幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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ゴールのないリレー、それでも、だからバトンをつながねばならない 02月27日 (金)
三澤三澤製作所のラボ・カレンダーをめくる
2月は逃げるとはよくいったものだ。はや弥生である。
1年の6分の1が終わってしまう。

でも、日はずいぶん長くなって
気温もあがり、風もぬるんできた。
あたたかい季節は目の前。
命蘇る春はもうすぐそこだ。
pfgt
そんな季節にふさわしく
3月の絵はラボ・ライブラリーの千両役者が元気いっぱいに登場だ。
It's a Funny Funny Day 『だるまちゃんとかみなりちゃん』に題材をもとめた作品である。
描いてくれたのは笹本珠緒さん(小1/甲府市・宮田P)。

この達磨大師と雷神という
本来は畏怖と崇拝される歴史的存在をデフォルメし
さらには子どもにしてしまったという原作者の加古里子先生のパワーとセンスにはただ脱帽だ。
ラボっ子のみならず
多くの子どもたちに圧倒的に支持されてきた二大スターがひさしぶりにラボ・カレンダーに登場だ。
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ぼくは25年近く、ラボ・カレンダーの絵を中心にラボっ子諸君の絵を見続けてきたが
点数の多いキャラクターでいえば
「だるまちゃんとかみなりちゃん」、そのなかで もだるまちゃんが
ダントツでナンバーワンである。

それゆえに、ラボ・カレンダーでは
これまでに数多くの傑作、力作、名作がとりあげられており
これらをこえる新鮮かつ斬新なパワーや感覚やタッチが
この作品においてはどうしても期待されるのだ。

だから、「おっ、ひさしぶりのだるまちゃん」と思ったのだ。

さて、珠緒さんの作品だが、とにかく元気がいい。
もちろん、だるまちゃんはおおむねみんな元気よく描かれるのだが
珠緒さんのだめまちゃんとんみなりちゃんは
「やさしくたくましく」、ぼくの心のわりと深いところまでおりてきて
「やってらんない世の中だけど、こんくらいはきみなら平気だぜ」
「ほら、めあげてみろよ。空も世界もひろいぜ」
「ひざかかえているひまがあ゛ったら、ともかく前にいこう」
とはげましてくれるのだ。

その理由をつらつら考えてみると
なにより、珠緒さんはこの物語が大好きで
徹底的に楽しんで描いていることに尽きるのだろう。
それも、その大好きさがまったくぶれないところがすごい。

だいたい大人になるとだな、
どんなに好きだ、一生好きだとかいっても
つまんないことで疑心暗鬼になったり
「ほんとに好きなのだろうか」と
ぶれぶれになったりするのだ。
まあ、こういうのを「大人の事情」という。

そんなヨタ話はともかく、もう少し絵を見てみよう。
画面いっぱいにつかったバランスがすばらしい。
かみなりちゃんとだるまちゃんを個別に見ると
フォルムのバランス、
手と足、顔と身体などの関係においては
微妙にゆらいでいるのだが、
画面のなかにふたりできっちりと
きもちよくならんでいるので、
そんな細かいデッサン的正確性は
この差気品の場合はまったく気にならない。
というかそういう問題ではない。

ふたりとも両手両足をフルオープンでジャンプしているようで
みごとにきまったエアは高得点にちがいない。
これも気持ちよさのひとつ。

だるまちゃんは顔のわりにはボディがややスリムで
かみなりちゃんは、ぎゃくにややポチャなのが
じつにほほえましい。
何度も書くが、そのことで全体にバランスがきまっている。

しつこくいうが珠緒さんの年齢(身長などがわからないけれど)からいえば
使用した紙のサイズは彼女の肩幅より広いと想像する。
その紙をいっばいに使いきるのはかなりの体力と持続力がいるのだ。、

さらにこのように対象をめいっばいに描くのはたいへんなことなのだ。

さらに続けよう。
珠緒さんは鉛筆でいわゆる輪郭、アタリをとり
またクレパスでもその上から輪郭を描いている。
そして不透明水彩で彩色しているのだが、
輪郭線に迷いや逡巡がほとんどなく
スッとほぼ一気に描かれているので
彩色も「塗り絵」のような「やっつけ感」がない。
これもすばらしい。

