★笑いの生理、狂言のおかしさ |
10月13日 (水) |
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能や狂言のおもしろさ、って何でしょうか。
むずかしいですね。
それを細かくくずして分析し、解説的に語っても、ちっともおもしろくない、というか、
わたしには興味がもてないですが、あえてひとつ挙げるとすれば、
ひょい、ひょいと思いがけない調子で飛び出してくる美しいことばにふれる、
そんな喜びではないでしょうか。狂言の演じられる会場でまず聞く
「ようこそ、ござったれ!」
こんな声をかけられるだけで、来てよかったと思ってしまう。
つい先ごろ、スミティさんが野村家三代による「うつぼざる」を観たと
このひろば@で報告してくれていることを知り、
背中を押されるような思いで、きょう、山本東次郎一門の
大蔵流狂言を観てきました。「節分」と「泣尼」と「秀句傘」の三曲。
「節分」は観たことがあるという方がおいでかもしれませんが、
いずれもめったに観ることのない珍しい曲ですね。
狂言の笑いはじつにシンプルです。アホらしいくらい単純で
荒唐無稽なすじの運びのなかに、
人間のだれもがもっているむごさ、ズルさ、愚かしさ、妬みといったものをとらえ
みごとに表現して見せてくれる。ですから、説明や解説は不要で、
笑いの型を分析し分類するようなことは学者先生や研究家にお任せすればよく、
わたしたちは、その作為のない自然な笑いの世界へ
自分をチャラチャラ飾る見栄や気取りの装身具をすっぽり棄てて
はだかのまま飛び込んで、好きなだけ楽しめばいいということになるでしょう。
ほんとうにおもしろいです、狂言は。理屈なくおもしろい。強いていうなら、
シンプルな笑いにこめて、人間の根元的、本質的なものへの真摯な問いかけが
そこにあることをピタリつかむことができれば、狂言はわかったといえるのかも知れません。
きょうの演目すべてについて述べるゆとりはありませんので、一例を。
『節分』に登場する鬼は、たしかにおそろしげな形相をしていますが、
これが今どきどこにも見られないくらい純情、醇朴です。
腹を空かして立ち寄ったある家では、ご主人が出雲大社におしごもりに行っていて、
若い嫁さんひとりが家を守っています。これがたいそうな美人ときています。
遠い異境、蓬莱の国からやってきたという鬼が、なんとまあ、この人妻にほれてしまう。
あの手この手で「伽」(とぎ)をしようと口説くが、
つめたく、「腹立ちや、腹立ちや」「出てうせい、出てうせい」と追い出される。
(「伽」の意味はおわかりですか。お伽噺の「伽」であり、夜伽の「伽」ですね)
そして、この世のものでないはずの鬼が、室町小唄(当時のはやり唄で、
恋をする若者がほれた女性に向けて歌ううた)を6曲もうたう。相当しつこい。
しょうもない唄である。ひとつだけ。
しめじめと降る雨も、西が晴るればやむものを。
なにとてか我が戀の、晴れやる方のなきやらん。
嫁さんもだんだんその気になったか、あるいは妙な欲が出たか、知恵をはたらかせて
ついに鬼をたぶらかし、その宝である「隠れ簔」「隠れ笠」「打ち出の小槌」を
そっくり奪いとり、ついに無一物にして鬼を退散させてしまう。
かわいそうな鬼。観るものは鬼のまぬけぶりを笑うわけだが、
それにしても、その必死さがなんともかわいげな鬼である。
『泣尼』についても、う~ん、スペースがないけれど、ちょっとだけご紹介したいなあ。
ヘタの長談義をするとされる法師が、めずらしく法話を頼まれる。
感動して泣きながら聞いてくれる聴衆のサクラとして、尼を抱きこむ。
老いた尼さんで、話のはしばしで泣いてくれればお布施の半分をやろうとの約束。
ヘタの長談義がはじまると間もなく、尼のからだが右に揺れ左に揺れだし、
感動してむせび泣くどころか、居眠りがはじまる。
そしてついには、コトッと倒れてそのままほんとうに寝てしまう。
法話を長々と語る僧と、それにはまったく関心のない尼のあいだにかよう空気が
絶妙な味なのである。みなさんに見てもらいたいくらい、おもしろかったですよ。
☆
狂言についてスミティさんの掲示板に書き込んだものの一部をここに
再録して紹介させていただきますが、次期ライブラリーは「笑い」を
テーマにつくられると耳にするなかで、みなさんにはほんとうに純良な笑いを
数多く体験していただきたく思っていますので――。
そしてその宝はみなさんのすぐ足元にあることに気づいてほしいと願っています。
「日本人の最もプリミティブにして最も洗練された笑い、
日本人の生理的感覚に合った笑いが狂言にあります。…狂言でも古典落語でも、
自分の自然な生理感覚にそって笑う、その経験をくり返し積むことが
大切だと思います。そこにしか本当の笑いはない、というか…。」
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Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ(10月13日)
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スミティさん (2004年10月13日 23時52分)
たった今、三本柱と柿山伏の本を見てたところでした・・・
1975年制作。30年近く前、万作さんも今の萬斉さんくらいのお歳
で、万之丞さんもお父さんの万蔵さんも。
これを西洋の人が見たらどんな感想を持つのかなと思いながら。
狂言は人間のさまざまな欲望 食欲、性欲、権力欲などを認めて、見事
にスマートに、明るく笑いにしている、すごいなあと今回あらためて思
いました。
ついでにあの舞台の構図。この衣装、この色、この位置。何百年の間守
られてきた「形」は、納得。「美」になっているんですよねえ。動かせ
ないなあ、と。
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Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ(10月13日)
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がのさん (2004年10月14日 17時25分)
スミティさん
>狂言は人間のさまざまな欲望 食欲、性欲、権力欲などを認めて、見事
にスマートに、明るく笑いにしている、すごいなあと今回あらためて思
