幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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TARO-MARU FAREWELL さらば青春のキャンプ本部 改 08月11日 (月)
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三澤制作所の夏の研修慰安旅行は3年連続で長野である。
ICU Apostles夏合宿の応援をするというボスの個人的わがままから
ほぼ暴力的に「今年は長野県!」ときめてしまう。
そのかわり、過去2年は湯田中の露天風呂付き豪華旅館、
今年は自然食ホテルとやや地味だが、
E7系グランクラスで移動というサービス満点である。
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今夏は宿舎を飯綱高原に設定した。
Apostlesの練習グランドまでは数分であり、
上智大学との練習試合会場にも45分ほどでいける。
8月9日、台風が西日本に接近していたが
あさま号は定刻に長野に着き、
さし入れのジュースも買って無事に現役選手たちを激励することができた。
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飯綱高原は快適で、夜は宿でのんびりしていたが、
午後8時になって現役から連絡があり、
台風によるグランドへの影響、また安全上、
グランド管理者から明日の上智大学対ICUの練習試合は
中止との決定があった。
せっかく用意した試合撮影用の大型カメラは用なしである。

で、翌10日のスケジュールをどうしようかということになった。
ぼくのなかではこたえは出ていたが一晩待った。
「ともあれ、明日の天候次第。
ひどい荒れ方だったら朝いちばんで帰京という選択もある」などとつぶやき、
あいまいなままその日は暮れた。
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飯綱高原は夜通し静かな雨。
夜が明けてもまだ降り続いており、
大きな窓からははるか雲の下に長野の町がぼんやりかすんでいる。
 
「一昨年も行ったけどラボランドへいこうと思う。
ここから30分程度で到着するから、
迎えの車がくる9時20分にでても10時過ぎには着く」
「ラボランドはかまいませんが、
あそこへいくとしばらくボスは遠い目になって、
その後は口をきかなくなるのでめんどくさいんですけど…」
「まあ、そういうな。たしかに一昨年は、
夏に黒姫かアメリカで子どもたちの成長の
パワーを受けていないという寂寥感、
さらにあのヒリヒリするような緊張感のなかでしか得られない生の手ごたえ
(ほとんど職業軍人か)をなくしたという喪失感を
めめしくひきずっていた。
そこにいない自分が悲しかった。
だが、今のわたしはちがう。あの夏でけじめをつけて、
学校法人という組織でそれなりに責任ある仕事に邁進している身である」

なんてかっこよく整理したわけではないが、概ねそんなことをいった。
「ではあるが、たろう丸という本部棟が老朽化しすぎたため、 この夏の終わりに建て替えのためとりこわされる。
この本部にはとにかく思い入れが強いので
最後の姿をこの目で観てカメラに納めたい。
試合中止はそうせよという天の配剤であーる」
「はいはい、わかりました。ようするにラボランドにいきたいんでしょ」

というわけで朝9時20分に宿舎を出発、
試合ではなく通常練習をしている現役諸君を
ひとこと激励してからラボランドへ。
戸隠をぬけようかと思ったが、飯綱から直に18号に出る道を選んだ。
「おおさわ」という黒糖まんじゅう(こずくまんじゅう)の
菓子屋で差し入れを仕入れたかったのだ。
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ここは、ケーキもおいしく、
地元の中学生が開発したブルーベリーケーキなどもおいている。
ただ昨年、先代の社長が他界して娘さんが後をつがれたが、
大量生産ができなくなり駅売りなどをいっさいやめてしまった。
だから、この北国街道沿いの店でしか買えないのだ。
その「おおさわ」でロールケーキを手に入れ
ラボランドへと18号線をいそぐ。
黒姫駅入り口を過ぎ高原方向に左折。
柏木立の五叉路を左折。町営グラウンドでは陸上競技の合宿。
なぜか陽がさして黒姫山が半分以上姿を見せる。
あと500メートル。
スタッフの手前、口にはださぬが妙に心がさわぐ。
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一昨年も書いたが、30年以上も、
おおげさにいえば命がけでむきあってきた仕事の
ひとつの象徴であった場所。
しかもその世界に没入することになったきっかけの場所に対して、
そんなにかんたんに無感動になれるはずもないし、
すっきりできるわけもないと心のなかで開き直った。

