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Welcome!
「国際交流体験が今の自分にもたらしているもの」
藤井パーティ35周年記念  Alumni (卒業生)によるワークショップ
   2003年 9月23日(祝) ファシリテイター 加藤倫子 (旧姓井田)

(倫子) みんな久しぶり!元気だった?今日はみんなに聞きたいんだけれども、
     「国際交流体験が、今の自分にどう反映しているか」についてなんだけど。
     Alumni も、20歳以上の年の差になるので、
     最近行ったばかりの人もいれば、もう自分の子供を参加させた人も出ているんだよね。
     まず、自分の参加年度と学年、州と、その時のことについてと、
     今ではどう感じているか、教えてくれる?

(和子) 76年ミネソタ、大1。
(倫子) 和子さんは今碧南市の国際友好親善協会で働いているよね。今日はぜひその話をしてね。
(英夫) 77ユタ、中1。
(倫子) 英夫君といえばホームシックで有名だったよねえ。キャンプでも4日間泣き通しだったじゃない。
     よく中1でいけたね。羽田空港からぎりぎりまでお母さんに電話してたんだって?
     東大出てトヨタに入って、一番の出世頭で、今じゃ立派なお父さん。
     ステイ中は、大丈夫だったの?
(英夫) いや、やはり、泣いてました。
     でも、帰れないと思ったし、日中は結構楽しいことがたくさんあるんだけれど、
     夜になって晩ごはんを見ると。
(皆)  やっぱり。(笑)で、どうやって克服したの?
(英夫) 克服というより、泣きながらだんだん慣れていったというか。
     とにかく、楽しいこともたくさんあるんで。
(倫子) ホストファミリーはどう対処してくれた?
(英夫) ホストマザーが、金属のカップを買ってきてくれて、それを磨くようにと。
(倫子) 銀?ピューターかな。
     とにかく、何か手仕事を与えて考え込まないようにしてくれたのかな。
(英夫) 今にして思えばそうだったと思う。
(知咲) 私もホームシックから病気になっちゃった。84ミネソタ、中1
(皆)  それで!?
(知咲) ホストマザーがずーっと抱っこしててくれて、それで安心したというか、
     すっかりなおっちゃった。
(倫子) 中1で行く、というのはすごく勇気がいることだと思うけど、言葉も不安だし。
     どう?中1で行った人は言葉が壁になったと思う?
(皆)  全然。最初は確かに不安だったけど、相手を思う気持ちが強くて、
     言葉がわからなくても通じ合えるという自信があるんだよね。
     人とのつきあい方を体得した!と思っているよ。