いました。ついでにあの舞台の構図。この衣装、この色、この位置。何百年の
間守られてきた「形」は、納得。「美」になっているんですよねえ。動かせ
ないなあ、と。
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ありがとうございます。そうなんですね。狂言を観るたびに思うことですが、
狂言の世界にはへんな山っ気はありません。もったいぶった神秘性もなけれ
ば、政治性、宗教性もありません。すこぶる謙譲な庶民性、日常性のなかにあ
ります。あとに何も残らない純粋な笑い、というのでしょうか。決して、まわ
りくどい知性に訴えるようなものではなく、人それぞれの柔軟きわまりない情
調という近道を通って、じかにわたしたちのこころに語りかけるものであっ
て、そこへ導いてくれるのが「様式」なのでしょう。これを誤解して、神聖な
る舞台上で繰り広げられる特別な大演劇のように思ってしまうと、もう、ちっ
ともおもしろくありません。だって、そこは博物館ではなく、すぐれて今に生
きている人間劇の世界なんですから。
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Re:Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ(10月13日)
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スミティさん (2004年10月15日 08時29分)
だって、そこは博物館ではなく、すぐれて今に生
きている人間劇の世界なんですから。
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狂言って、読んだり聞いたりしたのでは、なかなかその面白さは分から
なくて、見たり、やったりする方がいいですよね。今回、高校の国語の
先生をお誘いして一緒に行ったのですが、私も高校時代、堅苦しい古文
で最初に出会うのではなく、本物を見たかったなア。
今、という時代の「笑い」
がのさん「エンタのかみさま」なんて番組、見ませんよね。若いお笑い
芸人の卵?がやっている。子供たちに人気の番組なんですが。結構、い
いセンスしてるのもあります。じっくりは見たことないのですが。
わかものは、大人をよく見ているのかも。
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Re:Re:Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ―1(10月13日)
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がのさん (2004年10月15日 21時01分)
スミティさん
狂言って、読んだり聞いたりしたのでは、なかなかその面白さは分から
なくて、見たり、やったりする方がいいですよね。私も高校時代、堅苦しい古
文で最初に出会うのではなく、本物を見たかったなア。
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そうでしたか、スミティさんにしても、教科書でふれる古典文学はつまらなか
ったですか。
教室を離れ、ラボをも離れて観た狂言に、思いがけないこころの解放とほかほ
かした愉しさを覚えたとして、さて、日ごろがんばっておられるテューターの
みなさんにお尋ねしてみたいことがあります。
たとえば、ご自身、「柿山伏」をほんとうに笑いましたか?
「三人のおろかもの」を生理の底から笑い尽くしましたか?
ラボ・パーティにあって、笑ってばかりいて英語のお勉強になるか、といえ
ば、…ならないでしょう。笑いなんぞ、人が生きるうえで何ほどのものぞ、と
いわれれば、…何ほどのものでもないでしょう。
しかしまあ、ご存知のように、ラボ・ライブラリーはなかなかうまくできてい
まして、上記のようなものもちゃんとはいっています。狂言、とまでは限って
いわないでも、その周辺のものに、もっとも自然な笑いの原質がある、いや、
人間の原質がそこにある、…なんて鹿つめらしく云おうものなら、さっそくみ
なさんに嫌われ、反発をくらうことになるのでしょうけれど。
でも、こうしたものを「教科書」にして子どもたちに教えこむことは、できる
だけご遠慮いただきたい。わたしたちが中学校や高校の教室で古典を教えこま
れたときと同じにしないでいただきたい。本来、わたしはラボのみなさんにそ
んなことを云う立場にはありませんが。
そう、「柿山伏」は無理に「教え」ないでもいいんじゃないでしょうか。「三
人のおろかもの」を、みなさんの洗練された知性で過剰につっつきまわすのも
どうでしょうか。子どもそれぞれのしなやかな情調をもってじかにふれてもら
えば十分。いいじゃないですか、英語教育につながらなくっても。(つづく)
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Re:Re:Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ―2(10月13日)
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がのさん (2004年10月15日 21時05分)
スミティさん《承前》
さまざまな課題に縛られ追いまわされている子どもたち、いつもいつもいい子
を演じることを求められている子どもたちが、ふっと自分のこころにウソをつ
かないひとときをもつ。それはかけがえのない時間じゃないでしょうか。加え
て、そのなかで、自然でゆたかな表現力、ひとに楽しく訴求する力の源泉を汲
みとってもらえるとすれば、それこそが、ラボ。
だめですか、そういうのは。
すみません、「エンタ…」というのは知りません。初耳です。テレビのお笑い
番組で時には見ることがあるのは「笑点」くらいでしょうか。NHKの「お江戸
でござる!」も以前は見ていました。江戸のいろいろな習俗を語っていた杉浦
日向子さんとちょっと面識があったことにもよるのですが、あれがおもしろか
ったですね。このごろ模様が変わってしまったようですが。
なるほど、そうしてみると、わたしの日常も笑いが足りていないようですね。
かわいそうながのさん!
