幼児教育・英語教室のラボ・パーティ
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 私のおすすめライブラリ 第4号               2006年5月15日

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1)SK-15 O-o-Kuni-nushi,the Gentle King   
2)GT-19 Alice In Wonderland    
3)GT-20 HARRY THE DIRTY DOG
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1)オオクニヌシ
                         京葉地区 橋本久生子

「国生み」すなわち「古事記」の訳本はたくさんあるが、谷川さんがラボのために書いた文ほど
美しくリズミカルで感動的な文はないと思う。「国生み」でも「スサノオ」でも心に残る言葉はたくさん
あるが、「オオクニヌシ」で私がすきなのは「あの方が門をくぐられたとき、わたしの胸に満月がのぼりましたの」というくだりだ。
「オオクニヌシ」は、4つのお話のなかでは一番とりあげられる回数が少ないように思うが何故だろう。確かに残酷なシーンがあり“これいじめじゃない?”といわれて却下されるのだが、日本国統一を
最初に成し遂げたオオクニヌシの物語が、いじめというのではあまりに情けない。
私がこのお話がすきなのは、男の子が試練をうけながら脱皮し成長してゆく姿に感動するからなのだと思う。もちろん女の子も美しくやさしく成長して、共に国を支えるスセリヒメやヤカミヒメとして登場
するが、ラボっ子をみても劇的に変化をとげるのは男の子のほうだ。幼児から少年へ、そして青年から大人へと、心も体もまるで別種のものになるかのごとく変化する。テユ―ターは女性だから、そのへんのところは本当には解らないかもしれないが、本人たちだって多分に戸惑っているにちがいない。それを導き支えられるのは先輩の男達と、きびしい試練だとおもう。
昔はそういうことが経験的によくわかっていて、世界中にさまざまな成人の儀式として残されているし、日常的にも絶えず男の子を鍛える雰囲気があったと思う。現代の鍛錬の場はどこにあるのだろう、部活動だろうか、国際交流参加だろうか、いずれにしても逞しい男へ脱皮するには少々エネルギー不足であり、自信がもてないまま大人になってしまうのだと思う。オオクニヌシは、それにしても
標的にされすぎだと思うが、“栴檀は双葉より芳ばし”の諺どおり、オオクニヌシに一国の王としての
資質を感じた時、八十神はより厳しくならざるを得なかったのかもしれない。
オオクニヌシの最後は「それに、すなおな少年にやさしい手をさしのべてくれる女たちがいた」という
言葉で締められている。なんてすてきな終わり方なのだろう。母神やスセリヒメ、ヤカミヒメのような
やさしい女のいないところに、逞しい男が育つわけがない。とすれば、そういう男をみてわたしの胸に満月がのぼる幸せを女の子があじわうこともない。いまの世は愛の歌やドラマで満ち溢れているのに、満月の愛からはどんどん遠ざかっているようにおもえる。こんな私なりのオオクニヌシ感をどう思うか、ぜひ、子供たちにもきいてみてほしい。

ところで、“ライブラリーの泉”とても楽しく読んでいます。とくにわが子の反応にテユ―ターが励まされているのがいいですね。佐藤さんの小1の息子が「太陽の東月の西」をきいて、“お母さん、こんなおもしろいお話かってくれてありがとう”といったというところでは、うれしくておもわずうるうるしてしまいました。また、越桐さんの息子は「スサノオ」が、はじめて出会ったものがたりだなんて、はるかに大人の予想をこえていますよね。谷川さんのいう通り、こどもはいつも想定外だからおもしろい、
それを受け止める力をもちながら、自分なりの物語りへの思い、アプローチの仕方は多様にもつ
努力をしていきたいものです。
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2)大好きなアリスに思うこと
                            南総 藤山奈美

「あたりまえ~は~つまらない~た~い~くつで、あくびがでちゃう………」

 ラボに出会う前の私は、いつもなにかに物足りなさを感じていました。
そんな中で息子が保育園の時に出会った運命の人『谷 悦子』。
彼女こそがその後私達親子の人生を、当たり前の世界から不思議の国へ導いた『白ウサギ』なのです。
お話の中で遊ぶ息子は本当に楽しそうで、そんな息子を見ているうちに、私自身もラボの世界に夢中になり、気がつくと恐れ多くもラボテューターになっていたという次第です。

 あまりにも有名な『不思議の国のアリス』。これはアリス・リデルの7歳の誕生日5月4日に戸外で起こった出来事として描かれ、この半年後、室内の出来事として『不思議の国のアリス』の出版後6年を経て『鏡の国のアリス』が出されました。この『鏡の国のアリス』には、私達になじみの深いマザーグースの歌から材を取ったキャラクターが、たくさん登場します。
 例えばティードウルダムとティードウルディーは、おもちゃがもとで喧嘩になりますが、本心は戦いたくなくて、アリスの手を借り武具をつけてもらうと、ティードウルダムは頭が痛いと言い、ティードウルディーは歯が痛いと言います。しかし、マザーグースの歌では2人は戦う事になっているので戦いますが、ちょうどそこへ歌の通りにおばけカラスが現れ、2人は書き消えてしまいます。ハンプティー・ダンプティーは自分が塀から落ちればマザーグースの通りに大変なことになるのを承知しているので、アリスが「これまでに出会った人物の中で一番嫌な奴」とつぶやかせるほど尊大にかまえています。