そうそう
だるまちゃんの身体が白のドット柄なのは
これまたおしゃれである。

背景の空は、抜けるような青ではなく
やや押さえた、一歩まちがえば濁ってしまう
渋めの青になっている。
これは偶然なのか意図したものかは不明だが
子どもたちの絵はこうした「結果的にすごい表現」になることは
そあめずらしいことではない。

でもおかげでだるまちゃんの赤がとてもきもちよく見える。

だるまちゃんの場合は、不透明水彩の生の赤で
シンプルにぬられた作品がどうしても多い。
さらにそうした場合は
背景の青も不透明水彩の生の青や水色を
そのまんんまつかっていることがほとんどだ。

絵の具のセットに入っている生色は
もろに顔料の色なので
珠緒さんのように少なくとも薄めり混ぜたりして
自分の色をつくりだしてほしいと思う。
それが水彩を使うおもしろさだからだ。

とにかくこの青と赤、とくにだめまちゃんの赤は
いい感じに抜けていて抑え目の青からうきたっていて
「いい感じ」である。

青も種類が多いが赤もなかなか大変で
朱色(スカーレット)、紅、ワインレッド、イタリアンレッド、
カーマイン、クリムゾンなど枚挙にいとまがない。
かつてニコル氏が
「『たぬき』にでてくるバッキンガムの衛兵の上着の赤は
scarletであってredじゃない。
ふつうの子どもの英語教室の教材で
scarletなんて書くと
No, no, It's difficult. Red!といわれる。
でもラボはオーケー。そこが気に入った」
ちなみに、『たぬき』は彼のプロデヴュー作だ。

赤は絵のみならず、染物でも、陶芸でも難しく
日本では漆のような朱はあっても
紅花のようなふざやかな赤はなかなかなった。

紅(くれない)はまさに紅花の赤だが
これは呉の藍(くれのあい)が転じたものだ。
この呉は今の呉市ではなく中国の呉(ご)の国のことで
これを訓読みしたものだ。
藍は青を連想するが、この場合は「染料全般」のことをさす。
つまり「くれない」は中国渡来のあざやかな紅花の赤なのだ。

対して「あか」は夜が明けるの「あけ」と同根で
照り輝く色の総称であったようだ。

余談が好ぎたが、このだるまちゃんの赤は
なんともよく「珠緒レッド」とでもよびたい。
※レッド玉緒ではない。

さても、この物語について
かつて「らくだ・こぶに」氏と酒席で雑談のような
貴重な話をきいたことがある。
それは、『だるまちゃんとかみなりちゃん』が
神話と科学を往還させているところがすごいという話だった。

かみなりちゃんが、
だるまちゃんの目のまえに落下してきた過程は
「プールの穴はかみなりちゃんが
高飛び込みをしたことによる」と
「かみなりタウン」にあそびにいってからわかる。

となると、地上で雨がふるのは
かみなりタウンで水あそびをするせいではないかと
かなり多くの子どもは気づく。
そのことをおとなや仲間にいうかどうかは別として
きっと気づく。
ホッレおばさんの羽ぶとんと雪のようにね。

このあたりは確かに神話的だなと
いまになって思う。

そして、かみなりちゃんと空の仲間たちは
かれらの水あそびが
へたすると地上では豪雨をもたらすことを知っていて、

だんだんとテンションがあがり、
もっとも調子にのった
※限度をしらない子どもそのもののかみなりちゅんが
無謀なハイダイヴを敢行したのだろうと
これまた子どもたちは思うだろう。
そういう連想をさせる加古先生の絵と展開がすごい。
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かみなりちゃんの号泣も
子どもたちにとっては切実勝つ生理的な問題だ。
浮き輪がとりないという単純な悲しさはもちろんだが
恐怖、ばかなことをしたというくやしさ、
お家にかえれない不安。
そんなこんなでもうどうしようもないのだと
子どもたちな直感で理解する。

で、そのあたりのいきさつは、
子どもはわかっているので、
じつはつっこまれたくない。
加古先生は、そのあたりをさらり流して後半の絵のなかで、雨とかみなりの関係を神話的に説明する。
この潔い加古先生の語り口を子どもたちは無条件に信頼し愛するのだと思う。

センダックが『かいじゅうたちのいるところ』の冒頭で
The nighgtという「昼間にマックスがぶちきれるようなる事件」
があったことを連想だけさせて
マックスが夜に大暴れする理由をこまごまかかないように
加古先生も、子どもの心の深いところに寄り添う方なのだと思う。

