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SENCHOの日記
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「物語は思いも魂も伝承する」 05月01日 (火)
三澤製作所のラボ・カレンダー
5月の絵をめくる

皐月朔日。
午前5時30分にカレンダーをめくった。
東の窓から差し込む、
もう初夏といっていい朝の光に
この絵が浮かびあがった。
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大塚勇三・文 丸木俊・絵による絵本
『うみのがくたい』に題材をも止めた
ラボ・ライブラリー
The Ocean-Going Orchestraから
感じたら喜びと感動を
物語に心を寄せて描いたものだ。

描いてくれたのは
石井聖人くん(小4/愛知県・鈴木晶子P)。
遭難しかかった船が
海の生き物たちの協力で難を逃れた後、
お礼にもらった楽器でsessionする
クジラやサメや魚たちが
いきいきと画面で躍動している。

この物語も、ラボ・カレンダーの題材として
たくさんの子どもたちが取り上げる。
その理由のひとつとして「真似しやすい」絵という
ことがあるのは否定しない。
でも、それは極めて皮相的、superficial
な理由に過ぎない。
いわゆる具象的な絵はラボ・ライブラリーに
いくらでもあるのに、
この物語から絵を描いてみようと
子どもたちを誘うのは、
『うみのがくたい』のことば、
音楽、絵の持つ大きな力、
そこに込められた想いとか魂といった
不可視のパワーが
子どもたちに伝わっている気がしてならない。

1985年以降の34年間、
これまでのラボ・カレンダーの絵として
『うみのがくたい』は多分20点数が
入選作として全国のラボっ子の部屋の壁を
飾っているはずだ。
ということは、選考委員をうならせる
名作、傑作、力作が多数登場しているわけで、
それを乗り越えて、
常に新鮮な作品が登場してくるのも
この物語のふしぎな力だと思う。

そして今回の聖人くんの作品も
「おっ!」という新鮮さに溢れている。
まず驚いたのは船体は大胆に簡素化され
さらに船員たちはひとりもいない。
(このことは後で触れる)
4頭の大小のクジラやサメ、
そして小さな魚たちが全力で演奏する。
その躍動感には力強いリズムがあり、
それは聖人くんがこの物語を繰り返し聴き、
深くinputされたことの証に違いない。
絵は本来空間的だが、
時として音楽的でもあり、
物語における音楽は
物語のテキストをコントロールする
時間的であるが
絵画的な表現力も持つ。

テキスト(音声)、音楽、絵という
ラボ。ライブラリーを構成する要素、
すなわち物語を立体的に描く要素が
この絵をじっくりと見ていると
湧き上がってくるのだ。

上記は何のこっちやと思う人のために
もう少し説明するが
その前に色のことを書いておこう。
原画を見ていないので正確なことはいえないが、
色味としてはかなり抑制されていて、
透明感がある。
クジラは比較的濃い色だが
それでも抑えめといえる。
全体に青の濃淡で空と海が描かれ、
絵の上部、空の方にいくほど
淡い青になっているが、
塗りかたは単純ではなく、
奥ゆきと広がりを作っている。

魚たちや船はおしゃれな現代色で
水彩でこの色を作り出した感覚はステキ。
とくに船体のmagenta系とviridian系の
two-toneの色味は
痺れるようなかっこよさで、
さらにわずかに使ったvioletが効いている。
この船がどまんなかにあることで
面積の多い青がさらにくっきりとして
この絵に力を与えている。
それがなければ、ともすれば
淡い色だけの印象になっていたかもしれない。

作者は小4ということだから、
男の子から少年に向かいはじめる少し前。
声変わりもまだしていないと思う。
その時期の男子の感性、
憧れ、無邪気さ、とまどいを
おとなになると残念ながら忘れてしまう。
しかしその時期の心映えが
『うみのがくたい』の言語体験を経て
こうした絵として残るのは
とっても貴重なことだ。
たかが子どものえでは済されない。

さっき後で触れるといったことを書く・

原作絵本の絵は「原爆の図」で
夫である丸木位里先生とともに
ノーベル平和賞の候補にもなった
画家の丸木俊先生である。
ぼくは埼玉の丸木美術館でも
広島でも長崎でも先生の
「原爆の図」と何度も対面している。
とくに長崎は長男のすばるが小1、
長女の梨奈が保育園のときに連れていった。

広島や埼玉は高校生くらいになれば
自力でいけるだろうと思ったからだ。
「強烈すぎるか」とも思ったが、
現在36歳の長男は記憶にあるという。

すばるが明治の政治経済にいながら
卒論にチョムスキーをえらび、
アクティビストとしての彼に着目して
「テロリストの再定義」を書いたのも
長崎の原体験が影響しているかもしれないという。

『うみのがくたい』の絵は
丸木先生は2年以上をかけて制作されている。
イルカやサメなどの動きに
たいへん苦労され、
近所にすむ「おさかな博士」の少年と
なかよくなって助言をうけたという
エピソードもある。

その半面、人間の生命や尊厳を
おびやかすものへの怒りは苛烈で、
容赦はなかった。
かつて「ラボの世界」のインタビューで
ラボっ子たちがお宅をたずねたときも、
核エネルギーと人間が
共存不可能であることを説いてから、
髑髏のお面を全員につけさせて,
「原発反対!」とシュプレヒコールを
子どもたちとともにされた。

『うみのがくたい』はまた、音楽がテーマでもある。
海、夕焼け、音楽、海のいきものたち。
すべて美しいモティーフだ、いや、
モティーフ、動機というよりキエティーフ、
すなわち動かない静機といっても
いいかもしれない。

海は、遠くに開かれ、
水平線の先にはなにも見えないがゆえに、
古来から多くの想像がなされた。
不老不死の国や黄金の国、
さまざな楽園を人は想像した。
そして多くの命が冒険にでて帰らなかった。
いや海に還ったというべきか。

そして戦もあった。
若きかけがえのない魂がやはり海に消えた。
この物語の音楽も夕焼けも、
すべては海にきえた命への鎮魂のように思える。
これは何度か書いた話だし知っている
人もも多いと思うが、
あるとき5歳のラボっ子が
『うみのがくたい』についてこういった。
「先生、あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」

聖人くんがこの子のエピソードを
知っていたとは思えない。
だが、船員がひとりも描かれていない船。
そのまわりでひたすら演奏する
海の生き物たち。
それは、「あの船はほんとうは沈んだんだよ。
だからあのお話ができたんだ」に
通じる感性のような気がしてならない。
考え過ぎかもしれないし、
人間を描くのめんどいからやめたのかもしれない。
だ、これだ描き込む力のある聖人くんが
そんな安易な理由で人物を描かないのも不自然だ。
だからこそ、彼がどんな言語体験、
テーマ活動体験をこの物語でしたかの
ぜひ知りたいと思う。

ただ、ぼくが信じているのは、
大塚先生、丸木先生、間宮先生の
思いや魂は、
多くの子どもたちに
感動とともに伝承され
こうして新しい形で常に
立ち現われてくるということ。
だからきっと今夏も
『うみのがくたい』の絵は
またたくさん送られてくるだろう。

1981 年、瀬戸内海の高島という島で
「海の学校」の教頭やっていたとき、
若い漁師のおにいさん
「妹尾のタカちゃん」がこういった。
「海はこわいところさ。
でも、命の生まれるところでもあるんだ」
そのとき、長男のすばるはお腹にいたが
タカちゃんの話をききながら、
ぼくはまだ見ぬわが子を思った。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる Rise Up to the Sky. ChuChu Belongs There. 04月03日 (火)
卯月である。
弥生が別れの月なら、
今月は新しい出会いと
旅のはじまりの月だ。
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そんな季節にふさわしい
さわやかな絵が登場。
ラボ・ライブラリーSK8
ChuChu 『こつばめチュチュ』に
inspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野呂千尋さん(小6/小笠原カヨ子P)。

絵大好き少女の力作であることは
だれが見てもわかる。
そして、吉原英雄先生の
オリジナルの絵本を知っている人は
別の意味でびっくりするし、
この絵の後で絵本を観た人は
もっとたまげるだろう。

そのことは後述するが、
小学1年生のツバメのチュチュと
なかまたちが澄んだ空ほ
競いながら飛翔するさまを
ワイドな画面で描き切った
豪快・爽快・痛快な画面には
みんなstanding ovationだ。

チュチュのいる街は物語上の
架空だtownだが、
千尋さんのなかでは超リアルに実在している。
そしてそれをvisualに表現する力を
彼女は持っている。

もしかすると千尋さんは
もっともっとリアルに
家や樹木や光を
新海監督のアニメのように
クリアな感じで
描きたかったのかもしれない。
でも、この水彩のボケ味は
絵はがきや風景スナップなどよりも
とても生きいきとしていると思う。

家が立ち並び、ビルもあり。
樹々も点在し、鉄塔もあり
電線もある。
遠くに美しい山もある。
チュチュたちの眼下の街には
子どもたちの笑い声があり。
荷物を運ぶお兄さんが汗があり、
窓辺でピアノを弾く
お姉さんのtrèmoloがあり、
恋人たちのささやきがあり、
たいせつな人を失った涙がある。
そんな想像を掻き立ててくれる。

絵全体にこの街を祝福する
鐘の音が聞こえてくる気さえする。

チュチュと同じ高さで、
街全体を見おろす千尋さんの視線は
なんというやさしさだろう。
千尋さんは、「がんばれチュチュ!」と
応援しているのはもちろんだが、
「がんばれみんな!」と
ちょっした失敗や、つまずきで
すぐに膝をかかえてしまうぼくたちを
激励しているのだといま気づき、
ハッとしている。

もうすこし詳しく見よう。
描き込みの細かさはいうまでもなく
ものすごい集中力と想像力だ。
ラボ・ライブラリーの音声と音楽から
これだの世界を広げるのは尋常ではない。
さらに、focusはツバメたちにあっているので
街や遠景は巧まずしてボケている。
被写界深度、Depth of Focusを
使っているのもすごい。
このスケール感と奥行き感、
また、ツバメたちが電線の上にも
奥のほうにもいるのが楽しい。

ツバメはオスメス同色で、尾は長い方がオス。
燕尾服の由来である。
都市に来るツパメは
ほとんどが建物の軒下などの
人工物に営巣するので
最近は迷惑がられたりするが、
空中の虫を餌にするので、
農薬のない昔は稲の害虫を
食べてくれる鳥として
たいせつにされた。
また、軒下に巣をつくったツバメは、
雷や火事を防ぎ、
子どもを生み育てる吉鳥灯ともされ、
にんげんとはなじみの深い鳥だ。

柏原(黒姫)出身の俳人
小林一茶にも
今来たと 顔を並べる つばめかな
なんていう句がある。

で、ここでdelicateな話をする。
そして最初にラボ・カレンダーの選考について
とやかくいうつもりはないことを
お断りしておく。
この絵は、ふつうに考えれば
「1年でも1万メートル」
というツバメの運動会の競争のシーンだ。
だとすると
narrationにもあるように
「秋のはじめの青い空」である。
この語りはシンプルな表現だが、
チュチュたちが舞い上がる
空の高さと広さ。
そして巣立ったばかりの
幼いツバメの可能性を
ことばのナイフで鮮やかに
切り取ってみせる
とても重要な一言。

物語を聴く子どものイメージは
大きくて広げることば。
さすがはらくだ・こぶにだ。

これだけ印象深いことばは
千尋さんの心に残っているはずだし、
これだけチュチュの世界を
リアルに描き出せるほど
物語と向き合った彼女なら
当然のことだ。
だとすれば、この絵は9月の絵に
おくべきだったのではないか。