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Re:Re:Re:Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ―2(10月13日)
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スミティさん (2004年10月18日 22時00分)
さまざまな課題に縛られ追いまわされている子どもたち、いつもいつも
いい子
を演じることを求められている子どもたちが、ふっと自分のこころにウ
ソをつ
かないひとときをもつ。それはかけがえのない時間じゃないでしょう
か。加え
て、そのなかで、自然でゆたかな表現力、ひとに楽しく訴求する力の源
泉を汲
みとってもらえるとすれば、それこそが、ラボ。
だめですか、そういうのは。
★お返事を書くのに少し時間が要るくらい、また難しいことを私に振っ
てくださって!!
上記については、まさにそういう場でありたいと思っています。
「恥の文化と罪の文化」なんてありましたが、自分の第一次感情を大事
に、それに向き合い、表現し、他者とぶっつける場でありたいと。一人
称で語ること。「私はこう思う、こう感じる」低学年は言葉でなくてい
いからナマの感情を出せる。日本社会って、外側からの規制、外からの
価値判断で動かされる事が多くて、自分は今どう思っているのかわから
なくなっている人も多い気がします。
柿山伏、わたしはおっかしーとおもいますよ。でも、そう思ったのは狂
言の舞台で見てから。泉流でしたが。がのさんが紹介してくださったも
のも見てみないとわからないなー 本はあるけど、と思いました。
三人のおろかもの、子供たちとやると面白いですよ!!まさにプリミテ
ィブにして底抜け。面白さも、子どもに教えてもらっている気がしま
す。
★ちょっとシビアな笑いを
私の妹が養護老人ホームで働いています。「やり切れなんじゃない」と
いうと、お年寄りとのやり取りの中で、それを如何に笑い飛ばしていく
か、そうしないとやってられない。だそうです。
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Re:Re:Re:Re:Re:Re:★笑いの生理、狂言のおかしさ―2(10月13日)
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がのさん (2004年10月19日 10時09分)
スミティさん
>柿山伏、わたしはおっかしーとおもいますよ。でも、そう思ったのは狂
言の舞台で見てから。泉流でしたが。
三人のおろかもの、子供たちとやると面白いですよ!まさにプリミテ
ィブにして底抜け。面白さも子どもに教えてもらっている気が。
★ちょっとシビアな笑いを
私の妹が養護老人ホームで働いています。「やり切れなんじゃない」と
いうと、お年寄りとのやり取りの中で、それを如何に笑い飛ばしていく
か、そうしないとやってられない。だそうです。
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「柿山伏」の面白さについては、専門家ならおそらくいろいろ挙げて論ずるこ
ともできるのでしょうが、わたしなんぞはその点、ズブの素人、そういうこと
にはあまり興味もなく、狂言は、ただボーッと見て、まわりの人にちょっと気
をつかって極力バカ笑いは抑え、鼻のまわりで笑って楽しむ程度。何もあとに
残らないですが、それでもすごく解放された感触に満たされて帰ることができ
ます。ただ、これをラボのテーマ活動にしようというとき、どうするんだろう
な、困るだろうな、と思ってしまいます。ことばも違う、動きもちがう。こう
いうものを子どもたちはほんとうに楽しめるだろうか、ということと、日常言
語を離れたああいうことばと、それに対応する英語ですが、ナチュラルな英語
をめざすラボの教育のなかで、あれを「英語」と呼んでいいものかどうか…。
わたしにはわかりません。あれも英語なのよ、ということでいいのでしょう
か。…ということがあるものですから、狂言を前にしては、テューターさん持
ち前の高度の知性をこの際、過剰に効かせないほうがいいのではないか、「教
育」をしないほうがいいんじゃないかと、曖昧に逃げをうつようなわけでし
て…。
特別養護老人ホームにはヴォランティアでいつも出入りしています。体力も知
力も衰えた人びとに自然な笑顔を呼びもどしてもらうのが役割のようなもの
で、こんなときにいちばん有効なのは、ラボ活動を通じて体得してきたさまざ
まなKnow Howと、ものごとを明るく表現する本能のようなもの、そんなこと
にこのごろ気づいています。ラボの子どもたちの明るさ、テューターさんの快
活さを施設に注ぐことができたらいいのにな、といつも思います。おカネには
まったくなりませんが、それこそが地域活動なんじゃなかろうかと。
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