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ラボ・テューターとして東日本震災で思ったこと 千葉・鍋島陽子
3月11日、家の前で立ち話をしていたときに大きな揺れが、ただならぬ事態であることを直感しました。翌日の土曜日、私の心配をよそに大勢のラボっ子はパーティの活動のために集まり、ろうそくを用意しながら4月29日の支部テーマ活動大会に向けての練習をしました。世の中どうなるんだろうという漠然とした大きな不安を頭の片隅に、とにかく今日のラボを一生懸命やるしかないと思い、大会までの発表をイメージしてがんばりました。
その後、合同練習の会場の確保に骨を折りながらも、練習を続けていましたが、結局、テーマ活動大会は中止に。落胆するより先に「では、どうするか?」が頭の中を駆けめぐり、3時間後に出した結論は、練習予定の21日に本番を設定しようということでした。大学4年のラボっ子にこの変更について連絡し、彼女から中高大生に伝わりました。19日には、ほぼ全員が最終練習に臨みました。そして21日当日。支部テーマ活動大会とは比べものにならない小規模の発表となりましたが.英語のみの『たぬき』をパーティ全体で発表することができました。テーマ活動大会実行委員テューターや、OB、保護者たちといったあたたかい観客に見守られての発表でした。
その昔、1959年9月25日の夜。名古屋市内に在住し高校3年生だった私は、伊勢湾台風に遭遇しました。木造の古びた一軒家にたたきつける雨と風、必死で雨戸を押さえていました。それでも太宰治にふけり、部活動を必要以上にやり続け、成績優秀な学友に嫉妬し、世の中を斜めに見るのがかっこいいと勘違いし、もやもやした日常を送っていた自分が、死の恐怖に直面し「いまはまっすぐに立つべき」と感じ、いまやるべきこととして受験勉強も力いっぱい取りくんでみようと決心したことを、今回の震災で思い出しました。
今年はいつも通り父母総会をやり、マザーグースの会をやり、テーマ活動大会出演を目標としてすすめていたラボでしたから、土壇場でどうするか追いつめられたテューターの真剣さがラボっ子たちにも伝わったのでしょう、子どもたちがとても生きいきしたいい発表となりました。その発表会に飛び入り参加した幼児をふくめて入会も5名という、思いがけない展開も。覚悟を決め、その困難をごく自然に乗り越えようとする、パーティの連帯が感じられた春となりました。
2009年1月東北支部総会にレポーターとして招かれて、自分のパーティのようす、目標などを語りました。聴いてくださった東北のテューターのあたたかさ、親近感、しなやかな強さを感じて帰ってきたことを、いま、思い出しています。
先日、東北支部のひとりのテューターとお話ししたところ、「放射能も地震も心配だけど、目標をもってラボをやっているラボっ子たちのために、自分はラボを続ける覚悟よ」と話していました。
ラボ・テューターは1979年の組織混乱をテューターの連帯ではねのけ、その後の事務局のがんばりとあいまって乗り越えてきた歴史があります。「つらい事実をいっぱい突きつけられても、なおかつ奮い立つ私たち」というのが本当のかっこよさだと信じたいです。
人は、困難な局面でこそ、人間の実力が発揮されると思っています。
ジョン・マンは各々のテューターのなかに生きているのでしょう。
がんばろうラボ。
(70年開設 中央千葉地区研) |
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