また、仮にこの絵が「登校の場面」だとしても
ツバメが巣立つのは6月から
7月くらいであるから
4月では早過ぎる。

ただ、こういう可能性もある。
「チュチュは少学1年生」というのは
物語のはじめに明示されるから、
それを意識した「新学期」というイメージで
千尋さんは描いたのかもしれない。
いつもいうように、
物語、fictionに
自然科学の整合性を持ち込むと
あまりおもしろくない。
「石から猿は生まれない」
といったら『西遊記』は成立しない。
「石から、猿? わっはっは」
という感性がだいじだとも思う。

ただ、作者のらくだ・こぶにが
「秋のはじめの青い空」にこだわったことは
まちがいないし、
それが千尋さんに届いていないはずもない。

この物語を知らない人が
この絵を見たら春の空を想像するのかも知れない。
(もっとも4月立つらもっと靄がかる)
ともあれ、千尋さんの思いが気になる。
「秋のはじめの青い空」なのか。
ヒレとは関係無く
新学期の空を描いたのか。
作品の完成度、訴える力が強いだけに
その辺りを本人に確認して
月を決めても良かったのではないか。

なにやら選考への批判メいたことを
めずらしく書いてしまったが、
ぼくにはどうしても
「秋のはじめの青い空」なのだ。

そう呟きながら、またながめているが、
ツバメたちの配置も素晴らしい。
先頭を行くチュチュの前方を少し空け、
2番目めのつばめを少し高く起き、
さらに最後尾のツバメの尻尾を
断ち切りで描いたことで。
奥行とスピード感、
さらにツバメのフォーカスがクリアになった。

やはりすばらしい。
中学生になっても
絵を描きつづけてね。
nyynd
◎ここからは後半
かつて書いたことに加筆した。

SK8は1974年のリリースだ。
この巻はラボ・ライブラリーが
「こどものともシリーズ」
からはなれ、
また有名な昔話や童話の再話でもなく、
ラボがオリジナル・ストーリィで
制作した最初の作品である。

子どもたちにとっては
そのラボ・ライブラリーを
だれが作ろうが、
だれが絵を描こうが、
だれが吹き込もうが、
物語は物語。
自分にとっておもしろいかどうかしかない。
ラボ・ライブラリーは
ご存じのように
一流アーティストが参加して
つくられるが、
子どもたちにとっては
制作関係者が有名かどうか、
またテーマがなんなのかといのも
どうでもいいことだ。
というか、そうしたことを教えたり
押しつけたりするのは無意味だ。

といいつつ、クレジットを並べると
英 語 ● Sarah Ann Nishié
日本語 ● らくだ・こぶに/さが・のぶる
音 楽 ● 間宮芳生
吹 込 ● Alan Booth / Gerri Sorrells /
Roger Matthews /江守 徹/
田島令子/野村万作/岸田今日子
絵 ● 吉原英雄/藤枝りゅうじ/山下
菊二/元永定正
とある。

まあとんでもない顔ぶれである。
極端ないいかたをすると、
離乳食から普通のご飯を食べはじめた
幼な子の食器に
名工の飯茶碗や
すぐれた塗師による
蒔絵の日月椀を
さらっと用意しているようなものだ。
(これはだれだれ先生の傑作だから
とはいわない。食べ物をよそうのだから
だいじにしなさいというがよし)。

SK8は初の完全ラボ・オリジナル
であるがゆえに、
この作品のストーリーも音楽も絵も
その後に連なるラボ・ライブラリー
の特長のたいせつな部分が凝縮している。
また、その後、しばらく
ラボ・ライブラリーづくりの中心にいた
らくだ・こぶにの意図が
鮮明に感じとれる。

すべからく物語おけるテキストは
フィクション、すなわち
そこに無いものを描くことができる。
ということは時間的からも空間からも
解き放たれている。

ただ、ラボ・ライブラリーは
物語を立体的に描こうという試みであり、
絵は空間を語り、
音楽は時間を支配する。
3Dなのだ。

『こつばめチュチュ』のストーリィは
シンプルな話かもしれない。
だた、一見シンプルなのだけれど、
なかに入り込んでいるcontextは
けっこう奥にあるので
ほじりくりだして
味わうとおよりおいしくなる。

それらの味はライブラリーを
一度さらっと聴いたり、
わあっと「一回動いた」
程度では見えてこない。
まあライブラリーに限らず
どんな物語でも小説でも
そうしたcontext、
すなわち山や谷や川や森は
下からゆっくり登って
高みに行かないと全部は見えない。

この物語が
大好きな小学生なら
ことばにはできなくても
膨らませているだろう。
ことばにできないと書いたが、
イメージは言語と体験のインプットから
形成されるが、うかんだイメージを
言語化して展開するのは
別の抽象力が必要だ。
それには時間がかかる。

この物語が出で2年後の1976年、
ぼくがラボに入社する直前の5月、
卒論の仕上げをしていた頃、
ラボセンターにらくだ・こぶに氏に
頼まれた本を
届けにいったことがある。
彼は珍しく頭を下げ、
「いそがしい時にすまなかった。
飯でも食いに行くか」といった。
本当はすぐ帰りたかったが、
(ながくなるのは見えていたので)
Noという空気ではなかった。

その少し前、たまさか、
シニアメイトで実験的に
公開テーマ活動と称して
その日に来たラボっ子たちと
役も何も決めないで自由に
テーマ活動をするという試みをしており、
それをらくだ・こぶに氏は見ていたので、
話はしぜんと『こつばめチュチュ』の
ことになった。

ぼくたちの活動については、
試みとしては評価すると前置きしてから、
散々にダメ出しされた。
「いかに自由にといっても、
中心となる君たちひとりひとりが
浅い聴き込みと理解なのは情けない」
ということだった。
実験とはいえ、
聴き込みが浅かったのは事実で
反駁することはできなかった。

「前半についてはよく意識していたが、
後半まで緊張が続いていない」
「……たとえば?」
「『あれはシドニーまでいくんですよ』
とマスケル先生はいうが、
『もうすぐきみたちも飛ぶ。
鳥は飛行機ほどはやくないが、
ツパメは鳥のなかではいちばんはやい。
だから、虫を食べて身体をつくりなさい』
といったことを教えたいのだよ」
「なるほど、マスケル先生すごいっすね」
「じつにいいタイミングで
飛行機が飛んできた。
なにかバラバラのような
先生の質問も、
答は全てツバメだ。
ツバメの誇り、矜持を教えたい。
マスケル先生はちゃんと
目標をもって授業にでている。
そして運動会だ」
(この人はそんなことまで考えて
物語を書いているのか)

「『こつばめチュチュ』の物語は
間宮さんの音楽で始まる。
この冒頭の短い音楽はなんど聴いても
ツバメが飛んでいる音楽ではないだろう」
「そうすね、ぼくたちも
ツバメの話だからと決めつけて
はじめは飛ぼうとしました。
ところがなんだか変でした」
「うむ、ありは小学1年生!
という音楽だ」

かつてなんども書いたが
音楽は時間的だ。
時間は流れていくから、
音楽に支配性をもたせることが
物語を立体的に描くラボ・ライブラリーに
音楽がある積極的な意味だ。
時間的でも空間的でもない
テキストをコントロールするのは音楽だ。
このことを教えてくれたのがSK8だ。

たった7秒くらいの
ブリッジといわれる
短い音楽でも「一夜明けて」みたいな
時間の経過がわかる。
しかし音楽は空間や心象については、
それを示すとはかぎらない。
悲しい話だから悲しい音楽になるとは
かぎらない。
音楽が必ずしもその場の動きを
決めているわけではない。

ラボ・ライブラリーの音楽はBGM、
背景音楽ではない。
銭湯の富士山ではない。
ときには物語の前で、
ストーリィを牽引したりもする。
また、音楽とことばとの関係は
じっとラボ・ライブラリーを
聴くときと、身体をつかって
動くときでは変わってくることがあるのも
おもしろいと思う。

で酒席の続き
「三澤よ。チュチュが飛ぶ練習をしているときの
『来年もまた帰ってきますかね』は
必死にリハビリするチュチュが
まだまだ心配なのだ。
次の『もちろんだとも』はさらなる激励だ」
「であるなら、ぼくの想像では、
ここでのチュチュは
まだまだ鮮やかに
飛んでいないのですね。
ときおりふらついているかも」
「ふむ、君はたまに
まともなことをいうな」

絵本は吉原英雄先生だ。
先生は2007年に亡くなられたが、
残念ながら拝眉する機会はなかった。
先生は20世紀後半の日本を
代表する版画家のおひとりであることは
いうまでもない。

「チュチュ」絵は
2つのパターンの変化だ。
恐るべきことに
吉原先生を知らないときに
この絵本を見たとき、
「なんという手抜きだ」と思った。
アホである。

この酒席でらくだ・こぶに氏に
そのことをきくと氏は呆れた顔で、
チュチュを没個性にすることで
物語の個性を描きたかったのだと
教えてくれた。

さらに、その日は機嫌がよくなったのか
「チュチュは注射もがまんする
なかなか強い子だが、
とりわけ優等生ではない。
ふつうのツバメがトラブルに巻き込まれ、
仲間と離れて暮らして
少し成長して帰ってくる。
落下してケガをして少しずつ成長する。
この少しずつの成長を書いたんだ」
と問わず語り。

その少し前には酔いのせいか
少し前傾していた姿勢が
いつものビシッと伸びた背筋になった。
そして両肘を張ってぐいと盃を煽ると
「そろそろ行くか」といった。

ところでテーマ活動で
運動会の場面でみんなが
チュチュを先頭にしようと
全力でとばないことがあるけど、
ここでは子どものもつ
全力さがたいせつなんだなと
ふと思った。
ラボ・カレンダー3月 色の音、「ヒツジになるなヤギになれ」 03月01日 (木)
三澤制作書のラボ・カレンダー3月をめくる
The Sounds of Colors
Be a GOAT!
tbynt

弥生である。
日本の3月の空は「霞みか雲か」で
すっきりとは晴れない日が多い。
しかし、今月の絵の空はなんとも清々しい。
快晴ではなく雲がたなびいてはいるが、
全体にスカッと抜けた色合いがかっこいい。

描いてくれたのは
繁田真言くん(6歳/兵庫県・高島良子P)。
2015年に96歳で亡くなった
アメリカの絵本作家
Marcia Brownの
The Three Billy Goats Gruff
『三びきのやぎのがらがらどん』に
題材を求めて制作されたラボ・ライブラリーに
inspireされた作品。

この物語もラボ・カレンダーの題材に
とりあげるラボっ子は多く。
毎年かなりの点数が送られてくる。
したがって過去には名作、傑作が
綺羅、星の如く居並ぶので
それを超える作品となると
なかなかたいへんである。
もちろん、画風や画材の違い
年齢差などがあるから比較は困難だが
「すげえ」「渋い」「カッケー」
「負けたわ」「鳥肌」なんていう
感性直撃の絵が数多くでるのが
この『三びきのやぎのがらがらどん』だ。
それはやはり原作絵本、
そしてラボ・ライブラリーの力よるもので
題材のパワーが子どもたちの絵力を
引き出しているのだろう。

原作の話は後にして
繁田くんの絵を見ていこう。
ぼくが最も感じたのは、
個性、のびやかさ、とらわれのなさ、
楽しさといったところが
とびぬけてすばらしいということ。

フォルムも色もdetailも
絵本から距離をおいている。
構図や登場するキャラクーは
もちろん参考にしているが、
「画本の写し」ではなく、
十分な聴き込みによって
inputされた物語の
イメージ(ことば 色 音楽)が
彼の中で反芻され咀嚼され、
真言くん自信の色と形になって
それも楽しいリズムを伴って
溢れだしたのだと思う。

後で触れるが、
瀬田貞二先生は、
『三びきのやぎのがらがらどん』の
色には音楽とことばがあると
いわれているが、
真言くんの絵は、
そのブラウンの音楽とことばを
受けとって、
本歌取りのごとく
originalityに満ちた音楽とことばを
生みだした。