らくだ・こぶに氏とその話をしたとき
ぼくは「そうした雨とかみなりの関係を物語のプロローグに書けば
因果関係がわってよりおもしろくないですか」と
ばかな質問をした。

すると、たしか彼は、怒るでもなくやさしい顔で
たぶんこんなふうにいった。
「おまえも子どもをもつようになればわかる。まあ、飲め」
その晩ぼくは泥酔し浮き輪の夢を見た。

最近の日常は基本的に
武蔵学園の大講堂一階にある学園記念室事務室で
座り仕事をしている。
たまに学園内のあちこちに打ち合わせにいったり
来客を案内したりするが
多くの時間は資料を読んでいるか
原稿書きか、校正かといった作業だ。
従ってときどきは外に出て
深呼吸やストレッチをする。
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先週も天気がよいので外に出たら

流れる雲が南に急ぐ
かつて谷川雁は集雲堂の酒席で
「雲よ」のような若き日の詩は
座興、それも即興に近いなと
ニコリともせずいった。
21歳のぼくには衝撃だった
でも、61歳11か月のいま
この雲の果てにあると信じたい
諍いなき大地に
いいじゃないか
連れていけよと
叫びたい。
そして、あの詩は
けして座興なんかじゃないと
やっとわかってきた

先週の日曜日は「わかものフェスティバル」だった。
今年も大人気でティケットが払底しているようなので、
気になる発表もあるのだが遠慮することにした。
空席がたくさんあるならともかく、
それほどの盛況ならリタイアしたものは遠くから応援しよう。
昨年の同日の日記を見ると、
ラボセンターで時本会長と話をしたと書いてあった。
そのときのメモを見返しながら、
この1年で、ぼくたちを取り巻く状況は
けしてよい方向には向かっていないことへの思いを強くした。

今年の「わかもの」のテーマは「闘え」だそうだ。
この「闘え」について、
その定義や認識を実行委員諸君が
どのように吟味したのか知りたいが、
逃げないという意味での「闘え」ならば評価したいと思う。
で、ささやかではあるが、
海老名に集った彼らに激励のようなメッセージを
昨年の時本会長との話のメモを振り返りつつ贈る。

戦争や国際的な諍い、国民への圧迫、
極端にいえばファシズムも、
加速度的に、しかもひそかにやってくる。
そうした人間に内在する危険を常に認識することで、
はじめて人間の尊厳、生きる意味と喜び、信頼を築くことができる。
だから、敵は自分のなかにある。
そして自分と闘うことは、勇気と信念が必要だ。

今、二極化する貧富の構造、
非正規雇用の割合が異常に高いといった
若い人の「出口なし」の環境は、
歴史にてらしてみても、いつか来た道を予感させる。
「物語とことばによる育てあいの教育」という、
ラボが一貫してもってきた志を、
どのように新しい世代の事務局員やテューターに
バトンタッチしていくかがますますたいせつだ。

わかものフェスティバルで発表する諸君は大学生年代であろう。
今、ラボ活動にうちこめる幸せに感謝するとともに
ラボの年長世代としての社会的責任も自覚してほしい。
これまでラボ活動で得てきたものを、
どうやってラボや社会に還元していくのか。
それを考え、行動できるようになることが、
ラボ教育活動のひとつの山頂だろう。
そうした還元の貴重かつ重要な一例が、
明日の発表なのだと信じる。
いつも書いていることだが、
ラボはゴールのないリレーをやっているのだと、
この数年観客席で旗をふっていたぼくは思う。
だが、昨年の春からは観客席からはおりて、
学校法人という、ラボとはまったくちがう、
しかし青少年が集うことではおなじフィールドで
自分の試合をはじめた。
でもかつてのフィールドのラボで学んだことが
その源泉であることは確かだ。
闘え!
Re:ゴールのないリレー、それでも、だからバトンをつながねばならない(02月27日)
スミティさん (2015年03月05日 22時08分)

中国支部結団式 「雪渡りその2」発表に取り組んでいます。
三澤さんが書いていらっしゃるのと同じことを思いながら。
いやあ、セリ弾きも料理店もざしきぼっこもやったけど雪渡りは深かった・・・
賢治のメッセージがそしてその表現力が「今」という時代に必要だなあ、と思い
つつ、どこまでできるか
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