(倫子) かっちゃんは78年の第一回韓国交流に行ってるよね。
     私の次男が02-03の冬に5年生で行ったんだけど、けんかしたりしてね。
(勝邦) ぼくも5年生だった。
     いやー、韓国の人は激しいと思った。けんかばっかしてた。
     日本のすぐ隣の国なのに、こんなに「血の濃さ」が違うんだと、
     ぼくは小学校5年生にして感じたね。
(倫子) 言葉はわかった?
(勝邦) 全然。お父さんとお母さんは日本語が話せたから日常生活に支障はなかった。
     けんかの時の言葉は何を言ってるのかわからないけど、
     自分の意志をこれ程までに通そうとする韓国人を見て、
     自分も意志を持たなければ、と思った。
(倫子) アメリカはどうだった?中1で行ったの?
(勝邦) 83ウイスコンシン、高1。
     大人として扱ってもらえて、やることに責任を持たせてもらえた。
     日本では、高校生といったらまだ甘えていると思う。
     ゴルフ場の隣に家があって、夕方になってお客さんが帰る頃になると
     「行くか!」ってやらしてもらって。
     もうやりたい放題楽しんだ。言葉もできるからよけいに楽しめるじゃんね。
(幸司) ぼくも85年にアーカンソーに高1でいった。
     言葉ができるから、遊びや、いろんな話しにも入れてもらえて、楽しかった!
     悪いこともやった!
(倫子) 小さい頃のこうちゃんはわんぱくで、
     「幸司!!!」って怒鳴らない日はなかったよねえ。
     そのこうちゃんがカレッジスタッフとして行ったって聞いたときには、驚いたわ。
(幸司) 91ミネソタにカレッジでいったんだけど、
     実はアーカンソーの時も感じたんだけど、
     「心が弱い子」って案外多いんだなって。
      生活習慣が違いすぎて悩む子をずいぶんフォローした。
(倫子) カレッジといっても、子供を育てた経験もなければ、大人の社会で生きてもいない。
     経験不足とか、ジレンマを感じることはなかったの?
(幸司) 全然。大人じゃないからこそ、ラボっ子の気持ちに近いからこそ、
     吸い上げてあげられるんだよ。
     ぼくがしたのは単なる通訳じゃない。
     ラボっ子が口に出してくるのはその子の気持ちのほんの一部。
     ぼくはそれにプラスアルファーして、事務局やホストファミリーに伝えたんだ。
     それはラボっ子の気持ちがわかる人間じゃないと。
     パーティや、今までのラボでの体験が大いに役立ったね。
(とし) ぼくも中1でカンザス、94オーストラリアを経て、
     97にカレッジでオハイオにいったんだけど、ぼくは結構苦労したけど、
     やはりパーティでの経験とか今までの経験が本当に役に立ったと思う。

(倫子) さっき、中1で行った子たちは、言葉の壁を感じなかったと言っていたけど、
     高校生で行った子たちはどうなの?
(皆)  言葉が武器になったよ。
     言葉ができることで、もっと楽しめたし、ほんとに帰りたくないと思った。
     もっと話したくて受け入れもしたもんね。
(公江) 79オハイオ、高1。私も言葉ができるおかげでよかったと思う。
     ホストからは今でもお手紙やクリスマスカードがくる。
     私はラボに入ったのは高校になってからだったけど、
     小学生の頃からのんちゃんたちがラボやってるのを知っていて、ついにって感じ。
     だから全力投球。
     ホストもそんな私を受け入れてくれて、
     こんなに続いているのはきみえだけだって言ってくれてる。
(裕子) 81サウスダコタ、高1。
     小3で入会して、小5,6の頃には国際交流に行きたい気持ちが自分の中で満杯になってた。
     帰国報告会でもらえる、あの鮮やかな色のどこまでも甘いキャンディーとか、
     アメリカのにおいのするレターセットとかのちいさなお土産!(笑)
     中学の3年間は同級生たちが次々と参加して帰って来るのを横目に
     親への反発心のみ大きくなってた。
     7年間の交渉を終えて両親の承諾を得ると、今度は学校の説得。
     ラボのお話が大好きで、英語が大好きだったし、
     モチベーションとしては全く問題も不安もなく出発したのを覚えている。
     初めのうちのホームシックとか、高学年のホストとの時間的なすれ違い、
     小さい子たちの英語が聞き取れないとか・・・・
(皆)  何であいつらあんなに早くしゃべれるんだろう?!
(裕子) いろいろあったけど、一日として無駄にはできないと思って。
     一ヶ月で帰ってこなければならないじゃない?
     限られた時間内で伝えなければならない、今、言わなければ!って。
     自己表現力を集中させたというか、凝縮させたというか、
     何度も巡ってきた夏休みの中で一番思い出深い、濃い体験だったと思う。
(倫子) 中学生でいった子たちは、全身でぶつかっていって、言葉の壁は感じない境地にいたった。
     高校生でいった子たちは、大人として扱われ、それなりの悩みもあるけど、
     言葉によってそれを打開していったともいえるね。

