物語論という観点からラボ・パーティの実践を観察する

柳瀬 陽介

京都大学国際高等教育院附属国際学術言語教育センター教授
英語教育学

 現在の私の研究主題の一つは「物語」ですが,その関心から,英語と日本語で語られた物語を子どもたちが協働的に解釈して演ずる実践を行っているラボ・パーティの実践を観察しました。ここではその観察をまとめ,そこから考えたことを少し述べます。

試演(物語を英語と日本語で演じる)と対話

 ラボ・パーティの活動では物語が題材となっていますが,物語は絵本で視覚イメージ豊かに,かつ,英語話者と日本語話者の俳優が交互に英語と日本語で録音しているCDで聴覚イメージ豊かに提示されています。私が観察した教室ではシェイクスピアの 『夏の夜の夢』を使っていましたが,この絵本とCDの芸術的な質は高いです(絵本は以前にその他の絵本を何冊か見せていただいたことがありますが,かなり現代絵画的で斬新な表現を使ったもの(たとえば『ピーター・パン』)などもあり,「子どもだまし」とは対極のところにあることがわかりました)。ラボ・パーティに参加する子どもたち ━━といっても幼児・小学生だけではなく,中高生や大学生にまでいたる幅の広い年齢集団━━ は,各家庭で絵本とCDを何度も視聴しそこで視覚的・聴覚的な感覚を得てから教室に来ます。教室では配役を決めた後,CDを流しながら集団でその物語を演じます。初期段階ではCDで聞いた日本語と英語をうろ覚えの場合もありますが,それはそれとしてCDの音声と音楽の流れに合わせながら演じてゆきます。演じる場合の最初の基盤は,絵本とCDから醸成された感覚・イメージです。舞台装置も衣装もない中での演技ですので,身体表現は抽象的というか象徴的なものであることも多いです。

 私が観察した日は,『夏の夜の夢』を始めて間もない頃で,「まずは一度やってみよう」ということでCDを流しながら全員で試演(物語を劇のように演じる)してゆきました。試演したら円座になって全員で対話をします。「演じてみてどう感じたか」「このように演じた方がよいのではといった新しいアイデアはないか」と全員で語り合います。この日はこのような,試演と対話が三回繰り返されました。

 以上が概況説明です。以下,私が感じたこと,考えたことを書きます。

 試演では,子どもが物語に即して日常生活では決して口にしないようなことばを,同じく日常生活ではまず言わないような口調で語ります。その試演を終えた後の対話では,物語を演技で身体的に・立体 (3D) 的に経験したことも手伝ってでしょうか,台詞の文字通りの意味の背後にある細部についての問題提起などがされます(たとえば,「この登場人物が出てきた時に,森の木々はどんな反応をするだろうか」)。あるいは物語の喚起的な言語 (language of evocation) ━━さまざまな想像力の発揮を促す表現━━ や絵本の抽象的表現 ━━映画と比べるなら,はるかに具体的情報が描かれていない表現━━ によって,子どもは大胆な問いかけもします(たとえば「妖精って指先ぐらいの大きさなのだろうか,それとも「巨人」ぐらいの大きさなのだろうか? その二つの大きさで森の様子がどのように変わるかやってみないか」など)。子どもたちは,物語を身体で実感し,その実感に基づき物語を解釈してゆきます。物語だからこそ子どもは日常的な自分から離れた実在性の経験ができるのだともいえましょう。

対話の場

 この日の語り合いは,小学生から大学生までの幅広い年齢層の集団で行われました。私が見た教室では,大学生1名,高校生2名,中学生2名,小学生9名でした。当然,年長者の方が経験豊かでいろいろな知識・知恵も兼ね備えているのですが,司会進行役も含めて年長者は決して自分の意見(「ここの解釈はこうあるべきだ!」といった自分なりの思い込み (assumption) )を押し付けません。もちろんそうだからといって自分の意見を述べないわけではないのですが,述べてもある時点では大学生の意見に対して小学生が「それって普通,屁理屈って言わん?」などと反論されているなど,年長者の発言も権威的・抑圧的とは程遠いものでした。そうやって誰の意見・思い込みも,絶対肯定することも絶対否定することもせず,決めつけずに対話を続けてゆくと,小さな子どもからも本当に面白いアイデアが出てきたりします。

 そのような驚きを何度も経験している年長者(大学生)は,実践後の私との語り合いで,「僕は自分の意見をぜったいに通そうなどとは思いません」と述べていました。また,高校生・大学生とテューター(=ラボ・パーティでの指導者)との最後の話し合いの中では「『決める』という表現を使うと,子どもたちは物事が決まったものとして思考を停止してしまうからできるだけ使わないようにしよう」といった反省も出ていました。ボーム(David Bohm)の対話論でも「決めつけないこと」 (to suspend) が対話の重要な原則として上げられていますが,ラボ・パーティにもそのような対話の文化が見られました。

 だからといってこの対話がいつも理想的に進んでいるわけではありません。小さな子どもは,関係のない茶々を入れたりします。その状況がひどくなると年長者は「ねぇねぇ,人の話は聞こうよ」などと対話関係に戻そうとしますが,学校の(一部の)教室のように「こら,そこ。静かにしなさい!」と権威・権力者的に叱責したりすることはありません。同じように興味・関心・意欲をもっているわけでもない参加者のすべてが,誰もその存在を否定されずに語り合おうとするこの文化はとても民主主義的です。創造的発見が生じる土壌に民主主義的文化があるということ,そして民主主義的文化こそは人権尊重の文化であり全体主義的支配を防ぐ文化であるということからすれば,ここでの語り合いは非常に重要な文化実践であるようにも思えます。

多様性の統一

 「対話の場」という観点からすると,ラボ・パーティの教室では,一方で想像力の多様性を促進しながら,他方でそれを一つの舞台表現にしてゆくという,「多様性の統一」を行っている場のように思えます。言うまでもなく,多様性を発展させながらもそれを一つの形にするということは,現在,多くの企業や機関が試みていることです。多様性を尊重しない組織は,多種多様な交流が前提となったグローバル社会に対応できませんし,多様性を野放しにして混乱するままの組織は自己崩壊してゆきます。ラボ・パーティの実践の意義は現代において大きいと思います。

これはブログ「英語教育の哲学的探究3」から本人の許可を得て転載(抜粋)したものです(https://yanase-yosuke.blogspot.com/)

お話を伺った方

柳瀬 陽介(やなせ ようすけ)

1963年生まれ。
京都大学国際高等教育院附属国際学術言語教育センター教授。博士(教育学)。専門は英語教育学。

 著書に『成長する英語教師をめざして——新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』(共編著,ひつじ書房,2011年),『英語教師は楽しい——迷い始めたあなたのための教師の語り』(共編著,同,2014年),『小学校からの英語教育をどうするか』(共著,岩波ブックレット,2015年),『危機に立つ日本の英語教育』(共著,慶應義塾大学出版会,2009年),『学習英文法を見直したい』(共著,研究社,2012年),A new approach to English pedagogical grammar: The order of meaning (Routledge, 2017) ほか。
ブログ「英語教育の哲学的探究2」を運営。学習者の身体実感を重視した英語教育を提唱している。