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ライブラリーのキャラクター その5 |
06月18日 (金) |
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リクエスト第二弾にこたえて玄奘三蔵、三蔵法師のはなし。
玄奘はもちろん実在の僧だ。それも天才といってよいほど優秀な僧である。
この玄奘のインドへの取経の旅を描いたのが、ご存じ「西遊記」だ。物語のはなしはあとで書くとして、玄奘のことわさにだらだらと書く。
玄奘の生まれは600年と602年の22説があるが、まあいい7世紀はじめの人であることはまちがいない。玄奘は唐の都である長安(現在の西安=シーアン)で仏教を学んでいたが、冒頭に書いたようにすげえ優秀で、海綿のような吸収力と海のような探求心はとびぬけていたらしい。
しかし当時の中国の仏教はとにかく資料がなく、勉強すればするほどわからなくなる状況だった。それをのりこえるには、本場のインドに留学して学び、さらにそいつが資料、すなわち教典をもちかえる必要があった。若き僧たちはこぞって留学願いをだすが、すべて皇帝に却下された。玄奘も3回ほど嘆願をだしているがとうぜんNG。唐の国は618年に成立し、それから宗にほろぽされるまで、約300年さかえるが、玄奘たちがいらいらしていた629年ごろは国ができたばかりで、対外治安は不安定で、国境付近ではまだ小競り合いが日常的にあったのだ。したがって、優秀な若い頭脳を国外にだすなどとんでもないことだった。
しかし玄奘はとうとうおきてやぶりの密出国をする。つかまれば、死罪だ。馬にのっていったという説もあるが、白馬ではなかったらしい。
はじめは同行者がいたようたが、都からはなれるとすぐにひとり。手配所もまわっていたが、関所ごとに奇跡的な援助者があらわれた。玄奘は昼間は寝て、警備の手薄な夜に歩くという無謀なスケジュールで、なんとか西の境であるまでたどりついた。ここが有名な玉門関だ。深夜、黒々と横たわる関と頃わ大きく迂回して玄奘は国外にでる。ゆくてに広がるのは、おお、荒涼としたタクラマカン砂漠だ。「天に飛鳥なく、地に走獣なし」といわれた、おそるべき砂と風と炎熱の空白地帯だ。
凝る間は50度近い灼熱地獄、夜は零下にこごえる。トルファン盆地などはなんと海抜マイナス154メートルで、ほとんどるつぼ。陽炎ゆれるボグド・オラの真っ赤な山肌はまさに火炎山。
玄奘は自分でこの旅を記述してはいない。弟子たちがのこした「大唐西域記」からわれわれはその足跡をしるばかりだ。玄奘はとにかく、タフであり、またカリスマ的魅力をもっていたようだ。国境をでてからはことばも通じなかったはずだか、玄奘はたちよったとちゅうの国ですべて尊敬され、ぜひどとまってほしいと請われている。かれは、ラボっ子のように、心がつうじればコミユニケイション可能だという確信をもっていたようだ。漢民族である玄奘は身長180センチ以上,なかなかの美男子で、意志のみなぎる目と滋養熱的な語りは、出会った人をすべてとりこにしたという。西安市の博物館には玄奘の肖像画が軸になっているが、迫力あるいい男だ。
25歳(29歳説も)で唐を出た玄奘は、2年かけてインドにだとりつく。そしてた、インドほぼ全域を巡礼しているからすごい。そしてナーランダの学林で6年間みつちりと学んだ。ここは、当時、世界最高の仏教研究センターでいつも数千人がまなんでいたという。しかし完全に卒業できたのは、10人ほどで玄奘はそのひとりとなった。
641年ごろ玄奘は帰国の途につく。周囲の先生や仲間はひきとめたが、学長は「仏教はいずれインドでは下火になる。これんらは中国やもっと東の国の時代だ」と帰国をすすめた。たしかに、インドの宗教はその後はヒンドゥーが主となり、仏教は中国、そして日本や東南アジアで発展する。
帰り道もえらい苦労するが、問題は入国だ。犯罪者である玄奘は逮捕されてしまうのか。玄奘は唐に近づくと皇帝に報告書をおくる。帰ってきた返事は帰国をゆるすものだった。密出国から16年,玄奘は大量の経典とともに人びとの大歓迎なか長安に帰ってきた。貞観19年(645年)、正月五日、玄奘45歳の男ざかりと記録にある。