クリエイターにとって、
作品に感動してもらえるのは
とてもよろこばしいことだ。
しかし、さらにそこから
新しいものが生まれることは
最大の幸福である。
ブラウンもっと微笑んでいるだろう。

もうすこし細かく見よう。
フォルムはじつにのびやかで自由だ。
トロルもヤギも橋も山も
真言くんの闊達さがきもちがきもちよい。

しかし全体もちゃんと見ていて、
バランスが美しい。
空の面積と山の面積、
トロールの位置とヤギの位置などは
比率を計算してみたくなる関係だ。
また、中央に鳥、橋の下にも生き物を
描き込んでいるのは、
先ほどいったようにイメージがあふれた結果だが、
それがまたふしぎな印象を作ったている。

輪郭を色鉛筆(たぶん)でとっているが、
その線に迷いが無いのと、
彩色した色と同系色の線なので、
世界が分断された感や「ぬりえ感」がない。
要するに自由闊達なんだけど、
揺るぎないイメージにる独自の造型がある。
そして、橋の湾曲した感じと
緑のヤギの少し前のめり(これ大事)の姿勢、
トロルのひろげた手からは、
速度感、躍動感が伝わってくる。
これもすごいぞ。
mim
それからこれも見逃せないのは
トロルにもヤギたちにも
皆表情があること。
物語がvividに響いてくるのだ。

そして色は、まさに真言くんの
独自ののメロディとリズムを奏でている。
まず、橋がtwo-toneのだんだらなのがおしゃれで
これが強烈なimpactだ。
北欧の岩山が緑なの? とか
野暮ををいう奴は前に出なさい。
ヤギの色がなんで全部ちがうの? とか
センスのないことをいう輩は
はだしで逃げなさい。

北欧の民話とか自然とかは
真言くんには関係なくて、
小さな頭ではなくでっかいハートで
物語をたっぷり感じているから
これだけ独自の世界が描けるんだろう。
だからこそ、
彼がこのお話をどんな聴き方をしたのか
また、どんな活動をしたのか知りたいものだ。

色彩は見ての通り個性的だが
色に濁りがなく、
また同系色の濃淡の使い分けが巧みだ。
白い雲もひぼんで、
普通だったら「ポッカリ浮かんだ」ように
固まりの雲を描くのだが、
空の上から大胆に使ったwhiteは
ことばを失ってしまった。

なんどもいうが
自由でのびやかだが
全体にも細部にも心が届いている。
そして何より楽しんでいるが、
この描き込みから想像するに
相当疲れたのではないだろうか。

ヒツジは群れたがるが
ヤギは群れないし付和雷同しない。
いたずら者のパンもヤギの身体だ。
真言くん。
Be A Goat!

The Three Billy Goats Gruff
はノルウェーの民話作家であり、
民俗学者、動物学者でもある
アスビョルンセン、Peter Christen Asbjørnsen
と友人のヨルゲン・モーJørgen Engebretsen Mo
が編んだ『ノルウェー民話集』1841-
に収録された民話をもとに
マーシォ・ブラウンが絵本にしたものだ。
ノルウェー語の原題は
De tre bukkene Bruse
でBruseがヤギの名前だが、
これは「うなり声」「咆哮」の意であり、
それをブラウンは英語で
「しわがれ声」「どら声」の意のGruffとした。
それを瀬田先生は「がらがらどん」と邦訳された。
「どん」は殿が変化したもので
「かにどん」とか「西郷どん」、
「おたけどん」のように愛称、尊称、
ときしに蔑称にも使われる。
なお性別は問わない。

ラボ・ライブリー
『三びきのやぎのがらがらどん』の
英語音声を担当されているのは
Elizabeth Handoverさんという
英国人女性だ。
当時は広尾のインターナショナルスクールで
教員をされていた。
英語でも日本語でも職業由来の姓は多いが、
Handoverさんの由来はわからなかった。
いまは亡き「鉄の女」Thatcherさんは
「屋根葺き職人」である。

Handoverさんの
語りがすばらしいのは
ライブリーを聴いた方には
説明の必要はない。
感情を抑制し、かといって冷たくならず
昔話の温かみをたいせつにした語りは
何回でも聴ける。
そしてきもちよいリズムがありながら、
単語ひとつひとつの発音、
とくに母音が明るく
きれいに出るように
心がけられている。
いわゆる曖昧母音を
明るくきれいにというのは
なかなかできることではない。
でもHandoverさんによると
女王陛下の英語なら当然とのことだそうだ。
accd
最後に瀬田貞二先生は、
「ブラウンの色の使い方は
そこからメロディがきこえるような
音楽的であり、かつ象徴的である。
主に空に使われているコバルトは勇気、
トロルや山などに用いられている
ブラウンは脅威、
そしてイエローは平和と安らを歌っている。
読み手は茶色でドキドキし、
コバルトで激励され、
ラストで黄色で安心する」とおっしゃっている。
真言くんは、もちろんこのことは知らないだろう。
ただ、ブラウンの音楽性を受け取り
新たなる自分のメロディとリズムを
奏でたのだ!

ラボ・ライブリーの音声録音は
基本的には英語も日本語も
スクリプト、すなわち
台本を用意して
それを読んでもらうのだが
絵本作品の場合は、
テストでは直接絵本を読んでもらう。
やはり絵本の絵がもつ意味や
温度や音楽性などを
感じとった身体から出てくる声で
録音したいのだ。
声は「喉」から出てくるが
「ことば」は身体と心から
生まれてくるのだ。

このアスビョルンセンは元々は
自然科学が専門だったが
グリム童話を読んで、
ノルウェーのけわしくも美しい自然が生み出した
妖精たちが活躍する物語、
そこに生きる人びとの心と知恵の話を
ノルウェーのことばで
子どもたちに伝えようと考えた。
そして、その仕事はノルウェーの国語の
純化という大きな役割を果たした。

アスビョルンセンは1885年、
73歳で、故郷であるクリスチャニアで亡くなった。
このクリスチャニアは
現在では「parallel turn」と呼ばれる
スキーを平行に揃えて回転する技術の
名前でもあり、
ノルウェーの首都、オスロの古名である。
三澤制作所のラボ・カレンダー2月をめくる。 AND OVER THE TOP OF THE MILKY WAY 02月01日 (木)
2月になった。
もっとも寒い時期だが
春隣でもある。
如月の由来は、「着更着」からだと
という説がある。
例によって諸説の一つにすぎないが
説得力があるほどに
このところずっと寒い。
byt
今月の絵は、アメリカの絵本の巨人、
もっともNY TIMESによれば
Author of Splendid Nightmaresだそうだが、
(これは彼が83歳で他界したときの見出し。
だけど続けて絵本作家とはいわず
「子どもの本の偉大なArtist」と
表現しているところに
NY TIMESのセンダックへの
高い評価がうかがいしれる)

モーリス・センダックの
IN THE NIGHT KITCHEN
『まよなかのだいどころ』に
題材をもとめて制作された
ラボ・ライブラリーに
強烈にinspireというか
電撃をうけた作品だ。

描いてくれたのは
酒徳航佑くん(小1/東京都・西田千尋P)。

いやあ、やってくれるわ。
1月につづいて攻めてるなあ
ラボ・カレンダー!
nice guts and super senseだ。

めくった瞬間、主人公ミッキーの
寝室にすいこまれただけでなく
ノータイムでニューヨークの
夜空にもっていかれた。

IN THE NIGHT KITCHENを
テーマにした「カレンダーのえ」は
2015年の12月以来だが、

このあざやかなスーパーフルムーント
それを横切る流星を見ると、
今回もぼくのすきな曲
クリストファー・クロスの
「ニューヨークシティ・セレナーデ」
のサビを思い出した。
When you get caught between
the Moon and New York City 
きみがニューヨークシティと
月のあいだでつかまったら
The best that you can do is fall in love.
きみができるのは恋に落ちること
(クリストファー・クロスは
visualは小太りおじさんで
この絵本のパン屋さんだが、
声はびっくりのhigh-keyでmellow)

告白すると、ぼくはフライイングはしないように
しているが、1月末はスケジュールが
タイトなので、
30日の夜に、どんな感じかなと
ちら見した。
で、これはまずい! とすぐにめくって
それから毎日ながめて、
そして今日やっと書いている。

これはみなさんもそうだと思うが、
主人公ミッキーもTrio de パン屋 Amigosも
人物はなにも描かれていない。
ただ魅力的で蠱惑的なNYのmidnightが
広がるだけだ。

航佑くん自身もこの物語に
取り込まれていて、
「どこのなにを描いた」という
感覚ではなく、
IN THE NIGHT KITCHENの世界を
描いたのだと思う。

しかし、3日間ながめて、
あえて絵本のどこをベースに
しているかといえば
ミッキーが高く舞い上がった
見開き一枚絵の一つ前のページ、
対応する文でいえば
AND OVER THE TOP OF
THE MILKY WAY
IN THE NIGHT KITCHEN
のベージだと推測する。
しかし、そんなことはどうでもいい。

violetやpurpleの濃淡ある
夜空の美しさ、
されを彩る星屑たちとネオンライトの
collaboration。
いやいや美しさというと月並み過ぎる。
透明感と奥行きもあって
べたっとしたぬり絵にはなっていない。

そしてなんといっても
左上半分に大きく描かれた満月の
さやけさと
その上方をかすめ飛ぶ流星のスピード感!
こり流れ星は、きっとこのカレンダーから
真夜中には画面から飛び出して
夜空で星たちと遊んでから
夜明け前にしれっと絵に戻っているはずだ。
ウソじゃないぜ。

航佑くんは、夜空と月と流星以外は
思いきって省略しているが
列車だけは残した。
それは男子のお約束ではあるが、
原作絵本にはないステキな色を
しかも車両ごとに変えたことで
この絵にアクセントがつき、
奥行きもさらにひろがって
月の対象物ともなっている。
だから月がより美しくなった。

鉄橋の左端に売る建造物に書かれた文字は
解読はできなかったが
K t i Cは読める。
Kitchenと綴りたかったのか、
絵本に出てくるChampionなどを
まねたのかは不明。
本人がデザインとして描いたがのか
タイトルを意図したのかが知りたい。
大きなことではないが、
航佑くんの中での意味あいはどうなのだろう。
ytt
センダックはブルックリンの生まれで、
その作品には、彼の本質である
あたたかくするどい
子どもへのまなざしとは別に
都会的な華やかさと洗練、
その裏の孤独があらわれる。
それに近い感性も航佑くんの
絵から感じるのだが……。

とてつもない邪推かもしれないが
航佑くんは
ふだんそんなに絵を描かないのではないか。
逆にいうと、少なくとも絵ばかり
描いている少年ではない気がする。
違っていたらごめんなさいだが。

ただ、絵を描かない=絵がきらい、
ということではない。
ものすごいimpactを受けたとき、
いきなりすごい絵を描くことって
小1ぐらいだとよくある。

私事で恐縮だが、
長男は絵を描くことはほとんどなく、
ぼくも強制はしなかったし、
描くときは「絵はなんでもあり」と
伝えていた。
それが小1の冬、学童保育で
読売ランドのスケートリンクに行き、
それは人生初スケート
(ぼくはスキーはするがスケートは
しないのでスケートは連れていった
ことがない)
だったが、とてもおもしろかったらしく、
鷺沼小学校の図工の時間に
そのときの絵を描いた。
それは中央に片脚をあげて滑っている
友だちを大きく描き、
その後方や周囲に他の学童保育の
仲間たちを数名描いてるものだ。
ふだん絵は描かない子なので
人物のproportionとか
(顔が大きくて手足が細い!)
フォルムは本なのだが、
何より子どもたちのスケートを楽しむ
開放された表情や躍動感が伝わってきた。
結局、その絵は学校から代表で
宮前区にいき区民館に展示され、
さらに区代表の数点の一つになって
川崎市役所でも展示された。
それ以後、彼が絵を描くようになった
ということでもない。