ある意味、長い片思いの恋愛、
ゴールのない恋愛(ラボ活動自体がそうかも)を
いまだにひきずっているのだ。
しかし、そんな尻尾みたいなものがあることが誇りでもあるし、
それが今の仕事や行動のひとつの基準になっていることも嫌いじゃない。
「山田さん(ドライバー名)、くれぐれも超徐行でお願いします。
幼い子どもたちがとびだすかもしれませんから」
やさしくいったつもりだが、声の調子で空気をつかんだのだろう。
ラボランド入り口で左にハンドルをきる山田さんの手が
ぐっと緊張したのがわかった。

ラボランド内は静かである。
本来なら3日目プログラムのまっさいちゅうのはずだが、
天候急変を考慮してロッジ内での展開、
すなわちコーチやシニアが協力しての
出前方式Bプランで行なっているようだ。
このへんのリスクマネジメント、臨機応変対応力は一朝一夕にはできない。
長い組織体験によって陶冶(とうや)され、醸成されてできたものだ。
こういうことがきちんと伝達されていくことがだいじ。

グルンパ城にあがると取締役の上島氏が
歯を磨きながらやあやあと出てきた。
たぶん昨夜も遅くまで作業して遅い朝食だったのだろう。
わがスタッフを紹介して上島氏にあずけてから、
ロールケーキと小さなカメラをもって外にでる。
グルンパ城前ひろば(正しい呼称)では永田大統領がひとり空を観ている。
「11時からのバザーは外でできそうだね」とあいさつすると、
いつもにこにこしている永田大統領が
さらにくしゃくしゃの笑顔になった。
いい大統領だ。

そのまま「たろう丸本部」前にいくと、
木原村長がやはりにこにこしている。
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うまいことに、ラボっ子やテューターのみなさん、
そしてコーチやシニアはみなロッジ内。
目立ちたくなかったのでちょうどいい。
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本部に入り、総務の松村さんにロールケーキをわたす。
そしてすぐ外に出て木原村長にたろう丸の工事計画などをうかがった。

「たろう丸本部」のたろうは、
いうまでもなくガールフレンドのゆきちゃんの誕生日に
花とアイスクリームをもって(なんというおしゃれさ!)、
あらゆる社会規範をぶっとばしながら
ペットたちとともに全力疾走するStop! Taroの「たろうくん」である。
彼の「アイスクリームがとけちゃうんだ!」という緊急性は、
いまいそがなければ「日本がとけちゃうんだ!」という叫びにおきかえられる。
あの物語の本質を交通安全指導と思っている人はいないだろうが、
彼の「いま!」という緊急性は「眠りやすい」ぼくたちの警告への魂を
いつも覚醒させてくれる。
その「たろう」がラボ・キャンプ本部の象徴である。
キャンプにおけるすべてのincidentや人的なミス、トラブルは
原則としてすべて現場で解決しなければならない。
いまでなけりゃとけてしまうのだ。
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かつて日本人は将来リッバに育ってほしてものに「丸」をつけた。
船しかり、刀しかり、武士の幼名しかり。
そして、たいせつな建物にも丸をつけた。
本丸、二の丸、三の丸。
たろう丸は、かように伝統と常に先頭で疾走する男の子の合体なのだ。
だが、キャンプの主役は本部ではない。
すべてのキャンパーひとりひとりが主人公である。
いいかえれば本部はキャンパーはだれもが元気でひたむきな
「たろう」であれかしという願いでもあり、
その象徴的総称でもあるように思う。

思えば、ぼくがはじめてラボランドにきたのは1974年の正月。
まだテーマ活動をキャンプではやっていないころのウインターだ。
その年の夏にはまるまる過ごすことになるのだが
当時のたろう丸は現在の建物の10メートルくらい下にあり、
平屋のしかも工事現場のようなプレハブだった。
さらに驚くべきことに冬期の積雪の重みで
尾根のまんなかの梁が湾曲していた。
広さも現在の半分以下だった。

この本部でのぼくの最大的衝撃的体験は1974年のちょうどいまごろである。
7班という一週間の長期キャンプで、
参加者もシニアも事務局も少数で運営していた特別な時期だった。
ぼくたちがミーティングのようなこと
(まじめにやっていたのだが彼には稚拙にみえたのだろう)
をしているところに、派手なアロハシャツ(今思えばビンテージもの)を着た
長身の「専務」とよばれている男性がはいってたきた。
そしていきなり、「そんなくだらない話し合いはやめて休んだらどうだ」
みたいなことをいった。
ぼくは、彼の入ってきかたからすでに気に入らなかったが、
そのひとことでぷっつんした。
しかも少し酔っていらっしゃるようだったし。