 『不思議の国』『鏡の国』どちらのアリスにも共通しているナンセンスというおもしろさ。私の小さいパーティでは1人が2役3役はあたりまえ。だけど、どうしてもきのこの上のいも虫以外は、やりたくない子がいたり…。
子供達が表現する世界は本当にへんてこな仲間達でいっぱいです。
ですが、その表現力に改めて想像力の豊かさ、お話の力を感じます。歴史あり、笑いあり、感動ありと、たくさんの不思議の国に遊びにいけるラボライブラリー。まだまだ勉強中の私ですけど、いつかは自分が子供達を不思議の国へと導く『白ウサギ』になれればなあ~と、思います。夢で終わらないように頑張らねば!!

 Hop step Hop step Hop step Hop step………。
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3)『心のもちよう ~ハリーと私~ 』(GT20どろんこハリー)
                           千葉総局 荒木雄介

 いつものように布団に潜って、さあこれから就寝、という時に、家が揺れました。振動が止まらない。続くよ、続く、振動は続くよ、いつまでも。阪神大震災の体験があったので、遂に東京も地震か、と恐怖におののくこと一寸、どうも揺れているのは自分の家だけらしい、工事でした。窓の下を覗くと家の前の道路で工事が執り行われています。この振動が続くと、眠れる筈が無い、けれどあしたも仕事はあります。
と考えると、自分の中で激情は、すぐに込み上げてきました。身を起こし、階段を駆け降り、工事の責任者らしき男性に「夜中、工事をするとは、どういう了見だ?」と詰め寄りました。
が、先方、鳴れたものか、平身低頭で謝罪、懇切丁寧に「昼はこの道路に、バスが通るので工事はできません。」、「これは公共の工事で、下水道の工事です。」とこの工事が生活上必要という意義を繰り返し述べられるのです。
「あっ、彼の弁、クレーム対応の勉強になるかも。」なんて、先方の対応に感心したのはホンの束の間。謝られても工事が終わるわけではない。眠られるわけではない。まして明日が都合よく土曜日とか日曜日になるわけでもない。
止めを刺したのは「この工事は2週間以上は続きます。」との先方の言葉。この一言で、血の気が引かれました。

 呆然として部屋に戻ってから、すぐ東京近郊に単身で住む知人達に、工事期間中、泊まらせてほしいとの旨の電話をしました。それから、フーテンのように転々とすることになってしまいました。
工事がお休みの土日と、水曜を除き、

赤羽(北区)→南大沢(八王子)→ 上北沢(世田谷区)→南大沢(八王子)→ 国立(国立市)×2   

とのべ一週間ほど。
それでも、良い事もありました。何かの口実がなければ滅多に会えない友人・先輩に久しぶりに会えたこと、知らない街の知らない店の御飯は大体美味しかったこと、他人の家だと新潮文庫の進み具合がいいこと、等。
しかし、そんなことは些少な事で、もっと大きな問題があったのです。その日は充実したと思って寝床に入っても、ねむられないのです。よしんば眠ることが出来ても時間にして、いつもの半分。それが外泊中、ずっと続きます。
居心地のよさは自分の家には適わない、ということが朝に目覚めるとよく判るのです。

ビル群の隙間から差し込む朝日の光を横目に、国立から新宿に向かう中央線の中で、嘆息し、
「じぶんのうちって なんて いいんでしょう」
と心底、思いました。
かつて山谷のドヤ街に行った時、倒壊される前の駒場寮に行った時、家が無くても人は生きられるもの、と単純におもったこともあったのだけれど、「ああ、家で寝たい、家で寝たい。」とそのときほど、思ったことはありませんでした。
この日を最後に、まだ工事は終わらないけれど自宅で眠ろうと決めました。そう思って、自宅に戻ると工事の音・振動が、まるでなかったかのようにその日からぐっすり眠ることが出来たのです。

泥だらけになったハリーは、はじめ、大切な家族からも認識されませんでした。が、その時ハリーは常日頃、敬遠していたお風呂でさえ厭わず、家に戻ることを選んだのです。
そのときの自分にとって工事の音・騒音は、ハリーにとってのお風呂と、同じようなものでした。

“It was wonderful to be home”にはもうひとつ、「ほんとに すてきな きもちです。」という意味があります。
この文、ほんとうは日本語にはないけど、ディアスボラ(寄る辺無き民)からお家へ戻った、そのときの自分ほど、ハリーのきもちに首肯したことはありません。
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