玄奘のすごそはさらにここからだ。帰国後、皇帝に還俗してブレーンになってほしいとたのまれるが、玄奘は固辞して次の大仕事にかかる。それはサンスクリット語で書かれている経典を中国語に翻訳することだ。650あまりの教典を玄奘は20年かけて翻訳する。すげえ。ご存じの「般若心経」も玄奘の翻訳だ(耳なし芳一のからだにかいた経はこれ)。
仏教の経典は大きくわけて3つにわかれており、そのすべてを修めた僧は
○○三蔵とよばれる。しかし、ただ三蔵、あるいは三蔵法師とだけよばれるのは玄奘しかいない。
さて、「西遊記」はこうした玄奘の旅を仏教説話としてお寺で語ったのがはじめである。ようするに、仏の教えをわかりやすく説くということである。みんな文字がよめない人たちだし、仕事のあとでおなかもすいているから、つまらなければみんな帰ってしまう。そこで語りを担当する僧たちは、
くふうした。玄奘のようなスーパースターではおもしろくない、そこで玄奘を徳は高いが、弱よわしく女性的なキヤラにした。旅のとちゅうでうけた苦難、高山病どか熱中症だとか、嵐などは妖怪変化となった。さらに、玄奘の強烈な精神は分解して異形の弟子たちになった。すなわち、あふれる闘争心は悟空に、人間的な欲望・煩悩は八戒にというぐあいだ。
こうはした説話は、いつか祭などの講談としてひとりあるきする。仏の教えより物語のほうがおもしろいというわけだ。そうして民間につたわった話をあつめ、小説として呉承恩という人がのちにまとめあげたのが「西遊記」というわけである。
じつは、この玄奘のようなキャラは中国の人がいちばんすきなタイプだ。孫悟空も人気はあるが、玄奘のように雲にものれず、すぐにあぶない目らあい、いつも弟子たちにたすけられ、しかし徳と情があり、それゆえに悪につけこまれてまたまたひどい目にあう。そんななさけないボスだけと、その仁と徳ゆえに豪傑や賢者がしたってあつまる。そんな赤ちゃんのように無垢なキャラがじつはいちばん強い。赤ちゃんの無垢な笑顔にはだれもかてないし、三蔵には悟空もテューターがだせない。そして死に直面しても動じることがない。まさにKIng of the Road 道(タオ)に君臨する者なのだ。
こうしたキャラといえば、そう「三国志」の劉備玄徳だ。
毛沢東の写真を家に飾っている人は、いまの中国にはほとんどいないだろう。でも周恩来の写真を「わたしたちの父」といって台所などにていねいに飾っている家はけっこうある。そういうことだ。
玄奘653年の2月5日、仏教にささげた63年の生涯をとじた。玄奘が昇天した夜半、北の空には四すじの白い虹があらわれ、玄奘ゆかりの滋恩寺の塔にかがやいたという。
さていきおいで書くが、ラボの「西遊記」にも説話としてのなごりはちゃんとある。たとえば金角と銀角。こいつらは天上の下級官僚である。位がひくいので、不老不死ではなく人間よりは長生きだが、いすれ死んでしまう。天人にも寿命があり、衰えてくると「脇の下に汗をかく」とか「身体に光がなくなる」といった五つの兆候があらわれてくる。これを天人五衰という(三島の小説で有名たね)。
ともあり、それじゃあつまらん、下界におりて太くはでに生きようじゃあないかと兄弟で職場からにげだす。ようするに悪党なのだか、銀角が悟空にやられると、金角はなげくことしくり、つまり、これだけの悪党でも兄弟、の絆、業(ごう=カルマ)というものが描かれているまだ、鉄扇公主も、あんな悪女でもやはり母親というわけだ。
『西遊記』はじつに中国的話であるが、アジアの物語といってよい広がりもある。悟空とラーマーヤナのハヌマンの類似は有名だが、ナダ太子(ナダの漢字の入力がめんどいのでカタカナでかんべん)が三面六ぴにかわるのなど、キリスト教の三位一体だと陳先生はいっておられる。
仏教はもともと瞑想の宗教だ。シャカのうまれた地方は雨が多いので、瞑想しやすい。それが、シルクロードをつたわってガンダーラのほうまでとどくと、ここは天気がよく、じっとして瞑想なんかしていられない。「こんなにいい教えなら、その仏とやらわつくろう」「そうだおれたちは、ギリシアかにきた石像や大理石像わつくるわざがあるのだ」というわけで、偶像わつくつてしまい。それがまた、アジアやはるかに人まできたのだ。
やれやれ、ちなみにシルクロードは西からひがしむかうほうがたいへんだという。なぜって、ドーロクルシ! ちやんちやん。
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