幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
■■■ 運営事務局より ■■■
ひろば@LABOは,ラボ教育センターが展開する
「ラボ・パーティ」に関わる皆さんのコミュニティ・ネットワークです。
「ラボ・パーティ」については 公式サイト  をご覧ください。
ラボ公式HPTOP新着一覧海外交流・留学ランダム新規登録戻る 0316568
  
Home
Diary
Profile
BBS
Bookmarks
Schedule
メール
・メッセージを送る
・友達に教える
ページ一覧
・ Come-On-In LaboHouse グラフィティ
現在ページはありません。
・ ラボメッセージ
 ラボライブラリーの聴き方・利かせ方
 ネイティブの先生の必要性
 LABO って何ですか? のお問い合わせに
 『ぐるんぱが私にくれたもの』byラボっ子OGひまわりさん
 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 2004国際交流参加者アンケートまとめ
 『一生の宝物』 (国際交流の感想文)
・ 黙読、音読、必読、流読、積ん読、放ッ読
現在ページはありません。
・ 映画会話(えいがいわ?!)
現在ページはありません。
・ マザーグースイラスト、マザーグース絵本
 ことばの宇宙 特別付録復刻版
・ マイ メモリー:タスマニア島珍道中
 尾張学童グラフテイ
 かいじゅうたちのいるところ
・ ラボパーティで読んだ絵本
 絵本の読み聞かせトライアル
・ こくぶんPアルバム
 こくぶんPのオリジナルTシャツ
 2003 静浜地区国際交流参加者アルバム
 卒ラボ発表会 2004/7/14
 2004 国際交流アルバム
 2004黒姫ロッキー1&2思い出アルバム
 『ヘンゼルとグレーテル』お菓子の家作り
 2004サマーキャンプ4班・インターナショナルユース
 黒姫サマーキャンプ4班2005
 思い出の一枚
 2007スプリングキャンプ1班・アンデス1
 2010年 あけまして おめでとう!!
・ 気になる切り抜き
 ラボッ子パパの写真集出版
 音楽療法士 野田奈津代さん
 演劇教育に関するコメントby快心塾長
 『平知盛』関連 木下順ニ作『子午線の祀り』
 斎藤孝 “聞く力=コミュニケーション(2)”
 お気に入りラボライブラリー
 大学生ラボッ子による手話劇
 ラボッ子OB・佐藤隆太君の本『さすらっていこ~ぜ』
 新刊ライブラリー声優・斉藤とも子さん関連記事
 「雲よ」(谷川雁研究会機関誌より抜粋 by国分里美
・ ラボッ子のあくび:ラボッ子の作品紹介
 お話カルタ Picture Card
 お絵かき 2004年編
Welcome!
[一覧] << 前の日記 | 次の日記 >>
歴史の犠牲は、偶然か必然か!?木島タローさんワークショップ 10月06日 (火)
先週日曜日、中部支部中高大生合宿のゲスト木島タローさんが、せっかくなので、テューター向けにもワークショップを、という計らいで、テューター向けワークショップに参加できることになった。

ゴスペル、という歴史的な説明、
現在のゴスペルのとらえ方、
黒人奴隷とキリスト教との関係、
キリスト教(プロテスタント)の神という存在の意味など、
歴史の中の偶然性は、神という大きな意思である、という考え

などなど、深い話題を、歌を歌いながら、またまつわる講話をはさみつつ、という進め方で、あっという間の2時間だった。

木島さん自身も、終了の時間を知らされて、あと、1時間でしょう?と驚かれていた。

キリスト教の歴史の話の中で、旧約聖書と新約聖書の話まで発展し、

その日の取り組んだ英語の歌
“Down by the River Side”

リバー=河 に何かを置いていこう!! の意味、河とは、どこの河かか?

ヨルダン川、そして、
ヨルダンとは、イスラム語でI am who I am という意味である、
つまり、どこからも客観視できない唯一無二の存在
(私は、一、当日の参加者なので、記憶違いでしたら、ごめん下さいませ)

ことを始めて知り、私は、今夢中になっているアメリンカドラマ「ロスト」を思い出したりしていた。

歴史の中での犠牲者=黒人奴隷も、神の意思での必然であったのか?

苦しみはすべて、河の脇において、さあ、すべてから解放される場所へいつかはいけるのだ。
今という時間は、その時に繋がる。

今、自分の人生に何が起きていようが、この人生の先に何かがあるから、今自分のしていることにもきっと意味がある。誰かのために今の自分がある。

そんな意味が、ハレルヤ  には込められている。


大きな歴史の中での犠牲は、必然か否か、それは、大きな神の意思か?はたまた自然というバランスをとるシステムの中での必要な微調整なのか、、、

私は、どちらも結局は、同じ事なのだと思うけれど、それを、あえて人間を超越した神的な意思ととるか、
自然の摂理ととらえるかの違いだと思う。

その辺のテーマは、以前、中高生と『ロミオとジュリエット』を取り組んだときに、シェイクスピアは、この時代のキリスト教に、少なからず、疑問を抱いていたのでは?
という話題に発展し、
“ダビンチ・コード”、”天使と悪魔”の映画、と小説の話題にまで及び、
結構、男子たちと、面白い談義ができた。
特に、中2のN君は、多宗教の外国(インドネシア)で小学校時代を送り、彼の中での疑問にあったのか、その角度からの『ロミ&ジュリ』への興味をあることを知った。

こんな具合に、何かとラボの活動とリンクして考えてしまうのだが、今回も、


木島タローさんが、何か、歴史の中で犠牲になっている人達のことを思いうかべて、
歌を歌ってみましょう!

と、いわれた時、私は、無意識に、今取り組んでいる『スサノオ』の中で、すでにヤマタノオロチに食べられて人身御供となった7人の娘たちのことを思い浮かべていた。
これまで、ラボっこ時代から何度も取り組んできた『スサノオ』のテーマ活動ではあるけれど、そこまで、深く、7人の存在を感じたことはない。犠牲になった7人がいたから、スサノオという存在が意味あるものになった、ということなのか、、、


また、人生観で、何を大切とするか、それがないと絶望的になってしまうものが、もしお金だとしたら、その人は、お金を信仰していることになる。
という言葉から、両親から譲り受けている価値観が、そこにない自分がいることがわかり、感謝したい気持ちになり、少し涙が出た。

歌での高揚感は、自分を見つめ直し、自分の中の心のスクリーンに今ある自分のテーマが浮き立ってくる効果があるものなのだ~!!

私は、しょっちゅう、これって、偶然?必然の偶然?と思うことがよくある。後で考えると、あまりにも、不思議な出来事~!?
って思えること。それは、その時は、辛い体験の時もあり、ハプニングであったりもする。
気付かないうちに、誰にもあることだと思う。

人との出会いも、きっと遠いどこかで、あ~、あの人の出会いは、この意味があったのね~
なんて、、、これをひとは縁(えにし)とも呼ぶのかも。

木島タローさんのワークショップに、わざわざ足を運ぼう、と出かけて行ったのも、何か動かされるべき必然の理由があったのか、はたまた理由になるように、前に進む一歩にしていかなければ意味がない、ということなのでしょうか。
>>感想を掲示板へ
<< 前の日記 | 次の日記 >>
Copyright(C)2002 Labo Teaching Information Center.All rights reserved.