で、ぼくは(ことわっておくが当時ぼくは大学3年生でまだラボ事務局ではない)「専務だがなんだかしらないが、いきなり酔ってはいってきて
そんなことをいわれるおぼえはない!」と叫び、
その場のシニアメイトたち全員(7名くらいか)をひきつれて
本部をとびだしてしまった。おそろしいことである。
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その長身の男性が「らくだ・こぶに」であり、
詩人にして思想家の「あの、原点の、工作者の谷川雁」
であることを知ったのはその夜である。
ぼくは、そのころ彼の詩はほとんど暗誦していて本も少しは読んでいた。
だが、はずかしいことにたぶん顔写真なども観ているはずなのに、
詩を書かないと宣言してからの氏に興味をうしなっていたために、
まったく、そしてまさかこんな所で会うとは思わなかったのである。

ぼくが造反して本部をとびたした後、
谷川氏は当然にも激怒されたそうだが、
ある事務局員の方がけんめいにとりなしてくれて
ぼくは退村をまぬがれた(そのことは夏の終わりにきいた。
件の恩人は後にお名前がわかったが今は書かない)。

ともあれ、ぼくはおそろしい怪物にけんかを売ったなと覚悟したが、
まあこちとらなんも恥じ入ることはしていない。
あやまるべきはむこうと腹をくくっていた。青いね。
その後、キャンプのうちあげに彼も参加し、
そこでなぜか挑発するようにぼくのとなりにすわられた。
でも例のことにはなにもふれない。
そのうちに場はもりあがって歌がではじめた。
谷川氏はそんな若者たちをにこにこみている。
すると、何名かがぼくに歌えとリクエストし、
そのころぼくが勢いでつくっていた
キャンプの歌を弾き語りで歌うはめになった。

さすがにこの難解のかたまりのことばの魔術師みたいな詩人の前で
しょぼい歌を披瀝するのはつらかったが、ええまよと歌った。
歌は、子どもたちがきて、そしていなくなる。
薄暗い森のなかに紫陽花の青が浮き立つ夏のはじめから、
アキアカネが黒姫山頂にとびかう最終キャンプの最終バスがでる
(それを走っておいかけていくというくさい歌詞!)
までを歌った「紫陽花の青が」というものである。

歌はみんな酔っているからそれなりにうけた。
ぼくは冷や汗にうめきながら席にもどった、
もちろん詩人のとなりである。
すると、いきなり詩人が「うむ。悪くはない。
だが、秋は近いという最後のフレーズはよくない。
春は近い、とはいっても、秋は近いとはいわない」とぼそりといった。

その時点で「恐縮です。ありがとうございます。
ご助言、勉強になります」とかいっておれば
まるくおさまったのだろう。
でも、またぼくは、オリジナルの自分のことばを否定されたと勘違いし、
礼をいうどころか「でも、これはぼくのことばですから」といいかえしたのだ。
すると「きみのことばといってもだな…」と詩人はさらに続けたが、
その先は記憶がとぎれている。おそろしや。

その秋からぼくたちはラボをもっと知ろうと
テーマ活動を自主的にはじめたため、
ラボセンターにちょくちょく出入りするようになった、
いろいろな事務局員の方たちと仲良くなって
バイトをしたりもするようになった。
谷川氏ともときどき顔をあわせるようになったが、
ある日、彼がたぶん気まぐれだろうか、ぼくを食事に誘ってくれた。
最初はたしか事務局員の方1名を交えた三名だったと思う。
それがけっこうな頻度、まあ月に一回くらいあるようになった。
ときには一対一というシリアスな状況もあった。
しかしどんな人数の席でもたいていは彼が一方的に話し、
その知識の分厚さと想像力の巨大さ、
さらにことばの選択の鋭さに、ぼくはうちのめされつつ目をかがやかせ、
この怪物からできるかぎりのものを吸い取ろうと試みた(無駄な抵抗)。

そんなことから、いつまにか
自分の事務局員募集要項を自分で書くはめになるのだが、
1974年の出会いから1976年にラボ事務局に入るまで2年強は、
今思っても濃密であり激しくあり青くもあり、熱くもあった(今も熱いけど)。
ふと思うのは、あの「秋は近い事件」のとき、
彼にくってかからずに礼をいって迎合するような態度だったら、
きっとその後の展開はかわっていたような気がする。

