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2005/03/07の日記 03月07日 (月)
 …やばいです。前回の日記の更新からほぼ1年、しかも前回には「ちょくちょく更新して」なんて書いてあります。

 九州に来て1年が過ぎ、とても実のある時間を過ごしてきたように思っておりますが、その時間の流れと仕事に押されて更新をサボってしまいました。申し訳ございません。

さて、私の日記のメインテーマはテーマ活動ということで…。もうちょっと徒然を書きつくればもう少し更新しやすいのでしょうか? 今回は根強い人気のこの話です。

ピーター・パン~繰り返される「永遠」の物語

 ディズニーのアニメーションで余りにも有名なピーター・パン。このお話の原作を、童話だと思っている方が多いのではないでしょうか。しかし、原作といえるものは実はバリが作った演劇の台本なのです。残念ながら私も台本形式のものは見たことがありませんが…。実は、この台本の最後に非常に気になる、重要な一言が書かれていたというのです。それは、
「この舞台の幕が下りたら、二度と幕をあげないで下さい。もしそうしたら、ピーターの顔をしたフックが登場してしまいますから」
…細かいニュアンスは、違っているかもしれません。私も以前に聞いた話ですし、直接この目で確かめた訳でもありませんので、残念ながら真偽のほどは分かりません。しかし、もしこれが本当なら、バリの捉えた時間というものは確実にピーターの上にも影響を及ぼすということにもなります。
 このことを裏付けると思われることがひとつ。ラボ・ライブラリーはバリの舞台台本を童話に書き直した「ピーター・パンとウェンディ」がベースになっています(最も最近は映画の影響もあって『ピーター・パン』というタイトルで文庫化されていたりしますが)。そして、それとは別のピーター・パンの物語があります。時間的には「ピーターパンとウェンディ」よりも前、ピーターが始めてロスト・ボーイズとなった頃のエピソードです。その物語は「ケンジントン公園のピーター・パン」。この二つの物語を比べてみると、ピーターは明らかに成長している感じを受けるのです。「ケンジントン~」の頃のピーターは、幼く、しょっちゅう泣き出してしまうような感じの男の子です。少年というより幼児といったほうがいい雰囲気をもっていますが、皆さんご存知のピーターは違いますよね。これは何を意味しているのでしょうか。最後にまたこのことについて考えてみたいと思います。

 さて、前置きはこのくらいでライブラリーそのものを考えてみましょう。これほど完成度の高いライブラリーは珍しいのではないでしょうか。江守徹の叙情にあふれる素晴らしい語りが物語を支え、個性の強いキャラクターがところせましと暴れまわり、長い年月を経ても未だに新鮮な音楽がストーリーを盛り上げていきます。そして、取り上げたラボっ子たちの心に深く残ってゆく、まさに名作ですね。
この物語は、母性愛がひとつのテーマになっているのは間違いのないようです。でも、それはあくまで観念的なもので、個性を伴う力強いものではありません。ミスター・ダーリングは無理解でむしろ母性のやさしさを引き立たせるような存在ですし、ミセス・ダーリングは子どもを心配するやさしいお母さんですがあくまでミセス・ダーリング個人というよりも普遍的なおかあさん像としての存在です。しかしこの存在の普遍化は劇中に何度も現れる「おかあさん」という観念と結びつき、絶対不変の母性のイメージを確立させています。個人のお母さんでなく、世界中の子どもが漠然とイメージする(もしくは大人も)お母さん像です。さらに、ウェンディのキャラクターがこのイメージに影響して(二人は親子であるという事実から漠然と同じような母親になるのではないか、という予測が成り立つ)、「おかあさん」を動かしがたい愛情の結晶のような存在に昇華させています。これがこのライブラリーを通じて背景に流れる一つのテーマであることには疑いがありません。「おかあさん」の愛情がない「ない・ない・ないの国」に、「おかあさん」が入ってくることでおこる物語、としてまとめられるかもしれません。お母さんの愛情とない・ない・ないの国は相容れません。ない・ない・ないの国はお母さんの愛情がないからこそ成立しているのですから。ロスト・ボーイズは「お母さんがよそ見をしている間に乳母車から落ちた男の赤ん坊」ですし、海賊達はお母さんの存在を知りません。インディアンのタイガー・リリーは女性ですが、しかしこのインディアン社会は強い戦士が尊ばれるところ。おかあさんイメージとはかけはなれています。そういった意味では、インディアンたちも「おかあさん」を知りません。そんな中に擬似的なお母さんとして登場したウェンディに、ロスト・ボーイズは永年暮らしたない・ない・ないの国とピーターとの冒険の日々を捨ててまでついて行ってしまいます。
 
