幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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フレームのない空間で地球を見ようーーラボ・カレンダー12月 12月01日 (金)
三澤制作所のラボ・カレンダーをめくる
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
nun
師走である。
「しわす」あるいは「しはす」の語源は
よくわかっていない。
いくつかの辞書には「年果つ」(としはつ)
が変化したものだと出典も含めて
とりあげているが、
その出典のもとをさらに掘ると行き詰まる。
巷間にいわれる普段は落ち着いてる
師も走り回るという説は
師の正体あいまいさとともに俗説だ。
(僧侶という説は根拠不明)
国語科の先生に聞いたら
平安時代にすでに「しはす」という語はあり、
その時点で「由来不明」だったそうな。

色々あり過ぎた2017年の最後を
大団円で締めくくるのは
ラボ・ライブラリー
A Midsummer Aught’s Dream
『夏の夜の夢』にinspireされた作品だ。
描いてくれたのは
野村あい(中2/吹田市・野村P)さん。

ラスト月なのでちょっと前置きが長いが
2017カレンダー総括の意味もあるので
ご容赦願いたい。

今年のカレンダーは、
高学年ラボっ子の入選が
例年よりも増えた感があるが、
これはおもしろいし楽しい傾向だと思う。
幼い子の「とらわれのない」「伸びやかさ」
「発想の豊かさと自由さ」は
人間はある程度の年齢以上に成長すると
どうしても失ってしまうが、
(逆にそのことを成長と呼ぶわけで
失うものの一方で、思慮とか配慮とか
計画とか目標とか意志とかを身につける)
小学校語5年生以上や中高生が
本気になってこの活動に参加してくれるのは
ラボ・カレンダーに新たな可能性が
生まれる期待が持てる。

そして、もうひとつの特長というか
びっくりは、
『夏の夜の夢』を描いた作品が
3点入選していることだ。
1巻のライブラリーのなかから異なる3点が
入選することも稀有だが、
同一の物語から3点入選は
ラボ・カレンダー史上
たぶん初の快挙というか新展開だ。

過去にも書いたが
一応「ラボ・カレンダー入選内規」
というのが不文律としてあって、
毎回選考会の時に確認するのだが、
「同一パーティからの入選は2点まで。
同一の物語からの入選は原則として複数にしない。
ただし新刊は応募点数も多いので除く」
とあるのだ。

もっともこの内規は
ぼくが在職中に勝手に作って
いい渡していたことなので
入選憲法のようなのではない。
でも「ぶれない基準」を定めておかないと
いざ選考というとき、
それも最終選考の段階で
悩ましいことになる。
その内規はこの間、
ずっと受け継がれているな
と思っていた。

しかしこの内規も
「新刊は複数あり」とはいっていても
3点以上はダメ、2点までとはいっていない。

ラボ・カレンダー最大の目標・意味は、
「ラボっ子の描画活動を激励しよう」
という心意気であり、
「描画も広い意味でのテーマ活動で、
物語と聴き込み、向き合い、仲間と
再表現する過程のなかで生み出される
表現のひとつ」という教育プログラムでもある。
だから「コンテスト」ではなく
あくまで活動なのだ。

したがって入選のなかに順位はないし、
たとえ入選しても、
賞状も賞品もない(いまは知らない)。
ただカレンダー1部が作者用としてぞうていされ
それに「ことばの宇宙」からの
手紙がつくだけだ。

そしてもうひとつ
ラボ・カレンダーには
ラボ教育活動及びその水源である
ラボ・ライブラリーの
パプリシティとしての役割もある。

なんといって32年にわたり
子どもたちが物語をテーマにした絵が
毎夏の終わりに3000枚以上集まり
その絵だけで大判のカレンダーを
作りつづけている例は他にない。
それだけでも自慢していい。

ラボ・ライブララリー制作に
参加していただいた各分野の先生方も
ラボ・カレンダーは楽しみにされている。
「いつ出ますか」と催促される先生も
いらっしゃるし、
「ぼく3部ね」とリクエストされる方もいる。

ラボの絵本の絵はラボっ子から見たら
「すごいなあ。うまいなあ」だろうけど
画家の先生方からすれば
「いいなあ、自由だなあ。
こんな風なとらわれずに描きたいな」
という憧れなのだ。

