
ラボ・パーティの魅力
―共鳴/共振からはじまることばの学び
横田 和子(よこた かずこ)
目白大学人間学部専任講師 馬頭琴奏者
馬頭琴奏者であり,目白大学の児童教育学科で言語文化教育,国際理解教育を研究しておられる横田和子先生に,ラボ50周年記念「世界の歌とお話のつどい」(ラボ東京支部主催,5月8日)をご覧いただきました。この「つどい」では,幼児~大学生年代のラボ・パーティの子どもたちが世界の物語を英語劇にして表現するワークショップや,子どもたち自身による演出・出演の英語劇の発表などがありました。
大学で,ことばと国際理解を学びの軸に,違いを生かしあう学びの場づくりと身体性などをテーマに実践,研究されている横田先生の目に,ラボ・パーティの活動はどのように映ったのでしょう。「世界の歌とお話のつどい」をご覧になった感想と,馬頭琴奏者としての絵本『スーホの白い馬』への思いなどをお書きいただきました。
柔らかなリーダーシップが育っている
先日,ラボ・パーティ50周年記念事業「世界の歌とお話のつどい」を見学させていただきました。ワークショップと発表会からなるプログラムで,子どもたちが一日中,からだごと,ことばととっくみあい,ぶつかりあったりしながら,全身で表現を味わい,試みる場となっていました。
発表会では,幼児中心の『かぶ』,小学生中心の『西遊記』,と徐々に演者の年齢があがり,やがて高校生によるアメリカ先住民の長老のことばのパフォーマンスがあり,音楽や民話との出会いが,螺旋的に設計されていました。舞台には年齢の違う子どもたちが出演しているのですが,プログラム全体はまるでひとつの共同体の子どもたちの時間的な発達を一望するようでもありました。
また,当日は一般のお客さんも多くいらしていたようですが,ワークショップをファシリテートする子どもたちの動きには目を見張りました。そこにいるのは上意下達式・命令調のリーダーシップではなく,小さな心遣いのできる,全体に奉仕するサーバントリーダーの卵たちでした。命令調のリーダーシップのもとでは,声の大きい人の意見が通りがちです。また,形だけのリーダーで,実際はその背後に糸を引くおとなの代役を演じているに過ぎないリーダーもいます。しかし,そこには形だけのリーダーシップではない,ごく自然に育まれたリーダーシップがありました。ラボの子どもたちの,この柔らかなリーダーシップはなんなのだろう,と感じました。また更にそれを遠巻きに支えるおとなたちの寄り添い方にも,現在の公教育が学ぶことがたくさんあるのでは,と考えることしきりでした。
ことばを学ぶには,身体的,感覚的な要素がだいじ
詩人の上田仮奈代さんのインタビュー詩の手法を応用して、今まで1000人以上の人に詩を作ってもらいました。写真は上海での大学での実践です。素晴らしい詩がたくさん生まれました。 学校を中心とした言語教育の現場では,ことばを学ぶにあたって,身体的あるいは感覚的な要素をまだまだないがしろにしているように思います。たとえば授業のすべての時間,机と椅子,教科書とノートが必要なのか,先生が黒板の前に立つ必要があるのか。小学校低学年くらいまでは,机と椅子をどけて,のびのび動けるスペースを用意するところから,国語教育も外国語教育もデザインしてはどうかと思います。絵を描いたり,歌ったり,踊ったり,ときには学校を飛び出して散歩するのもよい。ひとりでできることをあえてひとりでやらず,わざわざ他者と協働しながら進めていく。机と椅子,ノートと鉛筆が悪いわけではありませんが,それらが全ての前提になってしまうと,ときにはそれらが協働的な学びを疎外するように思います。
考えてみると,ラボの活動には,私が今あげたような点が実現されているような気がします。そうした場で,また音楽や物語という芸術に触れるなかで,より生き生きとことばを育む土壌が豊かになることは,ラボの子どもたちが実証済みでしょう。
他者に耳をひらく人間を育てる
ラボではテューター(先生)が日本人であることも,偏ったネイティヴ信仰に走らないという意味で重要だと思います。英語が多様であることは世界では当然であるにもかかわらず,残念ながら日本のいわゆる語学産業は白人中心の英語幻想を消費しているといわれます。仮に,語学を消費するのだとしても,賢い消費者にならなければ,多文化共生も絵に描いた餅に終わるでしょう。
また,ラボの活動は,「聴く」ことをだいじにしているのだろうと感じます。これだけの表現のためには,「聴く」ことが十分なされていなければならないはずです。しかし,それは表面的なスキルとしてのリスニングではなく,他者の声に耳を傾け,協働に向かうクリエイティブリスニングであり,それは相手が何語を話す人であれ,他者と向き合う基礎的な能力です。能力というより,育ちのようなものかもしれません。内側からの促しによって聴くことのできる,他者に耳をひらく人間を育てること。外国語学習は,まさに意味のわからない他者に耳を傾けようとする行為ですが,ラボはそのような「人の育ち」そのものをまるごと支えているのではないでしょうか。
『スーホの白い馬』と馬頭琴について

愛馬です。といっても、最近あまり練習できず・・・
かつてモンゴルに留学した経験から,つたないながらも馬頭琴を演奏しています。そのおかげで,小学校を中心に出前授業を20年近く行ってきました。以前,静岡県のラボ・パーティにもおじゃましたことがあります。演奏会の対象は低学年,とりわけ小学2年生が多いです。子どもたちは物語と音楽をシンクロさせることが大好きです。音楽がかかるとしみじみ聴く。その後は,モンゴルやスーホの世界への質問で教室は沸騰します。20年やっていても,いつもどこかではっとさせられるシーンがあります。たとえば先日も都内の小学校で「『おまえには,銀貨を3枚くれてやる』って殿様の台詞,金貨じゃないんだよ,銀貨だよ,殿様なのに!」と子どもが指摘したというお話を先生に聴き,うならされました。
またラボでも,5歳児のお子さんが,赤羽末吉の絵をみて,白い馬へ矢を放つ家来達のなかで,「ひとりだけ迷っているひとがいる」,という意見があったとうかがいました。おとなが気にもとめないこと,気づかず通り過ぎてしまうことを,子どもたちだからこそ気づくことができる。子どもはおとなの理解を超越した,ある種のdivinity(神性)をもった存在だということに,音楽や絵画を通して気づくことができます。近年は,国語教科書の挿絵が赤羽末吉のものではなくなりましたが,私が演奏するときは,できるだけ赤羽末吉の人生にも触れるようにしています。ラボでは,赤羽末吉の絵本をそのまま英訳していますから,この絵のもつ普遍的な力を,子どもたちが多角的に,まるごと味わう一助になっていると思います。

ピアノ(小林恭子),お箏(武藤祥圃),馬頭琴とのコラボレーションでコンサートを行いました。
