現代の6歳男子の日常から
描画がなくなるのは残念ながら
現在の学校教育や
iT環境、遊び方からすれば
ごく自然なのかもしれない。

しかし航佑くんが
紗が絵がきらいで、
またこの物語があまり好きでなく、
つきあいで描いたとしたら、
ここまで全面を描ききることは不可能だし
これほど星はきらめかないし
月やよぞらにぼくが
恋することもない。
そんな力を持った作品になることはない。

列車か走る鉄橋というか橋梁や
文字、そして月の一部や流星の一部は
クレパスで描かれ、
その上から不透明水彩で彩色されているが、
このカレンダーの規定サイズで
行うとのは、絵をほ毎日描くような子にとっても
相当な体力と気力がいる作業だ。

センダックあるいはこの物語が
航佑くんにのりうつり、
なにか超自然的な力に
このラボ・ライブラリー
との出会いで導かれて
「ものにとりつかれたように」
航佑くんは夢中で
描きあげたのではないか。
その背景にある
彼と物語の関係、
ラボ活動を知りたいものだ。
これらは推測だから
ハズレだったら笑いもの。。

「ものにとりつかれた」の
「もの」は
「ものがたり」のものであり、
「もののけ」のものであり
「ものさみしい」のものである。
かつて中国から鬼という字を
学んだとき、
日本人はこれに
「かみ」とか「もの」
の音をつけた。
超自然の不可視の力を
「もの」とか「かみ」とよんだのだ。

だから、「ものがたり」は、
そうしたふしぎな力が
語り手にのりうつって
語らせているわけで、
それゆえに聴き手は
遠くにつれさられてしまう。
だから
物語の力が航佑くんに
筆を走らせたのだとしか
説明しようのないものを
ぼくはこの絵から感じる。
それは2015年の12月の絵でも感じた。
この絵を見て、
なんか人間いないじゃんなんていう
寝言はとてもいえないのだ。

センダックは
子どもの心はおとなが
思うようなシンプルなものではなく、
怒りとか恐怖、ジェラシーとか
あきれるほどたいくつな時間の長さといった
シヴィアな感情が
どろどろしていることを絵本で表現した
最初の作家だと思う。
さらに子ども身体の感覚、
皮膚の触感や、臭い、味覚などの
リアルな生理を通過していない
きれいごとのファンタジー作品を
吹きとばした作家でもある。

『まよなかのだいどころ』も、
まさに身体感覚が要だ。
夜中のキッチンの
作業の触感は
子どもたちには
泥遊びのような快感。

以前にも書いたが、
ぼくは若いときから、そして今も
どんなに忙しくても、
仕事や遊びから帰って
風呂に入って着替えて
即睡眠ということがいやだ。
なにかしらプライベイトなことを
5分でもしないと気がすまない。
仕事モード、遊びモードのまま
寝るのではなく、
なにか本を読むとか
映像を見るとか、
自分へのインプットをして
自分自身に戻らないとダメなのだ。
だから、ベッドサイドに
本を積みあげる。
しかし、疲れているときは
数ページで寝てしまう。
アホだと思うが、
わずかでも自分だけのための
時間をとることで
リセットできるのだ。

眠いけれど、寝たくない。
あのせつない感じ。
子どもの頃、
ぼくは小6まで20時に
寝るように親にいわれていた。
だけどおとなたちは、
楽しそうなことをしているに
ちがいないという妄想。
いいなあと思いつつ
やっぱりひとりで眠りに落ちていく。
目醒めと入眠のあいだのセレナーデ。

センダックは「絵や物語の能力などないが、
幼少期の記憶は明確にある」
と述べているが、
幼い日のセレナーデが
まだ聞こえていたにちがいない。
bvg
『まよなかのだいどころ』は
1970年の刊行当時、
主人公のミッキーが
全裸で描かれている場面が
問題になったことがある。
今なら滑稽な話のようだが、
3年前にヨーロッパの一部で
クマのプーさんが
裸であることが咎められて図書館から
排除されるという事件があったが、
この絵本も児童ポルノではないかと
指摘する評論家もいた。

確かに、ピューリタニズムの
裸に対する忌避感はノアの方舟後の
エピソードに遡るほどに根深いし
幼児、児童の性的被害が
世界的な問題となっている
状況を考えると笑えない話ではある。
しかし、もっと怖いのは、
そうした風潮から
表現の自粛や規制が
進行していくことだと思う。

『かいじゅうたちのいるところ』も、
子どもに悪夢をもたらすと
刊行時はめちゃくちゃにディスられた。
しかし、この絵本は世界で
2000万部売れた。
子どもは選別する能力を
ちゃんと持っている。

うわべや権威や、あまい菓子や
そのばしのぎの理屈や、
なれなれしさといった、
子どもが見抜くおとなの手練に
常に抵抗しつつ
子どもの心の深いところに
寄り添っていたアーティスト。
であるがゆえに、
自身は深い孤独を
内包していた表現者。
航佑くんが「ものにとりつかれた」
かどうかは別として
センダックの魂は確かに
航佑くんに届いている。
btb
以下はオマケ。
ラボ・ライブラリー
『まよなかのだいどころ』の
日本語の語りは
俳優の西沢利明さんである。
文学座から劇団雲へ。
雲の解散後は昴で1997年まで活躍した。
その後はテレビや映画に進出して
知的な悪役は絶品だった。
憎まれ役が多かったが、
素顔はとてもダンディで
真摯でやわらかな物腰の方だった。

この作品の声には、
知性と凄みと夜が必要だったから
ぼくはどうしても
西澤さんにやってもらいたくてオファーを出したが
すぐに出演を快諾してくださり、
ラボのコンセプトも
しっかり受けとめてくださった。
残念ながら一昨年、
77歳で他界された。
2018ラボ・カレンダー1月の絵。 「永遠に生きるつもりで学べ 今日、命が終わるつもりで生きよ」 01月10日 (水)
2018ラボ・カレンダー1月の絵。
「永遠に生きるつもりで学べ
今日、命が終わるつもりで生きよ」
jojo
三澤制作所のラボ・カレンダー2018登場。
年末31日までは表紙を楽しんでいたが
報告したとおり27日から風邪をひき
1日の朝にフラフラになりつつ
雑煮を作ってから気合いでめくった。
それから一昨日まで、遠目で眺め
昨日の朝、やっと手元に置いて
じっくりと拝見した。

◎年初にあたりあらためて
「ラボ・カレンダーの絵」を
書くぞ宣言

2018の年頭を飾る物語は
ご存じ『はらぺこあおむし』。
アメリカの絵本作家エリック・カールによる
THE VERY HUNGRY CATERPILLARに
題材を求めたSK28収録の
ラボ・ライブラリー作品に
思いを寄せた絵だ。

描いてくれたのは濱砂俊介くん
(小1/愛知県・井村恵P)。

例によって前置きが長くなるが
年のはじめにあたり、
大事な思いを少しばかり書くので
お付き合いいただきたい。

ラボ・カレンダーの1月の絵は、
新年のラボの中間の壁を飾るだけに
選考の際にはかなりの激論になる。
しかし、だからといって、
1月の絵の必要十分条件がある
わけではない。
基本はどの月の絵も同じで
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「どれだけ物語を愛しているか」
また「季節感」などの
カレンダーならではの要素
なんかをベースに
絵が醸し出す「想像力」「執着心」
「やさしさ」などの
とぢらかといえばinvisibleなfactorsを
どれだけ選考委員たちがくみ取るか
といった関係なのだ、

だから、いつも書くが
「ラボ・カレンダーの絵」は
コンテストではなく
あくまでも子どもたちの
描画活動を激励するという
教育プログラムであるわけで、
それは選考するおとなたちが、
どれほど前述したような
子どもの感性や
表現力をその絵から
感じ取れるかという
「おとなの感性応用問題」であり、

さらにいえば、
テーマ活動発表と同様に
ラボ・カレンダーの絵を観るすべての
ラボっ子、ご父母、テューターが
毎月の絵から「なにを感じ、
なにを学び取るか」が提案されているのだ。

1枚の絵から
「この子は物語のなにを感じたのだろろう」
「物語とどんな睦みあい方をしたのだろう」
「どうしてこんなにもこの物語を愛し、
そして物語に愛されているのだろう」
そんなことに思いを巡らしてほしいのだ。
fvvf
なぜなら、しつこくいうが、
ラボ・カレンダーの絵の活動は
教育プログラムだからだ。
さらにしつこく書くが
テーマ活動の発表を観ることもまた
教育プログラムであるように
ラボ・カレンダーの絵を観ることも
まちがいなく重要な教育活動だ。

ぼくはこの数年、
ラボ・カレンダーの絵を「観想」を
毎月書き続けてきたが、
それはけして「批評」でも「評価」でもなく、
ぼく自身が「この絵からなにを
感じ取り、学んだか」を自分のために
整理しているにすぎない。
だから、多分絵の専門家からみたら
「なにを的はずれなことを」
書いているのかもしれない。
ただ、なんとなくおもしれえじゃないかと
いってくださる奇特な方がいるので
だらだらと続けているし、
逆にかけなくなったら、
自分の能力と感性
が枯渇するときだと思う。

それともうひとつの
揺るぎない確信(妄信)は
現役の職員時代、
多くの素晴らしいアーティストの
作品に触れるとともに
毎年3000枚以上の子どもたちの絵を
25年間、総計10万枚を超える点数、
見続けてきたことの幸せも
いまの自分の血肉になっているということ。


勢いついでに
さらにさらにいえば、
ラボ・ライブラリーそのものが
子どもたちへのメッセージであるとともに
ラボ・カレンダーの絵も
社会へ、時代へのメッセージでもある。

なぜなら、物語を聴きこみ
再表現するラボっ子は、
その時代の気分や空気を
おとなよりもvividに伝える力を
自然に持っているからだ。
大げさにいえば(けして大げさではないが)、
「時代精神」「危機感」「希望」など゛
が子どもたちの絵には含まれている。

ラボ・ライブラリーにとりあげられている
物語は、古典作品や神話伝説、
創作童話などの多岐にわたるが、
それらに共通するのは、
人間および人間文化の普遍的本質が
内包されていること、
のみならず、それらの本質は
母語と外国語の音声、
そして音楽と絵という
立体的に描かれてる。

だから、ラボの子どもたちは
時代の尖端を生きながら、
歴史が築いていきた価値と
それを自由に再表現する
diversity、多様性を同時に
取り込んでいるのだと思う。
それらはカレンダーの絵で見れば
空間や色、バランスなどの
新しい感覚である。

◎排他的な空気への警鐘

しかし、時代の空気は
いいことばかりではない。
社会の不条理や歪みもまた
子どもたちを直撃する。

ぼくが今もっとも危惧するのは、
アベノミクスという不可解なtermに
象徴されるように、
「経済的価値」
「経済効果」の追及に
社会が偏るとき、それが生み出す
influenceは子どもたち、
高齢者、そして社会的に弱い者を
容赦なく襲い、それが「希望」を奪うことだ。

とくに経済的価値の追及は
基本的には
競争原理に基づいており、
そこには損得という零を基準にした
単一線上での争いがあり、
「思いやり」「寛容」を受け入れない
傾向を強く生み出す。
そして損得という二元論的価値判断は
その損得の要因を
自分の外側に求め、
そのことが異質なものに対する
排他的傾向を生み出していることだ。

そのきびしい時代の気分
という意味では
俊介くんの絵からは、
これまでにない
「静かな叫びと警鐘」を感じさせてくれる。
しかし、けして絶望しない
強さと希望もまた伝わってくる。

