多文化社会に生きるということ

村田 知美

小学校教諭

ことばと文化は切り離せないということをテーマ活動から学んだ

 友だちに手を引かれて,何気なくのぞいたラボ・パーティ。ドアを開けると,テーマ活動『すてきなワフ家』のまっ最中で面食らいました。劇のようだけど小物も衣装もなく,すべてを人間が表現していました。見たことのない風景でしたが,だれもがとにかく楽しそうで,その日のうちに入会を決めました。

 中学生の頃は勉強に部活動にと,学校という狭い範囲での忙しい毎日に息苦しさを感じていましたが,ラボはなんでも安心して言えるサードプレイスでした。学校では先輩でも,ラボでは「仲間」。多感な時期にどれだけ救われたか知れません。

 思い出に残っているテーマ活動は,高校1年生のときの『ドリームタイム』です。日本の片隅にいながら心はオーストラリアにあるなんて,いま思い返してもとても豊かでぜいたくな体験です。そのように英語を身をもって体験していたテーマ活動。そこで覚えたセリフは,その後に出会った英語圏の友人と冗談を言いあうときに使ったりしました。

 ことばと文化は切り離せないものです。どの言語も,認知のしかた,ものの考え方,受け取り方から,歴史,文学,あらゆるバックグラウンドがあってはじめて通じる部分があると思います。単語や文法を形どおりに学んでいるだけでは感じ取ることのできないそうした部分に,物語を通じてふれていることに気づき,そこから英語を学ぶことが楽しくなりました。

仲間とさまざまなテーマ活動を体験した子どもの頃
仲間とさまざまなテーマ活動を体験した子どもの頃

 高校1年の夏には国際交流でオーストラリアに行きました。ホームステイでは,当たり前ですが通訳してくれる人はいません。でも着いたその日から,英語で話さざるを得ない状況です。私は間違うことをかなり恥ずかしく思う性格でしたが,そんなことも言っていられません。ホストファミリーのだれもが拙い英語に耳を傾けてくれました。それから一ヶ月間,だれもが私の英語を笑うことなく,自然にコミュニケーションしてくれました。ホームステイが終わる頃には,とにかく自分からコミュニケーションをとる姿勢が身についていたと思います。

 またホストの女の子が通っていたのは中高一貫の女子校で,白人,黒人,中華系,アラブ系,いろんな人種が混ざりに混ざっていました。まだまだ混乱や葛藤もあるとは聞きますが,「移民の国とはこういうことか」と実感し,高校生だった自分には大きな衝撃でした。

高校1年でオーストラリア交流に参加
高校1年でオーストラリア交流に参加

日本人と外国人をつなぎたい

 ホームステイを終えて地元の浜松市に戻ると,それまであまり気にしていなかったのですが,日本にも外国人が増えてきていることに気づきました。駅前で集まって座り込んでい外国人は,日本人と関わっているようには見えません。日本人はあまり外国人を歓迎していないような空気も感じます。自分がホームステイ先で受け入れてもらったような感覚,いたるところで拙い英語を聞いてもらった温かさを思い出すと,日本も外国人にとって居心地の良い場所であれたらと願わずにはいられなくなりました。1989年に「難民及び出入国管理法」が改正され,日系人は労働できる在留資格を得やすくなりましたが,肌で感じた空気はじつは根の深いものだと知ったのも高校生の頃です。

 日本に住む外国人と関わり,日本人と外国人をつなぐ働き方がしたいと考え,大学では日本語教育,異文化間教育を専攻。大学では,「言語を教えることはドアの鍵を渡すことに似ている」という楽しさを感じました。それと同時に,特定の言語を使うよう強要することは相手のアイデンティティを侵害すること,どの言語にも文化にも優劣はなくただ相対的に違うだけだということを学びました。ラボで感じてきたことが腑に落ちたような気がしました。卒業論文では当時,急増していた地元のブラジル人学校を周り,その必要性や課題をまとめました。

経験を生かして小学校の教員に

 さらにはブラジルの文化やポルトガル語を学びたいと思い,大学卒業後はJICAの青年海外協力隊日系社会ボランティアに参加。ブラジルのサン・パウロ州インダイアツーバ市で日本語教師として2年間活動しました。日系2世のなかには親の母語である日本語をある程度は聞き取れますので,継承する目的で日本語教育を受けている人もいましたが,3世,4世は外国語としての日本語教育を受けているのです。現地では日系ブラジル人のみなさんにも,とても温かく受け入れていただき,日本も外国人に温かい場所にしていけたら,という思いはますます強くなりました。

 帰国後,外国にルーツをもつ子どもや大人の教育支援や指導を経て,多文化ソーシャルワーカーの仕事に就きました。ポルトガル語の通訳として,文化の違いによるトラブルにも対応しました。「外国人」であり「労働者」である彼らを取り巻く環境は厳しいものがあります。ましてその子どもたちは,自分で望んで来日したわけではありません。年齢相応の学力が身につけられなかったり,母語保持の機会がなかったり,母語も日本語も充分に使えないダブルリミテッドになっていったりと,様々な困難に直面しています。高校進学率の低さも問題です。

 そのような経験をした後,現在は公立小学校で,在籍する児童の半分以上が外国にルーツをもっている子どもと,日本人の子どもが一緒に学ぶ教室で教員をしています。日本語が話せないからとバカにしないで,日本の子も他の言語にふれてみると,外国にルーツをもつ子もまた日本語を学ぼうとします。ルールは「人の嫌がることはしない」ということだけです。公教育のなかでどれだけできるのか,小さな学校の小さな教室で模索しています。

外国にルーツをもつ子どもも多く,まさに多文化共生の教室で教える
外国にルーツをもつ子どもも多く,まさに多文化共生の教室で教える

ラボで身につけたことを子どもたちに伝える

 どちらかといえば引っ込み思案だった私が,英語やポルトガル語で自分からコミュニケーションをとるような人間なるとは,私の親は思っていなかったようで,「ラボってすごいね」とつぶやいていました。
 テーマ活動では耳や発音がよくなったのはもちろんですが,丸暗記していた英語のセリフを使って,外国の人と冗談を言いあうようなこともできるようになりました。また,どの国,どの地域の人も,異なるところはあるけれども人間としては基本的に同じという感覚も,ラボを通じて自然に身についたと思っています。ほかにもことばや身体で表現して伝えることのたいせつさ,人と関わり体験を共有する楽しさは,ラボで学んだと思っています。

 これらのことがいまの自分の基礎をつくっていて,これからも教室で子どもたちに還元していきたいと思っています。

だれにとっても居心地の良い社会を

 2019年4月,入管法が再び改正され施行されました。これからは日本に住む外国人も多くなることが予想されます。外国人労働者は労働者である前に生活者ですから,教育や福祉といったソフト面でのインフラを整備する必要があります。そうした制度面と表裏一体なのが,受け入れる姿勢だと私は考えます。

 ルーツにこだわらず差別をしない,それぞれの個性を切らない。だれにとっても居心地の良い社会であること。子ども時代にそれがあたりまえであると育った人たちが,少し先の社会をつくっていけるように,微力ではありますがそんな一助になれたらと思っています。

お話を伺った方

村田 知美(むらた ともみ)

 1981年,静岡県生まれ。小学校教諭。

静岡県・中村文江パーティ