(公江) ラボで行くというのは、一ヶ月の交流より、準備の方が長い訳じゃない?
     どうしたってモチベーションは高くなるよね。
(倫子) そうね。そして裕子ちゃんも言ったように、毎年の帰国報告会。
     藤井パーティの国際交流は、1972年の始まりの年から毎年毎年、
     もう250人以上行っているんですって。
     その一人一人がまた、韓国、オーストラリア、中国、
     そして受け入れも数多くやっているから、延べ人数で言うと4桁に届いちゃうわけ。
(皆)  うわー。俺たちそのひとり!
(倫子) 毎年の交流が次に行く子たちのモチベーションを高くキープして、
     それがずっと続いているのが藤井パーティなんだよね。
(まさのり)俺も、高校で入会して、98年に大1で中国に行った。
     毎年国際交流というか、ただの観光旅行ではないものをやろうと思って、
     まず、第2外国語でとっていた中国へ行ったんだ。
     それで2000年はオレゴンキャンプ。
(倫子) 全身でぶつかっていける13歳とは違うものがあったんじゃない?
     大学生で行くというのは。
(まさのり)いやー。気を遣いましたね。ホームステイは。
     中国では、日本より儒教というか、礼儀が大切にされているので、
     お父さんの前でたばこを吸うのは、ねー。

(倫子) 大人になってからホストを訪問した人もいるでしょう。
     私も行って来たよ。77ユタ、高1。
     あれから20年以上たって、家族で訪問してきたのね。
     そしたらお母さんとか、白髪は増えていたけど全然変わっていなくて、
     「あんたの子供は私の孫だよ」って。
(友美) もう、実家に帰った気分!
    (友美ちゃんが幼い娘二人を連れて訪問してきた話は
     午後のプレゼンテーションのなかでスタンツとして表現)
(倫子) 私は夫のホストファミリーの所にも行って来たんだけどね。
     夫は74オレゴン、高1で参加。
     25年たって、もう音信不通で。
     でも子供たちに「ここが、お父さんが高校生の時にステイしたところだよ」
     って見せてやるだけでもいいかと思って、
     カリフォルニアの家から二日がかりで車で行ってみたら、もう、すごい田舎町で、
     ハイウエイぞいにグローサリーが一軒あるだけ。
     そのグローサリーで電話帳を借りて、
     まだホストの一家が住んでいるかどうか調べようとしたら、
     何だ何だ、ってことになって、
     そこにいたおばあさんが、ファミリーヒストリーをぜーんぶおしえてくれて、
     頼みもしないのに電話して呼んじゃって、あれよあれよというまに懐かしの我が家へ。
     その家ではお父さんがもう亡くなっていて、ホストも亡くなっていてね。
     お母さんはラスベガスに引っ越していて、お兄さんが家族と住んでいた。
     25年というのは、そういう歳月なんだな、と感じたのね。
     でもね、その新しい世代が、またラボっ子の受け入れをやっていたんだよ!
(皆)  すごい!
(倫子) もちろんラスベガスのお母さんも訪ねて行ってね。
     そのお母さん、夫と息子を亡くしたわけだからさぞ寂しくて引っ越しちゃったのかな、
     と思っていたら、とんでもない。
     お父さんが亡くなった後、Ph.D をとって全米に履歴書を送ったら
     フィラデルフィアとラスベガスに仕事が見つかったんで引っ越したというわけ。
     人生ってすごいな、と学ばされた思い。
     ベガスに来たらあんたたちにお金の苦労はさせないよ、って感じで、
     ラボとの交流をしていないネバダの4-Hにも話してやろうって。
(皆)  アメリカ人、たくましい!