俊介くんの「あおむし」は
かなり痩せていて、
見るかにはらぺこである。
しかしその眼には
「とにかく前に」というpureな
意思がみなぎっている。
それはいい意味での貪欲さであり、
単なる食欲を超えた
精神の飢餓が求める学びへの渇望だ。

そして右側に描かれた
巨大な太陽のimpactには
誰しもが圧倒され、そして考えこむ。
諸姉兄にはこの太陽はどう見えるだろうか。
じつはぼくには毎日違って感じられる。
困惑しているようにも見える。
激しく描かれているflareは
味代と社会の汗のようにも思える。
しかし今朝などは、
ニコニコとあおむしやぼくたちに
元気のよいあいさつをしているように
感じられた。

これはぼくの全くの想豫というか
当てずっぽうなのだが、
俊介くんは、いわゆる
「ヒマさえあれば絵を描いている少年」
ではないような気がする。
(違ってたらごめん)
だからといって、この作品が
おとなに指示されて描かれたものではなく、
極めて主体的に表現されたものであることは
ぼくにもわかる。
じっと見ていると
それはわかってくるのだが、
あおむしにしろ、太陽にしろ、
背景の空にしろ、大地にしろ、
そして浮かんでいる「たべもの」にしろ、
その彩色や描き込みが
ちょっと見には単純なようだが、
じつはじつはかなり力強く、
いい意味でしつこく、
かなりの粘着力でなされてるのだ
(風邪をひいて寝転がって見たときと
手に取ったときは、
この絵の風景はまったく変わった)。

もう少し具体的に書くと
背景や食べ物のgradationの微妙な
変化もなかなかのセンスなのだが、
食べ物のひとつひとつのforme、
そしてあおむしが食べ抜いた穴の
touchが、すっと描いているようで
じつはかなりこだわっている。
結構「ごてっ」と描いている。
食べ物それぞれの大きさの変化、
色の選択も個性的だ。

そして何より立ち切りにした
太陽の大胆な描き方、
黄色いflareのtouchは、
この絵のアクセルといってもいい。
また、空の濃淡も、
けして「ペタッとした」ぬり絵ではない。

さらに(今回はこのことばだらけ)!
全体に大胆で闊達に描きながら
あおむしの描き込みの繊細さがすごい。

俊介くんは(これも想像だが)
この絵を小1で描いたわけだが、
たぶん身長はそう大きいほうではないだろう。
だとすると、ラボ・カレンダーの
応募サイズの画用紙は
彼の肩幅よりはるかに大きいと思う。
それをこれだけがっちりと描き込み、
余白を残さずに仕上げるには
相当な体力と精神力が必要だ。

そのバワーを生みださせた
この物語と俊介くんの関係、
彼と物語の睦みあいを知りたいものだ。

ただ、たしかに思うのは
時代の空気、
なんとなく息苦しい、
異質な物を認めない風潮に対する
俊介くんなりの警鐘と抵抗が
伝わってくること。
そして、そこからの飛翔は
困難な道ではあるが
けして絶望の旅ではなく、
「行動する者は希望を持て」と
呼びかけてくる彼の勇気だ。

あおむしは今朝もぼくに語りかけた。
「ぼくはぼくらしくある。
だからきみもきみらしくあれ」
「個性を認め合うことだけが、
異なるものをはいじょしないことだけだけが
ぼくたちが蝶になる道なんだ」

◎エリック・カール氏と
『はらぺこあおむし』
erg

以前にも書いたが『はらぺこあおむし』は
毎年のたくさんの絵が送られてくる
大人気テーマのひとつだ。
この作品が発刊された年のカレンダーの絵では
選考会の部屋じゅうが「あおむしだらけ」
になってしまったほどだ。

原作の持つ明るく鮮やかな色使い、
円の連続で構成された親しみやすいフォルムは、
確かに「描いてみてくなる」要素満点だ。
でも本質はそれだけではなく、
ティッシュのようなやわらかい紙を基調にした
コラージュ風の画風など、
一見素朴でわかりやすいが
極めてテクニカルで奥行きのある絵が
子どもたちを捉えて離さない
(エリック・カール自身もその技法を
公開しているが、単純なドローイングに
見えて質感のある作品は彼の魅力の一つ)。

さらに、この絵本のもつ
「子どもの生理によりそう」感覚も
子どもたちに愛される理由でもある。
成長に欠かせない食欲という野生の力、
また「食べすぎでお腹が痛くなる」という
幼いときに必ずといっていいほど
体験する失敗は、まさに子どもの生理と心裡に
直結している。

センダックは「子どもの不安や苛立ちに」
寄り添ったが、
カールは子どもの原始的な欲望や生理に
暖かく寄り添っていると思う。

この絵本が出とき、
いわゆる「絵本評論家」たちや
絵本好きグループからは
かなりディスられた。
「絵本ではなく玩具
(穴が空いてたりするから)」とか
「ストーリィがない」とか
「甘いお菓子のようで身体にも
心にも悪い」などといった具合だ。
それらは、当然カール氏
の耳にも入ったが、
彼は気にすることなく作風を変えなかった。

絵本はヒットし、ピジネス的にも成功すると
さらに批判は出たという。
このライブラリーが刊行されたとき、
たまたまカール氏が来日し、
ラボの事務所にも立ち寄り、
子どもたちのインタヴューに応じて
くださったが、
そのとき彼は
「玩具とか駄菓子とか評されることは
全然気にしていない。
絵本に穴が空いていると何が問題なのか
わたしにはわからない。
ただわたしは子どもたちに可能な限り
アーティスティックにものを手渡したいと
願っており、それがたまたまた
こういう本のかたちになっているに過ぎない。
だから、絵本というせまい箱に入れられ
なくてもわたしは気にならない」

またカール氏は
「今の子どもたちは本を読まないという。
でも大昔、夕食後、洞穴の入口で
ぼんやり満月を見ていて母親から
『月ばかりてないの』といわれた子は多い。
そして、時代が進み、たき火を
ずっと見ている子がいた。
さらに『テレビばかり見て』という時代があり、
今はPCのゲームだ。
だけど、人間の文化、芸術は滅びたかね。
その後も今もこれからも
子どもたちはなにか夢中になりながら
おとなになり、やがてみんなが夢中に
なるものを創作していく。
月も焚き火もテレビもPCも
大した違いはない。
ぼくもそうしたものを
できる限りアーティスティックに作りたい」

風邪をひいた年明けは、
もういいかなと思ったけど、
今年も1年、「ラボ・カレンダーの絵」は
半ば意地で、半ば洒落で半ば本気で
続けようとしておもいます。

マハトマ・カンジーはいいました。
「永遠に生きるつもりで学べ。
今日、命が終わるつもりで生きよ」
フレームのない空間で地球を見ようーーラボ・カレンダー12月 12月01日 (金)
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
nun
師走である。
「しわす」あるいは「しはす」の語源は
よくわかっていない。
いくつかの辞書には「年果つ」(としはつ)
が変化したものだと出典も含めて
とりあげているが、
その出典のもとをさらに掘ると行き詰まる。
巷間にいわれる普段は落ち着いてる
師も走り回るという説は
師の正体あいまいさとともに俗説だ。
(僧侶という説は根拠不明)
国語科の先生に聞いたら
平安時代にすでに「しはす」という語はあり、
その時点で「由来不明」だったそうな。

色々あり過ぎた2017年の最後を
大団円で締めくくるのは
ラボ・ライブラリー
A Midsummer Aught’s Dream
『夏の夜の夢』にinspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野村あい(中2/吹田市・野村P)さん。

ラスト月なのでちょっと前置きが長いが
2017カレンダー総括の意味もあるので
ご容赦願いたい。

今年のカレンダーは、
高学年ラボっ子の入選が
例年よりも増えた感があるが、
これはおもしろいし楽しい傾向だと思う。
幼い子の「とらわれのない」「伸びやかさ」
「発想の豊かさと自由さ」は
人間はある程度の年齢以上に成長すると
どうしても失ってしまうが、
(逆にそのことを成長と呼ぶわけで
失うものの一方で、思慮とか配慮とか
計画とか目標とか意志とかを身につける)
小学校語5年生以上や中高生が
本気になってこの活動に参加してくれるのは
ラボ・カレンダーに新たな可能性が
生まれる期待が持てる。

そして、もうひとつの特長というか
びっくりは、
『夏の夜の夢』を描いた作品が
3点入選していることだ。
1巻のライブラリーのなかから異なる3点が
入選することも稀有だが、
同一の物語から3点入選は
ラボ・カレンダー史上
たぶん初の快挙というか新展開だ。

過去にも書いたが
一応「ラボ・カレンダー入選内規」
というのが不文律としてあって、
毎回選考会の時に確認するのだが、
「同一パーティからの入選は2点まで。
同一の物語からの入選は原則として複数にしない。
ただし新刊は応募点数も多いので除く」
とあるのだ。

もっともこの内規は
ぼくが在職中に勝手に作って
いい渡していたことなので
入選憲法のようなのではない。
でも「ぶれない基準」を定めておかないと
いざ選考というとき、
それも最終選考の段階で
悩ましいことになる。
その内規はこの間、
ずっと受け継がれているな
と思っていた。

しかしこの内規も
「新刊は複数あり」とはいっていても
3点以上はダメ、2点までとはいっていない。

ラボ・カレンダー最大の目標・意味は、
「ラボっ子の描画活動を激励しよう」
という心意気であり、
「描画も広い意味でのテーマ活動で、
物語と聴き込み、向き合い、仲間と
再表現する過程のなかで生み出される
表現のひとつ」という教育プログラムでもある。
だから「コンテスト」ではなく
あくまで活動なのだ。

したがって入選のなかに順位はないし、
たとえ入選しても、
賞状も賞品もない(いまは知らない)。
ただカレンダー1部が作者用としてぞうていされ
それに「ことばの宇宙」からの
手紙がつくだけだ。

そしてもうひとつ
ラボ・カレンダーには
ラボ教育活動及びその水源である
ラボ・ライブラリーの
パプリシティとしての役割もある。

なんといって32年にわたり
子どもたちが物語をテーマにした絵が
毎夏の終わりに3000枚以上集まり
その絵だけで大判のカレンダーを
作りつづけている例は他にない。
それだけでも自慢していい。

ラボ・ライブララリー制作に
参加していただいた各分野の先生方も
ラボ・カレンダーは楽しみにされている。
「いつ出ますか」と催促される先生も
いらっしゃるし、
「ぼく3部ね」とリクエストされる方もいる。

ラボの絵本の絵はラボっ子から見たら
「すごいなあ。うまいなあ」だろうけど
画家の先生方からすれば
「いいなあ、自由だなあ。
こんな風なとらわれずに描きたいな」
という憧れなのだ。

『かにむかし』『おむすびころころ』
などの絵を担当された
宮本忠夫先生は、ラボ・カレンダーの各月が
終わると仕事場の寝台の真上の天井に貼り、
どうしても絵筆が進まなくなると
ベッドに仰向けになって
そのカレンダーたちを眺め
「ちくしょう、
こいつらがこんなに描けるのに
俺は何をやってるんだ」と
投資をかきたてるといわれたことがある。

また、かのピカソも晩年は
幼子が気まぐれで描いたような
素朴な作品を多数発表し、
「やっとこのように自由に描ける
ようになった。70年かかった
といっている。

話が大きくなったが、
最後のパプリシティという意味からいえば
カレンダーにおいては
なるべく多様な作品を紹介したいと考えるのは
きわめて自然なことだ。
したがって、物語り重複は出ることなら避けよう。
だけど新刊については、
その年にラボ活動の特徴を示すものだから
複数入選はありだねということだ。