 もうひとつ、テーマの軸としてあげられるのが「時間」です。最も象徴的に表されるのが、フックとワニの関係でしょう。ワニは時間そのものである時計を飲み込んでいます。しかも、フックの体の一部を既に食べてしまっています。既に「時間」というものが、フックの体を蝕んでいるのです。フックに残された時間は後わずかであることを、本人は本能的に知っています。そして、その時計の針を止めることはできないということも。それゆえにフックはワニを極度に恐れるのです。その針がとまる=フックの残された時間が終わることはそのまま自分の死であるということを知っているからです。ですから、最後にフックがワニ=時間に飲み込まれていくのも必然といえるでしょう。その引き金を引いたのがピーターの”I’m youth & joy!…”のセリフなのも納得です。一方で、ピーターには有り余る時間があります。何せ、ピーターは年をとらないのですから。歯も生え変わりませんしね。そうそう、ピーターがひどく物忘れが激しいことを覚えていますか?これも、ピーターが年を取らないひとつの大事なファクターです。物事を覚え、経験を重ねて蓄積していくことはそのまま時間の経過の証明となってしまいますから…。 

 ところが。

そんなピーターがおそらくかなり以前になるであろう物事を実に鮮明に覚えています。それは、彼がネバーランドに来てから、自分のうちに飛んで帰っていったときのこと。

そう、この物語に登場する絶対的な母性愛の塊の「おかあさん」とは異質な存在、ピーター自身のお母さんに会いに行ったときのことです。
彼女はピーターのために窓を開けておいてはくれませんでした。少なくとも、ピーターはそう受け止めました。

この時からピーターは大人になることを放棄します。おかあさんの愛情とは無縁の世界で生きることを選択するのです。それこそがネバーランドであり、お母さんの愛情がありえない世界です。
しかし、それはピーターが時間の呪縛から解放される決定的な要因とはなりえません。むしろ、ピーター自身が自分の過去を語ることで、ピーターの上にも時間の経過が確実にあり、やはり彼も時間の呪縛にしっかりととらわれていることを自ら証明してしまっているのです。

ここで、最初にあげたバリの台本にあったという謎のことばをもう一度考えてみたいのです。このことばを加えて、ピーターの時間の経過を考えるとすると、ある仮説が浮かんできます。それは、「この物語はキャストを変えて繰り返されているのではないか」ということ。つまり、ピーターがいつかフックになり、新しいピーターが誕生していくのではないかということです。
 もし。ピーターのように母親の愛情を放棄した子供が大人になっていったら、それはフックのようなこどもっぽい大人にならないでしょうか。
 もし。母親の愛情に触れずに育ったロストボーイズは、海賊達のようにならないでしょうか。
 もし…。

そのような捉え方を嫌う方も多いでしょうし、夢を壊されたような気分になる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ピーター(こども)はフック(おとな)がいるからこそピーターとして輝けるのです。もちろん、ひとつの物語の捉え方として、聞き流していただいて結構。永年テーマ活動をやってきて、ちょっとひねたフックになった私が、本質的にはピーターなのだという自己弁護なのかもしれません。そして、その気持ちはそのままバリにも、他の多くの大人たちにも当てはまるのかもしれませんね。
ラボっ子たちがロスト・ボーイズをやり、ピーターをやり、やがてフックになり…なんていう姿を見てきて、そんな気持ちが強くなります。みなさんはいかがですか?
>>感想を掲示板へ
Re:2005/03/07の日記(03月07日) >>返事を書く
おーじゅんさん (2005年03月07日 23時19分)