なかなか話がたろう丸にいかないが、もうひとつ詩人のことを。
ぼくたちシニアメイトが最初に取組んだテーマ活動は
『ありときりぎりす』だった、
そして2作目が『ポアンホワンけのくもたち』。
あの岸田今日子さんの語り、「三月、なんというゆうやけでしょう」
にしびれてしまったのだ。間宮先生の音楽、元永先生の絵もすごい。
このころはさすがに鈍感なぼくも、ラボ・ライブラリーが
「英語教材」などとくくれるものではないということを感じはじめていた。

しかし、いざ取組んでみると『ありときりぎりす』のようにはすすまない。
すぐに「こんなの劇にできないよ」
「いやいやテーマ活動は劇じゃねえって、みんなわかってんじゃん」
「人間は雲になれねえよ」「この物語つくったやつだれだ」
なんていうぼやきがではじめた。
ただ、つまらない物語だというやつはだれもいない。
ことばの強さと美しさ、物語の力にはすなおにならざるを得なかった。

劇のしやすさだけをいうなら学校劇の台本でももってくればいいのだ。
すぐには動けない、抽象的なものをどう表現するのか、
英日という二重表現のふくらみと錯綜のはざまでどうあるべきか。
なかなか具体的に動けない、その煩悶と試行の繰り返しこそが
テーマ活動がすぐれて知的な活動であることの証左である。
ライブラリーの聴き込みが進むにつれ、
そんなことがコンセンサスになってきた。

当初は、登場するものすべてを表現しようと物語をなぞるように動いた。
ツルや虹はもちろん、ヨットまでもいわゆる身体表現であらわそうとした。
だがそれも次第にそぎおとされていった。
そうテーマ活動は、物語を聴き込み声にだすという言語体験を積み重ねながら、
物語を再表現するなかで最大にふくらませ、
そしてシェイプアップさせていく、
まさに文学や音楽、美術といった芸術の道筋ときわめてよく似ているといえる。

そんなわけのわからぬ話し合いをしつつも、
ぼくたちの『ポアンホワンけのくもたち』は発表をむかえた。
会場は昔の「ラボ・センタービル」、東京医大のむかいの7階。
観客は事務局員のテューターの方がた。
近隣のラボっ子たちもいたと思う。
そして谷川氏は下手側の比較的前のほうで観ていた。
まあ存在感がすごいからやりにくい。

発表はなんとか終った。
とにかくみんなよく聴き込んだので、ことばとしては力があったと思う。
観客はけっこう元気に拍手し、
谷川氏も大きな動作で静かに拍手をされているのが見えた。
その流れだと彼がたちあがって
なにやら寸評をすることが予想された。
観客もぼくらもその中身がこわかったが、
一方でどんな感想をもったかをききたいきもちもあった。
だが、彼は周囲に長身をかがめながら一礼するとそのまま退出した。
「寸評にもあたいしないということか」と思ったメンバーもいた。
だが「あの拍手の仕方はなにかを認めた拍手だ」とぼくはいった。
「儀礼的な拍手をする人ではないさ」
と続けたが、そのころから「テーマ活動指導」みたいなことを、
賛否両論あるなかで彼がはじめていたころなので
ちょっと肩すかしだったのだ。
 
その数日後、氏に食事に誘われた。
彼が事務局員とふたりで飲んでいる席によばれたのだ。
そこで彼はぼくたちの『ポアンホワンけのくもたち』について話はじめた。
でも、その内容はぼくが想像した「おれはこんなきもちで書いた」とか
「この物語の肝は…」といった話ではなかった。
それはぼくたちが話し合っていた
「動きにくい、いわゆる劇にしにくいクリプトと向き合う、
いわば知の格闘のもつ教育性」や「表現をそぎおとしていくことの詩的感動」
といった内容であったので、
ぼくは自分たちの話し合いや活動を
すべて見透かされていたような気になって寒気がした。

そんなぼくの震えにはおかいまなく谷川氏は
「きみは火山の役をやったたろう。
そうあの火山は元永さんも遠景として描いている。あれはなかなかいい」
たしかに悩んだすえ、ぼくたちは火山をやった。
だが、それはぼくひとりが下手であえて観客に背中を見せ、
だまって腕組みをしたまま足を肩幅に開いて
雲たちのほうにむいて立つというだけのものだった。