(倫子) ところで、受け入れもずいぶんしてるよね。
     ことばが通じるのに気をよくして、もっと話したいという人もいたよね。
     みっちゃんは、ホームステイには行っていないけど受け入れの話をしてみてくれる?
(光代) 90年に、アラスカから受け入れました。妹のホストでした。
     自分には体験がなかったので、どうしたらいいのか、とまどった。
     でも、母親の存在の大きさを感じた。
     うちの母は、英語とか全然しゃべれないんですけど、
     やっぱり、ホームステイの柱は母親だと。
(早百合)私はラボに入る前に、受け入れをしたことがあるんだけど、
     あの時ほど相手のことを思いやったことがないと思ってる。
     とにかく一日中相手のことを考えていて、
     こんなにあいてのことばかり思うのは新婚時代を除いてあの時くらいだと思う。(笑)

(倫子) さゆりちゃんは、もう自分のお子さんを国際交流にだしているよね。
     今日は来ていないけど、なおちゃん(74ネブラスカ高1)が自分の長女を
     同じファミリーにホームステイさせて、親子2世代の交流として話題になったよね。
     その次がさゆりちゃんとこの梨央ちゃん。
     今年は和子さんが直くんをだして、来年はうちとゆうこちゃんとこ。
(早百合)りおは2000年にバージニアにステイしました。
     心配はなかったんだけど、うちの躾の悪さが暴露されるわけだから、
     そこから問題になったらどうしよう、恥ずかしいなあと思ってた。
(和子) うちも!何とかやってくるとは信じてたけど、病気にはなるかもしれないと思ったし。
(倫子) ちょっと、誰も言葉の心配や、ホームシック、コミュニケーション上の問題は
     心配しなかったわけ? さすがラボっ子だわね。
     ことばといえば、国際交流体験と、ラボ活動全体をとおして開けた扉から、
     新たな展開があった人は?
(公江) 私は、ラボでスペイン語にふれたことがきっかけで、大学はスペイン語学科に進学した。
     英語もずっと好きだし、
     藤井パーティでいつもみんなから刺激されているのでずっと勉強を続けてきて、
     今の仕事、産業翻訳をやることになったきっかけになっています。
(早百合)私も結婚して知立に住んでいるとき、知立市の国際交流が始まったんだけれども、
     誰も経験がなくて、
     失敗するわけには行かないと思った市長さんから直々に電話がかかってきて、
     第一回国際派遣団の副団長としてオーストラリアに行った。(すごーい!)
     そこでもラボのやり方で、歌を歌うとか、手作りのお土産で、
     お金をかけるばかりがいいのではない、心の交流を実践してきました。
(和子) 私は、碧南市に住んでいるのですが、今、市の友好親善協会で働いています。
     ラボの榊原テューターが始められたことで、私はとても、と思っていたけれど、
     碧南を好きになりたいという気持ちと、
     自分の体験を生かしてホームステイをしてくれるご家庭の助けになればと思っています。
(倫子) 藤井パーティからはスワヒリ語を大学で専攻した人もいるし、
     中国語を勉強して外交官になり、中国に駐在している人もいるよね。
     私も夫の転勤で行ったアメリカに在住中に
     4-Hのスタッフとして働いたりできたのは、ホームステイ体験のおかげだと思う。
(幸司) おれも、どうにかなる!っていつも思う。それを仕事しながらでも感じているんだ。
(勝邦) 国籍を気にしないでつきあうことができるよね。
     俺も刈谷市役所に勤めているから、いつか友好親善協会の仕事をするときが来ると思う。
(英夫) 相手が誰であれ、ものおじせずに話すことができる。
(皆)  トヨタの偉いさんとでも?!
(英夫) ははは、外国の人。仕事上で、必要とあれば誰とでも、話せば何とかなると思っている。
     それが自分の仕事のスタイルになっていると思う。
     誠実な自分がいて、「自分のカードはこれです」と伝えることができるんだよね。
(裕子) 一番強く願っている願い事は、いつか必ず叶う、My wish comes true.
という信念ができたと思います。
(倫子) 体験がしっかりとみんなの背骨の一部になっているんだね。
     今日は話せてよかった。ありがとう。
     今の話を元に午後のプレゼンを構成するけど、
     時間的に全員に話してもらう余裕はないので、
     国際交流に行った年代ごとにかたまって立ってもらって、
     各年代ごとから代表で何人かに話してもらうことになると思います。
     それから友美ちゃんホスト訪問のスタンツをして、まとめようと思います。
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