★一本のバラのために人は死ねるか |
09月06日 (月) |
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「星の王子さま」でPlay with meさんがたいへん気になさっていたことに、王子さまの死に方がありましたね。王子さまの星が1年たってちょうど頭のうえにきたとき、ふしぎな方法によって、自分の星に帰っていきます。
「王子さまの足くびのそばには、黄色い光が、キラッと光っただけでした。……一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした」
小さい王子は毒蛇に足を噛ませて、死んで自分のからだを軽くして(霊となって)、棄ててきた自分の星に帰っていきました。ここらへんは、子どものための文芸を遠く超えたむずかしい哲理の働いているところでしょう。帰っていく星に待っているものといえば、一本のバラだけ。美しいけれど、トゲを持ち、わがままで、あまり親しみのもてないバラ。そこには、1年にわたる星めぐりの体験を語りあうべき友だちなんていません(ラボの国際交流帰国報告会のようなわけにはいきません)。そう、そこには神もいなければ天使もいません。このあたりがほかのメルヒェンと決定的にちがう救いのないところで、なんともいえぬ寂しさを読むものに残します。星の王子さまの永遠とは何だったのか。
それがこのユニークな実存主義作家サン・テックスの求めた固有の永遠というものだった、…神なき世界への存在の超越というものなのでしょう。存在の果てにはすべてを棄て何も残さないという思想。真空のように透徹した世界へのあこがれが冷たく冴えざえと光っている。
「…しかしてわれ永遠に立つ、汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ」(ダンテ「神曲」地獄篇より)
すべての欲を棄てて永遠にはいるという潔い孤独。Neant! (Nothing!)
王子のこの絶対的な孤独と比較するものがあるとすれば、アンデルセンの「人魚姫」だろうか。愛する王子のために泡となって海にきえていく美しい人魚姫のすがたが印象あざやかに髣髴する。そしてまた、「幸福の王子」とツバメのあいだの無償の愛、澄みわたる自己犠牲の愛も。
【「人魚姫」関連】物語寸景〈2〉「人魚姫と赤い蝋燭と人魚」
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Re:★一本のバラのために人は死ねるか(09月06日)
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Play with meさん (2004年09月09日 01時38分)
”すべての欲を棄てて永遠にはいるという潔い孤独。Neant! (Nothing!)”
= 母のように「お返し」を求めない愛・・・星の王子様は一本のばらにそん
な愛を感じたのでしょうか?
息子や娘には惜しみなく愛を注ぐ母も夫には同じようになれるでしょうか?
星の王子様の一本のバラへの愛は本当に無償の愛なのでしょうね。
すごい!!
かないません。
バラの花と語り合うことに喜びを見つけていることでしょう。
きっと淋しくなんかないと思います。
ツンっとすましてはいるけれど”バラ”は王子さまの愛情をきっと嬉しく思っ
ていることでしょう。
小さな星で二人は幸せをかみ締めているでしょう。
義母を在宅介護した時、長年の葛藤は去り、保護者になって「この人の命は自
分なしでは守れない」と純粋に思いました。
きっと、王子様も昇華された愛で永遠にばらと向き合っていることと信じま
す。
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Re:Re:★一本のバラのために人は死ねるか-1(09月06日)
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がのさん (2004年09月09日 10時12分)
Play with meさん
>母のように「お返し」を求めない愛・・・星の王子様は一本のばらにそん
バラの花と語り合うことに喜びを見つけていることでしょう。きっと淋しくな
んかないと思います。小さな星で二人は幸せをかみ締めているでしょう。
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ひとは、どう死ねばいいのでしょうかねぇ。
きのうの新聞で、作家水上勉氏が亡くなったことを知りました。いまのわが国
の文学界で最大の人物といっていいのではないでしょうか。
いま自分の関わっている仕事のなかで、ノルウェーの児童文学作家、A.プリ
ョイセンについて書いたばかりでした。この人のことを書きながら、なぜなの
か、水上さんのことが頭のすみから離れませんでした。
ノルウェーの寒村の、土地を持たない貧しい農業労働者の家に生まれ、小さい
ときからあちこちの農場に雇われて小作人として働き、学校へも行かなかった
人。しかし、歌の才能とゆたかな想像力に恵まれていたことからやがて作家と
して認められ、「小さなスプーンおばさん」や「しあわせなテントウムシ」な
どの、幼児からの苦労をまったく感じさせない、おおらかな作品を書いた人で
した。かたや水上さんは、9歳で丁稚小僧に出されて苦労を重ねた人。そのへ
んでわたしのなかで結びついたものでしょう。「五番町夕霧楼」「越前竹人
形」「越後つついし親不知」など、初期に書かれた陰影深い作品がすぐに思い
浮かびますが、比較的最近のなかで読み直したもののなかに「一休」「良寛」
という作品があります。とりわけわたしはこの人の「良寛」が好きです。(つ
づく)
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Re:Re:★一本のバラのために人は死ねるか-2(09月06日)
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がのさん (2004年09月09日 10時14分)
Play with meさん《承前》
このところ、大型台風が日本列島をたびたび直撃、地震が頻発、浅間山が噴火
と、自然の怒りの前に日本は晒されていますね。吼え叫ぶ風の音を聞き、あ
っ、また地震、というときにパッと思いつくのは、水上さんがこの「良寛」の
なかでこだわって引いておられたことば――。
「死ぬ時節には死ぬがよく候」
これは山田杜皐(とこう)という文人なかまにあてた良寛さんからの見舞い
文。それは1828(文政11)年11月12日、いまの新潟県三条市あたりを中心に
おきたマグニチュード7.4の大地震で、死者34人、負傷者118人という大惨事
でした。
どうでしょうか、こんな心境になれますでしょうか。星の王子さま(サン=テ
グジュペリ)が神も天使もいない自分の星、喪われた祖国へむけて自分という
存在を無Neantにし、透明にして投げ込んでいったことと、良寛さんの、天と
地の始源の声に耳を傾けて自然との全一の魂を得ようとするこころ。方向は違
ってもめざすところはひとつのように思えるのですが。水上さんは、良寛さん
のこの弱さに徹した無抵抗主義をしきりに書いていました。
この良寛さんの観念に数週間囚われたまま、わたしは何も考えられない状態を
経験したものです。結局、どうしたか…。
すてはてて身はなきものとおもへども
雪ふる日はさぶくこそあれ
花のふる日はうかれこそすれ(西行)
という諦念のなかでまた起き上がるしかないわけですけれどね、わたしのよう
な無才の凡人には。さて、星の王子さまの、その澄み通った死は…。いろいろ
考えさせられます。
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Re:Re:Re:★一本のバラのために人は死ねるか-2(09月06日)
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Play with meさん (2004年09月10日 01時08分)
がのさん
>水上さんがこの「良寛」の
なかでこだわって引いておられたことば――。
「死ぬ時節には死ぬがよく候」
水上さんと言えば浮かぶのは雪国の陰鬱な作品を思います。
「良寛さん」をまた読んでみます。
自室でなくなられたとの事。最後まで作品と共に生きられたのでしょうね。
遅読なのでなかなか読めませんが、よい示唆をえて考える機会を喜んでいま
す。
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