何かあったのかと思わせるほど、一気に書き込まれましたねー。 こん
にちは、おーじゅんです。 覚えていますか? やっと実現したパーテ
ィ訪問で、父母会のときは事務局の顔、テーマ活動を見ているときはラ
ボOBの顔になっていたときのことです。 あの後私にくださった手紙を
ダイアリーにファイルして持ち歩いているんですよ。 えっ?大丈夫で
すよ。いつも落ち込んで読み返してわけではありませんから(笑) 

先週、「うみのがくたい」をやっていて、くじらの中1男子が棒立ちでし
た。 「くじらは楽器をもらってどんな気持ちなの?」 「え?大事な
楽器なのに悪いなあって思った」 「そうしたら、それをどう表したら
いいんだろうね」 感じるだけ、思うだけでもいいような気がする。 
でも、何もしなければ途方にくれているようにしか相手には見えないん
ですよね。 おさむさんの指摘「役の子へのケア:登場人物の気持
ち・・・」が必要だと言ってくれたことを思い出しました。 やらせ
る、とか演じるとかでなくて、個が感じたことをどう表現していくかを
その子が分からなければ、みんなで考えていくことも時には必要だなと
実感しました。 

物語日記を楽しみにしています。 いえ、なんでもアップされたらまた
飛んできますね。 
Re:2005/03/07の日記(03月07日) >>返事を書く
Mackeyさん (2005年03月08日 13時28分)

また、深く掘り下げた興味深い内容の日記でしたねぇ(^_^)
『ピーターパン』が元々童話でないという話は
私も耳にしていました。原本はもっとリアルで、また抽象的でもあり
少し怖いような内容だった・・・と、シニア当時の友人から聞かされました。
ピ-ターは、実は少年なんかではなくて
鳥の形をした妖獣なのだ・・という説も聞いた事があります。
それでも、私は『ピーターパン』が大好きです。
私にとっての【ないないないの国】は、今でもラボ・ランドであり
ピーターは、私にとって理想の少年なのです。
現役の頃は、ピーターパンの役になれなかった・・・。
出来るなら、今の私から感じ取ったピーターを演じてみたいです。
決してラボから離れられない私・・・・。
もしかしたら、ラボが私にとっての母親のような存在なのかも知れません。
そして、私はピーターなのか? ロスト・ボーイズなのか?
はたまた、現実世界で母親になる事を選んだ
ウエンディなのでしょうか・・・?
Re:2005/03/07の日記(03月07日) >>返事を書く
ぬっぴさん (2005年03月08日 15時16分)

このお話はどこのパーティでもそうでしょうが、何度も取り組んでいます。
小さい頃はただただ楽しんでいただけだったのに、回を重ねるごとに子供達の
受け取り方は変わってきますね。
「殺すのだ-いすき!って、この子たち海賊みたい」と言ったともよ、「フッ
クってホント子供みたい」と言ったあやこ、そして前回小学生がやった時「こ
いつらいずれフックや海賊になっちまうんだよなあ~。」と言ったぺぺ。
いろいろなことを思い出しました。
しばらく遠ざかっていたけれど、すぐにでもピーターパンに取り組みたくなっ
てしまいました。
Re:Re:2005/03/07の日記(03月07日) >>返事を書く
Mackeyさん (2005年03月12日 16時42分)

ぬっぴさん
>このお話はどこのパーティでもそうでしょうが、何度も取り組んでいます。
小さい頃はただただ楽しんでいただけだったのに、回を重ねるごとに子供達の
受け取り方は変わってきますね。
「殺すのだ-いすき!って、この子たち海賊みたい」と言ったともよ、「フッ
クってホント子供みたい」と言ったあやこ、そして前回小学生がやった時「こ
いつらいずれフックや海賊になっちまうんだよなあ~。」と言ったぺぺ。
いろいろなことを思い出しました。
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>ぬっぴさん
私の為に『ピーターパン』を取り上げてくれるんですかぁ?w
テレテレ (* ̄m ̄)

しばらく遠ざかっていたけれど、すぐにでもピーターパンに取り組みたくなっ
てしまいました。
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