前にも書いたが、
ラボ・カレンダーの絵は
基本的に作品主義であり
支部とか年齢とか
ジェンダーとかの枠組みのパランスは
ほとんど考慮しなかった。
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「何を描こうとしているか」
「オリジナリティがあるか」
「季節感があるか」
「見る人背を勇気づけるパワーがあるか」
「どこまでこだわっているか」
などが主なポイントで
「うまい」とか「きれい」という
ファクターはあまり関係がない。
なぜなら、しつこいが
活動だからである。

ただ不思議なことに、
激しい意見交換をしながら
煮詰めていくと
結果的にはジェンダーや年齢は
そんなに偏らない。

ともあれ、
今回『夏の夜の夢』から3点が
入選したのは
それだけこの物語がこどもたちにとって
インパクトがあったことの証だろう。

今朝、使用していない方の
今年のラボ・カレンダーを取り出し
各月を眺めて納得した。

さて、お待たせしたが
野村あいさんの作品について書こう。

Puckの名セリフ
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
がmotifであることはぼくにもわかる。
先日、シャイクスピア好きの友人と
話をしたら、
この場面でPuckがわざと転んで見せる
演出があるとおもしろそうにいっていた。
逆説的なシャレなりだろうか。

今年入選した他2点の『夏の夜の夢』は
いずれも蟹江杏先生の絵にinspireされた
タッチだが、
あいさんのPuckは完全オリジナルだ。

そして、なんというスケール感だろう。
なんという荘厳さだろう。
なんというまばゆさだろう。
なんという深みだろう。
そして、なんという大胆さ。

じつは11月29日からフライングで
この絵をずっと見ているが、
最初は「ああ、おもしろいなあ」とか
「発想がたのしいなあ」とか
「のびやかに大きく描いてるなあ」
くらいに漠然と感じていた。

しかし、今朝あたりからは
detailがいろいろ見えてきて、
だんだんそら恐ろしくなってきた。

絵を構成するパーツとしては
地球、太陽、Puck、背後の宇宙という
大きく4つに分けられる。
地球の上半分(宇宙に上も下もないが……。
ところで、幼いとき右と左を弁別することが
ぼくはなかなかできなかった。諸姉兄の
なかにも「お箸を持つ手」で理解しても
向かい合ったものの左右がよくわからなかった
方がいると思う。じつは左右の決定は
上下が決定されることで決定される。
宇宙それ自体には右も左もないが
自分から見て右手の方向とはいえる)
を断ち切りで描き、その上のど真ん中にPuck。
左隅にやはり断ち切りで太陽、
そして背景には漆黒の
というより深いvioletの宇宙。

そのひとつひとつには
とんでもない思い入れと描き込みがある。
長くなるがそれぞれを見ていこう。
我が星、地球は青系で彩色されているが
左から右へgradationがかかり
右端のほうではやや赤みのある紫系になっている。
太陽の逆側、夜の部分になつている。
この青の濁りのない「すっと抜けた感じ」は
宇宙から見た奇跡の水の星りイメージだ。
そしてこの星を取りまく大気が作り出す
雲の流れのタッチの動感と静寂感は
これが「ただの丸い青」ではなく
太陽系第三惑星だと実感させる。
そして、その雲の合間から、
わずかに覗く陸地も愛おしい。
nyn

2017年もまた、
ぼくたちのは血と汗と涙の
地球の岸辺にたちつくした。
しかしそれらの憂いとは無関係に
この星は存在する。
そしてこの閉ざさされた系の中居゛
人類とその文化、そしてあらゆる生命が
持続していく道筋は、
多様性の尊重以外にはあまりないことを
この地球は教えてくれる。

左からのぼる太陽のフレアのまばゆさは
あいさんの命と想像力のまばゆさだろう。
この光は2017年の終わりの
日本中のラボの仲間の家庭の
ひと月をあまねく照らすに違いない。
太陽の中心の彩色の熱量、
フレアの勢い、
そこから穂先を使った
飛び散る光。
子どもたちの絵に太陽は
喜びの象徴、時には父親の象徴として
よく絵が描かれるが、
これほど細かく描き込まれた太陽は
滅多にない。

それと、ふつう日本の子どもは
太陽を赤で描く。
それは幼いときから
赤い太陽の絵を多く見るし
文化的な流れとしてred sunは
刷り込まれているからだが、
(「お日様は赤でしょ」と
指導する親あるいは教育関係者の
せいでもある)
欧米の子は太陽は黄色で描くことが多い。

実際は太陽の色を直接見ることは
できないのだがね。
ともあれ、あいさんに海外生活の
体験があるかは少し興味がある。

背景の宇宙violetの色合いは
気品があり、神秘性もあり、
そして奥行きと広がりがある。
さらに驚くべきは、
画面左上の星雲あるいは
超新星super novaのような星団のタッチ。
それが画面右上からも
わずかにこぼれている。
この星団を描いたことが、
この宇宙の神秘さと
とてつもない天文時間を感じさせる。

さらに、絵の具を一見気ままに
じつは慎重にとびちらせた星くずたちは、
五芒あるいは六芒の星を安易に描くよりも
はるかにリアルであり、
また同時に物語の持つ幻想性に適している。

さて肝心のPuckだが、
これだけ小さく描枯れていても
tricksterとしての存在感を発揮している。
手に持ったLove-in-idleness
三色すみれの描き込みは
それがこの物語で果たす役割の
重要さを認識していることの証明だ。
大きさと存在感はイコールではない。
またPuckの目をとじた表情は
さまざまな連想をさせてくれる。
そして身体の発光も効果的だ。

こうして細部を見て来たが、
改めて全体を見渡すと、
自分もPuckとともに
大気圏外にいる気がする。
ぼくたちは今、宇宙船や宇宙探査機が
撮影した美しい地球の写真を
地球外からの視点で見ることができる。

でも、それはあくまでファインダーヤ
フレームに入った地球だ。
iPhoneの待ち受け画面や
PCノデスクトップのように。
この絵ももちろんフレームで切られているが、
それを超えた広がりを
この絵の外側に感じさせてくれる。
そのいみでは、
より客観的にこの星を眺めさせてくれ、
ぼくたちがこの星で生きる意味と
責任を自覚させてくれる。

野村あいさんのこの作品が、
1年の最後の絵になったのは
単に雰囲気だけではないと信じる。
繰り返しになるが
多様性の尊重と
あらゆる排他的行為、
暴力、差別、搾取との訣別が
来る年には一歩でも前進することを
祈念してやまない。

また、1年間、長ったらしい駄文に
お付き合いいただいた方がたに
御礼を申しあげる。
もしよろしければ来年も
「いい絵」という評価ではなく
この絵のここが好きだという
感想を書いて行くつもりだ。

ここからはおまけ。
tricksterは人類学のtermで
ネイティヴアメリカン民話研究で知られる
ラディンによるキャラクター分類だが、
ユングによってより世に知られるようになった、

神話や伝承話では「いたずら好き」で
背反する二面性を持つので
物語を混乱させるが
最後は好結果に導くことが多い。
Puckがtricksterの典型例だと
いわれるゆえんだ。

tricksterはまた
culture heroとして描かれ
プロメテウスなどは
美佐に文化的貢献者のtricksterだ。

『夏の夜の夢』の初演は1595年。
河合先生におうかがいしたいが、
初演は貴族の結婚式の披露宴だった
という説がある。
もし実際に新婚カップルの前で
上演されたら
とんでもなくdramaticだ。
誰かラボっ子の結婚式で
この物語のテーマ活動を発表しないかな。
式の会場と日時。
それはラボランドの森。
夏至の夜に決まっているだろう!
霜月のももたろろうーー 「本歌取りと静機」 11月04日 ()
霜月。
嘘だと思いたくなるような大雨と
胸が潰れるような事件の連続に
大気も社会も冷え込んでいるが、
この絵に出会った瞬間、
いきなり横っ面を張り倒された。
dg f
「立ち止まってんじゃねえ!」と
でっかい声が壁から飛び出してきた。

今月の絵は、いうまでもなく、
日本の昔話に題材を求めた
ラボ・ライブラリー
"MOMOTARO
The Boy Born from a Peach"
『ももたろう』に
インスパイアされた作品だ。

描いてくれたのは水野永遠
(高3/下高井郡山ノ内町・山田P)くん。
「くん」と書いてしまったが、
「えいと」と読むのだろうと
推測したからだ。
「とわ」とも読めるが、その場合は女性だろうか。

とにかくうれしいのは、
高3という時期にラボ・カレンダーの活動に
参加してくれたことだ。
高校生最後の夏という貴重な時間を
かなり使って
これだけの力作を描きあげたことに
敬意を表したい。

これまで高校生の応募作品が
なかったわけではないし
(それでも高3はきわめて稀)
何年かに一度入選作が出ている。
その多くは、デッサン、彩色、
丁寧さなどでは年代に
ふさわしい力のある作品だ。
「幼い時から、
ずっと絵が好きで描いてきた」
のがよくわかる作品が多い。

だが、どうしても高校生年代になると
「原画の見事なそっくり」であったり
逆に「頭で物語を解釈して説明した絵」
になりがちだ。

原画そっくりは、
「これだけの描画力があるのなら、
もっと『君自身の絵が見たい』」
となるし、
説明的な絵は、幼い子の無心で
ひたすら物語に入り込んだ
作品と比べると、
(ラボ・カレンダーの絵は
コンテストではないのだけれど)
パワーとハートを揺さぶる波動の点で
ものたりない。

要するに、高校生年代であるなら、
その時点までの全人生を
総動員して、
自分のなかにあるものすべてで
物語にむきあい、
オーバーにいえば、
ぎりぎり命がけの、
描き終えてたおれるくらいの
全力の絵が見たいと思う。

それはテーマ活動とおなじ。
ラボ・カレンダーの絵の「活動」も
ラボ教育プログラムなのだから、
できあがった作品の
しあがりよりも、
その絵を描く道筋で
テーマにした物語と
どのような言語体験、表現体験を
したのかが重要だ。

などと書いてくると、
この作品をけなしているようだが、
それは大きな誤解。

永遠さん(ジェンダーがわからないので
無難な「さん」を使用)の
作品への力の入りれ方は
すばらしいし、すさまじい。
一見、ていねいに輪郭をとり、
ていねいに彩色した
「きれいなイラスト」のように
思えるが、
この3日間ながめていると、
この絵のディテール、
彩色、バランスから
いろいろなものが見えてきた。

ももたろうをはじめとする
キャラクターたちは
本多豊國先生の絵本を参考には
しているが、
真似や模写ではまっなく、
フォルムもタッチも色彩も
完全に自分自身のものにしている。
見事な「本歌取り」といって
いいだろう。
模倣からはじまり、
新しいものを生み出す、
テーマ活動と共通するものがある。

揺るぎない造形の確かさや
隣家線の太さの使い分け、
バランスよさなどさ、
永遠さんの技術はすばらしい。
are
同年齢の若者で
これくらいのテクニックや
描画力のある者は多い。
しかしテーマ活動という
ライヴな体験を通して
まさに「生み出された」作品を描く
という挑戦をする者は少ない。

永遠さんが、絵を描くことが
とにかく好きなことはまちがいない。
『ひとつしかない地球』『はだかのダルシン』
の絵を担当された永山裕子先生は、
尋ねられたとき、
「幼いときから絵を描くのが好きで
そのままずっと描いていたら
こうなっちゃいました」
と軽やかに答えられていたのを思い出した。
こうした絵を描き続ける人の魂の底には
動機ではなく動かない「静機のようなものが
あるような気がしてならない。

さても、まず大拍手を贈らねばならないのは、
物語をギュッと一枚の画面にしぼ込んだ画面構成だ。
おそらく『ももたろう』の話を知らない外国の方にも
およそのストーリィを想像させることが可能だろう。
ながれてきた桃、
オニたちにとびかかるももたろう。
宝物を持っての凱旋。
そしておじいさんとおばあさん。
画面のフチこちに細かく描き込まれた
物語の場面を探すのも楽しい。

