節分・立春――鬼はどこへいった |
02月03日 (金) |
|
節分である。ウェールズのはなしばかり書いていると、なんとなくいやみな感じもあるので、日本のことを話題にしよう。節分,明日は立春である。
四季が明確にある日本は二四節気という1年を二四にわけて気候の節目を認識した。二四以外にも雑節というのがあり,むかしの人は毎日いろいろと心くばりをしていのなだなあとおもう。
さらに,民間の知恵もあるわけで,たとえば江戸では四万六千日(夏の浅草寺の縁日で朝顔市が有名。この日におまいりすると四万六千日分のご利益があるとされる)をずきるとスズキの味がおちるなどといわれた。これなどは,かつては東京湾でもばしばしスズキ=鱸がとれたことのあかしであるとともに,この魚の旬を適確にあらわしているきわめて根拠のあることばだ。ほかにも,彼岸すぎのセリをくうなとか,地方ごとにいろいろな戒めやいい伝えがある。その多くは季節や食物に関するもので,わしらの先祖はやはり季節のうつろいにはほんとに敏感に反応してきたのだと思う。
二月の節分も冬と春,すなわち冷と暖,闇と明という陰陽がぶつかるときに,よくないものが侵入するのでおいはらうという考えも,季節のかわりめの体調変化への警告と無関係ではあるまい。
節分といえば豆まきだが,最近はほとんどしていない。ぼくは1953年,東京の中野生まれだが,豆まきの記憶はしっかりある。しかも幼稚園や学校での豆をまくことと,鬼の面をつくる以外にあまり感動のないイベントではなく,きちんとした家庭の行事としてである。
節分の夜は,夕方からなにか特別なものに思えた。昭和30年代の真冬だから,もちろん寒く暗い。うすぐらくなるすこし前,たぶん午後4時くらいになると,母親が家の四方の鴨居にヒイラギとイワシの頭をおいた。これは追儺つまり災いをオカルティックにディフェンスしようという意味だというのはなんとなく子ども心にもわかっていた。暮れてゆく冬の部屋の子どもがみあげればずいぶんと高い位置におてあるイワシの頭のうつろな眼と,ヒイラギのエバーグリーンが妙なバランスでどきどきした。
追儺はもともと平安時代の大晦日に行なわれた災いやまがまがしいものをはらう儀式で,節分の豆まきはこれがもとになっているといわれる。まあね平安時代はまつに呪いのかけあいのようなオカルト合戦の時代であったので,こうしたたたりや呪いをふせぐイベントはけっこうマジでやっていた。
話わもどして,節分の夜。たぶん7時半くらいだろう。いよいよ豆まきがはじまる。主役はもう28年前に他界した祖父である(なまえは熊四郎という!)。熊四郎氏は,升にいれた豆をうけとると,おもむろに四方にあるイワシの下にむかう。順番は年によって吉方,鬼門があると思われるが,さすがにそこまではガキにはわからない。熊四郎氏は,そこで大きく息をととのえると(おそらく,なにかとりつかれぬように気合いをいれたのだ),雨戸をガタガタとあける。外の冷気がさあったしのびよる。目の前の闇はちっちゃな庭か隣家との境の塀のはずだか,まさにまっくら闇。魑魅魍魎の百鬼夜行。そのころの夜はほんとうに暗い。熊四郎はその闇にむかって.「鬼は外,鬼は外,鬼はソートー」とふしぎな抑揚で3回となえると,豆をむんずにぎりしめ,1メートルくらい先になげすてるようにまくのだった。まくのは1回だけ。おわると熊四郎はおもむろに雨戸をしめる。ぼくはじっと息をこらしてみている。雨戸をしめる間際,外の闇の上方をみあげると冬の星がやけにぎらぎらとまたたく。その後ろで「あしたから,だんだん春になるのよ」と祖母の声。つづいて熊四郎はしめた雨戸にむかい「福は内,福は内,福はウーチー」とやはりふしぎな抑揚で3度となえ,今度は雨戸にぶつけめようにばらっと1度だけ豆をまいた。
