
編集者としての感覚はラボで自然に身につけた
岡田 力(おかだ ちから)
朝日新聞「Journalism」編集長
今回は,ラボ・パーティOBで,朝日新聞が発行する月刊誌「Journalism」の編集長である岡田力氏に寄稿していただきました。
記者として海外での取材経験も豊富な岡田氏は,子どものころのラボ・パーティの活動で語学とともに,「国際的な肌感覚」や「偏見を持たずに人と接すること」を身につけてこられたそうです。(2016/5/16)
時代を読み解く雑誌作り
朝日新聞が発行している「Journalism(ジャーナリズム)」という月刊誌の編集長をしています。この雑誌はメディアの専門誌で,主な読者はメディア関係者やメディア研究者、そしてメディアを目指す学生です。雑誌のキャッチフレーズは「メディアの視点で激動の時代を読み解く」。編集部としては,こうしたメディア関係者だけでなく,一般の人にも読んでもらい,時代を理解する一助になるような雑誌を目指しています。海外にも目を向けています。アメリカ,ヨーロッパ,アジア,中東の専門家に定期的に書いてもらっていますし,海外のライターに原稿を依頼することもあります。
この雑誌の目玉は特集です。毎月,時事のテーマを取り上げ,第一線のジャーナリストや研究者にさまざまな視点から論考してもらっています。私は昨年9月から編集長を務めていますが,この間,「若者はこの国の政治を変えられるか?」「震災5年,災害報道を考える」「メディアは権力監視ができるのか」などをテーマとして取り上げてきました。
この特集テーマの決め方ですが,毎月,企画会議を開きます。私は新聞社の社会部 (事件や事故、社会現象などを取材する部)に長くいたのですが,8人の編集部員たちは,政治部,経済部,出版部門など違う部署の経験者です。こうしたメンバーがそれぞれやりたいテーマと,書いて欲しい筆者名をあげるのですが,経歴はバラバラなのに,不思議なくらい問題意識は似通っています。これを一つのテーマに練り上げるのが編集長の仕事のようなところがあります。
若者と政治を考えた号では,SEALDsメンバーの千葉泰真さんに「この国の未来に絶望しかなかった僕たちが『民主主義ってこれだ!』とコールするまで」という文章を書いてもらいました。雑誌発行後,千葉さんがSEALDsのメンバーを集めてくれて,話をする機会がありました。彼ら,彼女らに共通点を聞いてみたところ,多くが東日本大震災でのボランティア活動を経験していました。震災が若者の意識を変えたのではないかと思いました。この延長線上で,次ぎに震災を考えました。
私たちの雑誌の目的は「時代を読み解いて,読者に伝える」です。ですから日々,「いまはどういう時代か」を考えています。最先端のネット技術者を訪ね,多くの研究者の論文にも目を通します。でも,一番大切なのが肌感覚ではないかと感じています。この肌感覚は中学,高校時代,ラボの活動の中で自然に身についたのではないかと思っています。
ホームステイで知ったアメリカの現実
1975年 ネブラスカ州ホームステイ時の一枚 ラボでの思い出を二つお話しします。1975年,当時,私は中学2年生でしたが,ラボの国際交流ブログラムで1カ月間,アメリカのネブラスカ州にホームステイをしました。アメリカの中西部の農村地帯で,日本から来たというだけで大歓迎してくれました。
私のホストファミリーは家族全員がそろっていましたが,友人のホストファミリーのお兄さんは長く留守をしていました。家族から「キャンプに行っている」と聞かされたそうです。友人は,夏休み期間中ですから,どこかサマーキャンプに行っているのかと思っていたのですが,お兄さんは徴兵に取られていました。この年の4月にサイゴンが陥落し,ベトナム戦争が終わったばかりでした。アメリカには当時,徴兵制がまだあったのです。
もう一つはラボが韓国と国際交流を始めたときでした。韓国に行った先輩たちから聞かされたことですが,当時,韓国は軍事政権であったことや,朝鮮戦争はいまだ停戦状態で,ソウルの町は臨戦態勢であることなどを知りました。日本がいかに平和であるか。自由の象徴のようなアメリカや身近な韓国ですら,平和を求めても得られない人たちがいることを知りました。
変な競争も偏見もなかった
肌感覚の大切さを書きましたが,もう一つ,記者や編集者に大切なものがあると思っています。それは「どんな人に対しても偏見を持たず,同じ視線で話を聞き,考える」ということです。国家元首であれ,市井の人であれ,同じ人間がという感覚です。これもラボで身についた気がします。
小学校1年生から高校2年生までラボで活動していました。ここで感じたラボという空間は,学校とも違いますし,塾とも違います。学校というところは,特に高校がそうなのですが,学力という尺度で人を分断してしまい,同質の人間ばかりが集められます。塾も似たようなところがあります。ところが,ラボには多様性がありました。有名進学校の人もいれば,やんちゃな高校生もいました。学校では決して混じり合わないようなメンバーが,ラボでは普通につき合えました。変な競争も偏見もなかったからだと思います。
ラボでは,語学とともに「国際的な肌感覚」や「誰もが同じ人間として認識できる」ということを子どものころから実感できたことが財産でした。こうした記者や編集者としての基本はラボを通じて自然と身につけたものだと思っています。
