主要な登場キャラクターを
みごとなバランスで配置しているが、
主役である「ももたろう」をどまんなかではなく、
やや左にずらし、さらに家来の動物たちを
逆方向に向けたことで、
この作品の成功はほぼ約束されたと思う。
この主役キャラ双方向配置が世界をぐっと広くした。

細かく見ると雉の延ばした羽根先と
ももたろうのお腹の戦端にそれぞれ垂直線をたて、
その距離の中間点はほぼ
「黄金比」で画面を分割する。

永遠さんはそこまで計算はしていないだろうが、
そ明日パニランスの自然な美しさを
持っているのは、
幼いときから遺命めな絵を見て、
さしていっぱい描き続けてきたからだと思う。

そして左上方におじいさんとおばあさんを
ももたろたちをやさしく見下ろすように
「断ち切り」で配置したのもすごい。
この祖父母と下にある桃があるおかげで
オニたちがいる右側との
重さのバランスが取れている。

さらにニクいのはももたろうと
おじいさんとおばあさんの間の空間に
何も描き込まずに淡いイエローでの
背景だけにしたこと。
これで息苦しさがなくなり、
かつ安堵感や平和といったイメージを
膨らませてくれる。

瀬田貞二先生は
『さんびきのやぎのがらがらどん』について
マーシャ・ブラウンが
コバルトで勇気と挑戦、茶色で脅威や恐怖、
そして黄色で平和とやすらぎを
音楽のように使ってイメトいわれたが、
このイエローはそれに通じる気がする。
とにかく、この空間とイエローは
なかなかではない、
永遠さんくらいの力だったら、
何か描き込んでもおかしくないからだ。

輪郭線しおそらくマーカーの細字と中字を
使い分けていると思うが、
この使い分けて変化が出たし
「塗り絵」的な印象がなくなった。
線は力強く迷いがない。
さらに、ももたろうの髪の毛や
桃が流れる川などの線は
ガッと力が入っていて流れがある。

黒の輪郭線をこれだけ用いると
どうしてもアニメ的な平面感が強くなりがちだが、
これまで述べたような線の太さの変化、
タッチの強弱などの全体的な緩急で
むしろ躍動感と奥行きが出ている。

手前の桃のある川と服にある故郷の遠い山、
鬼が島の岩山も奥行きには一役買っている。

彩色も抜けた感じの中間色、
しかも現代的な色も使って、
民話の世界を描き出している点は脱帽だ。
ももたろうの羽織やイヌの色などは
極めてオシャレで
現代的かつauthenticでかっこいい、

そして同色系の濃淡を随所に用いているのも
見逃せない。
故郷の山、ももたろうの髪の毛、羽織、
川の水の一連の紫青系の変化は大好物。
髪の毛の色は「アニメ世代らしいな」と
当初は思ったが、
それは浅はかな考えだったようだ。
(だけど、すぐれたアニメを物心つく前から
観ていた世代ではあるよな)

これは誰が観てもすぐに気づくことだが、
単純に一色で塗った部分はほとんどにい。
別色か同系色の色違いで模様や凹凸を表現している。

鬼が島の山肌や故郷の山々あたりは
さっと一色で終わらせてもいいところを
かなり書き込んでいる。
特に夕焼けにも朱色と黄色を使っているのは泣かせる。

また、鮮やかな黄色をももたろうのベルトに
差し色として持ってきたのもいいテイストだ。

キャラクターの表情もいい。
ももたろうはの意思のみなぎる
前をきりっと見つめた眼差しは、
力みも衒いもなく、清々しい力強さがある。
そうだ。
うなだれて、気難しそうな、
この国の未来を憂いているようなフレは簡単だ。
前を向け! とももたろうは教えている。

家来たちも鬼たちも
感情が描がかれている。
特に家来たちにはももたろうの心映えが
彼らにも伝わっている。

おじいさんとおばあさんの表情の違いも
なかなか考えさせてくれる。
おどろき、喜び、安堵、賞賛……。
皆さんは何を読み取るだろうか。

これほどまでに「描き尽くした」
永遠さんと『ももたろう』の関係、
活動のありようはどうだったのだろうか。
興味は尽きない。
これからどんな道に進まれるのかは
穂から何いが、
願わくば、今後も絵を描きつづけて欲しい。

「古事記が戦時中に天皇利用者たちにより
戦時中、国家神道のテクストとして扱われた
があったように、
「桃太郎」の話も
鬼たちを米英に当てはめて
戦意高揚の材料に利用された過去がある。
そのため、「古事記」も「桃太郎」も
学校教育の現場から遠ざけられた
時期もあった。

今思うと笑い話のようだが、
決して笑えない。

しかし、うかうかしていると鬼はどこにでも現れる。
それはともすれば権力者であり、それに追従する者であり、
暴力者であり、支配者であり、
国家という組織であったりもする。
そして、ぼくたち自身のなかにも
人を妬んだり、羨んだり、憎んだりしたとき、
しかもそれが正義という仮面をかぶって
鬼はいつても現れのだということを
ももたろうは警告しているのかもしれない。
ラボ・カレンダー神無月の絵 デパオラとの対話 10月01日 ()
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる。
『ヘルガの持参金』
持って生まれた能力
ーーデパオラとの対話
dfdf
彼岸も過ぎて神無月である。
秋どまんなかだ。

今朝、東の窓を開けてから
カレンダーをめくった。
朝日のなかで鮮やかなパープルが
目と心に同時に投影された。

トミー・デ・パオラの絵本、
HELGA’S DOWRY
『ヘルガの持参金」に題材を求めて
制作されたラボ・ライブラリーに
inspireされた作品。

いきなり話が飛んで恐縮だが、
原作者は
De Paola
というdeを接続詞として扱うのではなく
Tommy dePaolaという表記にしていて、
これが正式な名前だという。
そこで彼は
わざわざ、発音はTommy daPOWla
だと書いている。
近い発音はダパオウラ(ダは小さめにポウラのポウに
強いアクセント)だという。
だからいちおうここでデパオラと表記する。

描いてくれたのは
濱田千晴(小6/高知市・宮地P)さんだ。
久しぶりに高学年の小学生の登場だ。

ラボ・カレンダーの絵の応募年齢は
およそ3~5歳を最頻値に下降分布する。
特に10歳を過ぎると急激に
応募点数が減る。
別に「ラボ・カレンダーの絵」は
幼い子の活動と決まっている
わけではないが、
「絵を描くこと」が自然な日常の
楽しみ、難しくいうと
「余暇の再創造」Re-Creationだった
年代から、意志して取り組む作業に
変わっていくborder lineが
思春期の入り口の10歳なのだろう。

そこを越えても18になっても
20歳を過ぎても描きつづけていられると
プロにしてしまうケースが多い。
しかし、プロの画家というと絵を描くことを
職業とするひとだが、
その本質は「絵を描くという生き方』
を選んだひとということだろう。

ぼくはおこがましくも自分を詩人だと
位置づけているが、
それは職業ではなく「生き方」である。

千晴さんの幼いころの作品を観てみたいものだ。

冒頭に書いたように
まずきもちよいのは、
パープルを中心にした背景の
独特の色彩だ。
これほど広い面積にパープルを
使用するのはかなり大胆で
逆にすがすがしい。
パープルは古今東西nobleな色だが、
ただ平板に広く塗っただけでは、
高貴さやオシャレ感が台無しになる。
bob
千晴さんは、この背景をjigsaw puzzleの
ようにcellに切り分けて立体感をだした。
しかもその切り分けた線を目立たせず、
色の濃淡で表現しているので、
puzzleのpieceより複雑な
fractal的な境界になっている。
要するにリアス式海岸みたいに自然なのだ。

また、pieceごとの濃淡のつけ方も、
下から上に濃くなってはいるが、
それも単調ではなく、
同じ明度や彩度のpieceはひとつもない。
毎回筆の水加減を変えているのだろう。

そしてこれは全体にいえることだが、
色をおくタッチが独特な柔らかさだ。
そして人物の衣服なども
描かれているものすべてに
色彩の濃淡がある。

つまり「べたっとした塗り絵」が
まったくないのだ。
だから人物などは細い線で
下書きをしているが、
それが世界を分断せず、
アニメ的な2次元感ではない
奥行きを感じさせている。

これは想像に過ぎないが、
千晴さんは一見かるがると
しかしすさまじい集中力で
この作品を描いたのだろう。
しかも、筆を洗うたびに
筆の絵までていねいにふいたはずだ。
その持続力の源泉ははなにか。

ひとつは物語の力、
すなわち千晴さんと
『ヘルガの持参金』の物語の関係に
あると思われる。
千晴さんがこの物語でどういう活動を
したのかは興味が尽きない。

ヘルガを中心に物語の主要キャラクターを
みごとなバランスで配置し、
そこに千晴さん自身の
『ヘルガの持参金』の世界観を
全体に盛り込んだ。

だから、キャラクターのフォルムは
原作絵本に寄せてはいるが、
タッチや色使い、
さらに前述したように
背景処理はきわめて個性的である。
erg
だから、もうこれは
デパオラへのhommageといった
いったほうがいいかもしれない。

ヘルガの誇りと知恵、
実行力と自立性は、
千晴さんの心を動かし、
その物語を編んだデパオラと
この絵を描くことで対話しているのだ。

そうそう千晴さんのこの
集中力の源泉はもうひとつある。
それはDowry。
Dowryはラテン語起源で
Dowerともいう(Dowryは文語的)が、
持参金、寡婦持参金(ひどい習慣があった)
の他に、
「もともと持っている能力」
という意味もある。
トロールであるヘルガは
「持って生まれた特殊な力」があったわけで
タイトルのHELGA’S DOWRY は
その二つの意味を掛けているのだ。
千晴さんの集中力もDowryか。

ぼくは制作に異動するまえ、
北関東支部の組織担当者時代
デパオラの絵本は
『神の道化師』で出会い、
「この人の絵本でラボ・ライブラリーを
作ったらおもしろいな』と勝手に妄想した。

妄想は夢や希望になり、現実化した。
恋愛もそうだが、
希望は思い続けることで叶うとは
限らない。
しかし思い続けて行動しないかぎり
叶うことはない。

『ヘルガの持参金』に歌を挿入したのは
この作品をより立体化することによる
デパオラへのhommageだ。

なお、日本語訳者の
ゆあさ・ふみえさん
(若き日にラボ教育センターの
前身である株式会社テックの
社員だったと後で判明!)は、
残念ながらラボ・ライブラリー刊行時には
すでに故人になられていた。

この物語の録音権や一部の
日本語の変更、歌の挿入などの
交渉をご子息としたとき、
彼はこういった。
「そうしたかたちで、
母の作品がより多くの子どもたちの
手に届くなら、ぜひお願いします」

それがこの千晴さんの絵のような
かたちで再創造されて戻ってくる。

これ造り手の喜びた。
ラボ・カレンダー9月の絵  夕陽に踊る鎮魂の勇魚たち 09月01日 (金)
気がつくと空が高い。
夏が終わった。

絵は観る人間の気分、心映え、
思い、気持ちの揺れ、
などの観る側の内的な条件で変化する。
絵は常にそこに飾られているが、
観なければ存在しない。
絵は結局のところ、
視覚を通じて人間の心に響く装置、
あるいは触媒なのかもしれない。
bgbg
昨日の夜から、すでになんども
この絵を観ているが、
その度に印象が変わる。
クジラたちがはしゃいで見える夕方もあり、
怒っているように感じる朝もある。
また、嘲っているようにも、
激励しているようにも思える。

9月の絵は大塚雄三先生の文、
丸木俊先生の絵による絵本
『うみのがくたい』に
題材を求めて制作した
ラボ・ライブラリーに
インスパイアされた作品。
描いてくれたのは
河内優奈さん(小2/韮崎市・村上P)だ。