「あのすっと立つ感じがたいせつだ。
きみたちのことだから、数人で火山のようなかたちをつくり、
はい火山でございますみたいなことをすると思っていたが、
そうだったらほぐは拍手をしなかったろう。
あのすっと立つというのは悟りにも似ていてよろしい」
いやはや人手がないのででっかい山はつくれない。
でも、物語上、雲たちにむかう「なにか」として表現したみたい。
そんなところでやむなくやったのに…。
ただ、彼のその「すっと立つ」は、
しばらくほくのなかにいていろいろ考えさせた。
「でも、なぜあの場でそのことをおっしゃらなかっのですか」と
命知らずな質問を最後にした。
すると氏は、「うむ、あの場でほめるときみたちは、とくにきみは、すぐ頭にのるからな」

先をすすめよう。1976年、ラボが10周年をむかえるとき、
その祝賀のひとつとして「たろう丸本部」が新築された。
5月、上棟式が古式にのっとって行なわれ、
地元の関係者をはじめ、東京からもテューター代表、
関連会社の役員などが参加した。
そこで、ちょうど記念ライブリーとして発刊された
『三本柱』のテーマ活動も発表された。
そのときは5月の連休で、ぼくも卒論で忙しいのにのこのこでかけ、
勢いで発表することになってしまった。
だが、そのときともに発表した事務局員2名は、
ふたりとも後にラボとは別組織にいってしまった。
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それが現在のたろう丸である。
ここの想い出を書き出したら、いいこともいやなことも含めて
新書本数冊のネタがある。
コーチ、コーディネーター、大統領、村長を
春夏冬のキャンプで延べ何回やったろう。
おそらく100回はこえている。
そんなことをふりかえりながら、
思いをこめていくつかの方向から写真を撮った。
すると、たろう丸に出入りした多くの顔、
流れる星の数にまけないほどのたくさんの仲間達の顔が次々とうかんできた。
まずいなあ。涙腺の弱さは年齢の比例するのか。
なので、木原村長と永田大統領と写真を撮った。シャッターは松村さん。
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まだ、だれもキャンパーやロッジマザーは外に出てきていない。
そろそろおいとましたほうがよさそうだ。
グルンパ城にもどり、上島氏とならんで写真を撮ってもらう。
どうやら三澤制作所のスタッフは
上島からだいぶ、ぼくの話をきかされたようだ。
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帰りの車のなかでマネージャーがいった。
「一昨年の久下さんのときも思いましたが、
草創期から熱く仕事をして、
ときには本気で意見しあったおじさんたちって、
なんかすてきですね」
「なんだよきもちわるい。なにもでないぞ」
「三澤の話は100いわれたら2くらいきいて、はいはいっていえばいいって
上島さんがいってました」
「………」

おまけにFacebookには書かなかったことを書く。
ぼくがラボに入社したのあたりのこと
(卒論を出した日にセンターによったら谷川氏がエレベーターの前にいて
「明日からこれるな」といわれたことなど)は、これまでも触れた。

だいぶ後でわかったのだが、ぼくの入社は本人の意志とは無関係に
ほぼ決まっていて、
そんな背景から谷川氏は「自分の募集要項を書け」といったようだ。
なにを観たかったのかわからないが、
一応まじめに書いた要項を彼に提出すると
「きみは表現をあせりすぎるきらいがある。
まあ、それも若さか。いずれ気づくだろう」
とだけいわれた。

結局、大学院進学や留学なども含めていろいろ悩んだが
子どもたちの現場、そしてライブラリーの魅力を選んだ。
ご親切に「ラボは給料やすいからやめなさい」
という人もいたがぼくは決断した。
さすがに莫大な財産はつくれなかったが、
得難い体験を交流活動で、そしてライブラリー制作ですることができた。
自分の名前がでなくても
自分が手がけた作品が残るのはとんでもない幸せである。

で、ぼくが書いた募集要項にしたがって入社選考は
「ラボについての自由作文」と面接であった。
そのときの応募者は、ぼくと上島氏、昨年定年退職された木村氏、
これらはすべてシニアメイト経験者。
そのほかにたぶん縁故の方がひとりいらしたと思う。
※久下氏や杉山三四郎氏(現・「おおきな木」店主)は、そのときは
「事務局にはならん」と抵抗して応募しなかったが、
結局、その一年後に入社した。

面接は同じ日に二回あり、さいしょは人事部長と
当時広報室長だった定村忠士さんによるものだった。
定村さんは谷川兄弟の末弟、吉田公彦氏と東大仏文の同級生であり
日本読書新聞の名編集長を経てラボの広報の責任者になられた。
たいへんおだやかで知的でスマートな方であり
ぼくは「憧れ」という意味では谷川氏より定村さんに近づきたかった。
初期のラボの広告コピーや、らくだこぶに名以外の『ありときりぎりす』
などの日本語は多くは定村さんの作品である。
彼が、谷川氏とともに「十代の会」にでていってしまったのは
とても悲しかった。

