があります。彼の若いころの詩に「二子山附近」が。そこは当時、緑深い公園のようになっていたのですが、授業を抜け出してそこに来て、朔太郎を気取って草の上に臥し、眼下をごとごとと走っていく列車を眺めてすごした幾時間かも。
 いまも、帰省する折にはほぼ欠かすことなく、前橋郊外にある政淳寺、詩人が安き時を眠る寺にお参りしています。赤城山の長い山裾にいだかれるようにして立つ御影石の墓石。
 優秀だったはずの少年が道を踏み外して文学の藪の深みにはまって迷うようになったのが、このときの朔太郎の詩との出会いでした。ですから、朔太郎の修羅も虚妄も、苦悶の痛みも恋も破滅も、デカダンも自暴自棄も恨みも憤怒も悲しみも、憧れも悔恨も妬みも、それはすべて、むこうのほうに隔てられてある抽象ではなく、すべてがわたし自身の体温のなかにあるものなんですね。生涯、秘めたまま貫いたエレーナへの純愛と幻想の官能も、朔太郎のものであるよりもむしろわたしのものなんですね。こりゃあ、もうどうしようもないです。 〔2007.06.04〕
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