最初に書いてしまうが、
山梨には今夏、縁あって発表会と
地区キャンプにおじゃましたので
とってもうれしい。
前もって9月の絵の作者が
山梨のラボっ子だと知っていれば、
絶対に知り合いになったのたが、
基本的にその月になるまで
「カレンダーをめくらない」
ことにしているので
いたしかたない。

『うみのがくたい』は、
ラボ・カレンダーの絵の
応募作品のなかでは毎年、一定量を締める。
新刊は別格本山で突出するが、
「だるまちゃん」「ぐるんぱ」の2大スター、
『かぶ』『はらべこあおむし』の
ラーメン屋で8割の人が注文的
定番に続くぐらいの
点数の『うみのがくたい』が
夏の終わりのラボセンターにやってくる・

したがって、過去30年以上の
ラボ・カレンダーの歴史のなかに、
名作、力作、傑作、感動作の
『うみのがくたい』がたくさんある。
その記憶と記録があるから
『うみのがくたい』で入選するには
よほどの個性が必要だ。
その高いハードルを越える作品が
2年に一度くらい「があん」と出でくるのが
またこの物語の
すごいところだともいえる。

『うみのがくたい』の絵は、静かだが力強い。
そしてフォルムもカラーも美しいので
つい真似したくなる。
そこで原画そっくりの作品も数多くくる。
いつも書くことだが、
間宮先生のおっしゃるように
「創造は模倣からはじまる」から、
模写することは悪いことではない。
書道でも臨書は
名筆をそのままに書くわけで
臨書で書道展に入選する例は多い。

しかしラボ・カレンダーの絵が求めているのは、
物語と出会った感動、
キャンプや国際交流での出会いの感動、
(キャンプや国際交流を
テーマにした入選
作品はいくつもある)
すなわちインプット、
インスパイアされた
感動をどう表現するかなので、
(と、ぼくは思っていた)
色や形をそのまま写すことに集中するより、
心を描き出すことに
力を注いでもらいたいと思うのだ。

そんなこと思いつつ
たしかにクジラのフォルムは
原作絵本に寄せている。
だけどその線は自由闊達で
のびやかで気持ちがいい。
そして躍動感がすばらしい。
輪郭線も自然で迷いがない。
ニコルさんが勇魚と名付けた
クジラの巨体が、
トランペットを高らかに
吹きながらジャンプする。
なんという迫力だろう。

さらにおどろくべきは、
3頭のクジラの配置と
バランスの良さだ。
この大きな画面にクジラたちを収め、
さらに躍動感を失わないのは
優奈さんの年齢では
簡単なことではない。
海面の描きかたも力があり、
うねりや泡立ちが伝わってくる

優奈さんは
hand-eye coordinationが
平均以上なのだろう。
それは「よく観る力」によって
支えられていることは
十分に推測でき、
同時に「聴く力」もあると思われる。
要するにinput力がすごいのだ。
海綿というと古いので、
スポンジのような吸収力なのだ。

いつものことたが、
優奈さんが、どのくらいこの物語を聴き、
どんな活動をしたのか知りたいものだ。

しかし、フォルムもさることながら、
この作品の色合いには、
完全にやられてしまった、give up。
降参、恐れ入谷の鬼子母神。
彩色はていねいなのだが力強い。
塗り絵ではまったくない。

主役のクジラの
グレーの面積が広いのだが、
クジラのボディも濃淡、
グラデがあるので
立体感と動きがあり単調ではない。
このグレーの明度と
彩度がまた丁度いい。
暗すぎず明るすぎず、
いいところに落とした。

あまり濃くないグレーは
どんな色ともあうことを
優奈さんは感覚的にわかっている。
「ことばの宇宙」の船長時代、
表紙やカラーページのデザインで困ると
「苦しいときのグレーだのみ」
はお約束だった。
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なので、見よ、この背景の
この世のものとは思えぬ
「ふしぎな夕焼け」を!
優奈さんは、
もしかして「見てきた」のか!

背景は少なくとも5色が基本なのだが、
それを微妙に場所によって
濃淡をつけているので
美しいmosaicにで心を打つ。
しかもピンクとグレーという最強コンビを
中心にして、
抑制気味に用いた
明るめのviridianが
なんとも清々しい
スペシャル効果になった。

もうそれだけでかなりの体力と気力を
消費しているはずなのだが、
海の色にも濃淡をつけていて、
海の深さまで感じさせてくれる。

そして、これだけ色に変化をつけながらも
それぞれの色が「スカッと抜けていて」
「濁りがない」のも驚異的だ。
色を作る感覚もさることながら、
筆をていねいに洗い、
根本まで拭いていなければ
こうはならない。
おそるべき集中力だ。

優奈さんの体格はわからないが、
おそらく大きいほうではないだろう。
(根拠はないけど)
彼女がどこに用紙を置いたのか、
机か床か、はたまたまどのくらいの
距離で描いたのが気になる。
近づいたり離れたりしたのだろうか。

この物語についてはcolumnでもも
何度か書いた。
しかし、このクジラたちを観ると、
あるときは、
「あの船は沈んだのさ」とレクイエムを
演奏しているようにも思え、
またあるときは
「あの船は今頃赤道を越えて旅してるぜ」と
応援歌を吹き鳴らしているようにも感じる。
また、「お前ら人間はまだ争ってるの。
もっと楽しくやれよ」と励ましているようにも見える。
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かつて戦で多くの魂が海に消えた。
平和を脅かすものに激しい怒りと
慟哭を持って迫った丸木先生の、
静かで力強い「祈りと願い」のお心は、
たしかに物語となって
優奈さんの心にとどき、
絵筆を走らせすることになった。

これも物語の力であり、
物語の心は世代を超えてバトンタッチ
されていくことの証でもある。

ラボ・カレンダー『うみのがくたい』に、
またひとつ感動作が加わった。
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる はちゃめちゃ葉月のアリス 07月31日 (月)
今朝は5時に目覚めたが、
またウトウトして6時に起きた。
顔も洗わず、うーっとかうめきながら
よろよろとカレンダーをめくり、
それからシャワーを浴び、
朝の自然光のなかで朝食をとりながら
2メートルくらいの距離からながめ、
片付けてからコーヒーを飲みつつ
手元でじっくりと観た。
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このところ、けっこうめんどくさいことが
私的周辺にあり、
みなさんご存じのように
世の中的にもはちゃちゃでなので、
けして明るい気分ではないのだが、
この絵で小さな悩みは
あっさり全否定されてしまった。

8月の絵はルイス・キャロルの
"Alice’s Adventures in Wonderland"に
題材を求めて制作されたラボ・ライブラリー
Alice In Wonderland『ふしぎの国のアリス』に
インスパイアされた作品。
描いてくれたのは
河野祐宇さん(6歳/調布市・越智P)。
たぶん「ゆう」とお読みすると思うが、
これは男女どちらにもある名前なので
とりあえず祐宇さんとする。

絵にジェンダーは関係といえばないが、
あるといえばある。
左半分を観ると、
アリスという主人公の少女に
心を寄せて描いている感じ、
線のニュアンスやタッチなどから
女性かなとも思うし、
右半分の力強さ、
いい意味でのラフな感じは
男子の作品かなとも思う。
正直断定できない。

どちらかにbetしろとい惚れたら
「男性」で勝負だ。
違ったらごめんなさい。
いややっぱり女性かな。

だけど、じっと観ていると
ジェンダーフリーでいいんじゃないかと
思えるようになった。
「男の子らしい絵」とか「女の子らしい絵」
なんていうつまらない弁別はやめよう。
「らしい」ってことばは人間を縛る。
「らしい」で価値やありようを固定化することを
ぼくたちは拒否したい、

そうしてみると、
これは祐宇さんの個性である。
気が楽になった。

場面はCaucus-raceと思われるが、
最初に驚かされたのは、
アリスを含めて
多彩のキャラクターたちを見事なバランスで
画面にきっちり納めていることだ。
しかも「無理くり」「ぎゅうぎゅう」感がなく、
それどころかふレースであるのに
疾走感ではなく、ふしぎな浮遊感があるのもすごい。

キャラクターたちの方向もバラバラで
こうしたこともけっこうむずかしい。
祐宇さんの6歳という年齢を考慮すると
とんでもない作品だ。

いつも書くことだが、
たぶんこの絵を描いた用紙は
祐宇さんの肩幅と同じが広いくらいに
感じられたはずだ。
そして、そうした大きな紙な描く体験は
さほど拓さんはしていないだろう。
そこにこれだけのバランスで
多くの対象を描き込み、
浮遊感まで出しているのは
もちろん偶然的要素はあるにせよ、
子どもと物語の関係性が産んだ力であり、
まさに「ことばの力」が色と形になったといえる。

そして、これも毎回のように指摘することだが、
画面全体に手を抜いたところがなく、
さらにさらに細部まで「しつこく」描き込んでいるのは
6歳の体力と持続力としては並外れている。
でも、逆にいうと、
本当におもしろいもこと、心惹かれることは
子どもはいつまでも取り組んでいられる。

問題はその行動を見た目だけで禁断し、
「いつまでやってるの」などと
おとなが制動をかけてしまうかどうかだ。
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そして、これも推測だが、
祐宇さんは、ほとんど計算した配置はしていない。
目と手のコーディネイション
Hand-Eye Coordinationがすばらしいのだと思う。
それは天賦のものかもしれないが、
その力を 牛て発揮できているのは、
もっと幼いときから物語と
ことばと絵とたくさん出あって
inputしているのだろうと思う。
それから、これはもう憶測に近いが、
外で遊ぶのも好きなのではないだろうか。
あるいは野や山や海や川によく
出かけたのではないたろうか。

計算していないという根拠は
輪郭線にもある。
(この輪郭線もアリスは細い黒だが、
他はいろいろと変えているので
塗り絵的ではなくなっている)

アリスにしても他のキャラクターにしても
本来は曲線で描かれるところが
鋭角になっており、
曲線自体も「とらわれず引いている」が
がっしりと安定してはいない。
この点からいえば6歳の線でホッとする。
また全体のバランスの良さにくらべて
アリスのフォルムは随分細長い。

だけど、そんなことはどうでもいい。
この線の不安定さやアリスのフォルムが
コーカスレースの浮遊感を出しているのだ。

色のことも忘れてはならない。
各キャラクターも細かく色をかえ、
狭いところにも描き込んでいる。
同系色の濃淡、補色や反対色などの
使い分けもみごとだ。
これも幼いときからのinputのおかげか。
そして、これも褒めどころなのだが、
色の選択のセンス(感覚・意識・判断力・意味)が
きわて洗練されている。
しかも、濁りがないのは、
筆をよく洗って根本まで拭いているのだろう。

それにしても
祐宇さんとこのラボ・ライブラリーとの関係、
活動はどうであったのか、
とっても気になる。
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ルイズ・キャロルがアリス・リデルたちにお話をした、
有名な1862年7月4日、「金色の午後」の3週間前、
6月17日に、キャロルはアリス3姉妹を連れて
ピクニックに行っている。
同行はダッグワース、キャロルの姉、叔母たち。
これらが、登場するャラクターたちと
対応するといわれている。

この日もボートに乗ったのだが、
とちゅうでにわか雨になりずぶ濡れになってしまう。
少し離れた先の知人宅に服を乾かしに寄ったが、
キャロルは帰りの車をさがしたり、
なかなか苦労したといわれる。
この土砂降り体験はは手書きの
オリジナル「アリス」には出てくるが、
印刷本ではカットされ、
コーサス・レースの話に置き換えられた。

Caucusはアメリカでは
候補者や政策を決定する
派閥の幹部会、あるいは当院集会のことだが、
イギリスでは政党の地方委員会。
委員会の役員たちが、
政局で有利に立とうと、
あちこち走り回るさまをディスって、
キャロルはコーカスレースを書いたとされる。
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