その一次面接は、じつに一般的でふつうのものだった。
ぼくは「転勤してもだいじょうぶか」くらいしかきかれなかった。
といのは志望動機などは作文にびっちり書いていたからである。

そして最後が社長である榊原陽氏と谷川雁専務理事兼制作室長による
いわゆるトップ面接である。
ぼくの順番は最後で、朝9時にはセンターにいっていたのだが
ようやく最終面接の会長室によばれたのは午後5時をまわっていた。

さすがに緊張して入室すると
なんと、榊原氏はすでにいなかった
(所用といわれたがどうも帰宅したもよう)。
ひどい話である。
部屋にはソファーに谷川氏がひとりどっかりすわっていて
さすがに彼も疲れているようだった。
まあすわれというので「では失礼します」と腰をかけると
谷川氏はいきなりネクタイをゆるめながら
「どうかね、今回の企画は」
といいだした。面接だろ!
「企画というと今回の事務局員公募のことですか」
「そうだ。このところしばらく新入社員をとっていなかった。
でも、ラボはまだ10年足らずだが、
会社としては新しい力をいれて新陳代謝をしていかねばならない。
それを考えたとき、シニアメイトとかラボっ子とか、
身体をとおして体験を通してラボを学んだ者たちに
事務局員というバトンをついでいってもらいたい。
と思っている」
「(心のなかで)それなら最初からそういえばいいのに」
「そうですか、志あることばの宇宙の乗組員募集ということですね」
「うむ。ラボはまあ宇宙みたいなもので、どこがまんなかかわからない。
それほど広いものだし、広くなくてはならない。
ラボっ子もテューターもひとつひとつが燃えて輝く星だ。
だから、ラボの宇宙で燃えて輝いていれば、そこが中心だ。
中央もはじっこもない。
ただ燃えているもののなかにしかラボはない」
「それはその通りだと思います」
そのあと、なぜかほんものの宇宙論になった。
それで30分もたったろうか。
谷川氏は「はい、これくらいにしとこうぼくも疲れた」
「えっ、面接はいいんですか」とはきけなかったので
では、失礼しますと席を立つと
「あっ、三澤、まちたまえ」
「はっ、なんでしょう」
「ひとつ、たのみがある。知っての通り木村くんが関西からきている。
ホームステイの塩梅をたのむ」
「それはぬかりありません」


このわずか3年後、ラボは組織混乱と分裂という
創設以来最大の危機をむかえる。
これも異常なことだが、結果として創業に関わった2名が
ラボを去って別の教育事業をはじめるという事態になった。

榊原、谷川という強烈な個性がスパークして生まれたラボは
皮肉にもこの巨星ふたつを宇宙にとめおかなかった。
というより、確かにラボを創業したのは彼らであるが
ラボはその本質として、まるで太陽や月、
学問や芸術のように
人間とは別に存在する大きなもの、
すなわちだれのもでもない、
創業者であろうと好き勝手ちはできないものに
成長していたのだ。
そして
方法論、言語論、表現論、組織論が異なっても
その差異を認め合い歩み寄ってより深いものをつくりだすのが
ラボ活動の本質であったはずだ。

自らの思いを実行するために踏みとどまって闘わずに
新しい宇宙に逃走したこの2人は
はっきりいえば、信念からの逃走者だ。
いまなおラボ創業者としてのリスペクトをのこしつつも。
ぼくは確信している。
信念からの逃走者にぼくたちは絶対にまけない。
Re:TARO-MARU FAREWELL さらば青春のキャンプ本部 改(08月11日)
かせだまさん (2014年08月30日 09時37分)

ふふ。すごい熱い想いをさらさら書かれていて

1文1文、たいへん価値あることだと ありがたく拝読しました。

ありがとうございます。朝から いきなり勉強になりました~!!

戸隠神社は いかれなかったのですか~。
(今回、野外活動でいけず、そのかわり野尻湖弁天さまを
参拝できまして充実でした)

夏バテとかしてないようで 何よりです。

ラボの本質を語ってくださるって貴重です。

ありがとうございます!
Re:TARO-MARU FAREWELL さらば青春のキャンプ本部 改(08月11日)
スミティさん (2014年09月01日 20時26分)

はい、最後まで読ませていただきました(*^_^*)
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