『かにむかし』『おむすびころころ』
などの絵を担当された
宮本忠夫先生は、ラボ・カレンダーの各月が
終わると仕事場の寝台の真上の天井に貼り、
どうしても絵筆が進まなくなると
ベッドに仰向けになって
そのカレンダーたちを眺め
「ちくしょう、
こいつらがこんなに描けるのに
俺は何をやってるんだ」と
投資をかきたてるといわれたことがある。

また、かのピカソも晩年は
幼子が気まぐれで描いたような
素朴な作品を多数発表し、
「やっとこのように自由に描ける
ようになった。70年かかった
といっている。

話が大きくなったが、
最後のパプリシティという意味からいえば
カレンダーにおいては
なるべく多様な作品を紹介したいと考えるのは
きわめて自然なことだ。
したがって、物語り重複は出ることなら避けよう。
だけど新刊については、
その年にラボ活動の特徴を示すものだから
複数入選はありだねということだ。

前にも書いたが、
ラボ・カレンダーの絵は
基本的に作品主義であり
支部とか年齢とか
ジェンダーとかの枠組みのパランスは
ほとんど考慮しなかった。
「どれだけ物語に突っ込んでいるか」
「何を描こうとしているか」
「オリジナリティがあるか」
「季節感があるか」
「見る人背を勇気づけるパワーがあるか」
「どこまでこだわっているか」
などが主なポイントで
「うまい」とか「きれい」という
ファクターはあまり関係がない。
なぜなら、しつこいが
活動だからである。

ただ不思議なことに、
激しい意見交換をしながら
煮詰めていくと
結果的にはジェンダーや年齢は
そんなに偏らない。

ともあれ、
今回『夏の夜の夢』から3点が
入選したのは
それだけこの物語がこどもたちにとって
インパクトがあったことの証だろう。

今朝、使用していない方の
今年のラボ・カレンダーを取り出し
各月を眺めて納得した。

さて、お待たせしたが
野村あいさんの作品について書こう。

Puckの名セリフ
I'll put a girdle round about the earth
In forty minutes.
がmotifであることはぼくにもわかる。
先日、シャイクスピア好きの友人と
話をしたら、
この場面でPuckがわざと転んで見せる
演出があるとおもしろそうにいっていた。
逆説的なシャレなりだろうか。

今年入選した他2点の『夏の夜の夢』は
いずれも蟹江杏先生の絵にinspireされた
タッチだが、
あいさんのPuckは完全オリジナルだ。

そして、なんというスケール感だろう。
なんという荘厳さだろう。
なんというまばゆさだろう。
なんという深みだろう。
そして、なんという大胆さ。

じつは11月29日からフライングで
この絵をずっと見ているが、
最初は「ああ、おもしろいなあ」とか
「発想がたのしいなあ」とか
「のびやかに大きく描いてるなあ」
くらいに漠然と感じていた。

しかし、今朝あたりからは
detailがいろいろ見えてきて、
だんだんそら恐ろしくなってきた。

絵を構成するパーツとしては
地球、太陽、Puck、背後の宇宙という
大きく4つに分けられる。
地球の上半分(宇宙に上も下もないが……。
ところで、幼いとき右と左を弁別することが
ぼくはなかなかできなかった。諸姉兄の
なかにも「お箸を持つ手」で理解しても
向かい合ったものの左右がよくわからなかった
方がいると思う。じつは左右の決定は
上下が決定されることで決定される。
宇宙それ自体には右も左もないが
自分から見て右手の方向とはいえる)
を断ち切りで描き、その上のど真ん中にPuck。
左隅にやはり断ち切りで太陽、
そして背景には漆黒の
というより深いvioletの宇宙。

そのひとつひとつには
とんでもない思い入れと描き込みがある。
長くなるがそれぞれを見ていこう。
我が星、地球は青系で彩色されているが
左から右へgradationがかかり
右端のほうではやや赤みのある紫系になっている。
太陽の逆側、夜の部分になつている。
この青の濁りのない「すっと抜けた感じ」は
宇宙から見た奇跡の水の星りイメージだ。
そしてこの星を取りまく大気が作り出す
雲の流れのタッチの動感と静寂感は
これが「ただの丸い青」ではなく
太陽系第三惑星だと実感させる。
そして、その雲の合間から、
わずかに覗く陸地も愛おしい。
nyn

