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木になるということ |
03月08日 (月) |
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「ひとうちななつ」のテーマ活動をしていたときのこと、高校を卒業したばかりの子が「森だ、木だからといって、何も考えず形だけをつくるのはやめようよ。」と言った。 その木にあまり意味を持たせたくないなら、手を伸ばして枝を表すより、手を下ろしておいたほうがいいと言う。 続いて、「木ってさ、根があるよね。 みんなの足が根だとしたら、その根がずっと土の中に深く、ひろく広がっていると想像してみて、今度はそこから水や栄養を吸い上げて、枝や葉をつけていく。」 すると、彼女は真面目に木になっている子たちをゆさぶろうとしたり、抜こうとしている。 私は見ていてさほどの変化は分からなかったが、確かに彼女が「想像してみて」と言う前にはふらついていたみんなの足がどしっとしている。 軽々彼女に抜かれていた小学生たちが今度は足に根が生えているようだ。
物語が進む中、いろんな人やモノに変わっていくラボっ子たち。 何も不思議と思わずできることも、時に、ふと立ち止まり、こだわりたくなる。 この日は剣の使い方、斧の使い方も「見えないものが見えてくる」を目指し、努力をしていた。 見えてきた剣でぶすっとやられると巨人たちの反応は違う(うつ伏せで仕立屋は見えないはずなのに) 斧は見たことも使ったこともないから、その重さを使って振り下ろすんだと言われても、なかなか難しい。
参考:
巨人の場面
Slowly I climbed back down the tree,
and slowly drew my sword,
then struck at their chests with it time after time,
and the went back to the troops.
一角獣の場面
Then quite cool, calm and collected I showed myself,
and I slung the rope around its neck
and with the axe chopped off the horn.
余談になるかもしれないが、最近この「ひろば@LABO」でも取り上げられている、外山滋比古(とやま・しげひこ)著 『わが子に伝える「絶対語感」』の最後の方で「体を動かしながら覚えてこそ身につくことば」という章がある。 ・・テレビのことばは見ることばで自分のしていることと関係がない・・ものの名前、知識が多くなるが動きのあることば、動詞が貧弱・・
幼稚園での「もちあげます」のことばが通じなかった話には驚いた。 「餅をあげるの?」 「もちあげる」経験がなければ、わからないのも不思議ではない。 生活のなか、遊びのなかでことばを覚えていくのが望ましいとも・・
そのとおり!
しかし、額に汗して働いたり、丁寧に料理したり、針仕事したりなんて、、、、私もそんな中での知らない動詞がたっくさんある。 (汗)
まっ、できることからやっていきますか。
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Re:木になるということ(03月08日)
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スミティさん (2004年03月09日 14時37分)
ほんとにほんとに
オージュンさんの日記を読んで思い出したこと。
何週間か前、ピノッキオが働く場面で
『働くってみんなだったらどんなイメージ?一生懸命働くって何して働
く?』と投げかけたところ、
田舎に住んでいる子や中高生になると、鍬を持って耕したりのイメージ
が出てくるが、働くイメージがなく、なにも思い浮かばない子もいる。
いろいろ自分の中で考えてでてきた表現が、料理をすること。
今の核家族で都市に住んでいる子供たちは、汗して働く姿を見ることも
自分がすることも少ない。父が働く姿を直接見ることもない。
うわー、こういうことなんだ・・・とみょうにあの日は納得してしまいまし
た。
1次産業就業者がどんどん減り、第3次産業が増えるって・・・
動詞が貧弱になる、体験が貧弱になる・・・
身体を動かす場をますますラボで作らねば・・・
なんておもいました。
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