幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 幕末漂流民が生きたしなやかな国際性
 再び幕末漂流民
 幕末漂流民のものがたり-その3
 幕末漂流民ものがたり-その4
 幕末漂流民ものがたり-その5
 An Introduction to Cultural Exchange
Welcome!
   いま子供の教育が危機的状況にあるということが多くの人々、特に教師、父母、何よりも子供自身から津波のように押し寄せられている。教育システムそのものが機能不全を起こし、病状が進んでいる。その回復のためにどうすればいいのか、百家争鳴である。いわく学力の低下であり、想像力が貧困でり、自己中心である等々。何の事はない、これらの現象は、我々、大人の世界の反映でしかないのではないだろうか。その自覚なしに子供と教育論を客観的な対象として、病状診断しても、回復のカルテとはならないだろう。先ず我々自らの問題性を自己診断せず、何事もも始まらないのではないだろうか。我々が肝に銘じなければならないことは、すなわち、子供たちは、大人の生き方、たたずまいを見て育っているのだから。  さて、日本語の教育ということばを見ると、「教え」「育てる」ということが覗える。しかし、誰が教える主体で誰が育つのかが覗えない。英語ではEDUCATIONというが、その語源にあたるとEとDUCAREに分解できる。Eは外へを意味し、DUCAREは導くという意味を持つ。つまり、外に向かって導き・引き出すという意味である。  全ての人には、引き出す潜在性を持つということが考えられている訳だ。可能性を如何に引き出すか。そのためにはどうするかということが前提として考えられているということである。教育に対する基本的態度がここでは求めらる。学力低下に対する対策だけではなく、如何にして子供の可能性を引き出すのかということである。  子供には、その数だけの可能性、潜在力をもつ。しかも、われわれ生きる時代は、多様な世界に生きざるを得ない時代。それを学校という固定した中にだけ制度として押し込めておくのは、時代錯誤であろう。教育は、学校での一定期間とそれに携わる教師に任せればいいという時代では最早ない。    我々の人生そのものがいわば教育の場であり、学ぶ場所であるのだ。人は、供給されるカリキュラムでまなぶこともあろうし、自らの関心事から、学ぼうとすることもある。いまや、インターネットを通じて学ぶことが可能となった。人の出会いを通じて学び成長することもある。それを学校だけに閉じ込めておくのはもったいないではないか。    我々の住む世界と社会は、益々多様にあり、その中から我々自身が選択していくことが必要になる時代なのだ。人に与えられている潜在的可能性を引き出す作業、我々自身がその主体となることが求められるのであろう。これが今日我々の前に展開する教育的現状である。  以上のような前理解を持って、子供の教育にチャレンジする人々の例を見ていきたいと思う。  
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