2017年もまた、
ぼくたちのは血と汗と涙の
地球の岸辺にたちつくした。
しかしそれらの憂いとは無関係に
この星は存在する。
そしてこの閉ざさされた系の中居゛
人類とその文化、そしてあらゆる生命が
持続していく道筋は、
多様性の尊重以外にはあまりないことを
この地球は教えてくれる。

左からのぼる太陽のフレアのまばゆさは
あいさんの命と想像力のまばゆさだろう。
この光は2017年の終わりの
日本中のラボの仲間の家庭の
ひと月をあまねく照らすに違いない。
太陽の中心の彩色の熱量、
フレアの勢い、
そこから穂先を使った
飛び散る光。
子どもたちの絵に太陽は
喜びの象徴、時には父親の象徴として
よく絵が描かれるが、
これほど細かく描き込まれた太陽は
滅多にない。

それと、ふつう日本の子どもは
太陽を赤で描く。
それは幼いときから
赤い太陽の絵を多く見るし
文化的な流れとしてred sunは
刷り込まれているからだが、
(「お日様は赤でしょ」と
指導する親あるいは教育関係者の
せいでもある)
欧米の子は太陽は黄色で描くことが多い。

実際は太陽の色を直接見ることは
できないのだがね。
ともあれ、あいさんに海外生活の
体験があるかは少し興味がある。

背景の宇宙violetの色合いは
気品があり、神秘性もあり、
そして奥行きと広がりがある。
さらに驚くべきは、
画面左上の星雲あるいは
超新星super novaのような星団のタッチ。
それが画面右上からも
わずかにこぼれている。
この星団を描いたことが、
この宇宙の神秘さと
とてつもない天文時間を感じさせる。

さらに、絵の具を一見気ままに
じつは慎重にとびちらせた星くずたちは、
五芒あるいは六芒の星を安易に描くよりも
はるかにリアルであり、
また同時に物語の持つ幻想性に適している。

さて肝心のPuckだが、
これだけ小さく描枯れていても
tricksterとしての存在感を発揮している。
手に持ったLove-in-idleness
三色すみれの描き込みは
それがこの物語で果たす役割の
重要さを認識していることの証明だ。
大きさと存在感はイコールではない。
またPuckの目をとじた表情は
さまざまな連想をさせてくれる。
そして身体の発光も効果的だ。

こうして細部を見て来たが、
改めて全体を見渡すと、
自分もPuckとともに
大気圏外にいる気がする。
ぼくたちは今、宇宙船や宇宙探査機が
撮影した美しい地球の写真を
地球外からの視点で見ることができる。

でも、それはあくまでファインダーヤ
フレームに入った地球だ。
iPhoneの待ち受け画面や
PCノデスクトップのように。
この絵ももちろんフレームで切られているが、
それを超えた広がりを
この絵の外側に感じさせてくれる。
そのいみでは、
より客観的にこの星を眺めさせてくれ、
ぼくたちがこの星で生きる意味と
責任を自覚させてくれる。

野村あいさんのこの作品が、
1年の最後の絵になったのは
単に雰囲気だけではないと信じる。
繰り返しになるが
多様性の尊重と
あらゆる排他的行為、
暴力、差別、搾取との訣別が
来る年には一歩でも前進することを
祈念してやまない。

また、1年間、長ったらしい駄文に
お付き合いいただいた方がたに
御礼を申しあげる。
もしよろしければ来年も
「いい絵」という評価ではなく
この絵のここが好きだという
感想を書いて行くつもりだ。

ここからはおまけ。
tricksterは人類学のtermで
ネイティヴアメリカン民話研究で知られる
ラディンによるキャラクター分類だが、
ユングによってより世に知られるようになった、

神話や伝承話では「いたずら好き」で
背反する二面性を持つので
物語を混乱させるが
最後は好結果に導くことが多い。
Puckがtricksterの典型例だと
いわれるゆえんだ。

tricksterはまた
culture heroとして描かれ
プロメテウスなどは
美佐に文化的貢献者のtricksterだ。

『夏の夜の夢』の初演は1595年。
河合先生におうかがいしたいが、
初演は貴族の結婚式の披露宴だった
という説がある。
もし実際に新婚カップルの前で
上演されたら
とんでもなくdramaticだ。
誰かラボっ子の結婚式で
この物語のテーマ活動を発表しないかな。
式の会場と日時。
それはラボランドの森。
夏至の夜に決まっているだろう!
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