この儀式は4セット,つまり家の四方にむかって行なわれた。祖父は評判のがんこものできれいな江戸のことばをはなした。自分のことを「あたし」としかいわなかった。1978年,ぼくが25歳のころラボの関西総局で仕事をわしているころ86歳で世をさった。中野の地にうつって50年くらした。評判のがんこ者でかわりものだったが,通夜と葬式にはとんでもない人数があつま
った。出棺のまぎわひとりの老人があらわれ.父親にはなしかけた。きけば,尋常小学校の同級生だという。もう級友はすべて鬼籍に入り,さいごにのこったふたりだという。その3年ほどまえ,ふたりでやはり同級生の葬式にでたとき,どちらが先にあの世にいってものこされたほうは,お棺をだいて斎場までいこうと約束したというのだ。父親は「わかりました。よろしくお願いします」といった。周囲の人がざわめくなか,寝台車の後部にお棺とともにその老人がのりこんだ。父親によれば,老人は斎場につくまでなにかずっと語りかけていたという。
「明日から春になるの」と語った祖母もその翌年,祖父をおうように世わさった。
ところで,鬼ということばはもともとは鬼ではなかった。「古事記」や「日本書記」によれば,オニともよんだが,カミ,あるいはモノとよんだりもしている。鬼はオリジナルの中国語では帰ということばとおなじ音であり,意味としてはゾンビ,すなわち死んだ人がこの世にかえってきたもののことをさす。そうなるとつ,われわれのイメージの鬼とはちとちがう。
モノは「モノスゴイ」「モノノケ」などにつかわれるあのモノである。人間の力をこえた大いなるパワーをモノとよんでおそれた。だから物部氏(モノノベシ)などとう一族はじつはとってもおそろしい儀式をしていたと思われる。もちろん,モノガタリもそうで,なにかとんでもないパワーがせとりついて人をしてストーリィをかたらせるのだ。だから物語の力はすごい!
ところで.最もふるい鬼は「出雲国風土記」にでている。その話はべつにかくが,平安時代は鬼大活躍。これはほんとにこわい。でも、だん゛たん室町くらいになると鬼の話はなくなり、鬼はおとぎ話やお能などの舞台にだけいきのびる。そして江戸になると鬼の話は皆無になる。それほど封建制度というのはまつたくアウトローをゆるさぬガチガチだったわけだ。
反逆者しての鬼はどこへいったのか。とてもすれば,ねむってしまいがちなわしらの弛緩した魂にほら鬼のさけびがきこえる。
|
|
Re:節分・立春――鬼はどこへいった(02月03日)
|
|
|
ちこらんたんさん (2006年02月05日 17時25分)
あまり知識のない私ですが、桃太郎の鬼などは異国人の象徴だと聞いた
ことがあります。
鬼のあれこれ、深いですね。
40周年のスプーン、素敵です。
ラボ・スプーンじゃなくて、ラブ・スプーンなんですね。
私も総会でビデオを見て、新刊の世界がより身近になりました。
|
|
Re:節分・立春――鬼はどこへいった(02月03日)
|
|
|
dorothyさん (2006年02月05日 21時01分)
我が家は今でも、豆まきを行います。
近所の家ではやっている様子もないけれど、夕方から夜にかけて
「おには~そと、ふくは~うち。」と
威勢良く大きな声で撒きます。
何か神秘的なものについて、「神」というのは恐れ多い、
「鬼」と名指しするのは恐ろしいとき、「もの」と
言うようですね。
私は卒業論文に風土記を取り上げましたので、出雲風土記について
懐かしく思いました。また、出雲大社は、門の真ん中に
柱が建っており、この造りが法隆寺と同じで、その理由に
ついては、梅原猛氏の「神々の流竄」に記されていました。
これらのことを、つらつらと思いながら、この日記を
読ませていただきました。
|
|